1981年11月30日。
冷たい海風が吹き付ける孤島。
灰色の空の下、巨大な要塞が静かにそびえ立っていた。
アズカバン。
英国魔法界で最も凶悪な犯罪者を収監する監獄。
ライーザは重々しい鉄門をくぐる。
目的はただ1つ。
面会だった。
数々の手続きを経て、本日ようやく許可が下りたのである。
案内された先の面会室。
鉄格子を隔てた向こう側には、1人の男が座っていた。
シリウス・ブラック。
12人のマグルと1人の魔法使いを爆殺した容疑で逮捕され、そのままアズカバンへ送られた男。
ほんの1か月前までの快活な面影は薄れていた。
髪は乱れ、頬はこけ、焦点の合わない瞳が虚空を見つめている。
ライーザはその姿を見て、胸が締め付けられる思いだった。
「……久しぶりね」
静かに声を掛ける。
シリウスはゆっくりと顔を上げた。
「……ライーザか」
その声には力がなかった。
「来てくれたんだな」
「ええ」
短く答える。
しばらく沈黙が流れた。
ライーザは彼の様子を見つめる。
抵抗する意思はない。
怒りもない。
諦めだけが残っている。
面会前に耳へ入った話を思い出す。
被告側証人の出廷申請。
それは却下されたという。
その知らせを受けた時でさえ、シリウスは、
『……そうか。』
ただ、それだけだったらしい。
怒鳴ることも。
暴れることも。
抗議することもなく。
まるで抜け殻のように受け入れたと聞かされていた。
ライーザはゆっくり椅子へ腰掛ける。
「今日はね」
「あなたを今すぐ外へ出すために来たわけじゃないの」
シリウスは小さく頷いた。
「分かってる」
ライーザも分かっている。
自分はロンドン警視庁の刑事。
魔法省の人間ではない。
管轄外だ。
今ここで無実を訴えたところで、どうにもならない。
だからこそ。
「この1か月で起きたことを、あなたへ伝えに来たの」
シリウスは静かにライーザを見つめる。
その瞳に、ほんのわずかだけ光が戻った。
「……聞かせてくれ」
ライーザは1つ息を吸う。
そして、この1か月に起きた出来事を、1つずつ語り始めた。
*
1981年11月7日。
アズカバンへ赴くより3週間ほど前。
ライーザはホグワーツ城を訪れていた。
今回は偶然ではない。
事前にアポイントメントを取り、校長室へ招かれていた。
「久しぶりじゃの、ミス・ディスカビル」
「ええ、校長先生」
向かい合う2人の間に、温かな紅茶の湯気が立ち上る。
だが、その場の空気は穏やかとは言い難かった。
ライーザは単なる近況報告に来たわけではない。
今後のハリー・ポッターの処遇について、確かめたいことがあった。
やがてライーザが口を開く。
「率直に申し上げます」
「リリーのお姉さん一家へ、ハリー君を預けるおつもりだとか」
ダンブルドアは静かに頷いた。
「その予定じゃ」
ライーザは表情を曇らせる。
「……正気とは思えませんね」
その一言に、校長室は静まり返る。
「リリーからの手紙でも何度か話は聞いていました」
「まともであることに固執するあまり、人間性が終わりきっている部類ですよ、あの一家……ダーズリーは」
ダンブルドアは否定も肯定もせず、しばらく沈黙していた。
やがて静かに口を開く。
「本来なら、別の選択を考えておった」
「別の?それはどんな?」
「リリーの両親じゃ」
ライーザは目を細める。
「ハリー君にとって、母方の祖父母ですか」
「うむ」
ダンブルドアは静かに頷く。
「あの夫妻は魔法の存在を理解し、娘達を等しく愛しておった」
「当初は、あの2人へ預けるつもりだった」
そこで、1度言葉を切る。
「しかし……」
「ハリーが生まれ、孫をその腕へ抱いた後」
「安心したのじゃろう」
「長年患っていた持病が悪化し、相次いでこの世を去った」
ライーザは静かに目を伏せる。
その事情までは知らなかった。
「結果として、残された血縁者はペチュニアだけとなった」
「……だから苦肉の策だった、と?」
「そうじゃ」
ダンブルドアは疲れたように微笑む。
「最善ではない」
「じゃが、あの子を守るためには必要な選択でもあった」
ライーザは数秒考え込む。
「(……腹黒い狸)」
心の中だけでそう評した。
理屈は分かる。
だからといって納得はできない。
立ち上がり、帽子を手に取る。
「こちらとしても、アプローチだけはやってみますよ」
「ダーズリー一家へです」
その瞬間、ダンブルドアの表情がわずかに引き締まった。
「いや」
「魔法使いがハリーへ接触することは、なるべく避けてもらいたい」
ライーザは答える代わりに、懐から1冊の手帳を取り出した。
ロンドン警視庁の警察手帳。
それをダンブルドアへ静かに見せる。
「安心してください」
「魔法使いとしてではありません」
「ロンドン警視庁の刑事として接触します」
「……ほう」
「公権力には弱いでしょう、ああいう人達は」
ダンブルドアは静かに息を吐いた。
「確かに、その可能性はあるの」
ライーザは扉へ向かって歩き出す。
そして去り際、不意に立ち止まった。
「校長先生」
「何かの」
ライーザは振り返らないまま言う。
「感情を無視した最適解は、長期的には破綻しますよ」
ダンブルドアは静かに耳を傾ける。
「まだ、あなたには同格の存在がいるのでしょう」
「なら、1人で抱え込まず」
「話をするなり、相談することをお勧めします」
そう言い残し、ライーザは校長室を後にした。
ダンブルドアは閉じられた扉を、しばらく無言で見つめ続けていた。
この助言が、どれほど彼の心へ届いたのかは分からない。
しかし1つだけ確かなことがある。
1992年の夏以降、アルバス・ダンブルドアは、ヌルメンガードを定期的に訪れるようになった。
*
ホグワーツ城を後にしようと、石造りの廊下を歩いていた時だった。
「……ライーザ先輩?」
聞き覚えのある声が背後から響く。
振り返ると、黒いローブを纏った青年が立っていた。大事そうに杖を磨いている。ニタニタと生理的嫌悪感を催す。
男の名はセブルス・スネイプ。ライーザを見るなり、急に真剣な表情になる。
ライーザから見れば、かつて1年だけ在学期間が重なり、湖畔で説教をした後輩だった。その筈だった
「何故、あなたがホグワーツに?」
純粋な疑問。
彼にとってそれだけだった。
しかし――。
その姿を見た瞬間、ライーザの胸の奥で何かが音を立てて切れた。
「(そうだ)」
「(私は何を忘れていた)」
「(この男も……)」
「(ポッター家崩壊の片棒を担いだ1人だった)」
ダンブルドアとの会話で抑えていた感情が、一気に噴き出す。
ライーザは冷たくスネイプを見据えた。
何より許せないのはスネイプが今手に持ってるものだ。杖である。材質は柳。
「(何であなたが……お前が持ってる。リリーをヴォルデモートを標的にしておいて)」
リリーへの冒涜としか言いようがなかった。墓に収めるべきか、彼女の親族が持つべきだ。少なくとも、愛していたと自称する元幼馴染が持つのは、遺書でそう書かれていなければあり得ないからだ。
リリーを取り返さなくては。これがライーザの心境であった。
行動は早かった。ロンドン警視庁の訓練で身に着けた、過剰な暴力を最小限に抑えつつ容疑者を安全に取り押さえることを目的とした体術。関節技、テイクダウン、相手を地面にコントロールする技術。これを以ってスネイプを制圧した。瞬殺だった。
「な、何をするんです!?」いきなりの事で取り乱し、ライーザに問うスネイプ。抵抗しようにも動けない。その内持っていた杖を手放した。
「つ、杖!リリー!リリー!」
「お前がリリーを語るな」
それまでにない低い声でライーザは言い放つ。スネイプは恐怖で何も出来ない。
「……愛していると言いながら殴ってくるDV男」
スネイプが目を見開く。
「恥を知りなさい」
言いたい事を言って、制圧を解除するライーザ。スネイプは殆ど動けない。しかし手放した杖の回収を試みる。
「……」
ライーザは無言でスネイプの顔面に本気の蹴りを叩き込んで遠くまで吹っ飛ばした。言葉にならない痛みで顔を抑えながらのたうち回るスネイプ。
ライーザは杖を拾い、持ってきていたカバンの中に入れる。そして白の出口まで歩き出す。
「ま、待ってください」
スネイプは思わず呼び止める。
「どういう意味です!?」
「我輩は1度たりとも、リリーに暴力など――そ、それよりも杖を、リリーを返してください!いったい何の権利があって……」
「それでも尚分からず、リリーに執着する時点で救いようがないわね。少なくともあなたにリリーの杖を持つ資格はない。私は本来あるべき場所に戻すだけ。彼女の先輩として、何より同性の友人として……彼女を安らかにする」
ライーザは1度も振り返らず、そのまま城を後にした。
廊下へ1人取り残されたスネイプは、呆然と立ち尽くす。しかし、杖を返してもらおうとライーザを追いかけようとするが、全身の痛みが凄まじくて出来ない。
「……何故だ?何故我輩ばかりこんな理不尽な目に……」
本当に分からなかった。
リリーへ手を上げたことなど、1度もない。
それなのに、何故あそこまで敵意を向けられたのか。
答えは、誰も教えてはくれなかった。
*
1981年101月10四日。
ライーザは101月初旬付で刑事へ昇進していた。
その権限を用い、この日訪れたのはサリー州リトル・ウィンギング、プリベット通り四番地。
インターホンを押す。
しばらくして玄関が開いた。
「……どちら様?」
出てきたのは、金髪をきっちりまとめた女性。
ペチュニア・ダーズリーだった。
ライーザは懐から警察手帳を取り出し、静かに開いて見せる。
「ロンドン警視庁です」
「少し、お時間をいただけますか」
警察という言葉に、ペチュニアの表情がわずかに強張る。
「……主人は仕事で留守ですが」
「承知しています」
「お話ししたい相手は、あなたです」
数分後。
応接間で2人は向かい合っていた。
ライーザは帽子を膝へ置き、静かに頭を下げる。
「まず最初に」
「リリーさんの友人として、お悔やみ申し上げます」
ペチュニアは黙っている。
その表情から感情を読み取ることは難しかった。
ライーザはゆっくりと言葉を続ける。
「ご存じの範囲もあるとは思いますが、改めて事情をご説明します」
ポッター夫妻の死。
幼いハリーだけが生き残ったこと。
そして今後について。
全てを簡潔に説明した。
話し終えると、1呼吸置く。
「こちらとしても苦肉の策です」
「ですが、こうなった以上」
「ハリー君は17歳になるまで、あなた方へ預かっていただくしかありません」
ペチュニアは視線を伏せたまま何も言わない。
「もちろん」
「何もしないとは言いません」
「必要であれば、こちらも可能な範囲で支援します」
ライーザは真っ直ぐペチュニアを見つめる。
その瞳は刑事としてのものだった。
「ただし、1つだけ申し上げます」
ペチュニアは何もできない。ヒステリックに叫ぶことも。
「もし、ハリー君は勿論、ダドリー君まで虐待するようなことがあれば……」
静かな口調のまま告げる。
「ロンドン警視庁として、しかるべき措置を取らせていただきます」
ペチュニアの肩がぴくりと震えた。
「そのルール……つまり法律が気に入らないのであれば」
「あなたやご主人が法律を作る側へ回ればよろしいかと」
一拍置く。
「尤も、そこまで出来るとも思えませんが」
部屋が静まり返る。
ライーザはゆっくり立ち上がった。
そして玄関へ向かう直前、足を止める。
「……最後に、1つだけ」
ペチュニアは顔を上げた。ライーザから差し出されたのは細長い箱だった。中にはリリーの杖が入っている。
「リリーは……本気であなたとの和解を望んでいました。これはリリーの半身ともいえるもの、つまり形見です」
それだけを残し、ライーザは静かにダーズリー家を後にした。
閉じられた玄関扉の向こうで、ペチュニアは長い間、その場から動くことができなかった。
その時のペチュニアの心境は不明だ。しかし彼女は律儀にも、1997年7月下旬までリリーの形見を大事そうに管理していたし、手入れも怠らなかったのは本当だ。
そして8人のポッター作戦の直前、リリーの杖をハリーに渡して別れた。最後、「健闘を祈るわ」と告げて。
リリーの杖はその後、分霊箱探しにいくハリーが旅に行く前に両思いな関係にあるジニー・ウィーズリーに預かって貰った。
ウィーズリー家の面々も事情は把握している為、彼らが住む隠れ穴にて保管される。
そしてすべてが終わり、ハリーとジニーの結婚式にてリリーの杖が2人に渡された。渡したのはモリーである
杖はハリーとジニーの一家が住む住居にて大事に保管されていくことになる。
*
アズカバンの面会室。
ライーザは静かに語り終えた。
シリウスは終始黙ったまま聞いていた。
ダンブルドアと会ったこと。
ハリーの今後について話し合ったこと。
そして、ダーズリー家を訪れ、自分なりにできる限りの手を打ったこと。
全てを聞き終えたシリウスは、小さく目を閉じる。
「……そうか」
それだけだった。同時にある疑問が思い浮かんだ。
「(俺が来た時、ジェームズの遺体が八つ裂きにされていて、その近くで杖が壊れていたのは……さっきのライーザの話にあったリリーの杖を聞く限りだと……まさかあの泣きミソ!八つ当たりしたのか!よりによってプロングズに!!何様のつもりだ!)」
シリウスの中にある疑念が生じた。家を出た身だが、そのしきたりはある程度把握している。ブラック家の価値観でも常軌を逸していた
「(ピーターを追っていた途中でリーマスに会ったんだけか。有無を言わさず壊れたジェームズの杖と、俺が手元に持っていた大金を渡して。俺の事は良いからジェームズを頼むって言って……)」
警戒し合ってはいたが、リーマスに必死さだけは伝わったから受け取ってもらえたのでその場では安心した。
「(それであのネズミを追い詰めたと思ったら先手を打たれた。巻き込まれた人々は死んだ。もっと俺が上手くやっていれば……無関係な彼らを死なせずに済んだのに!しくじった!)」
こうして醜態をさらした事を恥じるシリウス。
「(ジェームズの杖は直るんだろうか?それだけが気がかりだ。頼むリーマス、オリバンダーの店で依頼してくれ!)」
「シリウス?大丈夫なの?そんなに険しい顔をして……」
ライーザは少しだけ間を置き、聞いてきた。
「悪い。続けてくれ」
静かに続けるライーザ。
「でもね。1つだけ、希望はあるわ」
シリウスが顔を上げる。
「希望?」
「ええ」
ライーザは真っ直ぐ彼を見る。
「ピーターは、生きているかもしれない」
その瞬間、シリウスが勢いよく身を乗り出した。
「何だって!?本当なのか!?」
「落ち着いて」
ライーザは冷静な口調を崩さない。
「確証じゃない。刑事としての見解よ」
シリウスは息を呑む。ライーザは淡々と説明を始めた。
「現場の捜査資料は読ませてもらった」
少し間を置くライーザ。
「その中で、1つだけ気になったことがあるの」
「残されていた小指」
「……」
「断面が綺麗すぎるのよね」
シリウスの瞳が揺れる。
「爆発に巻き込まれた遺体なら、もっと損壊が激しくなる」
「警察で爆発事件の資料も読んできた」
「だから違和感が残る」
「もしもの話よ?自分から切断して、その場へ残したのだとしたら?」
ライーザは静かに結論を口にした。
「ピーターは生きている可能性がある」
長い沈黙が流れる。
やがて、シリウスの虚ろだった瞳へ、わずかに光が戻った。
「……生きてる。ピーターが」
「そう」
ライーザは頷く。
「だから」
「あなたは今、ここから出ることはできない」
シリウスは黙って聞いている。
「ピーターの身柄を確保しない限り」
「あなたの無実は証明できない。だから……」
一言ずつ、噛み締めるように告げる。
「今は、大人しくしていて頂戴」
シリウスは拳を握る。
ライーザはさらに続けた。
「それとね。生きることを諦めないで」
その言葉に、シリウスは目を見開く。
「ハリー君の後見人は、誰?」
「……」
「ダーズリーに預けるように先導したダンブルドア?」
シリウスは首を横へ振る。
「違う」
「ゴドリックの谷から連れ出したハグリッド?」
「違う」
「そう」
ライーザは静かに頷いた。
「あなたでしょう?ジェームズとリリーが亡くなった今」
「親の立場として、あの子を守れるのは、あなただけ」
シリウスはゆっくりと目を閉じた。しばらく何も言わない。やがて、小さく息を吐いた。
「……分かった」
その声には、1か月前にはなかった力が宿っていた。
「今は……今は大人しくしている。俺は」
「ピーターが見つかるまで、生きる。耐える……耐え忍ぶ」
ライーザは、その返事を聞いて初めて小さく笑った。
「それでいい」
ゆっくり立ち上がる。
「私はこれからも動く」
「できる限り」
「あなたのことも、ハリー君のことも」
面会時間終了を告げる足音が廊下から近づいてくる。
ライーザは帽子を手に取った。
「また来るわね」
「定期的に面会へ」
シリウスは鉄格子の向こうから小さく頷く。
「ああ。待ってる」
ライーザは最後に1度だけ微笑み、静かに面会室を後にした。
重い扉が閉まる音が、静かなアズカバンへ響く。
その日から。
シリウス・ブラックは、ただ絶望の中で朽ちていくことをやめた。
いつか真実を明らかにし、ジェームズとリリーから託された少年のもとへ帰る。
その日を信じて、生き続けることを選んだのだった。