死亡フラグより脂肪が多すぎる! 作:肥満令嬢
深夜の庭園に、重い足音が響いていた。
セレスティアは月明かりだけを頼りに芝生を歩く。一歩ごとに膝が軋み、太腿の内側が擦れて熱を持つ。体重計の針が百二十を指してから、まだ数時間しか経っていない。ベッドに入っても眠れるはずがなく、気がつけば裏口から外に出ていた。
門衛の詰め所の灯りは消えている。今は丑三つ時。見張りも寝静まる時刻だ。
二十メートル。膝が痛む。三十メートル。呼吸が乱れる。四十メートルを過ぎたあたりで、足の裏がじんわりと熱を持ち始めた。五十メートル。
足がもつれた。
膝から芝生に落ちる。受け身は取れた。両手をつき、体重を支える。腕が震える。立ち上がろうとしたが、膝が笑って言うことを聞かない。
「……立てない」
這いずるしかなかった。四つん這いになり、手のひらで芝生を掴む。土と草の冷たい感触。膝を引きずりながら、一歩、また一歩。いや、これは歩行ではない。這いずりだ。手のひらに小石が食い込み、膝の皮が擦り切れていく。それでも進む。前に。
月光が這い跡を青白く浮かび上がらせる。百二十キロの質量が押し潰した芝生が、黒くへこんでどこまでも続いていた。まるで巨大な獣が通った跡だ。違う、これは獣の跡じゃない。わたくしの跡だ。
七十メートル。八十メートル。汗が顔を伝い、芝生に落ちる。呼吸が荒い。心臓が早鐘を打っている。膝の痛みはもう感じない。感覚が麻痺しているだけだ。
百メートル。這いずり終えた時、セレスティアは仰向けにひっくり返った。
汗で髪が顔に張りつき、膝は擦り切れて血が滲んでいる。手のひらには小石が食い込み、指を開くたびに鋭い痛みが走った。だが空は広く、星は静かに瞬いている。虫の声だけが、静かな庭に響いていた。
息が整うまで、彼女はじっと星空を見上げた。
「半分以上、這っておられましたね」
ミアがランタンを持って立っていた。いつの間に来たのか。足音はまったく聞こえなかった。寝間着の上にショールを羽織っただけの姿だ。この肌寒い夜更けに、どれほど前からそこにいたのか。
「……見てたの」
「観察ですので」
「そう」
セレスティアは自力で起き上がり、服についた土を払った。膝が笑っている。手のひらから血が滲み、指を曲げるたびに痛む。
「這い跡がすごいことになってるわね」
「ええ。庭師が朝一番で驚くかと。まるで鼬です」
「鼬は這いずらないでしょ」
「太った鼬ならあるいは」
セレスティアは笑った。怖くて痛くて、それでも笑いがこみ上げてくる。這いずった後の高揚感なのか、それとも単に疲れているだけなのか、自分でもわからない。
「ねえ、ミア」
「はい」
「貴女、なぜ手伝うの」
ミアの手の中でランタンが微かに揺れた。
「まだ観察中です」
「そう」
「はい」
「いつか教えてくれる?」
「いつか、必要になったら」
ミアの声はいつも通り平坦だったが、その目はセレスティアの擦り切れた膝をじっと見つめている。それは値踏みするような、あるいは何かを確かめるような目つきだった。
「わたくしの膝、そんなに珍しい?」
「いいえ。ただ、血が出るまで這いずる令嬢を初めて見たもので」
「他に這いずる令嬢がいるとは思えないけど」
「存じません。わたくしの観察対象はお嬢様だけでございますので」
「光栄だわ」
セレスティアはそれ以上追及しなかった。追及しても無駄だと知っていた。このメイドは自分が納得するまで絶対に口を割らない。
「戻るわ。明日の朝、体重計に乗る」
「這いずりで減っているといいですね」
「減ってなくてもいいの。数字を見るのが大事だもの」
「ブレないお方で」
「それが取り柄だから」
部屋に戻り、セレスティアは台帳を開いた。
歩行距離:100メートル(這いずり50メートル)
体重:未計測(明朝計量予定)
備考:這い跡あり。処置は庭師に委ねる。
「半分か」
「半分でございますね」
「でもゼロじゃない」
「はい。ゼロではございません」
セレスティアは窓の外を見た。這い跡が月明かりに照らされて、黒い線のように続いている。門衛の詰め所はまだ暗い。
「這い跡、朝になったら消えるかしら」
「庭師のトマスがどう判断するかでございます」
「鼬のせいにすると思う?」
「さあ。ただ、あの老人は三十年この庭を守っております。這い跡の正体を見抜くのに、三十年は長すぎます。気づいているなら、なぜ黙っているのか」
「考えすぎかしら」
「いえ。使用人というものは、往々にして主人より多くのことを知っているものです。そして知っていることを黙る術にも長けている。庭を守る者なら、なおさらです」
「まるで自分のことみたいに言うのね」
「観察者の経験則です」
ミアはいつもの無表情で言った。だが、その灰色の瞳が一瞬だけ揺れたのを、セレスティアは見逃さなかった。
「わたくしにわかるのは、お嬢様が今夜、百メートルを移動したという事実だけでございます」
「……それで十分よ」
セレスティアは果物ナイフを引き出しにしまい、ベッドに横たわった。手のひらがまだ痛む。膝も擦り切れたままだ。でも、百メートルは移動した。事実は数字に残る。それが何よりの武器だった。
翌朝、体重計の針は百十九・六を指した。
「四百グラム減っております」
ミアが台帳に数字を書き込む。セレスティアは体重計の上で、溜息とも安堵ともつかない息を吐いた。
「減った。たった四百グラムだけど」
「牛乳瓶二本分でございます」
「また食べ物に換算した」
「事実です」
「豚一頭半から牛乳瓶二本分か。まだまだね」
「ですが、確かに減りました」
セレスティアは体重計から降り、窓を開け放った。朝の冷たい空気が流れ込む。
庭園では老トマスが芝生の前に立ち尽くし、這い跡を見つめていた。手にした熊手を地面に突いたまま、微動だにしない。昨夜の這い跡は夜露に濡れて、一層くっきりと黒ずんでいる。
門衛の若い騎士が詰め所から出てきて、トマスに声をかける。
「じいさん、朝早くから何を」
「鼬ですよ。鼬が通ったので」
「へえ。やけにでかい鼬だな」
「太っていたんでしょう」
門衛はしゃがみ込み、這い跡の幅に手を当てた。手のひらを目一杯広げても、這い跡の方がまだ広い。それから這い跡の始点から終点まで、ゆっくりと歩いて距離を測る。何かを記録するように、指で空中に数字を書きつけた。
その手際は素人ではない。這い跡の深さ、幅、進行方向を瞬時に分析している。まるで斥候が敵の痕跡を調べる時のような、無駄のない動きだった。
「あの門衛、やっぱり只者じゃないわね」
背後でミアが答える。
「はい。這い跡を調べる手つきが訓練された者のそれでございます。おそらく元偵察兵かと。王宮騎士団には、そういう者が何人か」
「詳しいのね」
「観察が趣味でございますので」
「趣味だったの」
「はい。公爵家に来てから七年。ずっと観察してきました」
その言葉に込められた意味を、セレスティアはあえて追求しなかった。七年間、彼女は何を観察してきたのか。それはおそらく、公爵家の庭だけではない。
門衛が立ち上がり、セレスティアの窓を見た。目が合う。彼女は今度は手を振らず、ゆっくりと頷いてみせた。門衛は一瞬だけ眉をひそめ、それから無表情で詰め所へ戻っていった。
彼は何かを書き留めている。あの様子では、報告書は確実に上がるだろう。
「今度は手を振らなかったのですね」
「ええ。もう開き直りは済んだから」
「では今度は何を」
「宣戦布告」
セレスティアは窓を閉め、台帳を手に取った。
119.6kg
這いずり50メートル含む100メートル歩行完了
這い跡、鼬として処理される。門衛、調査開始。報告書の可能性あり。
「今日も歩くわ。這いずりを五十メートルから四十メートルに減らす」
「観察します」
「それだけ?」
「それと」
ミアは少しだけ間を置いてから、言った。
「果物ナイフの出番がまた遠のきました。少し残念です」
「……それ、褒めてる?」
「観察者としての所感です」
「減点は?」
「今回ばかりは及第点です。四百グラム減りましたので」
「牛乳瓶二本分だけど」
「積もれば豚一頭分になります」
「遠いわね」
「遠いからこそ、這いずるのでは」
「そうね。這いずってでも、進むしかない」
窓の外では、老トマスが熊手で這い跡を均し始めていた。すべて消すのではない。這い跡の端から端までを丁寧になぞり、芝生を整えている。まるで這い跡の距離を確認するかのように。
門衛の報告書がどこへ届くのかはわからない。庭師がなぜ這い跡の距離を測るのかもわからない。ミアがなぜ憎しみを抱えながら協力するのかも、まだわからない。
だが、わかることが一つある。
体重は減った。四百グラム。たったそれだけ。でも、確かに減った。
これが彼女の最初の反撃だ。重力に勝てなくても、這いずって引き分ける。豚一頭半から牛乳瓶二本分へ。その積み重ねが、いつか死の運命を押し返す。