6月の終わり。
7年間を過ごしたホグワーツでの生活も、今日で幕を閉じる。
ライーザは黒いローブを翻しながら、湖畔へと続く坂道を歩いていた。
新入生の頃、自分達を城へ運んだ小舟。
今度は卒業生を送り出すため、静かに湖面へ浮かんでいる。
「まさか、最後もボートとはね」
思わず苦笑が漏れる。
小舟に乗り込むと、ゆっくりと岸を離れた。
朝日に照らされたホグワーツ城が、水面へ美しく映り込む。
7年間、毎日のように眺めてきたその姿も、今日で一区切り。
ライーザは静かに目を細めた。
「ありがとう」
誰へ向けるでもない、小さな呟きだった。
◇◇◇
ホグズミード駅。
赤い車体のホグワーツ特急が蒸気を噴き上げる。
ライーザは窓際の席へ腰掛け、流れゆく景色をぼんやり眺めていた。
思い返せば、長いようで短い7年間だった。
一年生。
朝のジョギングを続けていたら、クィディッチ選手として目を付けられた。
2年生。
動く階段対策で始めたパルクールが評判となり、城中を駆け回るようになった。
3年生。
闇の魔術に対する防衛術の才能が開花し、担当教授だったレオナルド・フィグから太鼓判を押された。
4年生。
代理シーカーとして試合へ出場したことを切っ掛けに、キーパーだけでなくチェイサーやビーターとしても十分通用すると評価された。
5年生。
OWLでは死に物狂いで勉強し、闇の魔術に対する防衛術では最高評価の"O"を獲得した。
6年生。
クィディッチキャプテンとして、久方ぶりにスリザリンへ優勝杯をもたらした。
そして7年生。
多くの出会いがあり、多くの別れがあった。
「……悪くない学生生活だったわね」
自然と笑みが零れる。
その時だった。
「隣、いいか?」
聞き慣れた声だった。
「もちろん」
ライーザが頷くと、イーサン・アシュフォードが向かいへ腰を下ろした。
「卒業したら、しばらく会えそうにないからな」
「そうね」
短いやり取りの後、イーサンは制服の胸元へ手を伸ばいた。
外したのは、銀色に輝く首席バッジ。
「ライーザ」
「これ、預かってくれないか」
ライーザは少し驚く。
「私が?」
「ああ」
イーサンは照れ臭そうに笑った。
「お前だから預けたい」
「他の誰でもない」
ライーザは数秒だけその顔を見つめると、小さく息を吐いた。
「……分かった」
両手で丁寧に受け取る。
「大切に預かるわ」
「助かる」
イーサンはどこか安心したように頷いた。
しばらく沈黙が続いた後、彼は窓の外を見ながら静かに口を開く。
「実家が少々面倒なことになっていてな」
「アシュフォード家?」
「ああ」
イーサンは苦笑した。
「闇の陣営へ抵抗するか、それとも恭順するか」
「一族が真っ2つだ」
ライーザは何も言わず続きを促す。
「抵抗派はまだ頭が回る」
「万が一敗北した時のために、闇払いの知り合いへ恭順派の情報を少しずつ流してる」
「保険ってわけね」
「そういうことだ」
イーサンは肩を竦める。
「対して恭順派は……」
「例のあの人が世界を変える、本物の支配者だ、とでも思ってるんだろうな」
「全能感に酔ってる」
「だから何もしない」
「いや、正確には考えることをやめてる」
ライーザは静かに息を吐く。
「醜い話ね」
「ああ」
「だから俺は巻き込まれるつもりはない」
イーサンの声は迷いがなかった。
「卒業したら、ヨーロッパを中心に旅へ出る」
「場合によってはアメリカにも渡る」
「気になることもあるからな」
「気になること?」
「そのうち分かるさ」
イーサンは意味深に笑うだけだった。
ライーザも、それ以上は聞かなかった。
人には、人の事情がある。
それくらい7年間で十分学んでいた。
◇◇◇
列車がゆっくりと減速する。
やがて聞き慣れたアナウンスが流れた。
「キングズ・クロス駅、到着です」
ライーザは荷物を持ち上げる。
ホームへ降り立つと、多くの卒業生達がそれぞれの未来へ歩き始めていた。
ライーザも一度だけホグワーツ特急を振り返る。
「じゃあ」
誰へともなく、小さく呟く。
「参りますか」
その一歩は、学生ではなく、一人の魔法使いとしての人生への第一歩だった。
*
卒業から3ヶ月。
ライーザは英国各地を巡っていた。
魔法界だけではない。
マグルの街も、古い港町も、歴史ある城跡も、魔法使い達がひっそりと暮らす村も。
足を運べる場所には可能な限り向かった。
ホグワーツで学んだ知識は確かに重要だ。
だが、本で読んだだけでは分からないことがある。
人々の暮らし。
土地ごとの空気。
魔法界とマグル界が、互いに気付かぬまま隣り合って存在する奇妙な距離感。
それらを、自分の目で確かめるための旅だった。
そんなある日。
ライーザは偶然、一組の魔法使いの家族と出会った。
最初に気付いたのは、彼らの傍らにいた不思議な生き物だった。
見慣れぬ姿。
だが、決して危険な気配はない。
むしろ、大切に扱われていることが一目で分かった。
その中心にいた人物を見た瞬間、ライーザは内心で息を呑んだ。
「(……ニュート・スキャマンダー)」
前世の記憶が一気に蘇る。
ファンタスティックビースト。
ハリー・ポッター本編とは別の時代を描いた物語。
その主人公。
目の前にいる穏やかな雰囲気の老魔法使いこそ、魔法動物学者ニュート・スキャマンダーだった。
「(本当にいる……)」
内心では、思わず年相応どころか前世込みでも落ち着きを失いかけていた。
だが、表情には出さない。
出してはいけない。
ライーザは静かに一礼した。
「ライーザ・ディスカビルです」
ニュートは穏やかに頷く。
「ニュート・スキャマンダーです」
そう名乗られた瞬間、ライーザは胸の奥で小さく歓声を上げた。
もちろん、顔には出さない。
束の間の会話だった。
ライーザが卒業後に見聞を広めるため旅をしていること。
魔法界だけでなく、マグル界も含めて各地を見て回っていること。
それを聞いたニュートは、少し嬉しそうに目を細めた。
「とても良いことだと思います」
静かな声だった。
「魔法使いは、魔法だけを見ていると大切なものを見落とします」
ライーザはその言葉を胸に刻む。
「世界は広い」
ニュートは続けた。
「そして、相手を理解しようとする姿勢は、どんな呪文よりも役に立つことがあります」
「……ありがとうございます」
「どうか、良い旅を」
短い激励。
それだけで十分だった。
別れ際、ライーザはもう一度深く頭を下げた。
スキャマンダー家の人々が去っていく背中を見送りながら、彼女は小さく息を吐く。
「(すごい)」
前世の記憶を持つ者としての感動。
そして、一人の魔法使いとして受け取った言葉の重み。
2つが胸の中で静かに重なっていた。
「……よし」
ライーザは荷物を持ち直す。
旅はまだ終わらない。
むしろ、始まったばかりだ。
彼女は再び歩き出した。
魔法界とマグル界。
その両方を見つめるための、長い外遊へ。
*
外遊を始めてから3ヶ月が過ぎた。
季節は夏から秋へ。
ライーザは依然として英国各地を巡り続けていた。
魔法使いだけが暮らす集落。
マグルの市場。
地方都市の図書館。
古い教会。
気になった場所があれば立ち寄り、人々の話を聞き、本を読み、その土地の文化に触れる。
そんな旅を続ける中、一つだけ頭を悩ませていることがあった。
「(……マグル界側の教育課程、どうしようかしら)」
魔法界なら問題ない。
ホグワーツで7年間学び、卒業資格も得た。
しかし、マグル界で生活するとなれば話は別だ。
大学へ進学するにしても、まずは一般教育課程を修了したことを証明しなければならない。
前世は日本人。
イギリスでどういった制度を経て大学へ進学するのかまでは、正直詳しく知らなかった。
「今更ながら、これは盲点だったわね」
思わず苦笑する。
旅先の喫茶店で紅茶を飲みながら、手帳へ思いついたことを書き留める。
「(ホグワーツ卒業者向けに、マグル界教育との対応規定があっても良いのでは?)」
そんな一文を記した。
すぐに役立つ話ではない。
それでも、いつか必要になる気がした。
「急ぐ話でもないし」
「今は旅を続けましょう」
そう結論付けると、再び英国各地を巡る日々へ戻っていった。
◇◇◇
そして、半年に及ぶ外遊も終わりが近付いた頃。
ある日。
「……ライーザ?」
聞き覚えのある声に振り返る。
「先生」
そこに立っていたのは、ホグワーツ3年時に闇の魔術に対する防衛術を担当していた人物。
レオナルド・フィグだった。
「久しぶりね」
「元気そうで何よりだ」
フィグも穏やかに笑う。
2人は近くの広場で腰を下ろし、互いの近況を語り合った。
半年に及ぶ外遊。
魔法界とマグル界の双方を巡ったこと。
ニュート・スキャマンダーとも出会ったこと。
それらを聞いたフィグは満足そうに頷いた。
「実りある旅だったようだ」
「ええ」
「でも」
フィグの表情が少しだけ真剣になる。
「一つだけ言わせてもらおう」
ライーザも自然と姿勢を正した。
「今のお前なら、大抵の闇の魔法使いには勝てる」
「だが」
「幹部級の死喰い人が相手になれば、苦戦する」
その一言は、決してライーザを否定するものではなかった。
純粋な実力評価だった。
ライーザも素直に受け止める。
「……ご指導、お願いできますか」
フィグは小さく笑った。
「もちろんだ」
◇◇◇
それから半年。
ライーザは再び修行の日々を送ることになった。
無詠唱魔法。
連続詠唱。
高速回避。
地形を利用した立体戦闘。
魔法と身体能力を組み合わせた連携。
そして、相手へ攻撃の隙を与えない怒涛の魔法攻勢。
フィグが教えたのは、闇の魔術ではない。
許されざる呪文でもない。
純粋に魔法使いとしての技術を極限まで引き上げる戦闘術だった。
時には魔法だけでなく、周囲の地形や障害物までも戦術へ組み込む。
途切れることなく魔法を繋ぎ、攻守を自在に切り替える。
まるで一つの流れるような演舞だった。
その戦い方は、ライーザが前世で夢中になって遊んだゲーム――「(ホグワーツレガシー)」における主人公さながらの戦闘スタイルへと昇華されていった。
修行最終日。
ライーザは深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
「先生のお陰で、また一つ前へ進めました」
フィグは満足そうに頷く。
「礼なら不要だ」
「教師として、教え子の成長を見るのは嬉しいものだからな」
2人は握手を交わした。
「また会おう」
「ええ」
ライーザは笑顔で応える。
「その時まで」
フィグの背中が遠ざかっていく。
ライーザは静かに拳を握った。
この半年で得たものは、決して小さくない。
そして――。
この修行の成果は、そう遠くない未来。
思いもよらぬ形で発揮されることになる。
*
半年の外遊。
そのつもりだった。
英国各地を巡り、魔法界とマグル界の双方を見て、自分の知らないものを知る。
そうして一区切りをつけるはずだった。
だが、実際にはそうならなかった。
レオナルド・フィグとの再会。
そして、半年に及ぶ戦闘訓練。
気付けば卒業から一年近くが経過していた。
「半年のつもりが、一年ね」
ロンドン郊外の道を歩きながら、ライーザは苦笑した。
「まあ、得たものは大きかったけれど」
外遊による知見。
スキャマンダー家との出会い。
フィグから授かった戦闘技術。
予定は大きく変わったが、無駄な時間ではなかった。
むしろ、今の自分には必要な一年だったのだろう。
そう考えながら歩いていた時だった。
風に混じって、鈍い音が聞こえた。
悲鳴。
怒号。
何かが地面へ叩きつけられる音。
ライーザの表情が一瞬で変わる。
足音を殺し、音の方へ向かう。
開けた場所に出た瞬間、状況はすぐに見えた。
身なりの良い青年が一人。
その周囲には、倒れ伏した黒服の男達。
ボディーガードだろう。
そのうち一人だけが、血を流しながらも辛うじて立ち上がり、青年を庇っている。
そして彼らを囲んでいるのは、八人。
3人は死喰い人。
残る5人は、人攫いの類。
最悪に近い組み合わせだった。
「……まったく」
ライーザは杖を抜く。
「こんな形で修行の成果を披露したくはなかったわ」
次の瞬間、彼女は駆け出していた。
初手は牽制。
地面を蹴りながら、無言呪文で障害物を弾き飛ばす。
人攫いの1人が反応する前に、足元をすくわれて転倒した。
続けざまに杖を振るう。
拘束。
弾き飛ばし。
防御。
反撃。
魔法と身体操作を繋げ、相手へ考える隙を与えない。
「何だ、こいつ――!」
人攫いの1人が叫んだ直後、その身体が横から吹き飛ぶ。
別の男がナイフを抜いたが、ライーザは半歩身を引いて躱し、手首を打ち据えた。
ナイフが地面へ落ちる。
次の瞬間、男は背中から地面へ叩きつけられていた。
死喰い人の1人が呪文を放つ。
ライーザは盾の呪文で弾き、間髪入れずに反撃した。
だが、相手もただの下っ端ではない。
2人の死喰い人が舌打ちし、即座に撤退へ切り替える。
「逃がすか――!」
1歩踏み込む。
しかし、青年を庇っていた最後のボディーガードが膝をついたのが見えた。
ライーザは追撃を諦めた。
優先すべきは、生存者の保護。
2人の死喰い人は闇の中へ消えた。
残された1人の死喰い人と5人の人攫いは、ほどなくして制圧された。
その場に静寂が戻る。
ライーザは息を整えながら、膝をついている黒服の男へ駆け寄った。
「しっかりして」
男は血に濡れた顔で、かすかに笑った。
「……助けて、くださり……感謝します」
「喋らないで」
「坊ちゃまを……どうか……」
それが最後だった。
男の身体から力が抜ける。
ライーザは数秒だけ目を伏せた。
「……ええ」
静かに答える。
「確かに聞き届けたわ」
背後で、青年が震える声を上げた。
「あの……」
振り返る。
青年は青ざめていた。
それでも、必死に姿勢を正そうとしている。
「助けてくれて、ありがとう」
その声には混乱と恐怖、そして確かな感謝があった。
「本当に……魔法使いがいるとは思わなかった」
ライーザは杖を下ろす。
「見てしまった以上、説明は必要でしょうね」
「ええ。できれば」
青年は深く息を吸い、改めてライーザを見る。
「僕はドワイト・ベネット」
品のある口調だった。
「ベネット家の三男です」
ベネット家。マグル界の貴族家系。
ライーザもその名だけは耳にしたことがあった。
ドワイトは倒れたボディーガード達へ一度視線を落とし、それから再び彼女へ向き直る。
「恩人をこのまま帰すわけにはいかない。恩を返させていただきたく」
「……」どうやって説明したものかと悩むライーザ
「どうか、家へ来てください」
ライーザは少しだけ目を細める。
偶然の救出。
死喰い人と人攫い。
マグル貴族の青年。
そして、魔法を目撃されたという事実。
厄介なことになった。
そう思う一方で、不思議と嫌な予感はしなかった。
「分かりました」
ライーザは静かに頷く。
「事情説明も必要ですし、お言葉に甘えます」
この出会いが、後に自分の人生を大きく変えることになる。
その時のライーザは、まだ知らなかった。