破滅フラグより脂肪が多すぎる!   作:肥満令嬢

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世界初の拷問器具

 セレスティアは、ダイエットというものがどういうものか、まるで知らなかった。

 

 いや、知識としては知っている。食事を減らす。体を動かす。王宮の医療書にもそう書いてあった。要するに、摂取と消費の収支を赤字にすればよい。単純な算数だ。公爵家の帳簿よりよほど簡単な計算である。

 

 問題は、その「簡単な計算」を実行に移す方法だった。

 

「まずは現状の把握ですわ」

 

 自室に戻ったセレスティアは、コルセットを外す間もなく、机に向かった。ペンを手に取り、紙に殴り書きを始める。

 

「現在の質量を知らねば、何をどう減らすかも決められない」

 

「左様で」

 

 ミアが後ろで無表情に立っている。

 

「では、どれほどお太りか、改めてお知りになるのですね」

 

「ええ」

 

「わたくし、存じておりますけれど」

 

「……何ですって?」

 

 ミアは変わらぬ調子で続けた。

 

「先月、お庭の東屋の椅子がお嬢様の下で崩壊なさいました。あの時の破片の飛び散り方と破壊音の大きさから、およそ百二十キロ前後かと」

 

 セレスティアはペンを握りしめたまま、五秒ほど硬直した。

 

「……わたくしが崩壊させたのではなく、椅子の方が寿命を迎えたのです」

 

「あの椅子は先月おろしたばかりの新品でございました」

 

「欠陥品だったのよ」

 

「そうですか」

 

 どちらでもいいですけれど、とミアの目が語っている。

 

 セレスティアは気を取り直すように咳払いをした。

 

「ともかく、正確な数字が必要ですわ。貴女、体重計というものをご存じ?」

 

「存じません」

 

「だろうと思った」

 

 この世界には、人間の体重を量るという文化がない。あるのは天秤と分銅だけ。薬種商が薬草を量り、宝石商が金を量り、肉屋が肉を量る。だが、生きた人間を量る発想そのものが存在しなかった。

 

 貴族の身体は、見た目の優雅さだけで評価されるからだ。

 

 セレスティアは紙に設計図を描き始めた。バネ式の計量器。荷馬車用の重量計のバネを細く改良し、人間一人分の荷重を計測できるようにする。針と目盛り盤面をつけて、数字を読み取れるように。

 

 完成図を描き上げた時、ミアが背後から覗き込んだ。

 

「……これは拷問器具でございますか」

 

「体重計ですわ」

 

「人間を乗せて、針で数字を示す。どう見ても拷問器具です」

 

「失礼ですわね。これは科学の結晶です」

 

「では、どなたに作らせますか」

 

「御用商人のマティアスに。今すぐ呼びなさい」

 

 マティアス・グレイナーは、アルヴェイン公爵家に三十年仕える御用商人で、六十歳を目前にした小柄な老人だった。金属細工から魔法具の調達まで、公爵家のあらゆる物資を手配するのが彼の仕事である。

 

 呼び出されてセレスティアの自室に入ってきた彼は、まず壁際に立つミアを見た。ミアは無表情で首を横に振る。私も何も知りません、という顔だ。

 

「お嬢様、本日はどのような御用で」

 

「マティアス。貴方に作ってほしいものがあるの」

 

 セレスティアは設計図を差し出した。マティアスは老眼鏡をかけ直し、図面を穴のあくほど見つめる。やがて、震える声で言った。

 

「……お嬢様。これは、なんですかな」

 

「体重計です」

 

「し、失礼ながら、体重計とは」

 

「人間の体重を量る器械よ」

 

 マティアスの手が、紙を持ったまま震え始めた。

 

「お、お嬢様。レディのお体重を量るなど、前代未聞の不敬でございます。そんなものをわたくしが作ったとあれば、公爵閣下に何をされるか」

 

「では、ここで断れば、わたくしに何をされるか。どちらが怖いかしら」

 

 にっこりと笑う。

 

 マティアスはちらりとミアを見た。ミアは天井を見ている。

 

「……設計は、可能でございます。バネの強度と盤面の目盛りを調整すれば、原理的には。しかし、こんなもの、何にお使いに」

 

「わたくしが乗るのよ」

 

「お嬢様が……乗る」

 

 マティアスは設計図とセレスティアを交互に見た。百二十キロの依頼主と、人間一人を秤にかける拷問器具の設計図。何か言いかけて、やめた。三十年の経験が、これ以上関わってはいけないと告げている。

 

「……承知いたしました。三日以内に」

 

「二日で」

 

「二日は」

 

「二日」

 

 セレスティアの目が据わっている。

 

 マティアスは観念したように頷いた。

 

「……かしこまりました。ついでに、この御用の内容は他言無用ということで」

 

「話が早くて助かるわ」

 

 マティアスが退出した後、ミアがぽつりと言った。

 

「お嬢様。わたくし、今の一瞬だけ、あの老人に同情いたしました」

 

「奇遇ですわね。わたくしもよ」

 

「……ご自分でしたのですか」

 

 セレスティアは立ち上がり、窓辺に歩いた。庭園の向こうに、ヴォルフガングが騎士たちを訓練させている姿が見える。彼らの動きは無駄がなく、重い鎧を着ているにもかかわらず、地面を蹴る音は驚くほど軽い。

 

 人間は、あそこまで軽やかに動けるのか。

 

 質量を、あれほど制御できるのか。

 

「ミア」

 

「はい」

 

「ダイエットというのは、何から始めればいいのかしら」

 

 ミアは少し考えてから答えた。

 

「さあ。わたくし、痩せようと思ったことがございませんので」

 

「でしょうね」

 

 振り返らずに言う。ミアは痩せている。必要最低限の肉しかついていない。メイドの仕事は重労働であり、加えて彼女は必要以上に食べない。食に対する執着が、根本的にないのだ。

 

 うらやましい、と思った。

 

 そして、その感情に気づいた自分に驚いた。わたくしは今、誰かをうらやましいと思ったのか。

 

「……とりあえず、厨房へ行きますわ」

 

「朝食の毒見でも?」

 

「違うわ。宣戦布告よ」

 

 ◆◆◆

 

 厨房は、公爵家の一階の北東に位置する。屋敷の中で最も熱く、最も騒がしく、最も脂の匂いが染みついた場所だ。

 

 セレスティアが扉を開けると、湯気と煙と肉の焼ける匂いが一斉に押し寄せた。十人以上の下働きが鍋をかき混ぜ、野菜を刻み、オーブンを覗き込んでいる。その中央で、ギュスターヴが仁王立ちしていた。

 

 身長は178センチ。がっしりした体格に、真っ白なコックコート。黒かった髪には白髪が混じり、口髭の先端がわずかに跳ね上がっている。腕は太く、前腕には油の跳ねによる古い火傷の痕が点在する。

 

 彼は今まさに、巨大な猪肉の塊に包丁を入れようとしていた。セレスティアを見ると、目を輝かせる。

 

「おお、お嬢様! 今日の昼食は、わたくしの新作、猪の蜂蜜漬けローストでございます。脂身がとろけるようで、お嬢様のお口に合うこと請け合い」

 

「ギュスターヴ」

 

「はい」

 

「それ、毒ですわ」

 

 厨房の空気が、凍りついた。

 

 下働きたちの手が止まり、鍋の煮える音だけがやけに大きく響く。ギュスターヴの包丁が、猪肉の上で静止した。

 

「……お嬢様。今、なんと」

 

「毒と言ったのです。その料理は、わたくしを殺すための毒ですわ」

 

 ギュスターヴの顔が、みるみる赤くなっていく。怒りの赤だ。口髭の先端が震え、包丁を握る手に力がこもる。

 

「わ、わたくしの料理を、ど、毒と。お嬢様、いかにお嬢様でも、それだけは聞き捨てなりませんぞ。わたくしが三十年、いや、王宮にいた頃から数えれば三十五年、料理に誇りを持って」

 

「誇りでわたくしの血管は守れませんわ」

 

「な、何を」

 

 セレスティアは一歩前に出た。コルセットが脇腹に食い込むが、構わず続ける。

 

「貴方の料理は美味しい。美味しすぎる。だからわたくしは百二十キロになった。そして死ぬ。敵対派閥の陰謀で処刑されるか、あるいは処刑される前に心不全で倒れるか、どちらにしても死ぬ。つまり貴方の料理は、結果的にわたくしを殺している。これは事実ですわ。違うかしら」

 

 ギュスターヴの口が、開閉を繰り返す。

 

「わ、わたくしはただ、お嬢様にお喜びいただきたくて」

 

「ええ、知っています。貴方に悪意がないことも。むしろ、好意的にわたくしを太らせていることも」

 

 セレスティアはギュスターヴの目をまっすぐに見た。

 

「でも、結果は同じよ。善意の毒も、悪意の毒も、致死量を超えれば人は死ぬ。わたくしは今、致死量の手前です。これ以上、一口たりとも毒を盛られては困る」

 

 ギュスターヴは包丁を握ったまま立ち尽くしている。

 

 セレスティアは続けた。

 

「貴方は、自分の料理で人が死ぬところを見たい?」

 

「そ、それは」

 

「見たくないわよね。料理人ならば、料理で人を生かしたいはずだわ。違って?」

 

 ギュスターヴの手から、力が抜けた。

 

 包丁が、まな板の上に落ちる。カラン、という金属音が、静かな厨房に響き渡った。

 

「……わたくしは」

 

 ギュスターヴの声が、さっきまでとは別人のように低い。

 

「わたくしはかつて、王宮で同じことを言われました。料理が健康に配慮していないと。脂肪が多すぎると。そしてわたくしは、職を追われた」

 

 セレスティアは黙って聞いている。

 

「だから、公爵家では思い切りやらせていただいた。お嬢様がお喜びになるから、わたくしはもっと、もっとと。それが、わたくしの復讐だったのかもしれません。健康など知ったことかと。美味ければそれでいいのだと。だが」

 

 彼は顔を上げた。

 

 目が、わずかに濡れている。

 

「わたくしは料理人です。人を殺すために包丁を握ったことなど、一度もない。お嬢様、本当に、このままではお死になると」

 

「ええ、死ぬわ」

 

 間髪を入れずに答える。

 

 ギュスターヴは深く息を吸い、吐いた。それから、まな板の上の包丁を拾い上げ、ゆっくりと鞘に収めた。

 

「……かしこまりました」

 

 深く、頭を下げる。

 

「わたくしは、これよりお嬢様を生かす料理を作ります。味は落としません。むしろ、この制限の中で最高の味を追求します。それこそが、料理人の誇りというものでございましょう」

 

 セレスティアは小さく頷いた。

 

「期待していますわ、ギュスターヴ」

 

「はい。まずは猪肉のロースト、これにて破棄。代わりに鶏の胸肉を蒸し、ハーブと柑橘で香りづけしたものをご用意いたします。油脂は極限まで削り、しかし味は保証します」

 

 言いながら、ギュスターヴの手はすでに動き始めている。猪肉を脇にどけ、鶏肉の塊を取り出す。その包丁さばきには迷いがない。

 

「もう一つ」

 

 セレスティアは厨房を見渡した。

 

「これから、わたくしの食事は一日三食、決まった時間に、決まった量だけ。それ以外の時間に、わたくしが何かを食べようとしたら、誰でもいいから止めなさい。物理的に」

 

 下働きたちが困惑の表情で顔を見合わせる。

 

「と、とめると申されましても」

 

「椅子で殴ってもいいし、腕にしがみついてもいい。厨房の戸に鍵をかけてもいい。手段は問わないわ」

 

「そこまで」

 

「そこまでしないと、わたくしは自分に勝てないからです」

 

 セレスティアは自分の腹に手を当てた。分厚い脂肪の下で、空腹とは別の何かが蠢いているのを感じる。

 

「わたくしは十年かけて、この体を建造した。食べることで自分を守ってきた。それを壊すのは、戦争よ。それも、自分自身が敵の」

 

 ギュスターヴはしばらくセレスティアを見つめていたが、やがて包丁を一振りし、鶏肉の皮を一気に剥いだ。

 

「承知いたしました。厨房一同、お嬢様の敵にならないよう努めます。具体的には、お嬢様が夜中に忍び込んできたら、わたくしが包丁を持って追い返します」

 

「物騒だけど頼もしいわ」

 

「ついでに申しますと、包丁の柄で頭を殴るのも得意でございます」

 

「それは最終手段にしておいて」

 

 セレスティアは口元をほころばせた。

 

 負けた、と思った。

 

 この料理人には敵わない。彼の料理への執着と誇りは、わたくしのそれよりずっと太くて頑丈だ。だからこそ、味方につけたかった。

 

 厨房を出る時、後ろからギュスターヴの声が飛んできた。

 

「お嬢様! 今夜は蒸し鶏のハーブ包み、レモン風味でご用意いたします! カロリーは従来の三分の一、味は倍! お楽しみに!」

 

 カロリーという言葉を、もう使いこなしている。

 

「……優秀な料理人で助かったわ」

 

「そうですか」

 

 ミアが横から冷たく返す。

 

「わたくしは、今の会話を聞いて、お嬢様の敵は敵対派閥ではなくお嬢様ご自身なのではないかと思い始めました」

 

「気づくのが遅いですわ」

 

「申し訳ございません」

 

「よろしい」

 

 廊下を歩きながら、セレスティアは考える。

 

 食事は制圧した。次は運動だ。だが、この質量で膝を壊さずに運動する方法が、まだわからない。魔法は使えない。使えば脂肪が魔力の貯蔵庫と化しているせいで、最悪爆死する。馬にも乗れない。走ることもできない。

 

 だが。

 

「ミア。公爵家の蔵書に、浮力魔法について書かれた本はあるかしら」

 

「浮力、でございますか」

 

「ものを軽くする魔法よ。運河の荷揚げに使う、あれ」

 

 ミアは少し考えてから答えた。

 

「確か、図書室の東翼に、低級実用魔法の目録が」

 

「取ってきなさい」

 

「これからですか」

 

「今からよ。時間がないの」

 

 ミアは何か言いたげだったが、結局「かしこまりました」と言って足早に去った。

 

 セレスティアは一人、廊下の窓辺に立つ。

 

 ガラスに映る自分の姿。まだ何も変わっていない。百二十キロの質量は、今も彼女の膝を軋ませ、呼吸を浅くし、逃げ道を塞いでいる。

 

 だが。

 

 今日、彼女はパンケーキを捨て、料理長を味方につけた。

 

 小さな一歩だが、0.2パーセントは、少しだけ上がったはずだ。

 

「0.21パーセント、くらいかしら」

 

 微かな苦笑とともに呟いて、セレスティアは自室へ歩き出した。

 

 ──-

 

 二日後。マティアスが納品に来た。

 

 小柄な老人は、明らかに憔悴していた。目の下に隈ができ、髪はいつもより乱れている。二日間、寝ずに作ったのだろう。

 

「……お、お嬢様。ご注文の品でございます」

 

 彼が引きずるように運び込んだのは、巨大な金属の台だった。直径八十センチほどの円盤。その下には頑丈なバネと歯車の機構が組み込まれ、側面には大きな文字盤がついている。盤面には数字が刻まれている。単位はキログラム。セレスティアが指定した単位だ。

 

 そして、針。

 

 真っ黒な針が、今はゼロを指している。

 

「……素晴らしい出来ですわ、マティアス」

 

「光栄でございます。それと、これ」

 

 マティアスは革の鞄から、小さな冊子を取り出した。

 

「お嬢様のご依頼にはありませんでしたが、記録台帳をお持ちいたしました。数字を書き留めるためのものです」

 

「気が利くわね」

 

「三十年の勘でございます。この先、お嬢様が何をなさろうとしているか、わたくしは存じません。存じませんが」

 

 マティアスはセレスティアの目をまっすぐに見た。

 

「アルヴェイン公爵家には、長年お世話になっております。どうか、お体をお大事に」

 

 セレスティアは少し驚いて、それから静かに頷いた。

 

「ありがとう、マティアス」

 

 商人が退出した後、部屋にはセレスティアとミアだけが残った。

 

 拷問器具──改め、体重計が、夕暮れの光を受けて鈍く輝いている。ゼロを指す針が、これから起こることを静かに待っている。

 

「……乗りますわ」

 

「どうぞ」

 

 セレスティアは寝間着に着替えていた。余計な重さを排除するためだ。全裸になるわけにはいかないが、せめてコルセットは外している。素足で、ゆっくりと体重計に近づく。

 

 ミアが台帳を開き、ペンを構えた。

 

「では、失礼ながら計測いたします。お嬢様、どうぞお乗りください」

 

「わかってるわ」

 

 セレスティアは深呼吸をした。

 

 片足を乗せる。金属の台が、ギシリと小さく軋んだ。針が震え、5キロの目盛りまで跳ねる。もう片足を乗せる。全体重を預けた瞬間──

 

 盤面の針が、激しく動いた。

 

 ギギギギギ、とバネの軋む音が部屋に響く。針が五十、八十、百を超え、さらに進む。百十。振れ幅が小さくなる。百十五。百十八。そして。

 

 ピタリ、と針が止まった。

 

 百二十。

 

 正確に、百二十キロ。

 

 セレスティアは動かなかった。盤面の数字を見つめている。自分でも、息を詰めているのがわかる。数字。ただの数字だ。質量を数値化しただけのもの。だというのに、その三桁の数字が、彼女の胸に冷たい槍のように突き刺さる。

 

「……百二十キロ、でございます」

 

 ミアの声が、いつもより少しだけ低かった。からかう調子は、ない。

 

「お嬢様」

 

「わかってる。わかってるわ」

 

 わかっている。百二十キロ。これが現実。これが檻。これが、彼女を殺す質量。

 

 セレスティアの膝が、かくんと折れた。

 

 体重計の上に崩れ落ちる。針が百二十を超えて跳ね、すぐに戻る。金属の台の冷たさが膝に伝わる。厚い脂肪を通り越して、骨まで届く冷たさだ。

 

「……終わった。わたくしの膝関節は、とっくに耐久限界を超えている」

 

 うつむいたまま、彼女は呟いた。

 

「百二十キロ。豚一頭分ですわ。いいえ、大きな豚ならもう少し軽いかしら。つまりわたくしは豚より重い」

 

「正確な比較対象かと」

 

 ミアは台帳に数字を書き込みながら、淡々と言う。

 

「市場に出荷される豚の平均は八十キロから百キロでございます。お嬢様は豚一頭半に相当なさいます」

 

「知りたくなかった情報ですわ」

 

「申し訳ございません。では、牛換算にいたしましょうか」

 

「もっと知りたくありませんわ!」

 

 セレスティアは顔を上げた。涙は出ていない。代わりに、目が据わっている。恐怖と絶望の底を潜り抜けた者の目だ。

 

「……よろしくてよ」

 

 彼女はゆっくりと立ち上がった。体重計がまた軋む。針が百二十を指す。それを確認し、彼女は体重計から降りた。針がゼロに戻る。

 

「数値が、わかった。これで進捗を計測できる。一キロ減れば百十九。二キロ減れば百十八。いつか八十五に届けば、馬は走る。通路も通れる。走ることもできる」

 

 彼女はミアの方を向いた。

 

「これは絶望の数字じゃない。これは、わたくしのスタート地点ですわ」

 

 ミアはしばらくセレスティアの顔を見つめていたが、やがて台帳のページを開いたまま差し出した。

 

「では、こちらに初日の記録を。今後の計測は、毎朝同じ時間、同じ服装で行います。食事や運動の内容も、すべてこの台帳に記録いたします。ここから先は、わたくしが管理します。よろしいですね」

 

「なぜ貴女が」

 

「お嬢様は数字に強い方でいらっしゃいますが、自分のこととなると感情的におなりになる。客観的な記録係が必要です」

 

 正論だった。セレスティアは何も言い返せず、台帳を受け取る。

 

 一ページ目。日付。時刻。そして体重の欄に、ミアの几帳面な筆跡で記された数字。

 

 

 

 120kg

 

 その下の余白に、セレスティアはペンを走らせた。

 

 目標:85kg

 

 理由:逃亡可能質量

 

 それから少し考えて、もう一行書き足す。

 

 敵:わたくし自身

 

 

 

 台帳を閉じる。ミアが無言で手を差し出し、受け取った。

 

「それでは、明日の朝、同じ時間に」

 

「ええ」

 

 ミアが部屋を出て行こうとして、ドアの前で立ち止まった。

 

「お嬢様」

 

「何」

 

「百二十という数字は、確かに豚一頭半でございますが」

 

「その話はもう」

 

「豚は、走ります」

 

 セレスティアは顔を上げた。

 

 ミアは振り返らなかった。

 

「豚は意外に足が速いのです。わたくし、子供の頃に追いかけられて泣いたことがございます」

 

「……それ、慰めのつもり?」

 

「豚以下と申し上げたので、多少は」

 

「慰めになってないわ」

 

「そうですか」

 

 そうですか、と言って、ミアは出ていった。

 

 静かに閉まる扉。

 

 一人残されたセレスティアは、しばらく体重計を見つめていた。夕暮れの光を受けて、金属の台が鈍く輝いている。

 

 それから、ふと口元がゆるんだ。

 

 豚は、走る。

 

 なるほど。

 

「……なら、わたくしも走れるようになるかもしれないわね」

 

 窓の外では、日が沈みかけている。

 

 庭園の木々が長い影を落とし、門衛の若い騎士が退屈そうに詰め所の前で伸びをしていた。

 

 彼は知らない。この屋敷の中で、百二十キロの質量が、今まさに自分自身との戦争を始めたことを。

 

 セレスティアは台帳のことを考えていた。

 

 明日の朝、またこの台に乗る。針が指す数字が、少しでも左に動いているように。そのために、今夜からすべてが変わる。

 

 今夜から。

 

「……まずは、ガードを下げて寝ますわね」

 

 普段、彼女はベッドの中で丸まって寝ている。背を丸め、膝を抱え、防御姿勢で眠るのだ。しかし今は、呼吸を確保しなければならない。仰向けで、気道を開いて。

 

 ベッドに入り、仰向けになる。

 

 胸の脂肪が両脇に流れ、鎖骨のあたりの圧迫が少しだけ和らいだ。呼吸が、いつもよりわずかに深くなる。

 

 肺が、空気を求めている。

 

 生きようとしている。

 

 セレスティアは目を閉じた。

 

 明日、体重計に乗る。そして、数字と戦う。それが彼女の最初の一歩だ。




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