死亡フラグより脂肪が多すぎる! 作:肥満令嬢
這い跡が消えた朝、老庭師トマスは熊手を手にしたまま、芝生の前で立ち尽くしていた。
均すべき這い跡がない。昨日まで確かにあった人間一人分の凹みが、今朝はどこにも見当たらない。彼は這い跡があったはずの場所にしゃがみ込み、手のひらで芝生をそっと撫でた。芝は確かに少しだけ潰れている。誰かがここを通った痕跡だ。だが、それはもう這いずった跡ではなかった。足の裏で踏みしめた、歩行の痕跡。体重を支えきれずに膝がついたような、浅い凹みが一つだけ。
「鼬が、ついに痩せたか」
誰に言うでもなく呟いて、トマスはゆっくりと立ち上がった。それからもう一度、這い跡のあった場所を見下ろし、熊手の柄で軽く叩いた。まるで労うかのように。
門衛の若い騎士が詰め所から出てくる。手にはいつもの手帳。這い跡を調べるために庭に出るのが、ここ数日の彼の日課になっていた。
「じいさん、今朝はどうだ」
「ない」
「ない?」
「鼬の這い跡が、消えました」
門衛は眉をひそめ、這い跡があったはずの場所に歩み寄った。しゃがみ込み、地面に手を当てる。芝生の凹みは、這いずった跡というより、歩行の痕跡に近い。
「這いずらなくなったのか」
「さあ。鼬の気持ちは庭師にはわかりかねます」
「鼬が歩くようになったら、それはもう鼬じゃないんじゃないか」
「では、何でございましょう」
門衛は答えず、手帳に何かを書き込んだ。這い跡が這いずりから歩行に変わったこと。這いずりの距離が日を追って短くなり、ついにゼロになったこと。そして──這い跡そのものが、もう消えたこと。
「じいさん、あんた、これが何だか知ってるんじゃないか」
トマスは熊手を手に取り、静かに首を振った。
「わしは庭師です。庭を守るのが仕事でございます。這い跡が何であれ、均すのが役目です」
「均す必要がなくなったら」
「その時は、庭を守るだけです」
トマスは門衛に背を向け、芝生の手入れに戻った。門衛はしばらくその背中を見つめていたが、やがて詰め所へ戻っていく。彼の手には手帳。あの小さな冊子には、ここ数日の観察結果がすべて記録されている。日時、這い跡の形状、長さ、幅、進行方向、そして這いずりから歩行への変化。それはもはや鼬の観察記録ではない。何者かの行動記録だった。
セレスティアは窓辺でそのやりとりをすべて見ていた。
「這いずりがゼロになったことを、門衛がどう報告するか気になるわね」
「『鼬が歩行を開始した』と書くのでは」
ミアが台帳を手に答える。
「歩く鼬なんて、もはや鼬じゃないわ」
「では、何でございましょう」
「さあ。でも、這いずりから歩行に変わったことは、確実に報告される。問題は、その報告を見た上司がどう判断するかよ」
「不気味に思うか、あるいは興味を持つか」
「どっちに転んでも、ただの鼬の観察記録としては処理されないでしょうね。何かが起きていると気づかれる」
「怖いのですか」
「怖いわ。でも」
セレスティアは窓辺から離れ、台帳を開いた。
「這いずりゼロは事実だもの。這わずに歩けた。それだけで、今は十分」
台帳には昨夜の記録が残っている。
歩行距離:120メートル(這いずりゼロ達成)
体重:119.2kg(累計-0.8kg)
数字がすべてを語っていた。這いずりが五十メートルから始まり、四十、三十、そしてゼロに。這いずりが減るごとに歩行距離は伸び、体重も少しずつ落ちている。数字は正直だった。数字だけが、彼女の戦いの証拠だった。
「ミア、数字を信じる?」
「数字は事実でございますので」
「じゃあ人間は?」
ミアは少しだけ黙ってから、答えた。
「人間は事実と嘘を同時に抱えられる生き物でございます。だから観察が必要なのです」
「……まるで自分のことを言ってるみたい」
「わたくしも人間でございますので」
「そうね。貴女も人間だったわ」
ミアは何も言わなかった。ただ台帳のページをめくり、昨夜の記録の横に「這いずりゼロ達成」と書き添えた。その字はいつもより少しだけ大きかった。
這いずりゼロの夜、セレスティアは眠れずにいた。
正確には、眠るのが惜しかった。膝の痛みはまだある。太腿の内側も擦れて赤くなっている。手のひらのかさぶたは剥がれかけ、その下から新しい皮膚が顔を覗かせていた。
彼女はベッドを抜け出し、裸足のまま体重計の前に立った。金属の円盤。ゼロを指す針。これを踏めば、自分の質量が数字に変わる。怖い。数字を知るのは、いつだって怖い。でも、知らなければ戦えない。
裸足で円盤に足をかける。ギシリ、とバネが軋んだ。体重を預ける。
針が走った。百十九・二。
昨日と同じ数字。減っていない。だが増えてもいない。維持している。這いずりゼロを達成した夜、体重は変わらなかった。それでいい。停滞ではなく、維持。次の一歩を踏み出すための足場だ。
「眠れませんか」
振り返ると、ミアが入り口に立っていた。寝間着の上にショールを羽織り、手にはランタン。足音はまったく聞こえなかった。
「ちょっと数字を見たくて」
「減っておりませんでしたか」
「変わってない。でも増えてもいない。今はそれで十分」
「這いずりゼロのご褒美でございますね」
「ご褒美って、体重が減らないことが?」
「維持できたことがです」
セレスティアは体重計から降り、ミアに向き直った。
「貴女、最近ちょっと優しくなった?」
「観察者としての所感を述べただけでございます」
「そう。観察者ね」
「はい。観察者でございます」
ミアの灰色の瞳が、ランタンの灯りに揺れている。その奥に、ほんのわずかな熱があるのをセレスティアは見逃さなかった。それは憎しみや軽蔑とは違う。もっと別の、名付けられないもの。
「ねえ、ミア」
「貴女が言ってた『七年間の観察』って、何を見てたの」
ミアはしばらく黙っていた。ランタンの灯りが微かに揺れる。
「公爵家で起きるすべてのことでございます」
「それには、わたくしも含まれてる?」
「もちろん。むしろ中心でございました。貴女が太っていくのを、ずっと見ておりました」
「止めようとは思わなかった?」
「思いました。ですが、止める理由がありませんでした」
「今は?」
「今は」
ミアはランタンを少しだけ高く掲げた。灯りが二人の顔を照らす。
「理由ができたのかもしれません。まだ自分でもわかりませんが」
「観察者から何かに変わる理由?」
「変わるというより、戻る、でございます。わたくしもかつては、誰かを信じたいと思ったことがある人間でしたので」
その声には、かすかな震えが混じっていた。失ったものを思い出す時の、痛みにも似た響き。セレスティアはそれ以上追及しなかった。今はこれで十分だと、彼女の心のどこかが告げていた。
「そう。じゃあ、わたくしもまだまだね」
「何がでございますか」
「果物ナイフを見ずに済むようになるまで、もう少しかかりそう」
「では、わたくしの観察も続きます」
「光栄だわ」
ミアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
翌朝、セレスティアは台帳に新しい目標を書き込んだ。
短期目標:這いずりゼロを維持しつつ、歩行距離を150メートルに延ばす
長期目標:逃亡可能質量85kg
新たな課題:膝の負担を軽減する運動方法の確立
膝が限界に近づいているのを、彼女は感じていた。這いずりはゼロになったが、歩行距離を伸ばせば伸ばすほど、膝への負担は増す。昨夜の歩行でも、最後の二十メートルは膝が悲鳴をあげていた。このままだと、体重が減る前に膝が壊れる。
「水の中なら膝が楽なのよね」
「プールを作るのでございますか」
「作るしかないわ。金貨四百枚かかるけど」
「帳簿には何と」
「庭園防衛設備増強費」
「嘘では」
「嘘じゃないわ。わたくしが生き延びれば、それが公爵家の防衛に繋がる」
「詭弁でございます」
「生き延びるための詭弁よ」
窓の外では、門衛が何やら手帳を片手に庭園の見取り図らしきものを描いていた。這い跡の消えた今、彼は這い跡の代わりに、庭園全体の地形と、公爵邸の窓の位置を記録し始めたのだ。鼬の観察から、領地の偵察へ。任務の質が変わったことを、見取り図の緻密さが物語っている。
「門衛が庭の見取り図を描いてる」
「偵察の基本でございます。這い跡が消えた以上、次の手がかりを探しているのでしょう。あれはおそらく、窓の位置と庭園の死角を調べているのです」
「本格的になってきたわね」
「鼬の正体が這いずる何かから歩行する何かに変わった以上、調査対象も個人の特定に移行するはずです」
門衛が顔を上げ、セレスティアの窓を見た。目が合う。彼女は今度も手を振らず、ただ静かに頷いた。門衛は微かに眉を動かし、それから見取り図に何かを書き加えた。
「宣戦布告は続いてるの?」
「ええ。でも、戦い方は変える。這いずりから歩行へ。歩行から、次の段階へ」
セレスティアは窓を閉め、台帳を手に取った。数字は積み重なる。這いずりはゼロになった。次はプールを作り、膝を守りながら距離を伸ばす。門衛の見取り図が完成する前に、新しい戦い方を見つけなければ。
質量を減らし、死の運命を押し返す。
「ミア」
「はい」
「次の戦いに備えるわ。プールを作る。文句は言わせない」
「観察します」
「それだけ?」
「それと」
ミアは少しだけ間を置いてから、言った。
「今回は減点なしです。這いずりゼロは立派な成果でございますので」
「……合格点?」
「満点にはあと少し。果物ナイフを一度も見なかった日が、もう少し続けば」
セレスティアは思わず笑った。そういえばここ数日、果物ナイフのことを忘れていた。引き出しを開けずに済んだ日が、確かに積み重なっている。果物ナイフを忘れること自体が、彼女の変化の証だった。
数字は正直だ。這いずりも、体重も、果物ナイフを見なかった日数も。すべてが少しずつ、前に進んでいる。