四月一日
【ピピピピ】
アラームの音で知はゆっくりと目を覚ました。
昨日の出来事が夢だったかのように、部屋は静かだった。
だが、右腕へ視線を向ける。
黒を基調とした腕時計。
銀髪の少女から譲り受けた時計――アビスギア。
知はゆっくりと息を吐く。
「……夢じゃなかったんだな。」
制服へ着替え、一階へ降りる。
厨房からは出汁のいい香りが漂ってきた。
霞が割烹着姿で振り返る。
「おはよう、知。よく眠れた?」
「はい、おかげさまで。」
「それならよかった。朝ご飯は用意してあるから食べちゃって。私は車を取ってくるから、その間に準備を済ませておいてね。」
「わかりました。」
食卓には焼き鮭、だし巻き玉子、味噌汁、ひじきの煮物、炊きたてのご飯が並んでいる。
一口食べる。
思わず笑みがこぼれた。
「美味しい……。」
料理人である霞の腕前は、やはり本物だった。
朝食を食べ終え、食器を片付ける頃には店の外からクラクションが鳴る。
「知ー!準備できた?行くわよー!」
「今行きます!」
鞄を持ち、店の外へ出る。
霞は運転席から笑顔で手を振った。
「今日から高校生活ね。」
「緊張してる?」
「少しだけ。」
「大丈夫よ。あなたならすぐ友達ができるわ。」
知は照れくさそうに笑った。
「そうだといいですけど。」
車は朝の中央市を走り抜ける。
しばらくすると、遷都学園の大きな校門が見えてきた。
霞は車を停める。
「頑張ってらっしゃい。」
「はい。行ってきます。」
知は一礼し、校門をくぐった。
◇◇◇
職員室。
「失礼します。」
知が入ると、和宮先生が笑顔で迎えた。
「おはよう、平城君。」
「おはようございます。」
「保護者の方の手続きも終わったわ。それじゃあ教室へ行きましょう。」
知は頷く。
職員室を出ると、多くの教師とすれ違う。
その中には見覚えのある二人もいた。
歴史教師・長谷川善吉。
公民教師・新島真。
二人は知へ一瞬だけ視線を向ける。
しかし、それだけだった。
昨日鏡界で会ったことなど、まるでなかったかのように教師として振る舞っている。
(そういうことか。)
知も軽く会釈するだけに留めた。
潜入捜査。
余計なことは口にしない方がいい。
◇◇◇
二年A組。
ガラッ。
教室の扉が開く。
ざわついていた教室が静かになった。
和宮先生が教壇へ立つ。
「みんな、おはよう。」
「今日は転校生を紹介します。」
教室中の視線が扉へ集まる。
「入ってきて。」
知は深呼吸を一つして教室へ入った。
黒板の前まで歩き、一礼する。
「今日から二年A組になりました、平城知です。京都から来ました。一年間という短い間ですが、よろしくお願いします。」
教室から拍手が起こる。
「よろしくー!」
「京都か!」
「修学旅行以来だな。」
和やかな空気に知も少し安心する。
和宮先生が教室を見回した。
「席は……大和君の隣ね。」
「えっ、俺?」
窓際から元気な声が上がる。
昨日、鏡界で一緒に戦った少年。
大和雷斗だった。
「よろしくな!」
知も笑顔で頷く。
「よろしく。」
席へ向かう途中。
一人の男子生徒と目が合った。
小田上。
昨日、鏡界で自分たちを追い詰めた少年。
しかし――。
「よろしく、平城君。」
穏やかな笑顔。
どこにでもいる優等生のような表情だった。
知は思わず足を止めそうになる。
(……覚えてない?)
昨日の狂気は微塵も感じられない。
席へ座ると、雷斗が小声で話しかけてきた。
「あいつ……。」
「やっぱり変だよな。」
知も小さく頷く。
「昨日とは別人みたい。」
「演技には見えねぇ。」
「でも、あんなこと忘れるはずもないし……。」
二人は答えを出せないまま前を向いた。
◇◇◇
一時間目。
教室の扉が開く。
入ってきたのは歴史教師・長谷川善吉だった。
「よーし、席につけ。」
教室が静かになる。
「今日から日本史を担当する長谷川だ。」
「堅苦しい授業は嫌いだから安心しろ。」
教室から笑いが起きる。
善吉は出席簿を閉じながら教室を見渡した。
一瞬だけ知と目が合う。
だが、それだけ。
「平城。」
「はい。」
「転校初日だが容赦なく当てるから覚悟しとけ。」
教室中が笑いに包まれる。
「はい。」
知も苦笑しながら返事をした。
(ちゃんと先生を演じてる。)
潜入捜査官らしい見事な切り替えだった。
◇◇◇
三時間目。
今度は新島真が教室へ入ってくる。
「おはようございます。」
教室の空気が少し引き締まる。
「今日から公民を担当します、新島真です。一年間よろしくお願いします。」
綺麗なお辞儀。
女子生徒たちが小さくざわめく。
「美人だ……。」
「若い先生だね。」
真は淡々と授業を始める。
知と目が合っても、教師として自然に微笑むだけだった。
昨日のクイーンの姿はそこにはない。
◇◇◇
昼休み。
雷斗が知の机へやって来る。
「飯、一緒に食おうぜ!」
「いいよ。」
二人は中庭へ向かった。
弁当を開きながら雷斗が周囲を見回す。
「昨日のことなんだけど。」
「俺も。」
知が頷く。
「放課後、少し学校を回ってみない?」
雷斗は即答した。
「ああ。」
「小田上のことも調べたい。」
二人の視線は自然と校舎へ向く。
その窓際では、小田上がクラスメイトと談笑していた。
どこからどう見ても普通の高校生。
鏡界で見せた狂気など、一切感じられない。
知は静かに呟く。
「やっぱり……何かがおかしい。」
その違和感こそが、鏡界の謎へ近付く第一歩になるとは、まだ誰も知らなかった。