ベネット家の屋敷は、ロンドン郊外の広大な敷地に建っていた。
重厚な門をくぐり、手入れの行き届いた庭園を抜ける。
案内された応接間もまた、歴史を感じさせる落ち着いた雰囲気に包まれていた。
「どうぞ、お掛けください」
ドワイトに促され、ライーザはソファへ腰を下ろす。
ほどなくして、部屋へ3人が姿を現した。
壮年の男性。
その隣には気品ある女性。
さらに、ドワイトより年上の青年。
ベネット家当主。
その妻。
そして、次期当主となる予定の長兄だった。
当主が穏やかな表情で口を開く。
「まずは」
ゆっくりと頭を下げる。
「息子を助けてくださり、本当にありがとうございました」
夫人も静かに頭を下げる。
「感謝いたします」
長兄も真っ直ぐライーザを見つめた。
「我が家を代表して、お礼申し上げます」
ライーザも一礼を返す。
「当然のことをしたまでです」
「それでもです」
当主は首を横に振った。
「あなたがいなければ、ドワイトは命を落としていたでしょう」
一瞬、部屋が静まり返る。
やがて当主は真剣な眼差しになる。
「そして」
「事情を伺いたい」
「襲撃者達について、あなたの知る限りで構いません」
ライーザは静かに頷いた。
「分かりました」
魔法使いという存在。
死喰い人。
人攫いとの共謀。
襲撃の様子。
自分が確認した事実だけを、順を追って説明していく。
脚色はしない。
推測も極力交えない。
知っていることだけを淡々と話した。
話が終わる頃には、3人とも言葉を失っていた。
夫人が静かに口元へ手を当てる。
「……そんな世界が、本当に」
長兄も険しい表情になる。
「俄かには信じ難い」
当主は腕を組み、しばらく考え込んだ。
「しかし」
「ドワイトや護衛達の状況を考えれば、嘘とは思えない」
重々しく頷く。
「王室へも連絡を入れる必要があるだろう」
部屋の空気が一段と引き締まった。
しばらく沈黙が流れた後。
長兄がライーザへ向き直る。
「ライーザ嬢」
「はい」
「あなたは、これからどうされるおつもりですか」
唐突な問いだった。
ライーザは少し考えてから答える。
「卒業後、この一年は英国各地を旅してきました」
「魔法界も、マグル界も」
「見聞を広めることが目的でした」
そこで一度言葉を切る。
「ただ」
「ここから先については、まだ決めていません」
それが正直な答えだった。
旅という目標は終えた。
次の一歩は、まだ白紙だった。
長兄は小さく頷く。
「でしたら」
ライーザを真っ直ぐ見据える。
「大学進学を目指してみてはいかがでしょう」
「大学……ですか」
「ええ」
「そのためには、まずCSEを取得する必要があります」
「もちろん簡単ではありません」
「ですが、あなたなら十分可能だと思います」
ライーザは静かに耳を傾ける。
「我々としても援助は惜しみません」
そう言ってから、長兄は父母へ視線を向けた。
「父上、母上」
「いかがでしょうか」
当主夫妻は互いに目を合わせる。
そして。
2人揃ってドワイトを見る。
ドワイトは迷うことなく頷いた。
「僕も賛成です」
「ライーザさんには、その資格があります」
当主はゆっくりと微笑んだ。
「私も異論はありません」
「必要な支援はベネット家で行いましょう」
夫人も優しく頷く。
「ええ」
「どうか遠慮なさらず」
ライーザは少し驚いたように目を瞬かせる。
外遊を終えた先。
まだ何も決まっていなかった未来へ、一つの道が示された。
マグル社会で学ぶ。
大学を目指す。
それは、これまでの人生では考えたこともなかった新たな挑戦だった。
ライーザは静かに頭を下げる。
「……ありがとうございます」
「お言葉に甘えさせていただきます」
こうして。
ライーザ・ディスカビルは、新たな人生の指針を得るのだった。
*
ベネット家の援助を受け、ライーザはロンドン市内のFEカレッジ夜間コースへ通い始めた。
目標は1つ。
マグル界の大学へ進学するために必要な資格――GCE Oレベルを取得することだった。
ホグワーツで学んだ7年間は決して無駄ではない。
数学や自然科学には魔法と共通する論理も少なくなく、新しい知識を吸収すること自体も苦ではなかった。
それでも。
「……これは、なかなか骨が折れるわね」
机へ向かったライーザは苦笑する。
英語。
歴史。
数学。
社会学。
一般理科。
どれも魔法界とは異なる視点で構成された学問だった。
前世の知識はまだ断片的に残っている。
しかし、それは「何となく知っている」という程度に過ぎない。
試験で求められるのは、曖昧な記憶ではなく体系立てられた知識だった。
昼はベネット家の世話になりながら勉強し、夜は講義へ通う。
帰宅後も復習を欠かさない。
ホグワーツでOWL試験へ挑んだ頃を思い出すような日々だった。
*
1年目。
受験科目は英語と歴史。
特に歴史は英国史を一から学び直す必要があり、想像以上に苦戦した。
前世では日本史や世界史には触れていたものの、英国史だけを深く学ぶ機会はほとんどなかったからだ。
それでも毎日机へ向かい続けた。
積み重ねた努力は裏切らない。
結果。
2科目とも評価"C"以上で合格。
ライーザは静かに胸を撫で下ろした。
「まずは1歩ね。これで来年の科目も頑張りましょう」
*
2年目。
今度は数学、社会学、一般理科。
数学は比較的順調だった。
一方、社会学は魔法界には存在しない学問だけに、新鮮な発見の連続だった。
魔法使いとマグル。
社会制度の違い。
共同体の形成。
人々の価値観。
講義を受けるたび、新しい世界が広がっていくようだった。
一般理科もまた、魔法とは異なる形で自然を解き明かそうとする学問だった。
「なるほど」
「魔法がない世界だからこそ、ここまで発展したのね」
ライーザは純粋な興味を抱きながら学び続けた。
そして迎えた試験当日。
ホグワーツの試験とも、魔法界の資格試験とも違う独特の緊張感が漂う。
問題用紙が配られる。
ライーザは深呼吸を一つ。
静かにペンを走らせ始めた。
*
数週間後。
結果が届く。
英語。
歴史。
数学。
社会学。
一般理科。
すべて"C"以上。
合格。
ライーザは通知を見つめ、小さく笑みを浮かべた。
「……やっと」
魔法界の卒業資格だけではなく。
マグル界でも、次の段階へ進む資格を得た。
ほどなくして、レディング大学への進学が正式に決定する。
ホグワーツ卒業から始まった新たな人生。
その歩みは、また1歩、未来へと進んだのだった。
*
レディング大学。
魔法使いの学校であるホグワーツとも。
前世で過ごした日本の大学とも。
そこはまた違う空気を持つ学び舎だった。
講義を受け、図書館で調べ物をし、学生達と議論を交わす。
魔法を使うこともなければ、闇の魔法使いを警戒する必要もない。
そんな当たり前の日常が、ライーザにはどこか新鮮だった。
「……こういう生活も悪くないわね」
穏やかな時間は3年間続いた。
時折ドワイトと街へ出掛け、将来について語り合うこともあった。
命を狙われることも、誰かを守るために杖を抜くこともない。
魔法界とは無縁の学生生活は、ライーザにとってかけがえのない時間となっていた。
*
そんなある日。
ディスカビル家の紋章が押された封筒が大学へ届く。
「……兄上から手紙?というか、どうして今の所在知ってるの?」
封を切る。
差出人は、予想通り兄フランクリンだった。
ライーザは静かに手紙へ目を通していく。
『ライーザへ。元気か?ちゃんと食べて寝て健康に気をつけてるか?
お前がマグル界にて大学に進学して学生生活を満喫していると聞き、安心した。
そして異常者共を追い払ってマグル側の貴族を救い、その関係者から事情を知られても受け入れられたことを安心している。
何かの保険で新たに雇った屋敷しもべ妖精に、監視やストーカーにならない程度でお前の動向を把握させ、もし危険になったら助けるようにと。
結果は杞憂だったが。
こちらの近況を知らせておこうと思い、この手紙を出した』
文章は淡々と続く。
アシュフォード家。
闇の陣営への恭順派と抵抗派。
長らく続いていた一族内の対立。
その決着が、ついに着いたという。
『勝者は恭順派だった。
抵抗派は1人残らず殺された。お前の同級生のイーサンだったか。彼の家族。両親、姉、妹も全滅している』
ライーザの表情が曇る。
だが、手紙はそこで終わらなかった。
『もっとも、抵抗派もただ殺されるだけでは終わらなかった。
彼らは以前から闇払い、魔法省、不死鳥の騎士団へ恭順派の情報を流し続けていた。もし自分達が全滅した時の備えとして』
『結果として、お家騒動で疲弊した恭順派へ闇払いが急襲。
部隊長はアラスター・ムーディ。
私もその指揮下へ入り作戦に参加した』
『抵抗派との内輪揉めで既に消耗していたこともあり、こちらの損害は非常に軽微だった。
1つ失敗したのは、グリンゴッツにあるアシュフォード家の金庫。
当初イーサンが戻ってくるまで凍結しようとしたが、異常者共が親戚の屁理屈で相続した形になった。
今頃は我が物顔で山分けしているだろう。
小者のくせに野心家、それでいて世渡りとおべっかだけは無駄に有能なルシウス・マルフォイ当たりのしてやったりな表情を想像するとムカつく。いつか奴をアズカバンに入れてやりたいくらいだ。
話が脱線したな。ムーディの言葉を借りるなら油断大敵という奴だ。
今の情勢、何が起こるか本当に分からないから気を付けろよ。婿殿と末永くな』
ライーザは手紙を静かに閉じた。
「……そう」
イーサンの実家。
結局、一族は滅びた。
彼が在学中から懸念していた最悪の結末である。
しかし。
同時にライーザは、遠い昔ホグワーツ特急で交わした約束を思い出した。
『俺も欧州中心に旅をする。
場合によってはアメリカにも渡る。
気になる事もあるからな』
あの時、イーサンは家へ戻らない決断をしていた。
「……正しかったのね」
もし彼が帰国していたなら。
抵抗派として命を落としていた可能性は高い。
ライーザは窓の外を見つめ、小さく息を吐いた。
「生きていて」
「それだけで十分よ、イーサン」
*
3年間の大学生活は瞬く間に過ぎ去った。
卒業を目前に控え、進路希望調査票を前にライーザはペンを止める。
魔法省。
闇払い。
どちらも選択肢としては存在した。
だが、どこか違う。
「私は……」
自然と答えは決まっていた。
ロンドン警視庁。
マグル社会の刑事になる。
魔法省とは異なる立場から犯罪を追い、人を守る。
魔法だけでは見えない世界がある。
だからこそ、その両方を知る自分だからできることがあるはずだった。
そして、もう1つ。
ライーザは思わず苦笑する。
「……まあ」
「前世で見た海外の刑事ドラマに憧れていたのも、否定はできないけど」
誰にも聞かれていない独り言だった。
それでも、その小さな憧れもまた、本心の一つだった。
こうしてライーザ・ディスカビルは、自らの進む道を決める。
魔法使いでありながら、マグル社会の刑事として生きるという、誰も歩んだことのない未来を。
*
1978年6月下旬。
ライーザ・ディスカビルは、レディング大学を卒業した。
ホグワーツを卒業してから、遠回りのようでいて確かな道のりだった。
外遊。
戦闘訓練。
Oレベル受験。
大学進学。
魔法界だけに留まっていれば決して得られなかった経験が、今の彼女を形作っている。
そして同じ月。
ライーザはドワイト・ベネットと入籍した。
式は穏やかなものだった。
ベネット家の人々に祝福され、限られた親しい者達に見守られながら、2人は夫婦となった。
魔法使いとマグル。
異なる世界に生まれた2人。
だが、今は同じ未来へ歩き出している。
新婚旅行の行き先はフランスだった。
石造りの街並み。
静かなカフェ。
異国の言葉。
ドワイトと並んで歩きながら、ライーザは穏やかな時間を楽しんでいた。
「9月からだったね」
ドワイトが隣で言う。
「ええ」
ライーザは頷く。
「ロンドン警視庁での勤務が始まるわ」
「最初は制服警察官?」
「そう。PCとして採用されるから、最低2年間は街頭でのパトロール勤務」
刑事になるには、まず現場を知る必要がある。
それは魔法界でもマグル界でも変わらない。
「君らしいね」
「そうかしら」
「うん」
ドワイトは優しく笑う。
「地に足をつけて始めようとするところが」
ライーザは少し照れ臭そうに視線を逸らした。
*
旅行前に届いた手紙を、ふと思い出す。
差出人はリリー・エバンズ。
いや、もうすぐリリー・ポッターになる少女だった。
『ライーザ先輩へ。
私も今年、ホグワーツを卒業します。
それと、ジェームズと結婚することになりました。』
手紙には喜びが綴られていた。
6年生の頃から交際していたジェームズと、卒業と同時に入籍すること。
双方の両親が式に参加してくれること。
そのことが本当に嬉しいと、丁寧な文字で書かれていた。
ただし、姉ペチュニアについてはまだ複雑な感情を抱かれているらしい。
その一文には、リリーの寂しさが滲んでいた。
さらに手紙は続く。
不死鳥の騎士団へ入るつもりであること。
それでもライーザに倣い、夜間学校を利用してCSE受験を考えていること。
ジェームズも、シリウス、リーマス、ピーターと一緒に、まずは普通自動車免許を取るつもりらしいこと。
ライーザはその内容を思い出し、小さく微笑む。
「(幸せにね、リリー)」
あの日、湖畔で出会った赤毛の少女。
怒り、悩み、それでも真っ直ぐ前へ進もうとしていた少女。
彼女もまた、自分の道を歩き始めている。
*
「ライーザ?」
ドワイトの声に、ライーザは我に返る。
「どうしたの?」
「少し、昔のことを思い出していただけ」
「そう」
ドワイトはそれ以上聞かなかった。
その優しさが、今は心地良かった。
ライーザは彼の腕へそっと手を添える。
「行きましょう」
「ええ」
フランスの街並みの中、2人はゆっくりと歩き出す。
魔法界の名家に生まれた少女。
スリザリンのクィディッチキャプテン。
黎明の魔女。
そして今。
彼女は新しい名を持つ。
ライーザ・ベネット。
その名で、9月からマグル社会の警察官として歩み始めるのだった。