死亡フラグより脂肪が多すぎる! 作:肥満令嬢
這い跡が消えてから三日目の朝、体重計の針は百十九・〇を指した。
累計で一キロの減少。セレスティアは数字を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。這いずりゼロを維持したまま、歩行距離を百五十メートルまで伸ばした結果だ。指先で台帳の数字をなぞる。百二十から百十九へ。たった一キロ。されど一キロ。膝への負荷が一歩あたり三キロ減る。百歩で三百キロ。千歩で三トン。塵も積もれば山になる。
「一キロ減りました」
ミアが台帳に数字を書き込む。
「一キロ。バター一箱分」
「また食べ物に換算なさる」
「数字は正直だもの。一キロ減れば、膝への負荷が一歩あたり三キロ減る。百歩で三百キロ」
「塵も積もれば山でございますね」
「そう。塵はバターでできてるけど」
「……詩的ですが、なんか違います」
窓の外では、老庭師トマスが這い跡のない芝生を整えている。均すべき凹みがないせいか、その手つきはどこか物足りなさそうだった。門衛の若い騎士は詰め所の前で手帳を開き、何かを書き込んでいる。その手には手帳とは別に、一枚の紙があった。折り畳まれた便箋のようなそれを、門衛は何度も確認しながら、手帳に図面を書き写している。
「あの門衛、手紙か何かを受け取ったのかしら」
「指示書かと。這い跡が消えたことで、上司から新たな命令が届いたのでしょう」
「どんな命令だと思う?」
「さあ。ただ、あの様子だと庭園の見取り図を作るだけではなく、もう少し踏み込んだ調査を命じられたのかもしれません」
門衛が顔を上げ、セレスティアの窓を見た。目が合う。彼はすぐに視線を手元に戻し、何かを書き足した。今度は手を振らなかったし、頷きもしなかった。ただ観察の対象として、この窓が記録されただけだ。
夜、セレスティアは歩きながら考えていた。
百五十メートルを歩き終え、膝に手をつく。這いずりはゼロでも、膝の痛みは消えていない。むしろ、歩行距離が伸びた分だけ負担が増している。太腿の内側の擦れは慣れたが、膝の鈍い痛みは日ごとに強くなっていた。
「限界が近いな」
呟いてから、彼女は空を見上げた。雲が厚く垂れ込め、月明かりはない。雨が降るかもしれない。
部屋に戻ると、ミアが台帳を手に待っていた。
「百五十メートル、這いずりゼロでございます」
「膝が痛い」
「無理もございません。体重が減る前に膝が壊れる、と以前おっしゃっていましたが」
「現実になりつつあるわ。このままだと、八十五キロまで痩せる前に歩けなくなる」
「では、どうなさいますか」
「水の中を歩くの。浮力があれば膝への負担は六分の一になる。計算上はね」
「プールを作るのでございますか」
「作るしかないわ」
セレスティアは机に向かい、紙に設計図を描き始めた。直径十メートルほどの円形の浴槽。深さは一・二メートル。浮力付与魔法と温度維持魔法を併用し、膝を守りながら運動量を確保する。以前、図書室で読んだ運河の荷揚げ魔法を応用すれば、原理的には可能なはずだ。
「金貨四百枚はかかる。帳簿には『庭園防衛設備増強費』として申請する」
「嘘では」
「嘘じゃないわ。わたくしが生き延びれば、それが公爵家の防衛に繋がる」
「詭弁でございます」
「生き延びるための詭弁よ。それに、本当に防衛設備になるかもしれない」
「プールが防衛設備でございますか」
「水を張った巨大な浴槽が庭にある。侵入者は迂回するか、泳いで渡るしかない。立派な防衛設備でしょ」
ミアはしばらく沈黙してから、いつもの無表情で言った。
「その理論ですと、湯気で敵を火傷させることも可能でございますね」
「……そこまでは想定してなかったわ」
「わたくしの方が詭弁が上手なようで」
「認めるわ」
窓の外で、雨が降り始めた。ポツリ、ポツリと窓ガラスを叩く音が部屋に響く。雨はすぐに強くなり、庭園を白く煙らせた。
「明日の歩行はどうなさいますか」
「雨でも歩く。這いずりゼロを維持する」
「滑りますよ」
「滑っても、這いずらない。這いずりゼロは維持するの」
雨は翌朝になっても止まなかった。
朝の計量を終え、セレスティアは雨合羽を手に取った。
「本気でございますか」
ミアが信じられないものを見る目で問いかける。
「本気よ。雨の日の歩行も訓練のうちだもの」
「風邪を召します」
「召したらその時はその時」
「合理的ではないのでは」
「合理的よ。雨の日に歩けなければ、逃げる時も雨の日は動けないってことでしょう。それじゃ困るの」
ミアは何か言いかけて、やめた。反論の余地がないと判断したらしい。
庭園に出ると、雨粒が顔を打ちつけた。芝生は水を吸ってぐちゃぐちゃで、一歩ごとに靴が泥に沈む。這い跡はつかない。代わりに、深い足跡が泥濘に刻まれていく。足を取られそうになるのを堪え、慎重に重心を前に運ぶ。
五十メートル。膝が痛む。百メートル。呼吸が乱れる。雨が髪を伝って首筋を濡らし、外套の中まで冷たさが染み込んでくる。
百二十メートルを過ぎた時、足が滑った。
とっさに膝をつく。泥が跳ねて顔にかかった。受け身は取れた。転んではいない。膝をついただけだ。
這いずりたい衝動が頭をよぎる。このぬかるみでは四つん這いの方が安全だ。重心が低ければ転倒しない。それに、どうせ這い跡は残らない。雨がすべてを洗い流す。誰にも気づかれない。誰にも。
「……誰にも気づかれないからこそ、這いずらない」
彼女は膝に力を込め、立ち上がった。誰も見ていない。門衛の詰め所も雨で閉ざされている。ミアは屋敷の中だ。這いずっても誰も知らない。だからこそ、這いずらない。這いずりゼロは自分のためのものだ。誰かに見せるための記録ではない。
一歩。また一歩。
百五十メートル。到達した時、彼女は膝から崩れ落ちた。這いずってはいない。倒れたのだ。雨に打たれながら、荒い息を整える。
部屋に戻ると、ミアがタオルを手に待っていた。
「這いませんでしたね」
「這いずりたかったけど、這いずらなかった。誰も見てなかったけど」
「わたくしが見ておりました」
「窓から見てたの」
「観察ですので。雨に煙る庭で這いずりかけたお嬢様が、一人で立ち上がるのを」
「……何か言ってよ」
ミアは濡れた外套を受け取りながら、いつもの無表情で言った。
「減点なし、です。むしろ」
「むしろ?」
「満点に近いです。自分に嘘をつかなかったという点で」
「それ、褒めてる?」
「事実です」
「……やっぱり褒めてるわ」
翌朝、雨は上がっていた。
体重計の針は百十八・八を指した。二百グラムの減少。一キロを超えて、さらに減っている。セレスティアは数字を見つめ、それから窓の外を見た。
門衛が庭に出ている。手には手帳と、もう一枚の紙。彼は雨で流れた庭園の泥濘を調べながら、何かを記録していた。這いずりの痕跡はない。ただ、深い足跡だけが、誰かが雨の中を歩いたことを物語っている。
門衛はその足跡を一つ一つ確認しながら、窓の位置と照合しているようだった。やがて手帳に何かを書き込み、詰め所へ戻っていく。
「足跡、調べられてたわね」
「はい。這いずりが消えた以上、次の観察対象は歩行の痕跡に移るのは当然かと」
「鼬の次は、歩く何か、ね」
「その何かが、お嬢様個人に特定される前に」
「わかってる。だからプールを作るの。歩行距離を伸ばすには、膝を守らなきゃ」
「金貨四百枚でございますね」
「会計官が卒倒するかもしれないわ」
「庭園防衛設備増強費、でございますね」
「ええ。立派な防衛設備よ。湯気で敵を火傷させることもできるし」
「わたくしの詭弁をパクらないでいただきたいのですが」
「良いアイデアは共有すべきでしょ」
「では特許料をいただきます。果物ナイフの次はこれで」
「果物ナイフはまだ預かってるだけよ」
「存じております。果物ナイフを見なくても過ごせるようになったお嬢様には、次の課題が必要かと」
「次の課題って?」
「さあ。考えておきます」
ミアの口元がほんの少し緩んだ。
窓の外では老庭師トマスが、雨で濡れた芝生を整え始めている。門衛は詰め所で今日も報告書を書いているだろう。セレスティアは台帳を開き、新しいページに目標を書き込んだ。
目標:プール建設
費用:金貨四百枚
申請名目:庭園防衛設備増強費
生き延びるために、彼女は今日も数字と論理を武器に戦う。
それはもはや、這いずりだけの戦いではなかった。