死亡フラグより脂肪が多すぎる! 作:肥満令嬢
「このパンケーキは毒ですわ」
セレスティアがフォークを置くと、銀器が皿に触れる澄んだ音が、静まり返った食堂に響いた。
壁際のメイド三人が同時に顔を上げる。筆頭のロザリアが一歩踏み出しかけて、やめた。十五年の経験が、今は近づくなと告げている。
青い瞳がまっすぐに据わっていた。かつて感情任せに喚き散らしていた令嬢の目ではない。
「お嬢様、今なんと」
「毒だと言ったの。わたくしを殺すためのね」
「ですが、いつも通りのお食事でございます」
「ええ。悪意はないんでしょうね。でも余計にタチが悪い。善意の毒は始末に困る」
フォークを置いた指が、テーブルクロスの上で微かに震えている。彼女はそれを、もう片方の手で押さえつけた。
「下げて」
ロザリアは口を開きかけて、やめた。
「……かしこまりました」
メイドたちがパンケーキを下げ、肉料理を下げ、スープを下げていく。蜂蜜の甘ったるい匂いだけが、しばらく食堂に残っていた。
誰もいなくなった食堂で、セレスティアは息を吐き出した。
指の震えは、まだ止まらない。
今朝、門衛がすり替わっていた。先週まで父の古参兵が立っていた詰め所に、見知らぬ若い男。王宮騎士団の制服。引き継ぎの挨拶もなく、まるで最初からそこにいたような顔で。先月、偶然見た父の帳簿。公爵領への鉄と小麦の流通量が前年より三割減らされている。報告書には「輸送路の整備不良」とあるが、整備予算は執行されていない。
そして先週、王宮で三ヶ月ぶりに会った婚約者レオナルド。彼はセレスティアを見て、何も言わなかった。嫌悪も軽蔑もない。ただ、視線が彼女を通り抜けた。路傍の石を見る目。すでに終わった案件を確認する目だった。
三つの点が、頭の中で線になる。
王家が公爵家を潰そうとしている。大義名分は「醜く傲慢な公爵令嬢」──すなわち、私。
セレスティアは立ち上がりかけて、椅子の軋む音で我に返った。
百二十キロ。それが彼女の質量だ。
五歳の冬、母が死んだ。葬儀の日、誰かが囁いた。「この子が生まれなければ」。その声は彼女の根っこに今も刺さっている。愛されたいと思わなければ傷つかない。死ぬ勇気もなくて、代わりに食べた。十年かけて自分の体を棺桶に変えた。
その棺桶が、いま本物の死を招こうとしている。
食堂のドアが開いた。
入ってきた女は、他のメイドより背が高く、痩せていた。焦げ茶色の髪を肩甲骨のあたりでまっすぐに切り揃え、灰色の瞳には表情らしい表情がない。専属メイドのミア。二十二歳。公爵家に来て七年になる。
「ロザリアが泡を食っておりました。お食事がお口に合わなかったのかと」
「ちがう。毒だから下げさせた」
「毒」
「敵対派閥による暗殺未遂よ。相手は王家」
ミアは目を細めた。値踏みするような目つきだ。
「本気でおっしゃっていますか」
「ええ、本気」
「証拠は」
「門衛がすり替わった。帳簿が改竄されている。王太子がわたくしを処理済みと見なした」
「その三つで暗殺と」
「殺されるのは揺るがないわ。物理的に殺されるか、社会的に殺されてから物理的に殺されるか。順番の問題よ」
ミアは答えなかった。灰色の瞳がじっとセレスティアを見つめている。
「……信じるの」
「まだです」
「正直ね」
「嘘は得意ではありませんので」
「で、手伝ってくれるの」
「そのまえに教えてください」
ミアは一歩踏み出した。背の高い彼女が、椅子に座ったままのセレスティアを見下ろす。その瞳の奥に、一瞬だけ別の感情がよぎったのを、セレスティアは見た。冷たい炎のような、何か。
「どうやって逃げるおつもりですか」
セレスティアは自分の腹を見下ろした。コルセットで締め上げた脂肪が、ドレスの下で幾重にも重なっている。
「痩せるのよ」
ミアがまばたきをした。
「痩せる」
「この質量じゃ逃げられないわ。隠し通路の幅は六十センチ。物理的に通れない。馬に乗れば背骨が折れる。走れば三十歩で膝が砕ける。だから質量を落とす。計算上は八十五キロまで落とせば、全部解決する」
「今は何キロです」
「知らない。だから量るの。体重計を作らせた。あした届く」
ミアはしばらく黙っていた。その顔は無表情だったが、口元にほんのわずかな歪みが浮かぶ。笑みとも、軽蔑ともつかない、微かな歪み。
「お嬢様」
「なに」
「わたくし、これまで貴女がどんなに堕ちていっても、ただ見てきました。今回もそうするつもりでした」
セレスティアは黙って聞いていた。
「けれど、今回だけはどうしても先が知りたい。貴女が本気で生きるのか、それとも新しい死に方を覚えただけなのか」
「どっちだと思う」
「まだわかりません。だから観察します」
声は平板だった。けれど灰色の瞳の奥に、ほんのわずかな熱があるのをセレスティアは見逃さなかった。敵意にも似ていたし、期待にも似ていた。たぶんミア自身も、その正体をわかっていない。
「好きなだけ観察しなさい」
「ありがとうございます。ついでに厨房にはわたくしから話を通しておきます」
「助かる」
「それと」
ミアはスカートのポケットから、果物ナイフを取り出した。刃渡り十五センチほどの小さな刃が、朝日を受けて冷たく光る。
「お嬢様にお預けします」
「……なんで」
「夜中に空腹で厨房へ忍び込んだときのためです。自分を刺すためではありません。誘惑に負けそうになったら、これをじっと見つめるのです。そうすれば、これを用意したわたくしの顔を思い出すでしょう」
「脅しか」
「動機づけです」
セレスティアは果物ナイフを受け取った。ずしりと重い。手のひらの上で冷たいそれが、不思議と心強かった。
「……わかった。預かるわ」
「では、わたくしは厨房へ」
ミアは背を向け、ドアへ歩き出した。足音はほとんどしない。
「ミア」
足が止まった。
「なんでしょう」
「貴女の母は、元気にしているの」
ミアは振り返らなかった。細い背中が、一瞬だけ硬直する。
「死にました。ずいぶん前に」
ドアが静かに閉まった。
セレスティアはひとり、果物ナイフを見つめていた。ミアの母が死んだことは知っていた。その理由が公爵家にあるらしいことも、噂で聞いたことがある。彼女はわたくしを憎んでいる。憎んでいるのに、手伝うと言い、果物ナイフを渡した。
「……厄介な子」
誰に言うでもなく呟いて、果物ナイフをドレスの隠しに忍ばせた。刃の冷たさが、肌にしばらく残っていた。
あくる日、体重計が届いた。
御用商人のマティアスは明らかに憔悴していた。六十歳目前の老人の目に隈ができ、髪はいつもより乱れている。三日間ほとんど寝ずに作り上げたらしい。
「ご注文の品でございます」
彼が運び込んだ金属の台には、大きな文字盤がついている。側面に刻まれた目盛りの単位はキログラム。針はゼロを指していた。
「上出来よ、マティアス」
「ありがとうございます。それと、こちらを」
革鞄から取り出したのは、一冊の白紙の冊子。記録台帳である。
「数字を残すなら必要かと」
「気が利くわね」
「三十年の勘です。……お嬢様」
マティアスは言い淀んでから、意を決したように顔を上げた。
「何をなさろうとしているかは存じません。存じませんが、どうかお体を大事に。あの拷問器具の設計図を見て一晩考えました。人間が自分の体重を量る意味を。そして思ったのです。これは戦いの道具なのだと」
「拷問器具じゃなかったの」
「それも含めて、です」
マティアスは深く一礼し、退室した。
部屋に残ったセレスティアは、体重計の前に立った。金属の円盤。ゼロを指す針。これを踏めば、自分の質量が数字に変わる。
「……乗るわ」
寝間着に着替え、裸足で円盤に足をかける。ギシリ、とバネが軋んだ。体重を預ける。
針が走った。五十、八十、百を超え、百十を過ぎ、百十五、百十八。
ピタリ。
百二十。
セレスティアは数字を見つめた。ただの数字。質量を数値化しただけのもの。だというのに、その三桁は胸に冷たい槍のように突き刺さる。
「百二十キロでございます。豚一頭半、でございますね」
背後でミアの声がした。
「……慰めて」
「事実です」
セレスティアは数字を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。これが現実。これが檻。これが彼女を殺す質量。
「……わたくし、これまで自分の質量を知らずに生きてきたのね」
「はい」
「知らないことが、どれだけ怖いことかも知らずに」
ミアは何も言わなかった。ただ台帳を差し出す。
セレスティアは立ち上がった。膝が笑っている。それでも体重計から降り、台帳を受け取った。震える指で、一ページ目にペンを走らせる。
120kg
目標:85kg
理由:逃亡可能質量
敵:わたくし自身
「よし。これがスタートライン」
顔を上げる。窓の外では、夕日が庭園を赤く染めている。門衛の若い騎士が詰め所の前で伸びをし、何かを書き留めているのが見えた。報告書だろうか。それとも、別の何かか。
「明日の朝、庭を歩くわ。這いずりになっても構わない。百メートルを移動する」
ミアは少しだけ沈黙した。
「観察します」
「それだけ?」
「それと、果物ナイフの出番が早く来ないことを祈っております」
「まだ出番は来ないわ。少なくとも今夜は」
セレスティアは果物ナイフを引き出しにしまい、窓の外に目を戻した。
門衛が詰め所に戻っていく。彼の報告書がどこへ届くのか、彼女はまだ知らない。だが、知る必要はなかった。敵が誰であれ、為すべきことは決まっている。
死の運命を、論理と数字で捻じ伏せる。
窓ガラスに映る自分の顔を見つめながら、彼女は呟いた。
「這いずってでも、進む」
その声には、朝よりずっと力がこもっていた。
敵は王家。味方は、私を憎んでいるはずのメイド一人。なぜ手伝うのか、その答えより先に──戦争は、明日の朝、始まる。