1965年9月1日。
朝靄の残るロンドン。
ライーザ・ディスカビルは、母と共にキングズ・クロス駅へ足を踏み入れた。
蒸気機関車の汽笛。
行き交う人々の喧騒。
旅行客に紛れるように歩きながら、二人は駅構内を進んでいく。
表向きは、ごく普通の親子。
しかし、目的地だけが違った。
「忘れ物はありませんね」
「はい、お母様」
母は静かに頷いた。
感情を表へ出さない人だった。
ディスカビル家の正妻として、長年家を支えてきた女性らしい落ち着きがある。
ライーザは父の正妻の娘だった。
もっとも、それが家の中で特別な意味を持つことはない。
ディスカビル家では、正妻の子であることも、妾腹であることも評価の対象ではなかった。
価値を決めるのは、ただ一つ。
実力だけ。
異母兄弟が十数人いようと、その点だけは誰もが平等だった。
「ホグワーツでは、家名に甘えることなく励みなさい」
「承知しております」
「卒業後、家へ戻るかどうかは貴女自身が決めればいい」
母の言葉に、ライーザは一瞬だけ目を見開く。
家を継ぐことを当然とするのではなく、選択を本人へ委ねる。
それは父からも聞かされていた言葉だった。
後継者となる意思がある者だけが競い合う。
なければ、外の世界で生きればいい。
それがディスカビル家の流儀だった。
「ですが」
ライーザは真っ直ぐ母を見つめる。
「どこへ行こうと、恥じない生き方だけはします」
母は小さく目を細めた。
それが微笑みだったのかは分からない。
ただ、ほんの少しだけ表情が柔らかくなった気がした。
「ええ。それで十分です」
二人は人混みを抜け、人目の少ない場所へ足を運ぶ。
目の前には、『九番線』と『十番線』の表示。
一般人から見れば、ただの壁。
しかし、ライーザには違った。
「(ここが……)」
前世では何度も映像で見た場所。
魔法使い達の玄関口。
九と四分の三番線。
母は周囲を一瞥すると、荷物を載せたトランクをライーザへ渡した。
「行きなさい」
「はい」
ライーザは深く一礼する。
「今まで育ててくださり、ありがとうございました」
「まだ卒業ではありませんよ」
珍しく母が冗談めいた口調で返した。
「休暇になれば帰って来なさい」
「もちろんです」
その言葉に安心したように頷くと、母はそれ以上何も言わなかった。
別れを長引かせる性格ではない。
ライーザも同じだった。
トランクを押し、一歩、また一歩と壁へ向かう。
躊躇はない。
そのまま速度を緩めることなく歩み続け――。
身体が壁へ吸い込まれた。
次の瞬間。
耳を震わせる蒸気機関車の汽笛が響き渡る。
赤く輝く車体。
ホームを埋め尽くす魔法使い達。
そして機関車の側面には、黄金色の文字で刻まれていた。
――ホグワーツ特急。
ライーザは静かに息を吐く。
「(始まる)」
十一年間積み重ねてきた準備が、今日から試される。
少女はトランクの取っ手を握り直し、ゆっくりと列車へ向かって歩き始めた。
ホグワーツ特急へ乗り込んだライーザは、空いているコンパートメントを一つ見つけると、荷物を棚へ上げた。
「……ここでいいわね」
窓際へ腰を下ろし、一息つく。
ホームでは、まだ別れを惜しむ親子や友人達の姿が見える。
泣き出す子供。
笑顔で手を振る家族。
賑やかな空気が車内へも流れ込んでいた。
ライーザはトランクから革張りの小さな水筒を取り出す。
魔法界ではなく、マグル界で購入したものだった。
蓋を開けると、ほのかに紅茶の香りが漂う。
まだ温かい。
「いただきます」
一口含む。
渋みと香りが口いっぱいに広がり、自然と肩の力が抜けた。
「(やっぱり落ち着く)」
前世でもよく飲んでいた紅茶。
魔法界にも紅茶はあるが、この水筒だけは妙な愛着があった。
窓の外を眺めながら静かに紅茶を楽しむ姿は、とても十一歳とは思えないほど落ち着いている。
そんな時間が十分ほど続いただろうか。
コンコン。
控えめなノックが響いた。
「失礼」
扉が少しだけ開き、1人の少年が顔を覗かせる。
肩まで届きそうな柔らかな黒髪。
どこか中性的な整った顔立ち。
人当たりの良さそうな穏やかな雰囲気を纏っている。
「ここ、空いてるかな?」
ライーザは本を閉じ、穏やかに頷いた。
「ええ、どうぞ」
「ありがとう」
少年はほっとしたように笑い、トランクを運び込む。
席へ腰を下ろすと、軽く頭を下げた。
「俺はイーサン・アシュフォード」
「ライーザ・ディスカビルです」
「ディスカビル家か」
驚いた様子もなく頷く。
互いに純血の家系であれば、家名くらいは耳にしていても不思議ではない。
短い沈黙。
列車が汽笛を鳴らし、ゆっくりと動き始める。
「いよいよだね」
イーサンが窓の外を眺めながら呟く。
「ええ」
「実はさ」
彼は苦笑しながら頭を掻いた。
「少し緊張してるんだ」
「組み分けですか?」
「うん」
イーサンは照れくさそうに笑う。
「うち、代々スリザリンが多いんだ」
「そうなのですね」
「でも絶対じゃなくてさ」
指を一本立てながら続ける。
「曾祖父はグリフィンドールだったし、祖母はレイブンクローだったらしい」
「なるほど」
「だから俺も別にスリザリンとは限らないんだけど……」
そこまで言って、少しだけ言葉を詰まらせた。
「もしハッフルパフだったらどうしようって」
ライーザは思わず瞬きをする。
もっと家柄や血統を気にする話かと思っていた。
そうではないらしい。
「嫌、というわけじゃないんだ」
慌ててイーサンが補足する。
「ただ、周りがみんな違う寮だったら、1人だけ取り残される気がして」
「それで不安なのですね」
「そう」
苦笑しながら肩を竦める姿は、年相応の十一歳そのものだった。
ライーザは紅茶を一口飲み、水筒の蓋を閉める。
目の前の少年を静かに見つめた。
前世の記憶にはない人物。
しかし、不思議と誠実さだけは会話の端々から伝わってくる。
そして何より。
「(この人なら……)」
まだ出会って数分だというのに、人の話へ真っ直ぐ耳を傾ける性格なのだろうと感じられた。
ライーザは小さく微笑む。
「私は」
イーサンが顔を上げる。
「どの寮になっても、その人自身は変わらないと思います」
その言葉に、少年は一瞬だけ目を丸くした。
その時だった。
ガラリ。
ノックもなく、コンパートメントの扉が勢いよく開かれる。
ライーザとイーサンが同時に視線を向けると、一人の少年が当然のような足取りで中へ入ってきた。
年の頃は二人と同じ11歳ほど。
薄いブロンドの髪は綺麗に整えられ、青白い顔立ちには幼さを残しながらも、尖った顎がどこか大人びた印象を与える。
冷たい灰色の瞳。
そして、その年齢には似つかわしくないほど、貴族らしい気品と自信を纏っていた。
少年は部屋を一瞥すると、満足そうに頷いた。
「なるほど」
誰も返事をしていないにもかかわらず、そのまま話し始める。
「僕はルシウス・マルフォイ」
名乗り方には一切の迷いがなかった。
自分の名を知らない者などいない、と言わんばかりである。
ライーザは静かに紅茶の水筒を机へ置いた。
イーサンは少しだけ身体を強張らせる。
「今年度の新入生は実に豊作だ」
ルシウスは二人を見比べる。
「純血の名家が例年以上に揃っている」
「…………」
「君達もその一人だろう?」
返事を待つことなく続けた。
「魔法界には、生まれながらに魔法使いとして相応しい者と、そうでない劣等種が存在する」
淡々とした口調。
それが本人にとって当たり前の価値観であることを物語っていた。
「その違いを理解している者同士が手を組むべきだ」
ルシウスは顎をわずかに上げる。
「僕の側へ来るといい」
まるで当然の勧誘だった。
「相応の地位も、人脈も、将来も保証しよう」
コンパートメントが静まり返る。
イーサンは戸惑ったようにライーザを見る。
断るべきなのか。
何か返事をするべきなのか。
判断が付かない。
一方のライーザは、表情一つ変えなかった。
「お断りします」
即答だった。
ルシウスの眉が僅かに動く。
「理由を聞いても?」
「まず」
ライーザは静かに立ち上がる。
「他人のコンパートメントへ入るのであれば、ノックをし、返事を待ってから入室するのが礼儀です」
「…………」
「それをせず、一方的に扉を開け、ご自身の話だけをなさる」
穏やかな口調。
しかし一切引く気配はない。
「そのような方と行動を共にしたいとは思えません」
イーサンが思わず息を呑む。
ルシウスも数秒だけ黙り込んだ。
しかし怒る様子はない。
むしろ面白いものを見るようにライーザを見つめる。
「礼儀、か」
小さく笑う。
「なるほど。君らしい答えだ」
ライーザは否定も肯定もしない。
ルシウスは踵を返し、扉へ向かった。
「まあ、すぐに決めろとは言わないさ」
振り返ることなく言葉だけを残す。
「いずれ現実を知ることになる」
その声音は忠告にも聞こえた。
あるいは予告。
ガラリ、と扉が閉まる。
静寂が戻ったコンパートメントで、イーサンはようやく大きく息を吐いた。
「……すごい人だったな」
ライーザは苦笑しながら再び席へ腰を下ろす。
「ええ」
水筒の蓋を開け、冷め始めた紅茶を一口含む。
前世の記憶にある人物。
そして今、自分の目の前を去っていった少年。
「(これが、11歳のルシウス・マルフォイ)」
まだ何者にも染まり切っていない。
だが、その価値観の芽は、既に確かにそこに存在していた。
夕暮れが近づく頃、ホグワーツ特急はゆっくりと速度を落とした。
窓の外には、広大な湖と、その向こうにそびえ立つ巨大な城。
夕陽に照らされた石造りの城は、十一年間読み続けてきた歴史書の挿絵そのままだった。
「……あれが」
ライーザは小さく呟く。
ホグワーツ魔法魔術学校。
千年以上の歴史を持つ、英国魔法界最高峰の学び舎。
「すごいな……」
イーサンも窓へ顔を寄せ、感嘆の声を漏らした。
列車が停車すると、新入生達は荷物を持ってホームへ降り立つ。
そこで彼らを待っていたのは、一人の魔女だった。
黒いローブを身にまとい、背筋を真っ直ぐ伸ばした厳格そうな女性。
「新入生はこちらです」
凛とした声が響く。
ライーザ達は自然と列を作り、その後ろへ続いた。
石造りの廊下を抜け、重厚な扉の前で立ち止まる。
「これから諸君の寮を決定します」
簡潔な説明を終えると、女性は大広間の扉を開いた。
瞬間。
無数の蝋燭が宙へ浮かび、天井には夜空が広がる。
四つの長机。
数え切れないほどの上級生達。
そして最奥には教師達が並ぶ席。
ライーザは思わず息を呑んだ。
「(本当に……ホグワーツなんだ)」
歴史書で何度も読んだ場所。
前世では画面越しにしか見られなかった光景。
今、自分はその中心へ立っている。
新入生達の前へ、古びた帽子が置かれた。
組み分け帽子。
入学前から知っていた、不思議な魔法道具。
名前が読み上げられていく。
やがて。
「アシュフォード、イーサン」
イーサンは深呼吸し、帽子を被った。
沈黙。
1秒。
2秒。
30秒。
1分近く経っても、帽子は何も叫ばない。
大広間が少しざわつき始める。
そして5分となった。
「(ハットストール……)」
ライーザは前世の知識を思い出す。
珍しいことではあるが、組み分け帽子が長時間迷う生徒は存在する。
『ふむ……。』
帽子の声がようやく響いた。
『グリフィンドールではない。そこだけは確かだ。』
さらに沈黙。
『勤勉さもある。知性もある。だが……。』
帽子は何かを確かめるように考え込む。
『君は、目的を定めた時に最も力を発揮する。』
次の瞬間。
『スリザリン!』
拍手が起こる。
イーサンはほっとしたように胸を撫で下ろし、スリザリンの卓へ向かった。
「ディスカビル、ライーザ」
ライーザは静かに椅子へ腰掛ける。
帽子を被る。
『ほう。』
すぐに声が響いた。
『これは困った。』
「(困った?)」
『君は四つ全ての寮へ適性がある。』
ライーザは内心だけで眉を上げる。
『知性を求める心はレイブンクロー。』
『仲間を大切にする資質はハッフルパフ。』
『勇気もある。グリフィンドールでも十分やっていける。』
帽子は小さく笑った。
『だからこそ難しい。』
数秒の沈黙。
そして穏やかな口調で続ける。
『だが、魔法使いとしても、一人の人間としても最も大きく成長できるのは――スリザリンだ。』
ライーザは静かに考える。
前世ならば、少し迷ったかもしれない。
だが今は一九六五年。
まだスリザリンが後世ほど悪名を背負う前の時代だった。
「(私も、それが最善だと思います)」
『ならば決まりだ。』
帽子が高らかに叫ぶ。
『スリザリン!』
再び拍手が起こる。
ライーザは帽子を返し、イーサンの隣へ腰を下ろした。
「良かった」
イーサンが安堵したように笑う。
「ええ」
ライーザも穏やかに微笑み返す。
「マルフォイ、ルシウス」
最後に、あの少年が前へ出る。
帽子を被ろうとした、その瞬間だった。
『スリザリン!』
帽子が頭へ触れるか触れないかという早さで叫ぶ。
大広間から思わず笑いが漏れた。
ルシウス本人だけは、当然と言わんばかりの表情でスリザリンの卓へ歩いてくる。
こうして、一九六五年度の新入生達は、それぞれの寮へ迎えられた。
ライーザ・ディスカビルのホグワーツ生活が、静かに幕を開けるのだった。
イメージCVはこんな感じ
イーサン:石川英郎(30代以降)、小林裕介(声変わり後から20代まで)、潘めぐみ(声変わり前)
ドラコ誕生前までのルシウス:松岡禎丞