天才も、一人じゃ勝てない ~努力する少年の挑戦~   作:ささき2026

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3年生編
第1話 あの夜、世界が遠かった


二〇一二年六月のその夜、天野川家のリビングには、テレビの音だけが響いていた。

 

九歳の翔は、ソファの端に膝を抱えて座っていた。画面の中では、青いユニフォームの日本代表が、芝生の上に膝をついていた。

 

スコアボードの数字が、残酷だった。

 

相手は世界最高峰と呼ばれる国。日本は、なすすべもなかった。パスは奪われ、走っても追いつけず、シュートは一本も枠に飛ばなかった。終了のホイッスルが鳴ったとき、選手たちは誰も立ち上がれなかった。

 

「……ひどいな」

 

父・恒一郎が、低くつぶやいた。大学でスポーツ科学を教える父は、サッカーのことになると、いつもより口数が少なくなる。

 

母・陽子は、何も言わずにお茶を一口飲んだ。

 

姉の明日香は「もう見てらんない」と言って台所へ立ち、妹の美羽は小さなカメラを構えたまま、画面ではなく翔の横顔を撮っていた。

 

翔だけが、画面から目を離せなかった。

 

テレビカメラが、スタンドを映した。日本から応援に来たであろうサポーターたちが、うつむいていた。泣いている大人もいた。実況のアナウンサーの声も、震えていた。

 

「……どうして」

 

翔の口から、言葉がこぼれた。

 

「どうして、日本は勝てないの?」

 

誰も、すぐには答えなかった。

 

 

その問いは、子どもの素朴な疑問のはずだった。

 

けれど、リビングの空気が、少しだけ変わった。

 

恒一郎は、リモコンでテレビの音量を下げると、息子のほうへ体を向けた。父は、こういうとき決して適当に答えない。それを翔は知っていた。

 

「翔。お前は、どう思った?」

 

「……速かった。相手の人たち。あと、みんなが同じことを考えてるみたいだった」

 

「ほう」

 

「日本の人たちは、ボールを持ってから考えてた。でも、相手の人たちは、ボールが来る前にもう走ってた。だから、間に合わない」

 

恒一郎の眉が、わずかに動いた。母の陽子も、湯のみを置いて翔を見た。

 

九歳の子どもが、たった一試合を見ただけで、そこに気づいた。それが何を意味するのか、両親にはわかっていた。

 

「翔は、賢いね」

 

台所から戻ってきた明日香が、麦茶のグラスを翔に差し出しながら言った。「でもあんた、黙って見てると怖い顔してるよ。眉間にシワ寄せて」

 

「……そう?」

 

翔は、自分の眉間に指を当てた。本人にはまるで自覚がない。これが、この少年の不思議なところだった。誰よりも深く物事を考えているのに、その内側は表情にほとんど出ない。だから、しばしば誤解される。

 

美羽が、ぱしゃりとシャッターを切った。

 

「今の翔、いい顔。なんか、決めた人の顔」

 

決めた人の顔。

 

妹のその言葉は、奇妙なほど正確だった。

 

 

その夜、翔は寝室の天井を見つめていた。

 

まぶたを閉じると、芝生に膝をついた青いユニフォームが浮かんだ。泣いていたサポーターの顔が浮かんだ。そして、ボールが来る前から走っていた、あの相手チームの選手たちの動きが、何度も再生された。

 

頭の中で、誰かが静かに整理を始める。

 

——あれは、才能だけの差じゃない。考え方の差だ。走る場所を、先に決めていた。

 

それは、自分の中にある、もう一人の声のようなものだった。まだ翔自身、それが何なのか、うまく説明できなかった。ただ、難しいことを考えるとき、頭の中が冷たく澄んでいって、ものごとが整理されていく感覚があった。

 

——でも、走る場所を決めるには、ボールがどこへ来るか、わかってなきゃいけない。それがわかる選手が、日本には足りなかった。

 

翔は、布団から起き上がった。

 

廊下は暗かった。リビングの明かりはもう消えている。けれど、翔の足は、玄関のほうへ向かっていた。

 

下駄箱の奥に、去年の誕生日に父が買ってくれたサッカーボールがあった。一度も、本気で蹴ったことのないボールだった。

 

翔は、それを抱えて、庭に出た。

 

六月の夜の空気は、少し湿っていて、涼しかった。街灯の光が、塀の上からわずかに差している。

 

翔は、ボールを足元に置いた。

 

そして、蹴った。

 

ボールは塀に当たって、跳ね返ってきた。もう一度蹴る。また返ってくる。

 

何度も、何度も。

 

下手だった。思ったところに飛ばない。けれど、蹴るたびに、頭の中の声が「もう少し軸足を近づけろ」「当てる場所が違う」と教えてくる。その通りにすると、少しだけまっすぐ飛ぶ。

 

それが、面白かった。

 

気づけば、汗をかいていた。息が上がっていた。それでも、足は止まらなかった。

 

 

「翔?」

 

玄関の戸が開いて、母の陽子が顔を出した。パジャマの上にカーディガンを羽織っている。

 

「こんな時間に、何してるの」

 

翔は、ボールを抱えたまま、母を見上げた。そして、はっきりと言った。

 

「お母さん。僕、決めた」

 

「何を」

 

「僕が、世界一になる。僕が、日本を世界一にする」

 

陽子は、すぐには返事をしなかった。

 

九歳の子どもが、夜中に庭で、世界一になると言う。普通の親なら、笑って「はいはい、もう寝なさい」と言うところかもしれない。

 

けれど、陽子は笑わなかった。

 

この母は、翔が赤ん坊の頃から、その身体を見てきた。誰よりもやわらかい関節。誰よりも長く走り続けられるスタミナ。転んでも、すぐに立ち上がる回復の早さ。バレエの先生に「この子の柔軟性は普通じゃない」と言わせた、その身体を。

 

そして今、その身体に、「決意」という火が灯った。

 

陽子は、しゃがんで翔と目線を合わせた。

 

「翔。世界一って、どれくらい大変か、わかってる?」

 

「わからない。でも、やる」

 

「途中で、嫌になるかもしれないよ」

 

「ならない」

 

「怪我をしたら、終わりだよ。どんなにすごい選手でも、怪我をしたら終わり。だから——」

 

陽子は、翔の両手を握った。小さな、けれどもう硬くなり始めている手のひらを。

 

「だから、身体を大事にしなさい。強くなることと、壊れないことは、両方やらなきゃいけない。約束できる?」

 

「できる」

 

迷いのない返事だった。

 

陽子は、ふっと微笑んだ。それから、立ち上がって、夜空を見上げた。

 

「勝って兜の緒を締めよ、って言葉があるの。勝ったときこそ、気を引き締めなさいって意味。あなたは、まだ一回も勝ってないけどね」

 

「うん」

 

「でも、覚えておきなさい。今日のこの気持ちを。世界一を目指すなら、何度も負ける。何度も悔しい思いをする。そのたびに、今日の夜を思い出すの」

 

翔は、うなずいた。

 

その横で——いつの間にか、二階の窓から、美羽がカメラを構えていた。ぱしゃり、と小さな音がした。

 

母と息子が、夜の庭で向き合う写真。

 

それは後に、リビングに飾られることになる一枚の、最初の記念写真だった。

 

 

翌朝の食卓で、父・恒一郎は新聞から目を上げて、静かに言った。

 

「翔。本気なら、行くべき場所がある」

 

その言葉の意味を、翔はまだ知らない。

 

けれど、世界一への扉は、もう開きはじめていた。

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