破滅フラグより脂肪が多すぎる! 作:肥満令嬢
呼吸が、苦しい。
まず、その感覚があった。
目を開ける前から、胸の上に誰かが乗っているような圧迫感。違う。これは自分の肉だ。鎖骨のあたりまでせり上がった脂肪が、寝ている間気道をふさぎ続けている。
セレスティアは薄闇の中で、自分の呼吸音を聞いていた。
かひゅう、という細い笛のような音。吸うたびに喉の奥が震え、吐くたびに胸の肉が重力に従って沈む。肺が、自分の質量で押しつぶされている。
目を開けた。
天蓋の布地に染み込んだ香油が、寝汗の饐えた匂いと混ざっている。分厚い羽毛布団の下で、全身の皮膚が擦れ合い、湿り気を帯びていた。腿の内側、二の腕の付け根、腹の下。脂肪の襞の奥に、昨夜の熱がまだこもっている。
起き上がるまでが、一日で最も長い戦いだった。
まず、右肘をマットレスに突き立てる。ギシリ、とベッドフレームが軋んだ。左腕を伸ばして柱を掴む。冷たい木の感触。手のひらに全体重を預けると、手首の関節が鈍く痛んだ。
上体を起こす。
腹の肉が折り重なり、鼠蹊部に走る鈍痛。心臓が早鐘を打ち始め、こめかみの血管が脈打つ。
ベッドの上で、セレスティアはしばらく動かなかった。
うつむいて、自分の膝を見る。膝頭は肉に埋もれて見えず、ふくらはぎの輪郭はむくみで不明瞭だった。足首のくびれは、遠い昔に消えている。
五歳の頃の記憶が、ふと蘇る。
母の葬儀の日。真っ黒なドレスを着せられた自分を、誰かが「可哀想に」と言った。別の誰かが「この子が生まれなければ」と囁いた。その声は途中で遮られたが、五歳の耳にはすべて届いていた。
お前が生まれなければ、母は死ななかった。
その声が、彼女の根っこに今も刺さっている。
「お嬢様、お目覚めの時間にございます」
三度目のノックで、ようやく返事をした。声は掠れ、自分でも聞き取れないほど低い。
「……お入りなさい」
扉が開く気配。絨毯を踏む三つの足音。遠慮のない、しかし無駄に大きくもない歩調。三人のメイドが入室し、ベッドの周りに散開する。
セレスティアは顔を上げなかった。
どうせ、同じ顔だ。薄く伏せられた瞼。口元だけ取り繕った愛想の形。鼻筋に走る微かな皺。全員が全員、同じ表情で彼女を見る。侮蔑と嫌悪と、ほんの少しの憐れみ。
「本日のお召し物でございます。ラベンダー色のシルクに、銀糸の刺繍を」
筆頭メイドのロザリアが、衣装を広げて見せた。
セレスティアは一瞥しただけで、口元を歪めた。ゆっくりと息を吸い、太い声を絞り出す。
「またその色ですの。わたくしに似合わないことくらい、貴女だって存じているでしょう」
「お嬢様に映えるお色味かと存じます」
「嘘をおつきなさいな。ラベンダーは痩せた方がお召しになってこそ映える色ですわ。わたくしが着れば、お肉の塊にお花を飾ったようになるのが関の山ですの」
ロザリアは表情を変えなかった。ただ、衣装の刺繍を撫でていた指先が、ほんの一瞬止まった。
空気が硬質化していく。
セレスティアは口角を吊り上げた。これが鎧だ。傷つく前に傷つけろ。哀れまれる前に、憎まれろ。幼い頃からずっと、そうやって自分を守ってきた。
「さっさとお着せなさいな。無能ですわね、貴女たちは」
おほほほほ、っと甲高い声が、自分の喉を引き裂いていく。
三人のメイドが無言で近づいた。六本の手が彼女の寝間着を脱がせにかかる。濡れた絹が肌から剥がれる時、冷たい空気が脂肪の襞の奥まで入り込んだ。鳥肌が立つ。
コルセットを取り出したのは、一番若いメイドだった。
名前を、思い出せない。
「お嬢様、まずはお立ちくださいませ」
立ち上がる。膝が小さく震え、ベッドの柱に手をついた。両腕を広げ、メイドたちが背後に回る。コルセットが巻きつけられ、最初の紐が引かれた瞬間──
胃が、喉まで押し上げられた。
「……っ」
歯を食いしばる。肋骨が軋む音が体内に響き、横隔膜が圧迫されていく。内臓が強制的に上方へ移動し、脂肪が胸元で不自然な膨らみを形成した。
二本目。三本目。
紐が締まるたび、呼吸が浅くなる。視界の端が白く明滅し、耳の奥で血液の流れる音がした。
「……もっとですわ。まだ締めなさい」
「お嬢様、これ以上はお体に」
「黙りなさい。締めろと言ったら締める。貴女に指図される筋合いはなくってよ」
ロザリアの手が、容赦なく紐を引いた。
背骨が音を立てた。腰の肉が骨盤の上で圧縮され、太腿の脂肪が重力に従って下へ逃げる。布と鯨骨で無理やり成形されていくこの作業は、もはや矯正ではなく拷問だった。
三十分後、ようやくコルセットが締め終わった。
呼吸は通常の半分以下の深さだ。セレスティアは青ざめた顔で鏡を見た。そこに映るのは、厚化粧の下で虚勢を張る女。目は濁り、口元は歪み、顎の線は失われている。
彼女は、自分が醜いことを知っていた。
そして、その醜さこそが自分の城壁であることも。
太れば太るほど、父は彼女を見なくなった。社交界からも遠ざけられた。誰も期待しなくなり、誰も近づかなくなった。それは孤独だったが、同時に安全でもあった。
愛されたいと思わなければ、愛されないことに傷つかずに済む。
「……食堂へ参りましょう」
歩き出す。絨毯の上を、ゆっくりと。
一歩ごとに、腰骨がコルセットの縁に擦れた。擦れるたび、皮膚が薄く削れていく感覚。今夜には痣に変わる。
廊下の窓から、庭園の向こうの門衛詰め所が見える。三週間前まで、あそこには父が信頼する古参の老兵が立っていた。今は王家派閥の若手が立っている。引き継ぎの挨拶はなかった。ある日突然、顔が変わっていた。
視界の隅に、違和感が引っかかる。
だが、まだ形にならない。
食堂に着くまでに、三度立ち止まって息を整えた。
ドアを開けると、バターと蜂蜜の匂いが津波のように押し寄せた。胃液が条件反射で分泌される。空腹ではない。ただ、この匂いが脳を麻痺させ、感情を覆い隠すことを、彼女の体が知っているのだ。
オーク材の椅子が、ギシリと軋んだ。
テーブルの上に並ぶ朝食は、いつもと変わらない。
中央にそびえる三段重ねのパンケーキ。蜂蜜が滝のように流れ落ち、溶けたバターが黄金色の池を作っている。脂の乗った猪肉のロースト。切り口から透明な肉汁が滲み、香草の匂いが鼻腔をくすぐる。濃厚なポタージュ。生クリームを浮かべた紅茶。砂糖漬けの果物の盛り合わせ。
暴力的なまでの食事。
セレスティアはフォークを手に取った。銀の感触が手のひらに冷たい。
まずはパンケーキ。一番上の一枚を皿に移し、蜂蜜をたっぷりと絡める。口に運ぶ。噛む。唾液と混ざった甘さが舌の上で爆発し、脳の奥がぼんやりと霞んでいく。二口。三口。咀嚼のリズムが思考を停止させ、心の空洞を埋めていく。
彼女は、空腹だから食べているのではない。
美味しいからでもない。
ただ、胃袋に重みが加わる瞬間だけが、自分が生きている実感を与える。食べている間は考えなくていい。感じなくていい。母のことも、父の視線も、使用人たちの囁きも、すべてが遠のく。
そうやって彼女は、十年かけて百二十キロまで膨らんだ。
四口目を飲み込もうとした時だった。
ふと脳裏に蘇ったのは、先週の王宮での光景。三ヶ月ぶりの、婚約者レオナルドとの定例会見。
彼は、彼女を見て笑わなかった。
眉をひそめもしなかった。嫌悪の表情すら浮かべなかった。ただ、目だけが──
路傍の石を見るような目だった。
存在を認識している。しかし、そこに価値は見出していない。感情の対象として成立すらしていない。完全なる無関心。
人間を見る目ではなかった。
セレスティアの手が止まった。
フォークに刺さった五口目のパンケーキが、重力に従って皿の上に落下し、蜂蜜の池が小さく波立った。
無関心。
それはつまり、彼の中で彼女がすでに「処理済みの案件」になっていることを意味しないか。生きた人間に向ける視線ではない。結末の決まっている対象への、形式的な確認作業に過ぎない。
フォークを置いた。
銀の柄がテーブルクロスに微かな音を立てる。セレスティアの脳内で、別の回路が動き始める。幼い頃、父が家庭教師を通じて彼女に叩き込んだもの──帝王学。論理学。情報を点で捉えるな。線で結べ。面で見ろ。それが、長い眠りから覚めていく。
王太子の無関心。
これだけならば、単なる愛情の冷却と解釈できる。だが、違う。
先月、父の書斎で偶然目にした帳簿のことを思い出す。公爵領への鉄と小麦の流通量が、前年比で三割減少していた。表向きは「輸送路の整備不良」と説明されていたが、整備に必要な予算はすでに計上されており、執行された形跡がない。つまり、意図的に物資を絞っている。
戦備拡張。物資の囲い込み。兵糧攻め。
三週間前、門衛が交代した。父の信頼する古参兵が突然辞職し、後任は王宮騎士団からの派遣。表向きは「公爵家の警備強化のための厚意」。厚意。違う。監視だ。そしていざという時の、内部制圧要員。
セレスティアは息を吸おうとしたが、コルセットがそれを許さず、浅い呼吸が喉を鳴らした。
酸欠で視界が白く滲む。
しかし、その霞みの向こうで、三つの点が線として繋がっていく。
無関心な王太子。物資の囲い込み。内部への監視強化。
線が面を形成し、面が立体となり、立体が絵になる。
その絵の題名は──粛清。
アルヴェイン公爵家は強大すぎる。軍事的にも経済的にも、王家に匹敵する力を持つ。先代までは微妙な均衡が保たれていたが、現国王の代になって、そのバランスは決定的に崩れつつある。
そして粛清には、大義名分が必要だ。
フォークを握る手に、じわりと汗が滲んだ。
「醜く傲慢な公爵令嬢」──それがわたくしですわ。
社交界で最も憎まれている彼女こそが、格好のスケープゴートになる。あの女が腐敗の象徴だ。あの女を断罪することこそが正義だ。民衆の憎悪を一身に集めた彼女を公開処刑することで、王家は「腐敗を一掃した正義の執行者」としての立場を確立できる。
そして公爵家は、その汚名とともに歴史から抹消される。
処刑。
首を落とされる。あるいは火刑か。いずれにせよ、晒し者にされる。大勢の民衆が歓声をあげる中で、この百二十キロの肉体が断頭台に転がる。
セレスティアはその光景を、ありありと思い描いた。
恐怖が、全身を駆け抜けた。
胃の底からせり上がる震え。心臓が早鐘を打ち、手のひらの汗が冷たくなっていく。歯の根が合わず、奥歯がカチカチと音を立てる。
殺される。
わたくしが。あの方たちに。
その震えは、五秒で収まった。
セレスティアの目から、生気が消えたわけではない。むしろ逆だった。濁っていた瞳の奥に、底冷えするような光が灯り始める。
恐怖を感じるより先に、彼女の脳は別の作業を始めていた。
生存確率の計算。
与えられた条件。王家がすでに粛清を決定していると仮定。敵対派閥はマルヴァン家を中心に結束。公爵家内部には既に監視の目。逃走可能な時間は最大でも数ヶ月。
彼女の脳内で、三つのシミュレーションが立ち上がる。
シミュレーションA。夜逃げ。深夜、信頼できる使用人を買収し、裏門から脱出。必要な資金はある。変装用の衣服も調達できる。国境まで逃げ切れば、公爵家の影響も王家の追手も及ばない。
──実行不可能ですわ。この案は棄却。
百二十キロの質量。
公爵家の隠し通路の幅は、最も広い場所でも六十センチ。貴族の緊急避難用に設計されたそれは、平均的な体格の人間が横向きで通過することを想定している。彼女の横幅は、それを大きく上回る。物理的に通過できない。
そもそも、夜の静寂の中でこの質量が移動すれば、足音は家中に響き渡る。廊下の床板は、絨毯の上からでも軋む。石畳の上を歩けば、十メートル先から気配を察知される。逃走の第一歩を踏み出す前に、捕縛は完了する。
シミュレーションB。騎馬による高速移動での逃走。厩舎から最速の馬を奪い、夜明けまでに公爵領へ到達する。馬さえ手に入れば、追跡を振り切れる可能性はある。
──実行不可能ですわ。この案も棄却。
百二十キロの質量。
軍馬ですら、百二十キロの騎手と装備を積んで長距離を走ることは想定されていない。全力疾走すれば、馬の脊椎に過剰な負荷がかかり、最悪の場合、走行中に骨折する。落馬して、自分の質量で首の骨を折る。動物虐待以前に、物理法則として成立しない。
シミュレーションC。自力で走っての国境越え。魔法による肉体強化を用いず、純粋な筋力と持久力で逃亡する。魔法は使えない。使えば魔力の痕跡が残り、追跡者に居場所を知られる。
──実行不可能ですわ。棄却。
百二十キロの質量。
現在の心肺機能では、全力疾走で三十歩が限界だ。それ以上は深刻な酸素欠乏に陥り、意識を失う。加えて、膝関節への負荷は体重の約三倍。片足に三百六十キロの衝撃がかかれば、軟骨は一瞬で損傷し、半月板は断裂する。骨折するまでもなく、自力での歩行が不可能になる。
三つのシミュレーション。
すべての阻害要因は、敵でも追手でもなく、彼女自身の肉体だった。
彼女は、檻の中にいる。
肉の檻だ。
逃げ場のない、密室だ。
生存確率は、0.2%以下。
四捨五入すれば、ゼロ。
セレスティアは長く息を吐いた。コルセットがそれを許さず、吐ききる前に呼吸が止まる。酸欠で頭がぼんやりしている。だが、そんな状態でも彼女の思考は停止しなかった。
死ぬ。
セレスティア・フォン・アルヴェインは、遠くない未来に死ぬ。おそらくは公開処刑という形で。醜く傲慢な悪役令嬢として、大衆の喝采の中で。
その現実が、ずしりとのしかかる。
彼女は顔を上げた。
目の前に、まだ温かいパンケーキが並んでいる。蜂蜜の輝きが、朝日を受けて黄金に煌めいている。フォークの先で、溶けたバターが白く固まり始めている。
数分前まで、これは彼女の友人だった。
心の空洞を埋めてくれる、唯一の存在。
今は違う。
これは、毒だ。
王家が送り込んだ遅効性の毒。このパンケーキを一口食べるたび、質量は増加する。質量が増えれば、逃走の成功率はさらに低下する。一キロ太るごとに、生存確率は0.02パーセントずつ削られていく。
バターたっぷりのポタージュも。砂糖漬けの果物も。すべてが同じだ。
これは食事ではない。
敵対派閥による、巧妙な暗殺未遂。
彼女を太らせ、動けなくし、処刑台への道を舗装するための兵器。
セレスティアの手が動いた。
ただし、皿を投げつけるようなヒステリックな動きではない。極めて静かに、ゆっくりと、彼女はパンケーキの皿をテーブルの端へ押しやった。皿とテーブルクロスの擦れる音だけが、静かな食堂に響く。
目の色が変わっている。
死んだ魚のように濁っていた瞳が、ギラギラとした捕食者の光を宿している。脂肪に埋もれた顔の中心で、両眼だけが異様な生気を放っていた。
「……まずは」
声が掠れている。
「自重という名の牢獄から、脱出いたしますわ」
壁際に控えていたミアが、微かに眉を動かした。彼女はセレスティアの専属メイドだが、他のメイドたちと違って、主人を蔑むそぶりをほとんど見せない。かといって親しみを込めるわけでもない。いつも冷めた目で、ひたすら観察している。
「お嬢様、いかがなさいましたか」
ミアが一歩前に出る。
「またお口に合いませんでしたか」
セレスティアは、ミアの目をまっすぐに見た。このメイドは賢い。他の使用人たちのように、適当な相槌でやり過ごすことができない。下手な言い訳は通用しない。
だから、真実を言うことにした。
「ミア。この高カロリー食は、わたくしの身体を破壊し、逃走時の機動力を完全に削ぐための、敵対派閥の巧妙な暗殺未遂ですわ。今すぐ下げなさい」
一瞬の沈黙。
ミアは瞬きを二度した。それから、ゆっくりと首をかしげる。陶器のような白い肌に、朝日が影を落とす。
「……お嬢様の脳にまで、脂肪が回って幻覚を見せているようですわね」
冷たい声だった。その口調には、わずかな毒が混じっている。主人の言葉遣いを、わざとなぞったのだ。
「医者をお呼びいたしましょうか」
セレスティアは笑った。腹の底から笑ったわけではない。口の端をほんの少し持ち上げただけだ。だが、それは今朝初めて浮かべた、本物の笑みだった。
「必要ありませんわ。わたくしは正気ですもの」
「その主張自体が、すでに正気とは思えませんけれど」
「いいえ。わたくしは今、生まれて初めて正気に戻ったのです」
ミアの目が、わずかに細められる。
セレスティアは立ち上がった。椅子がギシリと軋み、コルセットが脇腹に食い込む。視界が一瞬暗くなるが、歯を食いしばって耐える。
「この食事を下げなさい。そして厨房に伝えるのです。これからのわたくしの食事は、わたくしが指定する食材と調理法以外、一切受け付けませんと」
「料理長が承知するとは思えませんが」
「承知させますわ」
セレスティアは、パンケーキの皿を見下ろした。
蜂蜜が、ゆっくりと皿の縁まで流れ落ちていく。黄金色の毒。彼女を殺すために用意された甘い罠。
「これは戦争です。そしてわたくしは、勝つ」
ミアはしばらくセレスティアの顔を見つめていた。何かを測るような、値踏みするような視線。やがて、小さく息を吐いた。
「……かしこまりました。料理長には、わたくしからお伝えしておきます」
「助かりますわ」
「ただし」
ミアが一歩近づく。背の高い彼女は、セレスティアをわずかに見下ろす形になる。
セレスティアは、ミアの目を見返した。
冷たい目だった。だが、蔑んではいない。彼女は本気で、主人の正気を測ろうとしている。
「いいでしょう。お話ししますわ」
「では、まずお着替えを。コルセットを緩めませんと、お話ししている途中で窒息なさいます」
セレスティアは小さく息を漏らした。笑みにも似た、しかし笑みではない、短い吐息。
確かに、あと数分で酸欠で倒れる自信がある。
食堂を出る時、最後にもう一度だけパンケーキを振り返った。
湯気はすでに消えている。固まりかけたバターが、白く濁って皿の上に広がっている。蜂蜜の甘ったるい匂いだけが、まだ空気に残っていた。
二度と、あれを口にすることはない。
そう決めた。
胃袋に巣食っていた空腹感が、初めて別のものに変わった瞬間だった。
その正体は、まだわからない。
だが、少なくとも、それは恐怖ではなかった。
廊下を歩きながら、セレスティアは頭の中で計算を続けている。
生存確率0.2パーセント。
絶望的な数字だ。普通の人間ならば、この時点で精神が崩壊してもおかしくない。
だが、セレスティアは違う。
彼女の脳内では、すでに次の計算が始まっていた。
0.2パーセントを、どうやって100パーセントに近づけるか。
質量を減らす。情報を集める。味方を作る。敵を見極める。時間を稼ぐ。
すべての変数を洗い出し、一つずつ最適化していく。
それは、公爵家の後継者として叩き込まれた帝王学そのものだった。政治とは、与えられた条件の中で最大の成果を出す技術だ。条件が悪ければ悪いほど、知略の出番は増える。
足音が廊下に響く。
ゆっくりと、しかし確実に。
百二十キロの質量が、前に進む。
生きるために。
死の運命を、論理で捻じ伏せるために。
背後で、ミアの足音が続いていた。いつもより、わずかに近い距離で。
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