天才も、一人じゃ勝てない ~努力する少年の挑戦~   作:ささき2026

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7月2日に訂正しました。


第7話 苦手な音楽と、得意な仲間

 引き分けの試合から、一週間が過ぎた。

 

 学校の教室では、いつも通りの時間が流れていた。

 

 チャイム。

 黒板を走るチョークの音。

 窓の外から聞こえる、運動場の声。

 

「天野川くん、この問題を解いてみて」

 

 算数の時間。

 先生に指名された翔は、静かに立ち上がった。

 

 黒板の前に立つ。

 問題を見る。

 少しだけ首を傾ける。

 

 次の瞬間、チョークが動いた。

 

 普通なら何行もかけて解く問題を、翔は別の道筋で解いていく。

 クラスの誰も見たことがない解き方だった。

 

 けれど、答えは合っていた。

 

「……すごいね、天野川くん」

 

 先生が感心したように言った。

 

 翔は、ただうなずいて席へ戻る。

 表情は変わらない。

 

 そのせいで、また小さな声が生まれる。

 

「天野川くんって、何考えてるかわからないよね」

 

「ちょっと怖い」

 

 その声は翔にも聞こえていた。

 

 けれど、翔は怒らなかった。

 悲しいとも、まだ思えなかった。

 

(怖い顔をしてるのかな)

 

 自分では、よくわからない。

 

 ただ、問題を見ると、答えまでの道が見える。

 それを順番に書いただけ。

 

 なぜそれが、誰かを怖がらせるのか。

 翔には、まだわからなかった。

 

 

 休み時間。

 

 藤井智也が、翔の机にやってきた。

 いつも本を抱えている、図書室の常連だ。

 

「天野川、今日も図書室行く?」

 

「うん」

 

「サッカーやってるのに、本も読むんだな」

 

「サッカーと本は、別に関係ないから」

 

 翔がそう言うと、藤井は笑った。

 

「お前のそういうところ、俺は好きだな」

 

「そういうところ?」

 

「まっすぐなところ。変にかっこつけないところ」

 

 翔は少し考えた。

 

「褒めてる?」

 

「褒めてる」

 

「ありがとう」

 

 藤井はまた笑った。

 

 クラブでは、翔は「すごい選手」として見られることが多い。

 学校では「変わった子」と見られることが多い。

 

 でも藤井は、そのどちらでもなく、普通に話しかけてくる。

 

 その距離感が、翔には少し楽だった。

 

 

 しかし、その日の四時間目。

 翔にとって、最大の難敵が現れた。

 

 音楽だった。

 

「では、今日はリコーダーの発表をします」

 

 先生の声に、翔の指先がわずかに止まる。

 

 算数ならいい。

 体育ならいい。

 サッカーなら、もっといい。

 

 でも、リコーダーだけは違った。

 

「天野川くん、お願いします」

 

「はい」

 

 翔は立ち上がった。

 リコーダーを構える。

 

 指の位置は覚えている。

 息の入れ方も理解している。

 音階の理屈も、頭ではわかっている。

 

 だから、大丈夫なはずだった。

 

 ピーッ。

 

 最初の音が、見事に外れた。

 

 教室が、しんと静まり返る。

 

 次の音。

 

 ピョロッ。

 

 さらに外れた。

 

 誰かが、こらえきれずに吹き出した。

 

「……」

 

 翔は表情を変えない。

 けれど、内心では、かなり困っていた。

 

(おかしい)

 

 ボールなら、足のどこに当てればどう飛ぶか、少しずつわかる。

 相手の重心なら、見れば動きが読める。

 

 でも、音は見えない。

 

(音の高さは、穴の押さえ方と息の強さで決まる。理屈は合ってる。でも、指がずれる。息も強すぎる)

 

 頭の中で分析はできる。

 

 それなのに、音は外れる。

 

 翔は初めて思った。

 

 分析しても、すぐにはできないことがある。

 

 

 授業後。

 

 岡本健太が、翔の席へやってきた。

 理科と算数が好きで、将来は科学者になると言っている少年だ。

 

「天野川」

 

「うん」

 

「お前、サッカーはすごいのに、リコーダーは本当に下手だな」

 

「うん」

 

 翔が即答すると、岡本は一瞬きょとんとして、それから笑った。

 

「そこは少し否定しろよ」

 

「下手なのは事実だから」

 

「面白いなあ、お前」

 

 岡本は隣の席に腰を下ろした。

 

「たぶん、脳の使い方が違うんだよ。運動の予測と、音楽の感覚って、同じようで違うんだと思う」

 

「そうなの?」

 

「たぶんな。詳しくはまだ知らない。でも、研究したら面白そう」

 

 岡本は目を輝かせた。

 

「お前を見てると、すごいやつにも苦手なことがあるんだなってわかる」

 

「苦手なことがあると、だめじゃないの?」

 

「逆だよ」

 

 岡本は笑った。

 

「安心する」

 

「安心?」

 

「うん。天野川も人間なんだなって」

 

 その言葉は、翔の胸に不思議に残った。

 

 苦手なことがあるのは、恥ずかしいことだと思っていた。

 でも、それで誰かが安心することもある。

 

 これは、頭の中の声が教えてくれた答えではない。

 岡本がくれた、翔にとって新しい発見だった。

 

 

 その日のクラブ練習。

 

 グラウンドには、まだ雨の名残があった。

 人工芝の端に小さな水たまりが残り、夕方の光を反射していた。

 

 監督が全員を集めた。

 

「今日から、組み合わせを変える」

 

 子どもたちがざわつく。

 

「ポジションも固定しない。二人組、三人組で、いろんな形を試せ」

 

 監督の目が、翔を含む選手たちを見渡した。

 

「誰と誰が、どうつながるか。それを、俺が全部教えるつもりはない。自分たちで見つけろ」

 

 笛が鳴る。

 

 練習が始まった。

 

 

 翔は、森本蒼と組む時間が増えた。

 

 蒼は努力家だった。

 誰よりも早く来て、誰よりも長く走る。

 派手な技はない。

 足が特別速いわけでもない。

 

 でも、いつもそこにいる。

 

「翔!」

 

 蒼が走る。

 

 翔はボールを持ったまま、蒼の動きを見る。

 

(前はここで、誰もいない場所に出していた)

 

 今は違う。

 

 蒼の足の向き。

 呼吸。

 声。

 走り出すタイミング。

 

 それらを見てから、パスを出す。

 

 ボールは、蒼の少し前へ転がった。

 

「届く!」

 

 蒼が足を伸ばす。

 ぎりぎりで追いつく。

 

「よしっ!」

 

 蒼は嬉しそうに振り返った。

 

「今の、わかった!」

 

「何が?」

 

「お前、パス出す前に、ちょっとだけ目が動くんだよ。そこを見れば、次が少しわかる」

 

 翔は驚いた。

 

「僕の目?」

 

「うん。ほんの少しだけどな」

 

 翔は黙った。

 

 自分が誰かを見ることは多い。

 相手の重心、肩、足の運び。

 

 でも、自分も見られている。

 自分の癖を、仲間が読もうとしてくれている。

 

 その事実が、胸の奥を温かくした。

 

「蒼くん」

 

「何?」

 

「ありがとう」

 

「なっ……急になんだよ」

 

 蒼は顔を赤くして、目をそらした。

 

「別に、俺だって、翔のパス受けたいだけだし」

 

「うん」

 

「だから、もっと出せよ。俺、走るから」

 

 その言葉に、翔はうなずいた。

 

「わかった」

 

 

 練習後。

 

 新田栞がグラウンドへ来ていた。

 

 手帳を片手に、フェンス際からずっと練習を見ていたらしい。

 

「翔くん」

 

「栞さん」

 

「最近、どう?」

 

 翔は少し考えた。

 

「引き分けました。あと、リコーダーが下手です」

 

「え?」

 

「音楽が苦手です」

 

 栞は一瞬きょとんとして、それから笑った。

 

「そっか。翔くんにも苦手なもの、あるんだ」

 

「あります」

 

「それ、いいことだよ」

 

「いいことですか?」

 

「うん」

 

 栞は手帳を閉じた。

 

「弱いところをちゃんと知ってる子は、強くなれるから」

 

 翔は黙って聞いた。

 

「多くの子はね、自分の弱さを見ないふりするの。才能がある子ほど、特に。でも、翔くんはちゃんと見る。自分ができないことも、足りないことも」

 

 栞は、グラウンドへ視線を向けた。

 

 蓮が後輩にシュートの打ち方を教えている。

 大和は泥だらけになりながら、何本もシュートを止めている。

 蒼は一人で走り込みを続けている。

 

「見て」

 

 栞が言った。

 

「翔くんだけじゃない。みんな、強くなろうとしてる」

 

 翔も、同じ景色を見た。

 

 蓮。

 大和。

 蒼。

 

 みんな、それぞれの場所で戦っている。

 

(僕だけが頑張ってるわけじゃない)

 

 その事実が、胸に落ちた。

 

 翔はずっと、自分の足りないものを探していた。

 でも、見えていなかった。

 

 仲間にも、悔しさがある。

 仲間にも、努力がある。

 仲間にも、届きたい場所がある。

 

 栞は静かに言った。

 

「今度の記事のタイトル、決めたよ」

 

「何ですか?」

 

「『無名の三年生、チームを変える』」

 

「僕が、変えてますか?」

 

「うん」

 

 栞は微笑んだ。

 

「でも、翔くんだけが変えてるんじゃない。翔くんも、みんなに変えられてる」

 

 その言葉に、翔はすぐに返事ができなかった。

 

 自分がチームを変える。

 それは少しわかる。

 

 でも、自分もチームに変えられている。

 

 その考えは、翔にとって新しかった。

 

 

 夕食の席。

 

 翔は、その日の出来事を家族に話した。

 

「今日、蒼くんに言われた」

 

「何を?」

 

 姉の明日香が聞く。

 

「僕がパスを出す前に、目が少し動くらしい」

 

「へえ。翔も読まれてるんだ」

 

「うん」

 

 明日香はにやっと笑った。

 

「よかったじゃん。翔のこと、見てくれる仲間がいるってことだよ」

 

 翔は箸を止めた。

 

「見てくれる仲間」

 

「そう。あんた、いつも人のこと分析してるでしょ? でも、あんたのことを見てくれてる人もいるんだよ」

 

 父・恒一郎が静かにうなずいた。

 

「いい関係だな。分析は、一方通行では強くならない。互いに見て、互いに合わせることで深くなる」

 

「互いに」

 

 翔はその言葉を繰り返した。

 

 母・陽子が味噌汁をよそいながら言う。

 

「翔。今度の大会、楽しみね」

 

「うん。でも、強いチームが出るって聞いた」

 

「強いチームでも、関係ないわ」

 

 陽子は迷いなく言った。

 

「あなたたちは、ちゃんと準備してきたんだから」

 

 その言葉に、美羽がカメラを構える。

 

「お兄ちゃん、強い顔してる」

 

「強い顔?」

 

「うん。前より、ちょっと優しい強い顔」

 

 シャッター音が鳴る。

 

 翔は、まだ自分の顔がどう変わったのか、わからなかった。

 

 でも、少しだけ思った。

 

 変わったのかもしれない。

 

 自分一人で答えを出そうとしていた頃よりも。

 

 

 夜。

 

 翔は布団の中で、窓の外の月を見ていた。

 

(夏の大会)

 

 頭の中の声が、可能性を並べる。

 

 ――地区予選を勝てば、もっと強い相手が来る。

 ――負ける可能性はある。

 ――いや、十分に高い。

 

 翔は、目を閉じた。

 

 負けたくない。

 でも、負けること自体が怖いわけではない。

 

 怖いのは、何もできずに終わること。

 仲間と一緒に戦えないまま、終わること。

 

(今度は、ちゃんとみんなと戦いたい)

 

 蓮の背中。

 大和の声。

 蒼の走る姿。

 栞の言葉。

 家族の食卓。

 

 それらが、ひとつずつ胸に浮かぶ。

 

 入団した日、翔は一人で世界一を目指していた。

 

 今は違う。

 

 一人では、遠くまで行けない。

 でも、仲間となら、知らない景色まで行けるかもしれない。

 

 翔は、小さくつぶやいた。

 

「みんなと勝ちたい」

 

 それは、初めての感情だった。

 

 世界一になるためではなく。

 自分の正しさを証明するためでもなく。

 

 ただ、仲間と同じ景色を見たい。

 

 夏は、もうすぐだった。

 

 そして翔はまだ知らない。

 

 その夏、彼らの前に立ちはだかる相手が、

 個人の才能だけでは絶対に越えられない壁であることを。

 

 その壁の名を、組織力という。

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