1981年10月31日。
ロンドンの空は薄曇りだった。
今日は非番。
朝から慌ただしく働く必要もなく、ライーザは自宅でゆっくりとした時間を過ごしていた。
夫のドワイトは既に仕事へ向かっている。
家の中は静かで、時計の針が進む音だけが微かに聞こえていた。
昼を回った頃だった。
玄関のベルが鳴る。
「はい」
扉を開けたライーザは、思わず目を丸くした。
「シリウス?」
「よう、ライーザ」
そこには、いつもの気さくな笑みを浮かべたシリウスが立っていた。
「突然悪いな」
「構わないわよ。上がって」
ライーザは自然に彼を家へ招き入れる。
「(……今日はドワイトが仕事で良かった)」
心の中でそう思う。
もちろん、シリウスを信用していないわけではない。
しかし、これから話す内容が魔法界のことになる可能性は高い。
事情を知らないドワイトが居合わせないのは、むしろ幸運だった。
応接間へ通すと、ライーザは手早く紅茶を淹れる。
「どうぞ」
「助かる」
シリウスは礼を言うや否や、カップを手に取った。
そして――。
ぐいっ。
一気に飲み干した。
「……熱くなかった?」
「大丈夫、大丈夫」
豪快に笑いながら空になったカップをテーブルへ戻す。
ライーザは半ば呆れながらも、新しい紅茶を注ぎ足した。
「ありがとう」
「それで?」
「今日は何の用?」
その問いを待っていたかのように、シリウスの表情がぱっと明るくなる。
「実はさ!」
「渾身の策を思いついたんだ!」
身を乗り出し、興奮を隠そうともしない。
「これなら奴らにも絶対気付かれない!」
「ジェームズ達も助かる!」
ライーザはカップを持つ手を止める。
シリウスがここまで自信満々になるのは珍しい。
「渾身の策?」
「ああ!」
シリウスは満面の笑みで頷いた。
「秘密の守り人の件なんだけどさ――」
その顔には、1点の曇りもなかった。
親友を守れる。
自分の考えた策ならば、きっと成功する。
そんな確信だけが、そこにはあった。
ライーザは静かに耳を傾ける。
――この数分後、自分がその策を聞いた瞬間、これまで見たことがないほど激昂することになるとは、この時のシリウスはまだ知る由もなかった。
*
リウスは満面の笑みを浮かべたまま、身を乗り出した。
「聞いて驚くなよ」
「俺達、土壇場で作戦を変えたんだ」
ライーザは静かに耳を傾ける。
「秘密の守り人だ」
「最初は俺がやる予定だった」
「でもさ、それじゃあヴォルデモートも真っ先に俺を狙うだろ?」
そこまでは理解できる。
ライーザも頷いた。
「だから逆手に取ることにした」
シリウスは自信満々に笑う。
「誰も彼も、俺が守り人だと思い込んでる」
「だから、本当の守り人は――」
1拍置く。
「ピーターだ」
空気が止まった。
「誰も、小心者のピーターが守り人になるなんて思わない」
「俺は囮になる」
「これなら絶対に成功する」
「リーマスも考えたけどさ」
「最近、俺達ちょっとお互い警戒し合ってるだろ?」
「だから候補から外した」
「完璧な作戦だと思わないか?」
――その瞬間だった。
ライーザの思考が、1気に現実へ引き戻される。
「(……待って)」
「(今日は)」
「(今日は、何日?)」
1981年。
10月。
31日。
「(――今日)」
「(今日じゃない)」
「(今日なのよ)」
背筋を冷たいものが駆け抜けた。
「(最大のターニングポイント……!)」
「(私、何をしていたの)」
「(刑事の仕事や家庭に現を抜かして……)」
「(今日という日を――)」
ガタンッ!!
凄まじい音が部屋中へ響いた。
ライーザが立ち上がる勢いのまま、目の前のテーブルを蹴り飛ばしたのだ。
紅茶のカップが床へ転がる。
テーブルは横倒しになり、室内へ鈍い音が響く。
「!?」
シリウスは飛び上がるほど驚いた。
ライーザと知り合って10年以上。
ホグワーツ時代も含め、彼女がここまで怒った姿など1度も見たことがない。
「(な、何だ!?)」
「(俺……何を言った!?)」
本当に分からなかった。
地雷を踏んだ覚えがない。
冗談でもない。
挑発したつもりもない。
ただ、自信のある作戦を報告しただけだった。
1方で。
ライーザは拳を強く握り締める。
怒りの矛先は、目の前のシリウスだけではない。
「(私は……)」
「(私は何をやっていた)」
「(転生した意味は何だった)」
「(今日だけは、絶対に忘れてはいけない日だったのに)」
刑事としての日常。
家庭。
後見人としてルーカスと過ごす時間。
その穏やかな日々の中で、ほんの少しだけ気が緩んでいた。
その結果が、これだ。
目の前には、原作最大の分岐点を、自ら悪化させようとしている男がいる。
ライーザはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、今までシリウスが見たことのないほど冷たい怒りが宿っていた。
「……何てことしてくれたの」
低い。
自分でも驚くほど低い声だった。
シリウスの背筋に、ぞくりと悪寒が走る。
「ラ、ライーザ……?」
返事はない。
ライーザは1歩、また1歩とシリウスへ歩み寄る。
怒鳴らない。
叫ばない。
だからこそ、余計に恐ろしかった。
その静かな怒りは、これから放たれる言葉が、この場の空気を根底から覆すことを予感させていた。
*
ライーザは1歩踏み出した。
そして、シリウスの胸ぐらを勢いよく掴み上げる。
「ライ、ライーザ……!」
シリウスは完全に呑まれていた。
彼女の瞳には怒りしかなかった。
「ジェームズとリリーに……」
低い声が部屋に響く。
「生まれて1年と少ししか経ってない、アンタが後見人を務めてるハリー君を殺す気?」
シリウスの肩が震える。
「人間に出来ることと出来ないことの区別もつかないの?」
「そんなプレッシャーに、あのネズミ男が耐えられるわけないでしょう!」
「……!」
「アレは、自分の生存が第1なの」
「そのためなら、どんな相手にだって情報を売るくらいのことはする」
シリウスは首を横に振る。
「そんなことはない!」
「ピーターは立派なマローダーズの1員だ!」
「俺達の親友なんだ!」
「ホグワーツでも、スリザリン――特に後々死喰い人になったような連中に負けずについてきた!」
そう言い返すものの、その声には先程までの自信はなかった。
ライーザは容赦なく言葉を重ねる。
「いいこと?」
「ジェームズ達の陰にいられれば、確かにそうだったでしょうね」
「でも今は違う」
「不死鳥の騎士団員だって常に行動を共に出来るわけじゃない」
「連絡も自由には取れない」
「いつ捕まるかも分からない」
「いつ殺されるかも分からない」
「そんな極限状態で、秘密の守り人なんて重圧に耐えられる存在じゃないのよ、アレは!」
ライーザは胸ぐらを掴む手に力を込めた。
「ここに至ってまで友情ごっこを持ち込むのはやめなさい!」
「そんなことはない!」
シリウスも思わず叫び返す。
「死喰い人は絶対に俺を秘密の守り人だと思って狙ってる!」
「だから――」
「どうだか」
ライーザは冷たく遮った。
「闇の陣営の人数は、末端まで含めれば不死鳥の騎士団の20倍近くいるそうじゃない」
「アンタも」
「リーマスも」
「ピーターも」
「全員まとめて攫って拷問する人数くらい、簡単に揃えられるでしょうね」
シリウスは言葉を失う。
ライーザはなおも続けた。
「目的のためなら手段を選ばないキチガイ集団の考えることなんて、分かりきってる」
「私は3年以上、警察で犯罪者を相手にしてきた」
「魔法はなくても、人間が追い詰められた時に何をするかくらい、多少は分かるようになったわ」
沈黙。
重苦しい沈黙だけが流れる。
シリウスは何も言えなかった。
ライーザの言葉が、胸の奥へ突き刺さっていく。
「(……俺は)」
「(俺は何を……なんてことを……ジェームズを……リリーを……ハリーを……)」
ようやく理解した。
自分が守ろうとした親友一家を、自ら最も危険な状況へ追いやってしまったかもしれないことを。
ライーザは胸ぐらから手を離した。
「……まだ時間はある」
その一言に、シリウスは顔を上げる。
「急いでゴドリックの谷へ向かいなさい」
「ジェームズ達を保護して、隠れ場所を移すの」
「今なら、まだ間に合うかもしれない」
シリウスは弾かれたように立ち上がった。
「ああ……!」
「ありがとう、ライーザ!」
必死の形相で玄関へ駆け出す。
扉が勢いよく閉まる音だけが家中へ響いた。
ライーザはその場に立ち尽くしたまま、大きく息を吐く。
「(まだ……)」
「(まだ間に合って頂戴)」
震える手で机を起こし、散乱した便箋を集める。
インク壺を開き、羽根ペンを握った。
「(まずは、不死鳥の騎士団へ)」
「(事情を書いて送らないと)」
ペン先は迷うことなく紙の上を走り始める。
――しかし。
ライーザの必死の行動も。
シリウスの焦燥も。
全ては、運命に追いつくことができなかった。
その夜。
ゴドリックの谷で起きた悲劇は、結局、歴史に刻まれた通りの結末を迎えることとなるのだった。