彼の言っていた『融解』のそばにある階段を下り、少し歩く。
すると、そこには黒色の薔薇があった。
「……これか」
少し近づいて確認すると、その薔薇と自分の魔力の波長が重なり合うのが分かった。
昔、悪戯でゲルテナの心の世界に入り込んだ時と同じだ。
黒い薔薇が入っている花瓶には、黒と赤の茨が描かれていた。
花弁を数えてみる。
枚数は百枚。
「……数えるの、少し面倒だったわね」
小さく呟きながら、改めてこの世界における薔薇の意味を調べる。
この世界での薔薇は、命と精神そのものだ。
これがある限り、この世界に定着することができる。
だが逆に、この薔薇の花弁が全て落ちれば、魂は肉体から抜け出す。
残るのは、魂を取り除かれた抜け殻のような体だけだろう。
私は黒い薔薇を回収し、黒い部屋を出た。
しばらく歩いていくと、緑色の部屋に出る。
そこには、一人の少女がいた。
「どうしたんだい、君。こんなところで」
私が声をかけると、少女はこちらを見上げた。
「……あなたは?」
「そういえば、名乗っていなかったね」
私は少女の前で足を止める。
「初めまして。私の名前はライラ・スカーレット。ライラでも、スカーレットでも、呼びやすい方で呼んでくれて構わない」
「……私の名前はイヴ」
少女――イヴは、少し考えるように私を見る。
「なら、ライアって呼ばせてもらうね」
「ええ。好きに呼んでくれていいよ」
イヴは辺りを見回してから、不安そうに尋ねてきた。
「ライア。ここがどこか、知ってる?」
「ここをどう表現するのが正しいかは難しいけれど……」
私は少しだけ考え、答える。
「一番大きな絵に似た風景が見える。だから、その絵の題名通りに呼ぶなら、ここは『ゲルテナの世界』でいいと思う」
「ゲルテナの世界……」
「それにしても、ここまで一人で歩いてきたのかい?」
「そうだよ」
イヴは小さく頷いた。
「あの大きな絵の名前を見た後、少し違和感を感じて戻ったの。そしたら、みんないなくなっていた」
「そうなんだ」
私はイヴの手元を見る。
そこには、赤い薔薇があった。
「……イヴ。少し、その薔薇を見せてもらえないかしら」
イヴは少し迷ったようだった。
けれど、しばらくしてから、そっと薔薇を差し出してくれた。
私はその薔薇を受け取る。
とても綺麗な薔薇だった。
だが、ほんの少しだけ弱々しさを感じる。
本当なら、すぐに回復させておきたい。
しかし、近くに花瓶はない。
私は薔薇をイヴに返した。
「いいかい、イヴ」
私は彼女の目を見て、静かに言う。
「これは、君の命そのものだ。何があっても離してはいけないよ」
「……命?」
「ええ。この世界では、その薔薇が君自身を繋ぎ止めている。花弁が全部落ちれば、君は動けなくなる。だから絶対に手放さないこと」
イヴは少し緊張した顔で、自分の薔薇を見つめた。
それから、ぎゅっと大事そうに抱える。
「分かった」
「いい子ね」
私はそう言ってから、イヴと一緒に周囲を見て回ることにした。
知っている仕掛けもいくつかあった。
けれど、ほとんどは以前よりも悪質になっている。
明らかに、侵入者を迷わせるためではなく、殺しに来るためのものだ。
特に黄色の間のカーテンは数が多かった。
さすがに、イヴに開けさせるわけにはいかない。
私は自分でカーテンを開けていく。
「前は、こんなものなかったと思うんだけどね」
そう呟きながらも、私は納得するしかなかった。
心の世界が大きく変質している以上、以前と同じであるはずがない。
かくれんぼで四回目に目的の彼を見つけた頃には、黒薔薇の花弁は百枚から九十六枚に減っていた。
その後、何度でも使える水入りの花瓶を見つける。
まずはイヴの薔薇を入れ、花弁を回復させた。
続いて、自分の黒薔薇も花瓶に入れてみる。
だが、こちらは一枚しか回復しなかった。
「……なるほど」
イヴの薔薇と、自分の薔薇。
同じように見えて、その性質は大きく違う。
まずは回復力。
イヴの薔薇は、水の入った花瓶に入れれば花弁が回復する。
だが、私の黒薔薇はどれだけ水があっても一枚しか回復しない。
二度目に入れても意味はなかった。
そして、これが一番重要だ。
頑丈さ。
私の黒薔薇は、どれだけ花弁を千切ろうとしても取れない。
通常の傷や危険では、花弁は落ちない。
致命傷になり得る攻撃を受けた時だけ、花弁が落ちる。
つまり、回復力が弱い代わりに、耐久性が異常に高いのだ。
この差は大きい。
だが、イヴにも分かるように説明しなければならない。
「……そういうことだから、危険性があるものは私がやる。イヴは安心して」
説明を終えると、イヴは首を横に振った。
「だめ」
「イヴ?」
「私も手伝うよ」
イヴは、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「ライアだけに危険なことをさせて、自分は見ているだけなんて嫌だよ」
その言葉を聞いて、私は少しだけ黙った。
そう言われるのも仕方ない。
この子は守られるだけでいることを望んでいない。
それなら、一方的に庇い続けても納得はしないだろう。
妥協は必要不可欠のようだ。
「そう言ってくれるのは嬉しいよ」
私は少し考えてから言った。
「なら、一つルールを決めよう」
「ルール?」
「本当に危険なものは私がやる。けれど、私が悩んで冷静な判断ができなくなっていたら、その時は君が力を貸して」
私はイヴの目を見る。
「頼めるかい、イヴ」
イヴは少し驚いたように目を瞬かせた。
それから、しっかりと頷く。
「うん。分かった」
「ありがとう」
私はそこで、改めて思った。
イヴは強い子だ。
彼女と同じ年齢の子供なら、泣き叫んで、その場で助けが来るのを待っていてもおかしくない。
けれど、この子は違う。
私に会うまで、一人でここまで歩いてきた。
怖くても、分からなくても、それでも足を止めなかった。
それは、簡単なことではない。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
話を終えた私たちは、約束を胸に、慎重に先へ進むことにした。