〈Ib〉編 旅のしおり
≪絵画のしおり≫
ゲートを展開し、帰る準備をしていた時だった。
この世界で世話になった人たちが、私のもとへやって来た。
「もう、帰るの?」
そう言った少女は、悲しそうな目でこちらを見ていた。
「帰っちゃうんだ。さみしくなるなー……。だけど、ありがとうね。私“たち”、感謝してもしきれないくらい助けてもらったから」
黄色い髪の少女は、少しだけ寂しそうに笑った。
「できたら、もう少しいて、お父さんの話をしてほしかったけど……もう時間なんだよね? だったら、仕方ないか」
その声には、引き止めたい気持ちと、それでも見送ろうとする優しさが混じっていた。
「昨日言っていたから仕方ないわよ。……まあ、何の言葉もなく帰ろうとしていたのは見逃せないけど」
背の高い、オネエ口調の男が、少しいじらしい声でそう言った。
「手伝うことはある? あ、それと、あの絵は持った?」
「ありがと。特に手伝うことはない……かな」
私は軽く肩をすくめ、それから手元に持っていたものを見せる。
「それと、ほら。大丈夫。ちゃんと持っているよ」
それは、この世界で過ごした証のようなものだった。
絵画の世界で出会い、共に過ごし、別れを迎えることになった私たちの、小さな思い出。
「一年間、お世話になったね」
私は三人を見つめて、静かに言った。
「もしかしたら、またいつか来るかもしれない。その時は、また詳しくお父さんの話をしてあげるよ」
黄色い髪の少女が、目を大きくする。
少女は泣きそうで、けれど笑っていた。
「……うん。約束だよ」
「ええ。約束」
私は小さく頷き、開いたゲートへ足を踏み入れる。
「それじゃあ、三人とも。またね」
その言葉を最後に、私は自分の家へと戻った。
背後で開いていたゲートは、音もなく閉じる。
またどこかで再会することがあるのなら、それはきっと、彼女たちが成長し、一人で歩けるようになった頃のことだろう。
あるいは、私がしびれを切らして、また気の向くままに旅へ出た時。
その時、ふらりと立ち寄ることもあるかもしれない。
今は、それを少しだけ期待しておくことにした。
*
「帰っちゃったね。また会えるかな?」
「そうね。けど、また会う約束ができたもの。大丈夫よ」
背の高い男は、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「必ず会えるわ」
「けど、本当に不思議な人だったね」
黄色い髪の少女は、ライラが消えた場所を見つめながら呟いた。
「お父さんが少しだけ教えてくれたけど……聞いていたよりも、ずっと不思議で、ずっと優しい人だった」
少女の言葉に、二人は何も言わなかった。
ただ、今はもう閉じてしまったゲートの跡を見つめる。
そこには何も残っていない。
けれど、確かに約束だけは残っていた。
~~~~~~
「さて、帰ってきて早々ではあるけど……次の旅の準備をするか」
私は一人、自宅の中でそう呟いた。
「今の時間は……二時。向こうでは一年いたのに、こっちでは二十分しか経ってないのか」
思わず、ため息が出る。
「いちいちこっちを経由して準備するのも面倒ね。次の世界で済ませられるものは、できるだけ向こうで済ませることにしようか」
そんなことをぶつくさと呟きながら、私は荷物を確認していく。
必要なもの。
不要なもの。
次の世界で使えそうなもの。
持っていけば面倒になりそうなもの。
ひとつずつ選び、整理し、しまっていく。
そうしているうちに、気づけば二時間ほど経っていた。
「そろそろ出発するか」
そう言いかけて、私はふと思い出す。
「……っと。忘れないうちに、あの絵を飾っておかないと」
手にした絵を眺める。
「あいつには描くなって言ったんだけどね」
けれど、描くと決めたら絶対に描く。
そういう人間だった。
だからこそ、これはきっと、あいつなりのしおりなのだろう。
あの世界で出会った者たち。
あの美術館で過ごした一年。
そして、新しく歩き始めた彼女たちとの記憶。
「そういえば、あそこなら飾れる場所があったはず……」
私は部屋の奥へ向かう。
壁の一角。
いくつもの旅の記録が並ぶ場所。
そこに、ちょうど一枚分の空きがあった。
「……あった。ここならいいかな」
私は絵をそっと壁に掛ける。
少し離れて眺めると、その絵は不思議なくらい自然に、そこへ収まっていた。
「自分たちと、新しい彼女たちとの思い出を飾っておくなら」
私は小さく笑う。
「ここがベストか」
絵の中の記憶は、静かにそこに在り続ける。
次の旅へ向かう私を見送るように。
あるいは、いつかまた、あの美術館へ戻る日のためのしおりのように。