死亡フラグより脂肪が多すぎる!   作:肥満令嬢

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第4話 雨のち質量

 這い跡が消えてから三日目の朝、体重計の針は百十九・〇を指した。

 

 累計で一キロの減少。セレスティアは数字を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。這いずりゼロを維持したまま、歩行距離を百五十メートルまで伸ばした結果だ。指先で台帳の数字をなぞる。百二十から百十九へ。たった一キロ。されど一キロ。膝への負荷が一歩あたり三キロ減る。百歩で三百キロ。千歩で三トン。塵も積もれば山になる。

 

「一キロ減りました」

 

 ミアが台帳に数字を書き込む。

 

「一キロ。バター一箱分」

 

「また食べ物に換算なさる」

 

「数字は正直だもの。一キロ減れば、膝への負荷が一歩あたり三キロ減る。百歩で三百キロ」

 

「塵も積もれば山でございますね」

 

「そう。塵はバターでできてるけど」

 

「……詩的ですが、なんか違います」

 

 窓の外では、老庭師トマスが這い跡のない芝生を整えている。均すべき凹みがないせいか、その手つきはどこか物足りなさそうだった。門衛の若い騎士は詰め所の前で手帳を開き、何かを書き込んでいる。その手には手帳とは別に、一枚の紙があった。折り畳まれた便箋のようなそれを、門衛は何度も確認しながら、手帳に図面を書き写している。

 

「あの門衛、手紙か何かを受け取ったのかしら」

 

「指示書かと。這い跡が消えたことで、上司から新たな命令が届いたのでしょう」

 

「どんな命令だと思う?」

 

「さあ。ただ、あの様子だと庭園の見取り図を作るだけではなく、もう少し踏み込んだ調査を命じられたのかもしれません」

 

 門衛が顔を上げ、セレスティアの窓を見た。目が合う。彼はすぐに視線を手元に戻し、何かを書き足した。今度は手を振らなかったし、頷きもしなかった。ただ観察の対象として、この窓が記録されただけだ。

 

 

 夜、セレスティアは歩きながら考えていた。

 

 百五十メートルを歩き終え、膝に手をつく。這いずりはゼロでも、膝の痛みは消えていない。むしろ、歩行距離が伸びた分だけ負担が増している。太腿の内側の擦れは慣れたが、膝の鈍い痛みは日ごとに強くなっていた。

 

「限界が近いな」

 

 呟いてから、彼女は空を見上げた。雲が厚く垂れ込め、月明かりはない。雨が降るかもしれない。

 

 部屋に戻ると、ミアが台帳を手に待っていた。

 

「百五十メートル、這いずりゼロでございます」

 

「膝が痛い」

 

「無理もございません。体重が減る前に膝が壊れる、と以前おっしゃっていましたが」

 

「現実になりつつあるわ。このままだと、八十五キロまで痩せる前に歩けなくなる」

 

「では、どうなさいますか」

 

「水の中を歩くの。浮力があれば膝への負担は六分の一になる。計算上はね」

 

「プールを作るのでございますか」

 

「作るしかないわ」

 

 セレスティアは机に向かい、紙に設計図を描き始めた。直径十メートルほどの円形の浴槽。深さは一・二メートル。浮力付与魔法と温度維持魔法を併用し、膝を守りながら運動量を確保する。以前、図書室で読んだ運河の荷揚げ魔法を応用すれば、原理的には可能なはずだ。

 

「金貨四百枚はかかる。帳簿には『庭園防衛設備増強費』として申請する」

 

「嘘では」

 

「嘘じゃないわ。わたくしが生き延びれば、それが公爵家の防衛に繋がる」

 

「詭弁でございます」

 

「生き延びるための詭弁よ。それに、本当に防衛設備になるかもしれない」

 

「プールが防衛設備でございますか」

 

「水を張った巨大な浴槽が庭にある。侵入者は迂回するか、泳いで渡るしかない。立派な防衛設備でしょ」

 

 ミアはしばらく沈黙してから、いつもの無表情で言った。

 

「その理論ですと、湯気で敵を火傷させることも可能でございますね」

 

「……そこまでは想定してなかったわ」

 

「わたくしの方が詭弁が上手なようで」

 

「認めるわ」

 

 窓の外で、雨が降り始めた。ポツリ、ポツリと窓ガラスを叩く音が部屋に響く。雨はすぐに強くなり、庭園を白く煙らせた。

 

「明日の歩行はどうなさいますか」

 

「雨でも歩く。這いずりゼロを維持する」

 

「滑りますよ」

 

「滑っても、這いずらない。這いずりゼロは維持するの」

 

 雨は翌朝になっても止まなかった。

 

 

 朝の計量を終え、セレスティアは雨合羽を手に取った。

 

「本気でございますか」

 

 ミアが信じられないものを見る目で問いかける。

 

「本気よ。雨の日の歩行も訓練のうちだもの」

 

「風邪を召します」

 

「召したらその時はその時」

 

「合理的ではないのでは」

 

「合理的よ。雨の日に歩けなければ、逃げる時も雨の日は動けないってことでしょう。それじゃ困るの」

 

 ミアは何か言いかけて、やめた。反論の余地がないと判断したらしい。

 

 庭園に出ると、雨粒が顔を打ちつけた。芝生は水を吸ってぐちゃぐちゃで、一歩ごとに靴が泥に沈む。這い跡はつかない。代わりに、深い足跡が泥濘に刻まれていく。足を取られそうになるのを堪え、慎重に重心を前に運ぶ。

 

 五十メートル。膝が痛む。百メートル。呼吸が乱れる。雨が髪を伝って首筋を濡らし、外套の中まで冷たさが染み込んでくる。

 

 百二十メートルを過ぎた時、足が滑った。

 

 とっさに膝をつく。泥が跳ねて顔にかかった。受け身は取れた。転んではいない。膝をついただけだ。

 

 這いずりたい衝動が頭をよぎる。このぬかるみでは四つん這いの方が安全だ。重心が低ければ転倒しない。それに、どうせ這い跡は残らない。雨がすべてを洗い流す。誰にも気づかれない。誰にも。

 

「……誰にも気づかれないからこそ、這いずらない」

 

 彼女は膝に力を込め、立ち上がった。誰も見ていない。門衛の詰め所も雨で閉ざされている。ミアは屋敷の中だ。這いずっても誰も知らない。だからこそ、這いずらない。這いずりゼロは自分のためのものだ。誰かに見せるための記録ではない。

 

 一歩。また一歩。

 

 百五十メートル。到達した時、彼女は膝から崩れ落ちた。這いずってはいない。倒れたのだ。雨に打たれながら、荒い息を整える。

 

 部屋に戻ると、ミアがタオルを手に待っていた。

 

「這いませんでしたね」

 

「這いずりたかったけど、這いずらなかった。誰も見てなかったけど」

 

「わたくしが見ておりました」

 

 

「窓から見てたの」

 

「観察ですので。雨に煙る庭で這いずりかけたお嬢様が、一人で立ち上がるのを」

 

「……何か言ってよ」

 

 ミアは濡れた外套を受け取りながら、いつもの無表情で言った。

 

「減点なし、です。むしろ」

 

「むしろ?」

 

「満点に近いです。自分に嘘をつかなかったという点で」

 

「それ、褒めてる?」

 

「事実です」

 

「……やっぱり褒めてるわ」

 

 翌朝、雨は上がっていた。

 

 体重計の針は百十八・八を指した。二百グラムの減少。一キロを超えて、さらに減っている。セレスティアは数字を見つめ、それから窓の外を見た。

 

 門衛が庭に出ている。手には手帳と、もう一枚の紙。彼は雨で流れた庭園の泥濘を調べながら、何かを記録していた。這いずりの痕跡はない。ただ、深い足跡だけが、誰かが雨の中を歩いたことを物語っている。

 

 門衛はその足跡を一つ一つ確認しながら、窓の位置と照合しているようだった。やがて手帳に何かを書き込み、詰め所へ戻っていく。

 

「足跡、調べられてたわね」

 

「はい。這いずりが消えた以上、次の観察対象は歩行の痕跡に移るのは当然かと」

 

「鼬の次は、歩く何か、ね」

 

「その何かが、お嬢様個人に特定される前に」

 

「わかってる。だからプールを作るの。歩行距離を伸ばすには、膝を守らなきゃ」

 

「金貨四百枚でございますね」

 

「会計官が卒倒するかもしれないわ」

 

「庭園防衛設備増強費、でございますね」

 

「ええ。立派な防衛設備よ。湯気で敵を火傷させることもできるし」

 

「わたくしの詭弁をパクらないでいただきたいのですが」

 

「良いアイデアは共有すべきでしょ」

 

「では特許料をいただきます。果物ナイフの次はこれで」

 

「果物ナイフはまだ預かってるだけよ」

 

「存じております。果物ナイフを見なくても過ごせるようになったお嬢様には、次の課題が必要かと」

 

「次の課題って?」

 

「さあ。考えておきます」

 

 ミアの口元がほんの少し緩んだ。

 

 窓の外では老庭師トマスが、雨で濡れた芝生を整え始めている。門衛は詰め所で今日も報告書を書いているだろう。セレスティアは台帳を開き、新しいページに目標を書き込んだ。

 

 目標:プール建設

 費用:金貨四百枚

 申請名目:庭園防衛設備増強費

 

 生き延びるために、彼女は今日も数字と論理を武器に戦う。

 

 それはもはや、這いずりだけの戦いではなかった。

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