湿気が嫌な季節ですね。
空に重くのしかかるような分厚い雲が鎮座していた。空気は澱んでいて、息苦しさが肺を満たしている。
山の麓で降ろされた私たちは、ぬかるんだ地面を踏みしめながら山へと入って……数十分が経った。現状、周りに呪霊がいる気配もない。報告通りの呪霊がいるならそろそろ出てきてもいい頃合いだと思うけど。
「ん〜、山道って歩きにくいねぇ」
そんな私の前を歩きながら邪魔な枝を折って後続の私へと道を作っているのは
「初任務がこんなところなんて大変だねぇ。やだねぇ、呪術界はいつも人手不足で」
「構いませんよ。これも仕事です」
「割り切り偉すぎない?」
私と悟や硝子、歌姫先輩が絡んでいるところを微笑ましそうに見ているところなんてまさに頼れる先輩という感じだ。
だが、歌姫先輩にはない強さと、頭脳明晰とは言い難いにも関わらず聡明に冴える勘や知的な発言から、その本性が隠されているように思える人物だ。悟も硝子も懐いているけど、どこか私たちとは一線を引いているように感じてならない。
「ん〜、報告された呪霊いないねぇ……どうする? 帰る?」
「なんで先輩から帰ろうとしてるんですか。しゃんとしてください」
「もう夏油くんの方が先輩なのでは……?」
おかしいなぁ、と首を傾げる先輩は不思議なほどに気が抜けていた。私としては初任務で右も左も分からないような人がついてくるとかではなく、むしろ強い人が付いてきてくれたと考えると心強いのだが、悟や硝子がいない状態で話したことがあまりないから、気まずさも覚える。……先輩側はそんなことなさそうだが。何も考えてなさそう。
「さっさと終わらせてとっとと帰ってウチFateしたいから。夏油くん。頼んだよ」
「はぁ……」
「あ、Fateわかんない?」
「すいません。存じ上げないです」
「んとっね〜、エロゲ!」
「エロゲ???」
どこまでが本気かわからない会話をしながら先輩は先を進んでいく。ヘラヘラしながらぬかるんだ道を歩いているのに泥すらその制服には一滴も跳ねていなかった。
常在戦場。
そんな闘気を体中からヒシヒシと感じる。先輩は、背中で私のことを鼓舞していた。気合を入れて歩くことさらに数分。先輩と、私が対象を目に入れたのは同時だった。
「あ、」
「呪霊……!」
木の枝に首を括り付けた人間体。敵意は感じられないが、発見されてなお逃げ惑うこともないその姿はまさしく呪霊だ。顔は下を向いていて判別できないが、青く変色した肌、人ならざるものの気配。
即座に体を半身にし、術式を起動させる。自分の支配下にある呪霊を呼び出して臨戦体勢を取らせてから、相手の動きを観察し、どんな行動でも対応できるようにしておくことも忘れない。常に相手の動向を監視するように、というのは九条先輩に言われたことである。
首を吊り下げられた呪霊は微動だにせずこちらの反応を──。
「あー、夏油くん」
「なんですか、今はふざけている場合じゃ……」
「本物だよ」
「はい?」
「それ、本物の死体だ」
私の横を素通りした先輩が呪霊に……いや、本物の首吊り死体に近づいた。少し触れて確認してから、足元に落ちていた携帯端末と財布を拾い上げる。少し物色してからそれらを元の位置に戻した。そうして手を合わせる。祈るように、拝むように。
「死後二日か三日かな。まだ若いのに……補助監督に連絡入れるね。ちょっと待ってて……」
ポケットから十特ナイフを取り出して、首を吊るした縄を切ると、先輩は携帯を耳に当てて通話を始めた。その姿を見てようやく悟る。この事態の歪さに。
私たちが退治しにきた(私は取り込むことを推奨されたが)のは二級呪霊だ。山の麓の駅に出没しては行方不明者を出しているという一つ目の化け物。
それとは全く別の存在、あまつさえ人間を呪霊として私は捉えたのだ。緊張によるものなのか、初任務による焦りなのか、はたまたここまでの疲労と怒りなのか、いずれにせよ顔が恥ずかしさから熱くなるのを感じる。
「死体見るの初めてでしょ? しかも急に出てきたもんねぇ。今回のはあんまり気にしなくてもいい……」
電話を終えた先輩が私の肩をポンポンと二度叩いた。そうして切り替えるように顔を上げると、床に倒された死体と、目があった。その顔が、ニヤリと歪む。
「……!?」
「お?」
死体の口が大きく開いて、そこから一つ目の呪霊が飛び出した。咄嗟に体を捻って攻撃を回避するが脇腹を掠めてしまう。先輩は背後から攻撃されたのにも関わらずそれを華麗に避けていた。
「死体じゃないんですか……!」
「あー、体の中に入ってたみたいだねぇ。こういう擬態、六眼とかだとすぐ見破れるんだろうけどなぁ。ウチにゃ無理だ」
先輩はそう愚痴をこぼしながらその一つ目呪霊の攻撃を回避し続けた。ステップを細かく刻んで相手の攻撃が当たらないようにする。達人のようなステップで相手に触れさえせずに回避し続けているが、反撃は一切しない。ポケットの中を弄っているが、そこから何かに気づいたのか「うわー」みたいな顔をする。何一人で顔芸をしているんだろうか。
そして、しばらくしてから大きく、そして情けない声で私の名前を呼んだ。
「ごめん! 夏油くんさっさと取り込むか祓うかしちゃってくれる!? ウチじゃ祓えないんだよ! 今日呪具忘れちゃった!」
「はい?」
「本番本番! このために来たんだよ君! 早く祓って! もしくは取り込んで!」
「先輩はそんなに慌てなくても良いんじゃないですか……?」
「ウチ、呪霊には無力なんだよ! 早くしてくれないと死んじゃうから!」
監督役として来たはずの先輩はだらしなく逃げ回りながら私にそう指示を飛ばして来た。
× × ×
なんとか二級呪霊を倒す……取り込むことはできた。私の手持ちの呪霊を使い押さえつけて屈服させた呪霊を取り込む。そんな呆気ない幕切れで約十五分程度に渡る戦いは終結した。
今回の戦いにおいて、何の役にも立たなかった九条先輩は、乱れた息を整える私の側の木の枝に腰掛けて新しい飴を口の中に放り込んだところだった。ヘラヘラしている顔を見るにピンチのフリをして私の動揺を引き出すのが目的だったらしい。本当になんのつもりなんだ。
「いやー、助けてくれてありがとう。ウチのミスで危うく死んじゃうところだったよ」
「なんで……先輩祓えないんですか……準特級でしょ……」
「うーん、そういう縛りってのもあるけどね。まぁ、この辺はおいおい……」
先輩が私に説明をしてくれるのを流し聞きしながら周囲を見渡した、首を吊った死体がまた視界に入った。一つ目呪霊に隠れ蓑にされていたけれど、外側は首を吊って死んだ人間をそのまま使っていたらしい。
自殺をするなんて、よほど苦しいことがあったに違いない。この世を恨んだのだろうか、この世を儚んだのだろうか、それとも……。顔も名も知らない、声も知らない人間の……死体のことを考えてしまう。この弱者は、死ななければならなかったのだろうか。
そんな私をチラリと見てから、九条先輩は重々しく、それでもそうは聞こえないほど軽く私に問いかけて来た。
「君、なんで術師になろうなんて思ったわけ?」
「急になんですか?」
「いいから。言ってみ? 一般家系の人間なんだ、術師以外の道なんていくらでも選べたでしょう?」
「それは……」
言い
「弱者を救済する義務が、強者にはあるからです」
これは正しいはずだ。私は、そこで亡くなっている人を、そんな人を救いたい。そんな人を救けたい。それが私の術師になった理由。私のこの力を、持って生まれたこの力を少しでも多くの人を救けるために。
先輩は私の言葉を聞いてなお不自然なほど顔を顰めていた。今まで先輩と付き合ってきて、見たことのない顔。見たことのない表情。
能面の様な、何を考えているのかわからない表情……。
「……ま、君は強いよ。術式も強いし、体格も恵まれてるからね。喧嘩もそんじょそこらの奴には負けないだろうし、普通に強い。ウチじゃ祓えない呪霊も取り込めるしね」
うんうんと頷く、私の言葉を肯定する。まるで、呪霊を祓えないひ弱な弱者として。
そして数度頷いてから、ガリッ、と口の中の飴を噛み砕いた。
「けど、まだ弱い」
ゾッとするほど冷ややかな声で先輩はそう言った。ゆっくりと地面を踏みしめてこちらへ近づいてくる。枯葉や折れた枝なんかが踏みつけられて音を鳴らす。
その絶対零度の視線は私に殺意を感じさせるのには十分だった。
体は警鐘を鳴らしていた。彼が私の間合いに入る。目の前の相手は敵だ、それも命を奪われるような本物の敵だ。だから、体を動かして……。
「……クッ!」
「はい、死んだ」
「……ッ!」
咄嗟に振り上げた拳はさらりといなされて、彼の骨ばった大きな掌が私の喉に到達した。死すら錯覚するほどの恐怖。それが背筋を這い上がって、脳みそが走馬灯を見せてくる。ギュッと首を絞めてくるその手のひらを、私は取り払うことすらできない。
「カッ……! ハッ……!」
「どうした? 強者? まだ頑張れそ?」
声が出せない。咄嗟に拳を握るが、初動、動くよりも早くその拳は止められた。二の腕を抑えるようにして私のことを木の幹にまで押し込むと、先輩はジッとその瞳で私を見つめる。……そして、息が続かなくなってくると、その手をようやく離した。
「夏油くんは強いけど
「カハッ……ハァ……ハァ……」
なんのつもりだと初めて違和感ではなく、明確な敵意を持って先輩を睨みつけた。その視線を受けてなお、先輩は悪びれる様子もない。
「いやね。人が死んでるの見て動揺したよね? 弱者だと思ったよね? 強いから弱い人を助けないとだとか言ってたよね? その上でウチに不意打ちでやられたよね? その考えの甘さがチョコラテだって言ってるんだよ。
先輩は死体の側に落ちていた遺留品から免許証取り出した。その名前には見覚えが……。
「……あ」
「行方不明者の一人だね。大方呪霊に襲われてからここまで連れてこられたんでしょ。撒き餌だよ」
酷いことするよね。と先輩は表情を変えずに言った。本当にそうとは思ってないように。
「君のその甘さで死ぬよ。それはウチかもしれないし、君の大切な誰かかもね。でも分かるのは君よりも弱い誰かが死ぬってこと。だって、君は今
「…………」
何も言えなかった。その言葉には重みがあった。私の判断ミスで、人が死ぬ可能性がある。その魔の手は常に弱者へと向かう。私が強者だと言っても、弱者を守りきれない程度の強さなのだ。
きっと、先輩は初めから死体の中に呪霊がいることにも気づいていたのだろう。その上で、私のことを試したのだ。意地の悪い人だな……。
自分の拳を握りしめる。強者だという驕りがたった数分で捩じ切られた。私はまだ、弱者を救済するほど強くないのだ。
そうやって黙りこくってしまった私に向かって、先輩は思いついたように言葉を投げかけた。
「……ね、二級だとかって呪霊と術師の特級には意味があるって知ってる?」
「……なんですか、急に」
「呪霊の階級と術師の等級は比例してるんだけど……まず、四級が木製バットがあれば余裕で祓える、三級は拳銃があればまぁ、安心で、二級は散弾銃でギリって感じ」
「…………」
急に語り出した先輩の言葉は続いていく。
「一級は戦車でも心細いイメージで、特級はクラスター弾での絨毯爆撃でトントンって具合。さらにちなむと、さっき君が取り込んだのが多分準一級相当かな? 術式使わなかったし、話さなかったから二級の可能性もあるけどね」
それくらいの差がある。そう聞くとニ級まではなんとかなりそうな気もするが、一級以降は次元の違う化け物を相手にするような気持ちになる。
「で、これに対応して基本的に術師の等級は割り振られるんだけど……通常、呪霊と同等級の術師が当たるわけ、つまり、二級術師は二級呪霊勝つのは当たり前で、一級呪霊に近い実力を持つってことね」
右手で指を一本、左手で二本指を立てて、一つ上の階級をこなせる程度の実力が術師の適材だということを説明してくれた。授業よりも分かりやすく教えてくれた彼はいつもの緩んだ顔じゃなくて、ピリついた顔を見せる。
「ただ、特級術師は違う」
「何が違うんですか?」
あまりにも自然に質問が口をついて出た。それを受けて先輩が言葉を紡いでくれる。
「さっき言った理屈だとさ、一級術師でも特級呪霊を狩れるわけね。じゃなきゃ特級案件割とあるのに困っちゃうし……特級は本当に特別な枠組みで決められてんの」
「特別な枠組み……?」
不自然な言い回しに口が追従した、勿体ぶるわけもでもなく、先輩が口を開く。
「単独での国家転覆が可能」
「……!?」
「つまり、特級術師一人で一つ国を滅ぼせるんだよ。ビビるでしょ?」
つまり、一人で核兵器並みの実力を持つのが特級術師だということだ。一人で国すらも堕とせる化け物。
それが、特級。
「だから、君は特級を目指すといい」
「何故ですか……?」
接続詞が全く繋がらないセリフが彼の口から聞こえて来た。
その答えは単純明快。
「君の語った夢を実現させるのに必要な力は、それぐらい強大ってことだよ」
「国を堕とせるほど?」
「君さっき死体を見て動揺したよね? ウチが呪霊に追いかけられてる時はあんまりしてなかったけど」
「はぁ……それとこれと、なんの関係が」
「死ぬよ」
有無を言わさない迫力。目の前にただ事実だけを並べるようにして、先輩は言った。
「この仕事してるとね。毎年たくさん死ぬ。ウチだって何度死にかけたかわかんないし、君よりも術師としては何歩も先を行ってる五条くんも、硝子ちゃんも、歌姫ちゃんも、少しのミスで死ぬ。術師は強者じゃない」
その言葉は私の中の価値観すらも塗り替えた。呪霊に隠れ蓑にされたあの男のような人間を、呪霊に襲われて死んでしまう、行方不明になる人間のことを私は弱者だと思っていた。けれど、それだけが弱者の形ではないのだ。
「呪霊の等級はスカウターで「戦闘力5か、ゴミめ」みたいに測れるわけじゃない。等級が上がれば狡猾な呪霊は自らの実力を欺きもする……この仕事をしてると死と隣り合わせだ。二級案件だと思って任務に向かったら特級でした、なんてこともある」
「!」
「そうなったとき、君はその弱者を救える?」
術師は強者だ。非術師は弱者だ。
その価値観にさらに、術師の中にも強者と弱者がいるという認識が組み込まれていく。価値観の更新だった。
「幸いにも呪霊操術は取り込めば取り込むほど強くなる術式なんだ。大体……1000くらい取り込めばいいんじゃない? 質にもよるだろうけど」
ざっとした数だけ言って、先輩は続ける。
「君がもし、人の死を……ううん、人を死から助けたいなら、特級になりなさい」
明確な目標だった。人を救うという目標を包括して、私の目標に、地に足をつけるような目標。
国すらも堕とせるほどの力を身につけて、初めて弱者を救える。いや、違う。そうまでしないと人を救える強者たり得ないのだ。
「もし死体に動揺したままなら、もし、死体になんの準備もせずに近づいたら、もし呪霊がもっと狡猾だったら……死んだのはウチらのどっちかだったかもね? 君が強者なら、弱者を守りたいなら、さっさと強くなることをオススメするよ。……ほら、あとは補助監督に任せて帰ろ。ウチお腹空いちゃったから途中でなんか食べて帰ろうよ」
先輩はようやくいつものように底無しに能天気な声で「お腹空いてる?」なんで私に尋ねながら、山を下るように歩き始めた。その背中を無言でついていく。先輩は気まずさすら感じないのか携帯を覗き込みながら器用に口でチュパチャップスの袋を開けていた。
山の麓まで来て、ようやく重い雲の端に青空が見えた。補助監督の方の迎えが来るまで、二人して無言で立ち尽くす。先輩の言葉、教えを噛み砕きながら自分の色んなことを考えていると、ふと一つの疑問が頭によぎった。
「……そういえば、準特級術師になるのにも条件が必要ってことですよね? 先輩が準特級になった条件ってなんなんですか。特級が特殊なら準特級も特殊なんですよね」
「あー……聞きたい?」
「はい、是非」
「……もし、なんらかの事情があって特級術師が敵対した場合。単独でのその暴走を阻止することが可能な術師」
彼はケロリとそう言った。さも当然と言わんばかりに。
特級術師と、国家転覆が可能な術師を正面から止めることができる存在として、特別に与えられた等級であると、胸すら張らずに、むしろ寂しそうな瞳で。
「その癖して、二級呪霊も祓えないのがウチだよ。笑えるよね」
どこか寂しそうな顔をして彼は笑った。
その顔には、持つ者の影と、持たざる者の影が同居していて……私にはその笑顔が歪な笑みに見えた。
お気に入りと評価ありがとうございます。これって作家にとってモチベーションなんで、これがあるのとないのとでは全然違いますからね〜。たくさん貰えれば貰えるほど嬉しいものです。
今後とも投稿していきますので、応援よろしくお願いします! 頑張ります!! たくさん評価して♡ 感想投げて♡ よろしくお願いします!!