死亡フラグより脂肪が多すぎる! 作:肥満令嬢
体重が、減らなくなった。
朝の計量で針は百十八・八を指したまま、四日間動かない。それどころか、昨日は百十八・九に戻っていた。二百グラムの増加。計算上はありえない。食事は守っている。雨の日も這わずに歩き通した。それでも数字は微動だにしない。
初日は気のせいだと思った。二日目は不安になった。三日目、這いずりたくなった。四日目、這いずる理由を探し始めた自分に気づいて、ぞっとした。
「なぜですの」
セレスティアは体重計の上で呟いた。声に力がない。
「お嬢様、とりあえずお降りください。乗り続けても数字は変わりません」
ミアが台帳を手に立っている。その平坦な声が、今朝は妙に気に障った。
「計算が合わない。摂取より消費が多いのに減らないのは物理法則に反してる」
「生物には恒常性がございます。体が飢餓だと判断すれば、命を守るために脂肪を手放さなくなるのです」
「飢餓。わたくしは飢えてるの」
「お嬢様の頭は飢えておられませんが、体は飢えていると勘違いしているのでしょう。十年かけて培われた防衛本能です。急に手放せと言われても、体の方が承知しない」
「じゃあわたくしの中で、頭と体が戦ってるの」
「頭が味方で、体が敵でございますね。普通は逆なのですが」
「わたくしはどこまでいっても普通じゃないのよ」
セレスティアは体重計から降り、窓辺に歩いた。
庭園では老トマスが、這い跡のない芝生を整えている。熊手の動きに精彩がないのはいつものことだ。門衛は詰め所の前で手帳を開き、何やら地面に膝をついて調べ物をしている。足跡の幅を測っているのか。ここ数日、彼の調査は明らかに精度を増していた。這いずりの痕跡から歩行の痕跡へ。歩行の痕跡から、歩幅や体重の推定へ。
「門衛、何を測ってるかわかる?」
「足跡の幅と深さでございましょう。幅から足の大きさ、深さから体重を推定すれば、個人の特定に近づきます」
「あとどれくらいで特定されそう?」
「さあ。ただ、あの手際を見る限り、すでに目星はついているかと。あとは確証を得るだけ」
確証。這いずり五十メートルから始まった記録が、歩行ゼロを経て、ついに個人の特定にまで至ろうとしている。鼬の観察から始まったのに、鼬では済まなくなった。
「ミア。わたくし、何を間違えたのかしら」
「間違えてはおりません。むしろ正しいからこそ停滞期が来たのです」
「数字が動かないことが正しい証拠?」
「はい。停滞期は必ず終わります。ただし」
「終わるまでに耐えられるか、でしょ」
「はい」
窓の外で、門衛が立ち上がり、手帳に何かを書き込んだ。それからセレスティアの窓を見上げる。目が合う。彼は視線を逸らさなかった。今までは逸らしていたのに、今朝は違う。まるで確信を持った者のように、じっと窓を見つめてから、ゆっくりと詰め所へ戻っていった。
「……時間がないわね」
「はい」
「今夜、歩く距離を伸ばす。這いずりゼロのまま、二百メートル」
「膝が保ちますか」
「保たせてみせる」
その夜、セレスティアは厨房の前に立っていた。
歩行を終えて部屋に戻る途中、気がつけば足が厨房に向かっていた。胃が空腹を訴えているわけではない。食べたいのではなく、心の空洞を埋めたかった。数字が動かない焦り、門衛の視線、這いずらずに歩き続ける膝の痛み。それらすべてを、甘いもので上書きしてしまいたかった。
冷蔵庫に手をかけた瞬間、背筋に冷たいものを感じた。
「おやめになった方がよろしいかと」
振り返ると、ミアが立っていた。寝間着の上にショールを羽織り、手には果物ナイフ。刃が月明かりを反射して冷たく光っている。彼女の指は、柄を握りしめて白くなっていた。
「なぜここに」
「お嬢様が抜け出す気配がいたしましたので」
「果物ナイフ、わたくしの引き出しにしまってあるはずじゃ」
「予備です」
「予備があったの」
「防衛設備増強費で購入いたしました」
「詭弁をパクらないで」
軽口を叩きながらも、セレスティアは気づいていた。ミアが果物ナイフを握る手に、いつもの余裕がない。冷たい目はいつも通りだが、その奥にある炎が、今は心配という名前に近い。このメイドは、本気でわたくしを止めに来たのだ。
「お嬢様。数字が動かないのは怖いですか」
「怖いわ。這いずらずに歩いても減らないなら、這いずっていた方が楽だった。這いずっていれば、減らなくても仕方ないと思えた。でも、這わずに歩いて減らないのは、努力が無駄だったみたいで」
「無駄ではございません」
ミアは一歩近づいた。果物ナイフを握ったまま、セレスティアの目をまっすぐに見る。
「這わずに歩いた四日間は、数字にまだ現れていないだけです。お嬢様が積み上げたものは、誰にも消せません。数字にも、まだ」
「まだ?」
「はい。数字は遅れてついてくるものです。体重計の針は、昨日の努力を今日測る。今日の努力は、明日測る。だから今は、数字が追いつくのを待つ時間でございます」
「……詩人みたいなことを言うのね」
「事実を申し上げただけでございます」
セレスティアは冷蔵庫から手を離した。指先が震えている。それを、もう片方の手で押さえつけた。
「……戻るわ」
「賢明でございます」
「果物ナイフ、返して」
「予備はわたくしが保管いたします。お嬢様には本物がおありですので」
「本物は見てないわよ。ここ数日、ずっと」
「存じております。見なかった日数も、立派な数字でございます」
ミアが果物ナイフをしまう。その指からようやく力が抜けたのを、セレスティアは見逃さなかった。
翌朝、体重計の針は百十八・七を指した。
ほんの百グラム。でも動いた。四日間の停滞が、終わった。
「動きました」
ミアが静かに言った。
「ええ。動いたわ」
「よく耐えられました」
「……それ、褒めてる?」
「事実です」
セレスティアは数字を見つめ、それから深く息を吐いた。百二十から百十八・七。一・三キロの減少。たったそれだけ。でも、確かに減った。
「ミア。プールの準備を始めるわ。これ以上、膝を壊す前に」
「金貨四百枚でございますね」
「会計官が卒倒するかもしれない」
「庭園防衛設備増強費で押し通しましょう」
「詭弁が板についてきたわね」
「お嬢様の指導の賜物でございます」
セレスティアは窓の外を見た。門衛が手帳を手に、今日も庭を見渡している。彼の目は、鼬を探す目ではない。誰かを特定する目だ。残された時間は、おそらく長くない。
「門衛の方は」
「今朝も足跡の深さを測っておりました。おそらく体重の推定値を絞り込んでいるかと」
「鼬じゃ済まなくなる日も近いわね」
「はい。ですが、その前に次の手を」
「ええ。プールを作る。庭にいられなくなる前に」
彼女は果物ナイフの引き出しを開けなかった。今日も、開けずに済んだ。見なかった日数が、また一日増える。
「行くわよ、ミア。戦争はまだ続いてる」
「承知しております」