死亡フラグより脂肪が多すぎる!   作:肥満令嬢

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第2話 這いずる質量

 深夜の庭園に、重い足音が響いていた。

 

 セレスティアは月明かりだけを頼りに芝生を歩く。一歩ごとに膝が軋み、太腿の内側が擦れて熱を持つ。体重計の針が百二十を指してから、まだ数時間しか経っていない。ベッドに入っても眠れるはずがなく、気がつけば裏口から外に出ていた。

 

 門衛の詰め所の灯りは消えている。今は丑三つ時。見張りも寝静まる時刻だ。

 

 二十メートル。膝が痛む。三十メートル。呼吸が乱れる。四十メートルを過ぎたあたりで、足の裏がじんわりと熱を持ち始めた。五十メートル。

 

 足がもつれた。

 

 膝から芝生に落ちる。受け身は取れた。両手をつき、体重を支える。腕が震える。立ち上がろうとしたが、膝が笑って言うことを聞かない。

 

「……立てない」

 

 這いずるしかなかった。四つん這いになり、手のひらで芝生を掴む。土と草の冷たい感触。膝を引きずりながら、一歩、また一歩。いや、これは歩行ではない。這いずりだ。手のひらに小石が食い込み、膝の皮が擦り切れていく。それでも進む。前に。

 

 月光が這い跡を青白く浮かび上がらせる。百二十キロの質量が押し潰した芝生が、黒くへこんでどこまでも続いていた。まるで巨大な獣が通った跡だ。違う、これは獣の跡じゃない。わたくしの跡だ。

 

 七十メートル。八十メートル。汗が顔を伝い、芝生に落ちる。呼吸が荒い。心臓が早鐘を打っている。膝の痛みはもう感じない。感覚が麻痺しているだけだ。

 

 百メートル。這いずり終えた時、セレスティアは仰向けにひっくり返った。

 

 汗で髪が顔に張りつき、膝は擦り切れて血が滲んでいる。手のひらには小石が食い込み、指を開くたびに鋭い痛みが走った。だが空は広く、星は静かに瞬いている。虫の声だけが、静かな庭に響いていた。

 

 息が整うまで、彼女はじっと星空を見上げた。

 

「半分以上、這っておられましたね」

 

 ミアがランタンを持って立っていた。いつの間に来たのか。足音はまったく聞こえなかった。寝間着の上にショールを羽織っただけの姿だ。この肌寒い夜更けに、どれほど前からそこにいたのか。

 

「……見てたの」

 

「観察ですので」

 

「そう」

 

 セレスティアは自力で起き上がり、服についた土を払った。膝が笑っている。手のひらから血が滲み、指を曲げるたびに痛む。

 

「這い跡がすごいことになってるわね」

 

「ええ。庭師が朝一番で驚くかと。まるで鼬です」

 

「鼬は這いずらないでしょ」

 

「太った鼬ならあるいは」

 

 セレスティアは笑った。怖くて痛くて、それでも笑いがこみ上げてくる。這いずった後の高揚感なのか、それとも単に疲れているだけなのか、自分でもわからない。

 

「ねえ、ミア」

 

「はい」

 

「貴女、なぜ手伝うの」

 

 ミアの手の中でランタンが微かに揺れた。

 

「まだ観察中です」

 

「そう」

 

「はい」

 

「いつか教えてくれる?」

 

「いつか、必要になったら」

 

 ミアの声はいつも通り平坦だったが、その目はセレスティアの擦り切れた膝をじっと見つめている。それは値踏みするような、あるいは何かを確かめるような目つきだった。

 

「わたくしの膝、そんなに珍しい?」

 

「いいえ。ただ、血が出るまで這いずる令嬢を初めて見たもので」

 

「他に這いずる令嬢がいるとは思えないけど」

 

「存じません。わたくしの観察対象はお嬢様だけでございますので」

 

「光栄だわ」

 

 セレスティアはそれ以上追及しなかった。追及しても無駄だと知っていた。このメイドは自分が納得するまで絶対に口を割らない。

 

「戻るわ。明日の朝、体重計に乗る」

 

「這いずりで減っているといいですね」

 

「減ってなくてもいいの。数字を見るのが大事だもの」

 

「ブレないお方で」

 

「それが取り柄だから」

 

 部屋に戻り、セレスティアは台帳を開いた。

 

 歩行距離:100メートル(這いずり50メートル)

 体重:未計測(明朝計量予定)

 備考:這い跡あり。処置は庭師に委ねる。

 

「半分か」

 

「半分でございますね」

 

「でもゼロじゃない」

 

「はい。ゼロではございません」

 

 セレスティアは窓の外を見た。這い跡が月明かりに照らされて、黒い線のように続いている。門衛の詰め所はまだ暗い。

 

「這い跡、朝になったら消えるかしら」

 

「庭師のトマスがどう判断するかでございます」

 

「鼬のせいにすると思う?」

 

「さあ。ただ、あの老人は三十年この庭を守っております。這い跡の正体を見抜くのに、三十年は長すぎます。気づいているなら、なぜ黙っているのか」

 

「考えすぎかしら」

 

「いえ。使用人というものは、往々にして主人より多くのことを知っているものです。そして知っていることを黙る術にも長けている。庭を守る者なら、なおさらです」

 

「まるで自分のことみたいに言うのね」

 

「観察者の経験則です」

 

 ミアはいつもの無表情で言った。だが、その灰色の瞳が一瞬だけ揺れたのを、セレスティアは見逃さなかった。

 

「わたくしにわかるのは、お嬢様が今夜、百メートルを移動したという事実だけでございます」

 

「……それで十分よ」

 

 セレスティアは果物ナイフを引き出しにしまい、ベッドに横たわった。手のひらがまだ痛む。膝も擦り切れたままだ。でも、百メートルは移動した。事実は数字に残る。それが何よりの武器だった。

 

 

 翌朝、体重計の針は百十九・六を指した。

 

「四百グラム減っております」

 

 ミアが台帳に数字を書き込む。セレスティアは体重計の上で、溜息とも安堵ともつかない息を吐いた。

 

「減った。たった四百グラムだけど」

 

「牛乳瓶二本分でございます」

 

「また食べ物に換算した」

 

「事実です」

 

「豚一頭半から牛乳瓶二本分か。まだまだね」

 

「ですが、確かに減りました」

 

 セレスティアは体重計から降り、窓を開け放った。朝の冷たい空気が流れ込む。

 

 庭園では老トマスが芝生の前に立ち尽くし、這い跡を見つめていた。手にした熊手を地面に突いたまま、微動だにしない。昨夜の這い跡は夜露に濡れて、一層くっきりと黒ずんでいる。

 

 門衛の若い騎士が詰め所から出てきて、トマスに声をかける。

 

「じいさん、朝早くから何を」

 

「鼬ですよ。鼬が通ったので」

 

「へえ。やけにでかい鼬だな」

 

「太っていたんでしょう」

 

 門衛はしゃがみ込み、這い跡の幅に手を当てた。手のひらを目一杯広げても、這い跡の方がまだ広い。それから這い跡の始点から終点まで、ゆっくりと歩いて距離を測る。何かを記録するように、指で空中に数字を書きつけた。

 

 その手際は素人ではない。這い跡の深さ、幅、進行方向を瞬時に分析している。まるで斥候が敵の痕跡を調べる時のような、無駄のない動きだった。

 

「あの門衛、やっぱり只者じゃないわね」

 

 背後でミアが答える。

 

「はい。這い跡を調べる手つきが訓練された者のそれでございます。おそらく元偵察兵かと。王宮騎士団には、そういう者が何人か」

 

「詳しいのね」

 

「観察が趣味でございますので」

 

「趣味だったの」

 

「はい。公爵家に来てから七年。ずっと観察してきました」

 

 その言葉に込められた意味を、セレスティアはあえて追求しなかった。七年間、彼女は何を観察してきたのか。それはおそらく、公爵家の庭だけではない。

 

 門衛が立ち上がり、セレスティアの窓を見た。目が合う。彼女は今度は手を振らず、ゆっくりと頷いてみせた。門衛は一瞬だけ眉をひそめ、それから無表情で詰め所へ戻っていった。

 

 彼は何かを書き留めている。あの様子では、報告書は確実に上がるだろう。

 

「今度は手を振らなかったのですね」

 

「ええ。もう開き直りは済んだから」

 

「では今度は何を」

 

「宣戦布告」

 

 セレスティアは窓を閉め、台帳を手に取った。

 

 119.6kg

 這いずり50メートル含む100メートル歩行完了

 這い跡、鼬として処理される。門衛、調査開始。報告書の可能性あり。

 

「今日も歩くわ。這いずりを五十メートルから四十メートルに減らす」

 

「観察します」

 

「それだけ?」

 

「それと」

 

 ミアは少しだけ間を置いてから、言った。

 

「果物ナイフの出番がまた遠のきました。少し残念です」

 

「……それ、褒めてる?」

 

「観察者としての所感です」

 

「減点は?」

 

「今回ばかりは及第点です。四百グラム減りましたので」

 

「牛乳瓶二本分だけど」

 

「積もれば豚一頭分になります」

 

「遠いわね」

 

「遠いからこそ、這いずるのでは」

 

「そうね。這いずってでも、進むしかない」

 

 窓の外では、老トマスが熊手で這い跡を均し始めていた。すべて消すのではない。這い跡の端から端までを丁寧になぞり、芝生を整えている。まるで這い跡の距離を確認するかのように。

 

 門衛の報告書がどこへ届くのかはわからない。庭師がなぜ這い跡の距離を測るのかもわからない。ミアがなぜ憎しみを抱えながら協力するのかも、まだわからない。

 

 だが、わかることが一つある。

 

 体重は減った。四百グラム。たったそれだけ。でも、確かに減った。

 

 これが彼女の最初の反撃だ。重力に勝てなくても、這いずって引き分ける。豚一頭半から牛乳瓶二本分へ。その積み重ねが、いつか死の運命を押し返す。

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