天才も、一人じゃ勝てない ~努力する少年の挑戦~   作:ささき2026

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第2話 原石を見抜く

電車を乗り継いで、一時間半。

 

翔は、父の隣に座って、窓の外を流れる景色を見ていた。横浜の街並みが、だんだんと緑の多い郊外へと変わっていく。

 

「お父さん。どこに行くの?」

 

「クラブだ」

 

恒一郎は、膝の上に置いた古い雑誌に目を落としたまま答えた。表紙には、ピッチに立つ一人の男の写真があった。スーツ姿で、腕を組み、厳しい目をしている。

 

「この人を知ってるか」

 

翔は、その顔を見た。見覚えがあった。昨日の夜、テレビで——いや、もっと前から、何度も見た顔だ。

 

「日本代表の、監督だった人」

 

「そうだ。ワールドカップで負けた、あの監督だ」

 

翔の胸が、わずかに締めつけられた。昨日、芝生に膝をついた青いユニフォームの選手たち。その後ろで、誰よりも長く頭を下げていたのが、この人だった。

 

「この人、今は何してるの?」

 

恒一郎は、雑誌を閉じた。

 

「子どもを育ててる。日本中から、サッカーのうまい子を集めてな。あの惨敗のあと、この人はこう言ったんだ。『日本が世界一になるには、トップだけを変えてもだめだ。一番下から、変えなきゃいけない』ってな」

 

電車が、小さな駅に滑り込んだ。

 

恒一郎は立ち上がった。

 

「降りるぞ」

 

 

駅から歩いて十分。木立を抜けると、突然、視界が開けた。

 

青々とした人工芝のグラウンドが、二面。その奥に、白い建物。フェンス越しに、子どもたちの声が聞こえてくる。ボールを蹴る、乾いた音。コーチの笛。誰かが誰かの名前を呼ぶ声。

 

翔は、足を止めた。

 

そこには、昨日テレビで見たのと同じ「速さ」があった。子どもたちが、ボールが来る前から走っている。パスが、走り込む足元にぴたりと届く。

 

(……日本にも、いた)

 

翔の中で、あの冷たく澄んだ声が、静かに動き出す。

 

(ここの子たちは、考えてる。走る場所を、先に決めてる。昨日の相手チームと、同じだ)

 

「すごい……」

 

思わず漏れた声に、恒一郎は何も言わなかった。ただ、息子の横顔を見ていた。眉間にシワを寄せ、まばたきもせずグラウンドを見つめるその顔を。

 

——この子は、もう分析を始めている。

 

恒一郎は、確信した。連れてきて、正解だった、と。

 

 

事務棟の応接室で、翔と恒一郎は待っていた。

 

ドアが開いた。

 

入ってきたのは、雑誌の表紙の、あの男だった。実物は、写真よりも背が低く、しかし、目の力は写真の何倍も強かった。白髪交じりの短い髪。日に焼けた肌。握手のために差し出された手は、節くれだっていて、大きかった。

 

「天野川さん。わざわざ遠くまで、すみませんな」

 

監督は、恒一郎と短く言葉を交わすと、すぐに視線を翔へ移した。

 

そして、しゃがんだ。九歳の子どもと、目の高さを合わせるために。

 

「君が、翔くんか」

 

「はい」

 

「サッカーは、好きか」

 

翔は、少し考えた。正直な子どもだった。

 

「……まだ、わかりません。昨日、始めたばかりなので」

 

監督の眉が、ぴくりと動いた。隣で恒一郎が、小さく咳払いをした。

 

「昨日?」

 

「はい。昨日の夜、初めて庭でボールを蹴りました。それまでは、ちゃんと蹴ったことがありません」

 

普通なら、ここで「では、また経験を積んでから来てください」と言われてもおかしくなかった。全国から才能を集めた強豪クラブだ。昨日ボールを蹴り始めた子どもが、入れる場所ではない。

 

けれど、監督は笑わなかった。

 

代わりに、こう聞いた。

 

「なぜ、サッカーを始めようと思った」

 

翔は、まっすぐに監督を見た。表情は、相変わらず硬かった。けれど、その奥の声は、はっきりしていた。

 

「僕が、世界一になるからです。僕が、日本を世界一にします」

 

応接室が、静かになった。

 

監督は、しばらく翔の顔を見ていた。

 

それから、ゆっくりと立ち上がって、言った。

 

「グラウンドへ来なさい。少し、ボールを蹴ってみよう」

 

 

ジャージに着替えた翔が、グラウンドの隅に立った。

 

監督と、二人のコーチがそれを見ている。一人は、元Jリーガーだというドリブル担当のアシスタントコーチ。もう一人は、元陸上選手だというフィジカルコーチ。三人とも、腕を組んで、半ば「お手並み拝見」という顔をしていた。

 

——昨日、ボールを始めた子だ。期待はしていない。

 

それが、三人の本音だった。

 

アシスタントコーチが、ボールを翔の足元へ転がした。

 

「じゃあ、まずは普通に走ってみようか。あのコーンまで、全力でダッシュ」

 

二十メートルほど先に、オレンジ色のコーンが置かれていた。

 

翔は、うなずいた。スタートの構えを取る。

 

そして——消えた。

 

そう見えた。

 

止まっていた身体が、最初の一歩で、別人のように加速した。助走も、溜めもない。ただ、地面を一度蹴っただけで、翔の身体は弾丸のように前へ飛んだ。

 

フィジカルコーチの腕が、ほどけた。

 

「……は?」

 

二十メートルが、あっという間だった。翔はコーンの手前でぴたりと止まり、振り返った。息ひとつ、乱れていなかった。

 

「もう一回」

 

フィジカルコーチが、かすれた声で言った。さっきの「お手並み拝見」の顔は、もうどこにもなかった。

 

「もう一回、走ってくれ。今度は、こっちが見てる」

 

翔は、また走った。

 

止まった状態から、一歩目だけが、異常に速い。重心が、ためらいなく前へ落ちる。普通の子どもは、走り出すときに身体が一瞬「上」に伸びる。翔は違った。最初から、前へ、前へと身体が傾いていく。

 

フィジカルコーチは、自分の専門知識を総動員して、それを理解しようとした。

 

(脚力じゃない。いや、脚力もある。でも、それだけじゃ説明がつかない。これは……重心移動だ。この子は、止まってる状態から、最も速く前へ進む方法を、身体で知ってる)

 

後に「ゼロステップ」と呼ばれることになる、その加速の原型。

 

九歳の翔は、まだそれに名前をつけていない。本人は、ただ「こう動くと、速い気がする」と思っているだけだった。母に鍛えられた身体と、自分の中の声の指示を、無意識に重ねていただけだった。

 

 

次に、ボールを与えられた。

 

アシスタントコーチが、ディフェンス役として翔の前に立った。元プロだ。子ども相手に本気を出すまでもない、はずだった。

 

「抜けるなら、抜いてごらん」

 

翔は、ボールを足元に置いた。

 

頭の中の声が、静かに分析を始める。

 

(相手は、右足に重心を置いてる。目線は、ボールを見てる。僕の身体じゃなくて、ボールを。だったら——)

 

翔は、ボールに小さく触れた。大きなフェイントではない。ほんの少し、ボールを内側へ動かしただけ。けれど同時に、肩と腰と、目線を、すっと逆へ流した。

 

アシスタントコーチの重心が、わずかに釣られた。

 

その「わずか」を、翔は見逃さなかった。

 

ゼロステップ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

最初の一歩で、翔はコーチの脇を抜けていた。コーチが反応して足を伸ばしたときには、もうボールも翔も、そこにはいなかった。

 

「……っ!」

 

元プロが、抜かれた。子どもに。本気ではなかったとはいえ、手も足も出なかった。

 

派手ではなかった。技らしい技でもなかった。ただ、「気づいたら、抜かれていた」。それが、不気味なほどに自然だった。

 

後に「シャドウドリブル」と呼ばれる、影のようなドリブルの萌芽。

 

アシスタントコーチは、しばらく動けなかった。それから、振り返って、フィジカルコーチと顔を見合わせた。二人とも、言葉がなかった。

 

監督だけが、腕を組んだまま、グラウンドの隅から、ずっと翔を見ていた。

 

その目は、震えていた。

 

(今まで見てきた、何百人、何千人の子どもの中で——)

 

監督の心の中で、長年の指導者としての勘が、はっきりと告げていた。

 

(間違いなく、一番だ。この子は、日本サッカーの未来だ)

 

けれど、監督は、それを顔には出さなかった。

 

長く指導者をやってきて、わかっていることがあった。才能のある子どもを、最初に持ち上げてはいけない。特別扱いは、その子を壊す。

 

監督は、ゆっくりとグラウンドへ歩み寄り、翔の肩に手を置いた。

 

「翔くん。君は、速い。ボールも、うまい」

 

「ありがとうございます」

 

「だが、サッカーは、一人でやるものじゃない。君には、足りないものが山ほどある。それが何か、わかるか?」

 

翔は、正直に首を横に振った。

 

「わかりません」

 

「いい返事だ」

 

監督は、初めて、かすかに笑った。

 

「わからないことが、わかってる。それが、伸びる子の証拠だ。——うちに、来なさい」

 

 

帰りの電車で、翔は窓に額をくっつけて、ずっと外を見ていた。

 

「お父さん」

 

「なんだ」

 

「監督が言ってた、『足りないもの』って、なんだろう」

 

恒一郎は、少し考えてから答えた。けれど、答えそのものは言わなかった。この父も、答えを与える人ではなかった。

 

「それは、これから自分で見つけるんだ。誰かに教えてもらった答えは、すぐ忘れる。自分で痛い目を見て気づいた答えは、一生忘れない」

 

「痛い目」

 

「そうだ。翔、お前はきっと、負ける。何度も負ける。今はまだ、速さでごまかせる。でもいつか、速さだけじゃ勝てない試合が来る。そのとき初めて、『足りないもの』が見える」

 

翔は、しばらく黙っていた。

 

それから、ぽつりと言った。

 

「早く、その試合がやってみたい」

 

恒一郎は、思わず笑った。負けることを、こんなに楽しみにする子どもがいるだろうか。

 

「変わった子だな、お前は」

 

「そう?」

 

「そうだ。——でも、いい変わり方だ」

 

窓の外を、夕日が流れていく。

 

翔の、長いサッカー人生の、本当の始まりだった。

 

そして翔は、まだ知らない。

 

そのクラブで待っている、二人の少年のことを。

 

背番号10を背負う、絶対的エース。

 

そして、誰よりも翔を理解することになる、ゴールキーパーの親友のことを。

 




必殺技はわかりやすい描写のため書きました。
イナズマイレブンの技のような出てきません。
期待していた人ごめんなさい。
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