天才も、一人じゃ勝てない ~努力する少年の挑戦~   作:ささき2026

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試合が盛り上がる感じになるように訂正しました。


第6話 雨の中のキックオフ

 

 朝から、雨が降っていた。

 

 窓ガラスを細かく叩く雨粒。

 玄関の前にできた小さな水たまり。

 灰色の空。

 

 いつもなら何でもない朝の景色が、その日だけは、少し違って見えた。

 

 今日は、翔にとって初めての公式戦だった。

 

「グラウンド、使えるのか」

 

 父・恒一郎が、窓の外を見ながらつぶやいた。

 

「使えるわ。よっぽどの大雨じゃない限り、試合は中止にならないもの」

 

 母・陽子はそう言いながら、タオルを一枚、二枚と鞄へ入れていく。

 温かいお茶を入れた水筒。

 替えの靴下。

 小さな救急セット。

 

 その手つきに迷いはなかった。

 

「翔」

 

「うん」

 

「雨の日は、足元が滑る。いつもより、身体を大きく使わないこと。無理な切り返しはしない。いい?」

 

「わかった」

 

「それから」

 

 陽子は、翔の前にしゃがんだ。

 

「勝ちたいと思うのは大事。でも、怪我をしてまで勝とうとしないこと」

 

 その言葉だけは、いつもより強かった。

 

「約束できる?」

 

「できる」

 

 翔は短く答えた。

 

 玄関でスパイクを確認する。

 紐を結ぶ指先が、少しだけ汗ばんでいた。

 

(緊張してる)

 

 頭の中で、いつもの静かな感覚が動く。

 

 ――緊張は悪いものではない。身体が、これから戦う準備をしている証拠だ。

 

 翔は、手を握った。

 開いた。

 もう一度、握った。

 

 鼓動は速い。

 でも、怖くはなかった。

 

「お兄ちゃん!」

 

 二階の窓から、美羽の声がした。

 小さなカメラを構えた妹が、窓の隙間から顔を出している。

 

「帰ってきたら、写真見せてね!」

 

「うん」

 

「勝った顔、撮るから!」

 

 翔は少しだけ目を丸くした。

 

「まだ勝ってないよ」

 

「じゃあ、勝ってきて!」

 

 美羽は笑った。

 

 翔は、小さくうなずいた。

 

「行ってきます」

 

 雨の匂いがする朝だった。

 

 

 会場のグラウンドには、すでにたくさんの選手と保護者が集まっていた。

 

 濡れた人工芝が、薄く光っている。

 白線は雨で少しにじみ、ボールが転がるたびに、小さな水しぶきが上がった。

 

 翔はベンチでユニフォームに着替えながら、ピッチを見つめていた。

 

 練習とは違う。

 紅白戦とも違う。

 

 相手がいる。

 観客がいる。

 審判がいる。

 勝敗が記録に残る。

 

 胸の奥が、きゅっと狭くなった。

 

「天野川」

 

 隣に座った神谷蓮が、翔の顔をのぞき込んだ。

 

「緊張してるか?」

 

「少し」

 

「いいことだ」

 

 蓮は笑った。

 

「緊張しないやつは、本気で勝ちたいと思ってないやつだ」

 

 そう言って、翔の背中を軽く叩く。

 

「俺たち六年は全国を目指してる。でも、お前たちは今日が最初だ。まずは勝つことだけ考えろ」

 

「はい」

 

「あと、忘れんな」

 

「何をですか」

 

 蓮は、ピッチを指差した。

 

「お前一人で全部やろうとするな。困ったら使え。仲間を」

 

 翔は一瞬、言葉に詰まった。

 

 入団したばかりの頃なら、きっとその意味がわからなかった。

 けれど今は、少しだけわかる。

 

「……はい」

 

「声が小さい」

 

「はい!」

 

「よし」

 

 蓮が立ち上がる。

 

 その背中は、大きかった。

 六年生。

 背番号10。

 このチームのエース。

 

 まだ遠い。

 でも、いつか追いつきたい背中だった。

 

「翔!」

 

 今度は、水城大和が駆け寄ってきた。

 GKグローブをはめながら、いつものように笑っている。

 

「大丈夫だ! 翔ならいける!」

 

「根拠は?」

 

「親友だから!」

 

「まだ、会って一か月くらいだけど」

 

「もう親友だろ!」

 

 大和は本気でそう言った。

 

 翔は、その根拠のなさに少しだけ困った。

 けれど、不思議と胸の奥が軽くなった。

 

「うん」

 

「よし! 俺が後ろを守る。翔は前を見ろ!」

 

 その言葉に、翔はうなずいた。

 

 審判の笛が鳴る。

 

「整列!」

 

 雨は、まだ細かく降り続いていた。

 

 

 ピーッ。

 

 ホイッスルが鳴った。

 

 翔の人生で初めての公式戦が、始まった。

 

 相手チームは、翔を警戒していなかった。

 左サイドに立つ、見慣れない三年生。

 体は大きいが、まだ幼い顔。

 

 相手のサイドバックは、最初から余裕のある表情だった。

 

(まずは、見る)

 

 翔はボールを持たず、走りながら相手を観察した。

 

 右足に体重をかける癖。

 ボールを見る時間が長い。

 肩が開くのが少し早い。

 

 見える。

 情報が、ひとつずつ並んでいく。

 

 前半十二分。

 

 味方から、左サイドへボールが流れた。

 

「翔!」

 

 森本蒼の声。

 少し強いパス。

 雨でボールが伸びる。

 

 翔は左足で止めた。

 足裏に、濡れたボールの重さが伝わる。

 

 相手サイドバックが距離を詰めてきた。

 

「来いよ」

 

 相手が小さく言った。

 

 翔は答えなかった。

 

(右重心。目線はボール。足は止まってる)

 

 次の瞬間。

 

 翔の身体が、前へ沈んだ。

 

 ゼロステップ。

 

 強く蹴ったわけではない。

 大きく動いたわけでもない。

 

 ただ、最初の一歩が、速すぎた。

 

「えっ――」

 

 相手DFが反応したときには、翔の身体はもう横を抜けていた。

 

 観客席が、わずかにざわめく。

 

「速っ……!」

 

「今、何した?」

 

 翔は白線ぎりぎりを走った。

 雨粒が頬を叩く。

 スパイクが芝を噛む。

 ボールが足元から離れない。

 

 ペナルティエリアの角。

 

 中央を見る。

 

 蓮がいた。

 

 いや、正確には、蓮が走り出す前の一歩が見えた。

 

(最初の二歩。ニアじゃない。少し外へ膨らむ)

 

 翔は、蹴った。

 

 ボールは低く、速く、雨を切って飛ぶ。

 

 蓮の右足の前へ、ぴたりと入った。

 

「ナイス!」

 

 蓮が振り抜く。

 

 ズドンッ。

 

 ネットが揺れた。

 

 1-0。

 

 ベンチが爆発した。

 

「決まったぁ!」

 

「翔、ナイスクロス!」

 

 大和がゴール前で飛び跳ねる。

 

「よっしゃあああ!」

 

 蓮が翔へ走ってくる。

 

「天野川!」

 

 差し出された手。

 

 翔は一瞬だけ遅れて、その手を叩いた。

 

 ぱんっ。

 

「ナイスボール」

 

「蓮さんの走るところに出しました」

 

「知ってる」

 

 蓮は笑った。

 

「だから、ナイスなんだよ」

 

 翔の胸の中で、何かが熱くなった。

 

 自分の見たものが、誰かに届いた。

 自分のパスが、ゴールになった。

 

 その感覚は、初めてだった。

 

 

 しかし、サッカーは、一度成功した形を、何度も許してくれるほど甘くなかった。

 

 後半。

 

 相手ベンチから、鋭い声が飛んだ。

 

「左の三年に二人つけろ!」

 

 その瞬間から、ピッチの景色が変わった。

 

 翔がボールを持つ。

 一人が前を塞ぐ。

 もう一人が、斜め後ろを切る。

 

 逃げ道がない。

 

(前に一人。右後ろに一人。縦は消された。中も閉じてる)

 

 ゼロステップで一人を抜く。

 

 だが、そこに二人目がいる。

 

「止めた!」

 

 相手が身体をぶつけてきた。

 翔の足元から、ボールが少し離れる。

 

 次の瞬間、相手が奪った。

 

「カウンター!」

 

 ボールが一気に前へ運ばれる。

 

 大和が叫んだ。

 

「戻れ!」

 

 守備が間に合わない。

 

 相手FWがシュート体勢に入る。

 

「止める!」

 

 大和が飛んだ。

 

 指先が、ボールに触れそうになる。

 

 しかし、わずかに届かない。

 

 ボールはゴール右隅へ吸い込まれた。

 

 1-1。

 

 雨の音が、急に大きく聞こえた。

 

 

「天野川!」

 

 味方の一人が叫んだ。

 

「お前が取られたからだぞ!」

 

 翔は、何も言えなかった。

 

 事実だった。

 自分が失った。

 そこから失点した。

 

 胸の奥が冷える。

 

 そのとき、蓮の声が飛んだ。

 

「違う!」

 

 空気が止まった。

 

 蓮が一歩前へ出る。

 

「二人に囲まれてたんだ。一人でどうにかできる場面じゃない」

 

 そして、味方全員を見る。

 

「問題はそこじゃない。奪われたあと、戻るのが遅い。ラインもばらばらだ。天野川一人のせいにしてる暇があるなら、次を直せ!」

 

 誰も言い返せなかった。

 

 翔は、蓮の横顔を見た。

 

(僕をかばった。でも、それだけじゃない)

 

 ミスを責めるのではなく、チームの課題に変えた。

 空気を止めず、前へ向けた。

 

(これが、キャプテン)

 

 翔は初めて、蓮の背番号10の重さを知った。

 

 

 残り時間は少なかった。

 

 翔は何度もボールを受けた。

 

 だが、二人に囲まれる。

 抜けば、奪われる。

 奪われれば、またカウンターになる。

 

(抜く?)

 

 違う。

 

(戻す?)

 

 森本蒼が、後ろにいる。

 

(でも、蒼くんは驚くかもしれない)

 

 それでも。

 

 翔はボールを止めた。

 

 二人の相手が寄せてくる。

 

 今までなら、前へ行った。

 自分のスピードで、突破しようとした。

 

 でも、今は違う。

 

「蒼くん!」

 

「えっ、俺!?」

 

「後ろ!」

 

 翔は、無理に抜かなかった。

 後方へボールを戻した。

 

 蒼は一瞬戸惑った。

 しかし、すぐに右足を出す。

 

「くっ……!」

 

 完璧なトラップではなかった。

 少し浮いた。

 でも、ボールはつながった。

 

 蒼は必死に身体を入れ、逆サイドへ蹴った。

 

 攻撃にはならなかった。

 決定機でもなかった。

 

 けれど、ボールは失われなかった。

 

 翔は、その事実をじっと見つめた。

 

(これでいいんだ)

 

 すべてを自分で解決しなくてもいい。

 仲間へ預けることも、前へ進むための選択になる。

 

 その小さな発見が、雨の中で、確かに翔の中へ刻まれた。

 

 ピーッ、ピーッ、ピーッ。

 

 試合終了。

 

 1-1。

 

 初めての公式戦は、勝利でも敗北でもない結果で終わった。

 

 

 ベンチに戻った翔は、濡れたユニフォームの裾を握っていた。

 

 悔しい。

 でも、少しだけ、何かをつかんだ気もする。

 

 その感情を、うまく言葉にできなかった。

 

 隣に、蓮が座った。

 

「天野川」

 

「はい」

 

「後半、変わったな」

 

「……変わりましたか」

 

「ああ」

 

 蓮は濡れた髪をかき上げた。

 

「前半のお前は、一人で全部やろうとしてた。でも最後、蒼に戻した」

 

「はい」

 

「あれでいい」

 

 翔は顔を上げた。

 

「あれで、いいんですか」

 

「いい」

 

 蓮は短く答えた。

 

「前へ行くことだけが攻撃じゃない。失わないことも、チームを助けるプレーだ」

 

 翔は、黙ってその言葉を聞いた。

 

「やっと、周りが見えたな」

 

 その一言は、褒め言葉だった。

 

 翔には、そう感じられた。

 

 

 監督が選手たちを集めた。

 

 雨は弱くなっていた。

 それでも、全員の髪から水滴が落ちている。

 

「初めての公式戦、ご苦労だった」

 

 監督の声は、静かだった。

 

「結果は引き分けだ。勝てなかった。だが、負けもしなかった」

 

 誰も口を開かない。

 

「前半、翔の突破から点を取った。後半、相手はそこを消してきた。そこで何が起きたか、自分たちで考えろ」

 

 監督の視線が、翔を通り過ぎ、全員へ向けられる。

 

「今日の課題は、翔だけの課題ではない。チームの課題だ」

 

 蓮がわずかにうなずく。

 

「次までに、自分の頭で答えを出してこい」

 

 答えは与えられなかった。

 

 いつものことだった。

 

 けれど、今日の翔には、その意味が少しだけわかった。

 

 答えをもらうより、自分で見つけた方が、きっと忘れない。

 

 

 帰り道。

 

 雨は止んでいた。

 

 濡れたアスファルトに、夕方の光がにじんでいる。

 翔は、父・恒一郎の隣を歩いていた。

 

「引き分けだったな」

 

「うん」

 

「悔しいか」

 

「悔しい」

 

 翔は少し間を置いた。

 

「でも、少しだけ、わかったことがある」

 

「何がわかった」

 

「一人で抜けないときがある」

 

「うん」

 

「そのとき、無理に抜くんじゃなくて、仲間に預けてもいい」

 

 恒一郎は何も言わなかった。

 

「蓮さんは、僕のミスを、チームの課題にしてくれた。蒼くんは、びっくりしてたけど、僕のパスを受けてくれた。大和は、最後まで飛んでた」

 

 翔は、濡れた道を見つめた。

 

「みんな、それぞれ戦ってた」

 

「それで?」

 

「まだ、よくわからない。でも……」

 

 翔は、小さく息を吸った。

 

「僕だけで勝つんじゃないんだと思う」

 

 恒一郎は、ふっと笑った。

 

「いい一日だったな」

 

「勝てなかったのに?」

 

「勝つより大事なことに気づいた日は、いい一日だ」

 

 翔は、その言葉をすぐには理解できなかった。

 

 けれど、頭の中の静かな声が、今日の出来事をゆっくり整理していく。

 

 ――一人の力には、限界がある。

 ――けれど、仲間と組み合わさったとき、その限界は少しだけ先へ動く。

 

 翔は空を見上げた。

 

 雲の切れ間から、夕焼けがのぞいていた。

 

 まだ、答えには届かない。

 

 でも、今日。

 翔は初めて知った。

 

 サッカーは、一人で解く問題ではない。

 

 仲間と一緒に、答えを探すスポーツなのだと。

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