さて、赤の間。
ここには、かなり読みたくない本が置いてある。
序盤はまだいい。
問題は後半だ。
しれっと普通に殺しに来るし、しかもあれを笑顔でやっているのだから、怖いものだ。
オー怖い怖い。
……他人事ではないけれど。
それにしても、人の気配がある。
成人男性だろうか。
「大きいね」
隣でイヴが、二体の大きな像を見上げていた。
「こっちが『うん』で、あっちが『あ』。確か前に、お父さんが“阿吽”っていう言葉を言ってたんだけど、それを表しているのかな?」
イヴはそこで、こちらを見上げる。
「ねえ、ライア。ライアってば、私の話聞いてた?」
「…………ッ! な、なに?」
思考に沈んでいた私は、少し遅れて返事をした。
イヴはむっとしたように頬を膨らませる。
「だから、この大きな像の名前が『うん』と『あ』だから、阿吽を表しているのかなって」
「ああ、そうだね」
私は少しだけ苦笑し、空中に指で文字を書く。
「ちなみに、阿吽っていう漢字はこう書くの」
「へえ……」
イヴは興味深そうに、私の指先を見ていた。
「それじゃ、そろそろ先に行こうか」
「うん」
少し歩くと、赤い鍵を見つけた。
だが、拾った瞬間、いつも通り赤い服の絵の女が動き出した。
しかも、よく見れば爪が長い。
ただ長いだけではない。
硬く、鋭く、こちらを裂くためだけに伸ばされたような形をしている。
まともに当たれば、かなり痛いだろう。
「イヴ、下がって」
「うん」
近くには鍵のかかった扉がある。
私はイヴに攻撃が当たらないよう位置を取りながら、赤い服の女を撒き、そのまま鍵のかかった扉を開けた。
部屋の中へ入る。
そして、いつものように、あの本が入っている本棚へ向かった。
題名は――
「……ん?」
私は思わず、本の背表紙を見直した。
「『うっかりさんとガレット・ロワ』じゃない?」
そこにあった題名は違っていた。
『うっかりな子犬とピニャータ』
「…………」
題名を見ただけで、大体分かってしまった。
「タイトル通りじゃないなら、タイトル詐欺もいいところなんだけどね」
問題は、これをイヴにも見せるべきかどうかだ。
子供に見せていい内容ではない。
だが、前の本も大概だった。
それに、この世界の仕掛けである以上、二人で見なければ開かない可能性もある。
「イヴ」
「なに?」
「少しだけ、怖い本かもしれない。それでも読む?」
イヴは私の顔を見て、それから本を見た。
しばらく迷った後、小さく頷く。
「読む」
「分かった」
私たちは二人で本を開いた。
読み終えた後の感想は、一つだけ。
結構えぐかった。
以上。
これは知らぬが仏だ。
ピニャータがどういうものかを知っていれば、どんな結末になるかは予想できるだろう。
つまり、そういうことだ。
読み終えると、扉の鍵が開いた。
先へ進むと、道が二つに分かれていた。
片方には人の気配。
もう片方には、薔薇の気配がある。
さて。
どちらに行ったものか。
いつもなら、鍵は右側にある。
だが、もしかすると今回は開いている可能性も高い。
少し考えていると、イヴが私の袖を引いた。
「二つ道があるね」
「そうだね」
「一つは扉があって、もう一つは吹き抜け。どっちに行く?」
「右に行こうか」
私は吹き抜けの方を見る。
「何か、倒れていないか確認したい」
さて、どうしたものか。
薔薇を欲する彼らからすれば、あそこにいる人物は格好の的だ。
いや。
今の彼らは、薔薇に興味を示しているというより、こちらを殺そうとしている。
だが、行動原理そのものは変わっていないはずだ。
この世界の住民たちは、イヴや私の薔薇を狙って攻撃してくる。
つまり、薔薇の花弁。
命の灯を狙っている。
だが不思議なことに、本体へダメージがあれば薔薇も散るというのに、彼らは本体そのものにはあまり興味を示していない。
あくまでも、薔薇だけを狙っているように見える。
そんなことを考えながら、倒れている男の懐や周辺を確認する。
けれど、鍵も薔薇も見つからない。
薔薇は取られているようだ。
では、鍵はどこにある。
「ライア」
イヴが小さく声を上げた。
「この人の手に、鍵がある」
「本当かい?」
私はすぐにイヴの示した場所を見る。
確かに、倒れた男の手に鍵が握られていた。
「よし。持っていこう」
私は鍵を回収する。
だが、そこで一つ引っかかった。
自分もそこは調べたはずだ。
なのに、なぜイヴだけが気づいたのか。
やはり、そうなるのは“必然”だったのだろうか。
こういうことは、大概、彼女に聞くのがいい。
だが、それはまた今度でいい。
今は、それを知る必要はない。
私たちは鍵を持って、右の部屋へ向かった。
「さて。右の部屋に着いたのはいいが……」
私は目の前の通路を見て、少しだけ眉を寄せた。
「その先にある扉までの道が、かなり低いね」
這えば通れるかもしれない。
だが、私の身長では明らかに動きが鈍る。
もし中で何かあれば、対応が遅れる。
「どう行く、イヴ?」
「私だったら通れると思う」
イヴは通路の高さを見ながら言った。
「でも、ライアの身長だと通るのは難しそう」
そして、こちらを見上げる。
「……ライア。私だけで行ってもいいかな?」
私は少し考えた。
危険性を考えれば、彼女一人に背負わせていいものではない。
けれど、もし私が無理に一緒に入れば、かえってイヴを危険に晒すことになるだろう。
ならば、自分が取るべき選択は一つだ。
「分かった」
私はイヴに鍵を渡す。
「イヴ、これを持っていって」
「うん」
「これは私の予想だけど、多分、この予想は当たっている」
最初は、運命のためだと思っていた。
けれど、違う。
私は、助けたいと思ったのだ。
彼を助けなければならないと思った。
そうすれば、あの子を助けるための手段が増える。
そう考えていた。
けれど、それも建前だったのかもしれない。
そうでなければ、イヴを一人で先へ進ませようとは思わなかったはずだ。
「この先にある扉の向こうへ行って、さっき倒れていた人の薔薇を取ってきてくれ」
私はイヴの目を見て言う。
「これは、君にしかできないことでもある」
「私にしか……」
「そう。だから、よく聞いて」
イヴは真剣な顔で頷いた。
「危険を感じたら、すぐに戻ってくること。そして薔薇を手に入れたら、あの花瓶にすぐ入れること」
「うん」
「彼らの攻撃は、イヴの体では一撃耐えられるか分からない。だから絶対に、危険な場所に長く留まらないこと」
「分かった」
「これを守れるなら、イヴはとても強い子だ」
私は少しだけ表情をやわらげた。
「頑張れ」
「……うん」
「大丈夫。もし逃げてきた時、何かがイヴを追ってきていたら、その時は私が必ず守る」
イヴは鍵を握りしめた。
不安はある。
恐怖もあるだろう。
それでも、彼女は逃げない。
自分にできることを理解して、前に進もうとしている。
私は、その背中を見送る準備をした。
久々に、きちんと最善手を打とう。
誰かの犠牲を前提にしないための、最善手を。
自分には、それができる。
そういう力を持っているのだから。