第12話
5月の初旬。
平穏な週末が訪れていた。初夏の気配を含んだ風が吹き抜ける休日の繁華街は、大勢の買い物客やカップルでごった返している。
漣は、駅前の待ち合わせスポットである大型ビジョンの陰に身を潜め、深く、重い溜息をついていた。
「……どうして、俺はこんな休日の真昼間に、針のむしろに座るようなマネをしているんだ」
目立たない無地のシャツに、軽い羽織りもの。さらに深く帽子を被り、ダテ眼鏡までかけて完全に気配を消している漣の姿は、まるで逃亡中の指名手配犯のようだった。
彼の目的は一つ。『誰にも、特に一高の生徒たちに、絶対にこの場を見られないこと』である。
事の発端は、数日前の放課後。
テロ事件の余波も落ち着きを見せ始めた教室で、司波深雪から直々に持ちかけられた「お出かけ」の誘いだった。
あの時、彼女は「お兄様には内緒で」と、甘く危険な響きを伴って微笑んだ。転生者であり、徹底したモブ生活を望む漣からすれば、本来なら全力で拒絶すべきイベントだ。
だが、あの薄暗い講堂の裏通路で、自分のために命を投げ出して盾になろうとした彼女の姿が脳裏に焼き付いている以上、漣の口から「断る」という選択肢は出なかった。
(とはいえ……達也に内緒でなんて、絶対に無理に決まってるだろ……)
漣は帽子を深く被り直しながら、再び重い溜息を吐いた。
達也の持つ特異な知覚能力である『精霊の眼』は、24時間体制で最愛の妹の情報体をモニタリングしている。深雪が休日に一人で出かけ、しかもそれが御守漣と会うためだと気づかないはずがない。
事実、漣の体表に常時展開されている『境界無化』のパッシブ防壁は、今朝家を出た瞬間から、遥か遠方より突き刺さる「極めて冷徹で精緻な観測波動」を感知し続けている。
達也からの明確な殺意や、排除の意志はもうない。あのテロの日、漣が深雪を護ったことで、達也は彼を「敵ではない」と認定し、不可侵の条約を結んだ。
だが、今の達也から放たれているのは、殺意の代わりに『妹の髪の毛一本にでも触れたら、即座にこの世から分解する』という、義兄としての過保護で理不尽な無言のプレッシャーだった。
(達也の野郎、俺に護衛を押し付けた上で、遠距離から監視しやがって……。胃が痛すぎる)
「――漣様。お待たせいたしました」
その声に、漣の思考がピタリと停止した。
人混みが、まるで海が割れるかのように自然と道を譲っていた。
すれ違う誰もが息を呑み、思わず振り返るほどの圧倒的な美貌。
淡い水色のサマードレスに身を包み、雪のように白い肌と艶やかな黒髪を春の陽光に輝かせながら、深雪が小走りで近づいてくる。
学校での首席としての凜とした佇まいとは違う。ほんの少し頬を上気させ、年相応の、いや、それ以上に愛らしい一人の少女としての笑顔を弾けさせていた。
「……司波さん。いや、全然待ってないけど……君、まったく変装とかしてないじゃないか」
漣は、周囲から突き刺さる無数の嫉妬の視線に耐えきれず、思わず顔を引きつらせた。
「ふふっ。せっかく漣様と二人きりでお会いできるのですもの。一番お気に入りの服を着てきたいと思うのは、当然のことではございませんか?」
深雪は悪戯っぽく微笑むと、ごく自然な動作で漣の隣に並び、その細く白い指先で、漣のシャツの袖口をきゅっと摘んだ。
「さあ、参りましょう。今日は一日、私の我が儘にお付き合いいただきますわ」
(距離が近い、距離が近いって……! しかも袖を掴んで離さない気か!?)
深雪から漂う微かな花の香りと、すぐ隣を歩く彼女の体温。そして、遥か遠方から達也の『精霊の眼』を通じて送られてくる、皮膚を刺すようなサイオンの圧。
二つの意味で心臓に悪い状況下で、最強の盾を持つ転生者の、地獄の休日デートが幕を開けた。
* * *
二人が向かったのは、駅から少し離れた、静かで落ち着いた雰囲気の隠れ家的なカフェだった。
深雪の美貌のせいで、道中も常に周囲の視線に晒され続けた漣は、個室風のボックス席に案内されて、ようやく帽子とダテ眼鏡を外すことができた。
「はぁ……。司波さんと歩いてると、本当に寿命が縮む気がするよ」
「漣様。学校の外なのですから、どうか『深雪』とお呼びくださいな」
テーブルの向かい側で、深雪は両手でティーカップを包み込みながら、少し上目遣いで漣を見つめた。
その瞳には、かつてお兄様だけに向けていた絶対的な敬愛の情と同じ、いや、それ以上に熱を帯びた狂おしいほどの愛執が宿っている。
「いや、さすがにそれは……達也に殺される」
「お兄様は関係ありませんわ。……それに、お兄様は今日、私たちがこうしてお会いしていることを、知っていながら見逃してくださっているのですから」
深雪は嬉しそうにふふっと笑った。
(やっぱり、達也は完全に知ってて黙認してるのか。不可侵条約を結んだとはいえ、俺への扱いのハードルが極端すぎないか……?)
漣が内心で頭を抱えていると、深雪がテーブルの上に置かれていたフルーツタルトの小皿を手元に引き寄せた。彼女はフォークで小さくタルトを切り分けると、それを漣の口元へとすっと差し出した。
「はい、漣様。あーん、ですわ」
「……は?」
漣の思考が停止した。
目の前では、絶世の美少女が、頬をほんのりと朱に染めながら、自分にタルトを食べさせようと待機している。
「いやいやいや! 自分で食えるから! ていうか、こういうのは達也にやってもらえよ!」
「お兄様は関係ありません。……それに、私は今、漣様に召し上がっていただきたいのです。さあ」
深雪の笑顔は完璧だった。しかし、その瞳の奥には「絶対に引かない」という、静かで強固な意思が宿っている。ここで断れば、彼女の機嫌を損ねるだけでなく、どんな恐ろしい手段で距離を詰めてくるか分からない。
漣は周囲の席から見られていないことを確認すると、諦めたように目を閉じ、深雪の差し出したフォークからタルトを口に含んだ。
「……美味いよ」
「ふふっ。よかったですわ」
深雪は、世界中の何よりも幸せなものを手に入れたかのように、花がほころぶような笑顔を見せた。
だが、その甘い空間を無惨にも打ち破るように、カフェの入り口の方から、聞き覚えのある賑やかな声が響いてきた。
「だからー! なんで休みの日にまで、あんたの買い物に付き合わなきゃいけないのよ!」
「うるせえな、エリカ! お前が美味いパフェの店を知ってるって言うからついて来てやったんだろ!」
「お二人とも、お店の中ですから静かに……」
千葉エリカ、西城レオンハルト、そして柴田美月の声。1学年E組の、いつもの騒がしい面々だ。
(……嘘だろ。なんでこんな場所で鉢合わせるんだよ!)
漣の顔から一瞬で血の気が引いた。だが、絶望はそれだけでは終わらなかった。
エリカたちの声に続いて、極めて冷静で、感情の起伏を感じさせない少年の声が響いたのだ。
「エリカ、レオ。美月の言う通りだ。店内で騒ぐのは感心しない」
(――達也までいるのかよ!!!)
漣の心臓が、恐怖で跳ね上がった。
達也の『精霊の眼』の索敵能力を考えれば、このカフェに深雪と自分がいることなど、入店する前から完全に把握しているはずだ。
いや、把握した上で、エリカたちの我儘に巻き込まれる形で――あるいは確信犯的に監視網を狭めるためにここへやって来たに違いない。
「司波さん、まずい。クラスの連中だ。しかも達也までいるぞ! 俺は隠れるから、君も適当に誤魔化して――」
漣が慌てて帽子を被り直し、テーブルの下に身を隠そうとした、その時だった。
「――なぜ、隠れる必要がございますの?」
深雪の声が、不意に、ぞっとするほど冷たい温度を帯びた。
漣が顔を上げると、深雪は笑顔のままだったが、彼女の周囲の空間だけが、まるで真冬の氷点下に落ち込んだかのように冷え切っていた。テーブルの上に置かれたアイスティーのグラスの表面が、ピキピキと音を立てて凍り始めている。
「私と漣様が、こうして二人でお会いしていること。……別に、クラスの皆様に見せつけてしまっても、構いませんのに」
深雪の瞳には、一切の躊躇がなかった。
彼女はむしろ、自分が漣にとって「特別な存在」であることを、あの勘の鋭いエリカたちに誇示し、牽制したがっているようにも見えた。
達也という絶対の庇護者から自立し、自分が選び取った絶対の盾。その存在を、他の誰にも干渉させたくないという、彼女の中に芽生え始めた狂おしいほどの独占欲。
「ばっ……馬鹿言うな! 俺は目立ちたくないんだ! ここでバレたら、明日から俺の平穏なモブ生活が完全に消し飛ぶだろ!」
漣は半ばパニックになりながら、深雪の手首を掴み、強引にボックス席の奥、観葉植物とパーテーションの死角になる位置へと彼女を引き寄せた。
「ひゃっ……」
深雪から小さな声が漏れる。
漣は深雪を壁際に押し付けるようにして身を隠し、自らも彼女を覆い隠すようにして息を潜めた。
二人の顔が、互いの吐息を感じるほどの至近距離にまで接近する。
「……いいか、絶対に声を出すなよ」
漣は小声で囁きながら、通路を歩いてくるエリカたちの気配を必死に窺った。
深雪は、突然漣に壁に押し付けられ、彼に抱きしめられるような体勢になったことに、顔を真っ赤にして固まっていた。
だが、彼女は抵抗するどころか、漣の胸元にそっと両手を当て、その温もりを確かめるように、幸せそうに瞳を潤ませていた。
(漣様から、こんなに強く……私に触れてくださるなんて)
深雪の胸の内で、達也に見つかるかもしれないという背徳感すらも完全に塗り潰すほどの、甘く危険な恋情がドクドクと脈打っている。
「あ、この奥のボックス席、空いてるんじゃない? ちょっと暗いけど」
エリカの足音が、漣たちが隠れているパーテーションのすぐ外で止まった。
(終わった……!)
漣が目を閉じ、自身の学園生活の終焉を覚悟した、まさにその瞬間だった。
「――待て、エリカ」
達也の低く、静かな声が、エリカの動きを制止した。
「そこの席は空調の風が直接当たる。それに、お前の目当てにしている限定パフェは、あちらの窓際の席でないとモバイルオーダーが通らないシステムらしいぞ」
「えっ、マジで!? なにその変なシステム! 行くわよレオ、美月!」
「おいおい、勝手に決めるなよ……」
エリカたちが、達也の言葉に誘導されるようにして、漣たちの席から遠ざかっていく。
達也の放った、いかにももっともらしいが完全にでっち上げられた嘘。彼ほどの知能があれば、エリカたちを別の席へ誘導することなど造作もないことだった。
(……助かった。達也の奴、わざとエリカたちを遠ざけてくれたのか)
漣が深く安堵の息を吐き出そうとした、その直後。
パーテーションの向こう側を通り過ぎる達也の気配から、漣の肌にのみ、極めて高密度に圧縮された『サイオンの針』のような殺気がチクッと突き刺さった。
――『深雪に妙な真似をしたら、情報構造ごと分解する』。
言葉には出さずとも、達也の『精霊の眼』を通じた明確な警告。お前たちを見逃してやるのは、あくまで深雪の機嫌を損ねないためであり、俺の監視が外れたわけではないという、義兄からの恐るべき無言のプレッシャーだった。
漣の背中を、滝のような冷や汗が流れ落ちる。
「……ふぅ。なんとかやり過ごしたな」
達也たちの足音が完全に遠ざかったのを確認し、漣は深雪から身を離そうとした。
だが、その瞬間。
深雪の白く細い腕が、漣の背中に回り、彼を逃がさないようにきゅっと抱きしめ返してきたのだ。
「し、司波さん……?」
「深雪、ですわ。……お兄様がせっかく気を利かせてくださったのです。漣様が私の名前を呼んでくださるまで、このまま離れません」
深雪は、漣の胸に顔を埋めたまま、甘く、しかし絶対に退路を許さない強固な執着を込めて囁いた。
(……この女、お兄様の牽制すら利用して俺の退路を塞ぎに来てやがる……!)
達也からの「妹に触れたら殺す」という恐るべきサイオンの圧迫感と、目の前の深雪からの「私から逃げることは許さない」という逃げ場のない愛の拘束。
御守漣の休日は、平和なモブ生活とはかけ離れた、胃痛とスリルに満ちた甘い地獄へと、完全に転がり落ちていた。
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