第13話
4月のブランシュによるテロ襲撃事件から、1ヶ月半が過ぎた。
季節は初夏へと差し掛かる6月中旬。第一高校の学内は、テロの余波もすっかり落ち着き、代わりに別の切実な空気――7月上旬に行われる『1学期期末試験』に向けた焦燥と熱気に包まれていた。
魔法科高校の期末試験は、魔法の基礎理論を問う筆記試験と、実際に魔法式を構築・発動させる実技試験の両方が行われる。一科生も二科生も、少しでも良い成績を残そうと、放課後の勉強に必死になる時期だった。
御守漣もまた、放課後のチャイムが鳴ると同時に、そそくさと荷物をまとめて教室を脱出しようとしていた。
テスト前のピリピリした学内の雰囲気。ここでぐずぐずしていれば、また余計な厄介事に巻き込まれかねない。その一心で、彼は誰の目にも留まらないよう、コソコソと裏口の昇降口へ向かって歩いていた。
だが、その隠密行動は、廊下の角から現れた白い一科生の制服によって、あっさりと阻止された。
「――漣様。 見つけましたわ」
優雅に、しかし逃げ道を完全に塞ぐような絶妙な立ち位置で現れたのは、司波深雪だった。
廊下を通る他の生徒たちの視線が一瞬で集まりかける。漣は慌てて自分の気配を消し、周囲の目を警戒しながら、小声で呼びかけた。
「し、司波さん。……何でしょうか。私はこれから、家でテスト勉強をしようと帰るところなのですが……」
「まあ。それでしたら丁度よろしいですわ。期末試験の勉強、ご一緒させていただけませんか?」
深雪は、誰もが見惚れるような完璧な微笑みを浮かべながら、当然のように漣を勉強に誘ってきた。
漣は、内心で激しい胃の痛みを感じながら、どうにか断るための言い訳を脳内で高速検索する。
「いや、でも、司波さんは生徒会の仕事があるだろ? それに、お兄さん……達也だって、風紀委員の仕事が忙しいはずだし、俺みたいな二科生が君の時間を奪うわけには――」
「ご心配には及びませんわ、漣様」
深雪は、漣の言葉を遮るように、さらに一歩距離を詰めて囁いた。
「今日の生徒会の仕事は、真由美先輩たちのおかげで、すべて早めに片付きましたの。それに、お兄様も、風紀委員の全体合同会議が始まるまで、あと1時間ほど空き時間があるとおっしゃっていましたわ」
「――ああ。その通りだ」
深雪の背後から、風紀委員の青い腕章を巻いた達也が、いつの間にか音もなく姿を現した。
(お前ら、どんだけ俺を挟み撃ちにしたいんだよ! 仕事熱心な生徒会と風紀委員が、なんでわざわざ俺の勉強なんかに付き合おうとしてるんだ!)
漣は心の中で悲痛な叫びを上げた。
達也は、手にした薄型の魔導書を軽く持ち上げ、無表情のまま漣を見据える。
「御守。俺も、次の会議まで少し時間がある。お前の実技対策に、少し付き合ってやろう」
(お兄様、その目が全然『付き合う』って目の色じゃないから! 完全に『妹に変な真似をしたら分解する』っていう、超高濃度のサイオン圧が俺の皮膚に直接突き刺さってるから!)
ここで下手に断れば、深雪が悲しそうな顔をし、それを見た達也の殺気が文字通りの「排除」へと切り替わりかねない。
何より、学園のアイドルである深雪と、風紀委員の有名人である達也が、廊下という衆人環視の場で二科生の漣と長々と話し込んでいる状況自体が、漣の「目立ちたくない」という生存戦略を最も脅かしていた。
「……分かりました。ですが、ここで立ち話をしていると目立ちます。……旧校舎の旧図書資料室エリアへ移動しましょう。あそこなら、一般の生徒は誰も来ませんから」
「ええ。漣様のご案内でしたら、どこへでもついて参りますわ」
深雪は嬉しそうに微笑み、達也はただ静かに一礼した。
こうして漣は、自ら望んで、かつて自分の隠れ家だった旧図書資料室へと、2大イレギュラーを連れて避難せざるを得なくなった。
* * *
静まり返った、古い紙の匂いだけが漂う旧図書資料室。
やはりここには一般の生徒は誰も来ない。その点だけは漣の狙い通りだった。
だが、室内の空気は、尋常ではないレベルで重苦しかった。
「漣様。この魔法幾何学の数式は、こちらに代入した方が効率的ですわよ」
深雪は、誰もいないことをいいことに、机の下でかすかに白い太ももを漣の膝に触れさせながら、ぴったりと隣に寄り添って勉強を教えている。
彼女の視線は教科書ではなく、常に漣の横顔を熱っぽく見つめ続けていた。
お兄様を騙すという背徳的な秘密の共有を経て、深雪の漣に対する「独占欲」と「愛熱」は、明らかにおかしくなっていた。
「あ、ああ……ありがとう、司波さん。助かるよ」
漣は冷や汗を流しながら、必死に達也のいる方向へと視線を走らせた。
達也は、入り口近くの席で、静かに魔導書をめくっている。
彼は漣と不可侵条約を結んだため、表立って漣を排除しようとすることはないし、こうして深雪が漣に勉強を教えていること自体も黙認している。
だが、達也の意識の最深部にある『精霊の眼』は、深雪を常時モニタリングしている。
深雪が漣に対して、どれほどの熱量を向け、どれほど距離を縮めているか。達也にはそのすべてが情報体の変調として丸見えだった。
だからこそ、達也から放たれているサイオンの気配は、明確にこう告げていた。
『――妹の好意につけ込んで妙な真似をしたら、その瞬間、ただでは済まさないぞ』
漣は何もしていない。むしろ全力で距離を置きたい。だが、深雪がそれを許してくれないのだ。
やがて、達也が静かに席を立ち、制服の皺を整えた。
「俺はそろそろ、風紀委員の会議の時間だ。深雪、御守。俺がいない間、無駄なトラブルは起こすなよ」
達也のその、特に漣の網膜を正確に射抜いた冷たい警告は、「妹に不埒な真似をすれば、遠隔からでも分解魔法を撃ち込む」という、無言の圧力を多分に含んでいた。
「はい、お兄様。いってらっしゃいませ」
深雪がいつも通り上品に見送ると、達也は静かに資料室を後にした。
達也の姿が消え、本当の「二人きり」になった瞬間。
深雪の漣に寄せる身体の温度が、一気に上がったような錯覚を漣は覚えた。
(達也がいなくなっても、お兄様の『精霊の眼』の監視レーダーは常に深雪に向いてる。だから、お前が近づけば近づくほど、俺の胃痛が限界を突破するんだよ……!)
漣の、1学期期末試験に向けた放課後は、テスト勉強どころではない、極限の精神的磨耗の場と化していた。
* * *
「……はぁ。疲れた」
日も完全に暮れた頃、深雪の甘い包囲網からどうにか抜け出し、一人暮らしのアパートへ帰宅した漣は、ベッドに倒れ込んで深い溜息をついた。
期末試験の筆記は、前世の知識と持ち前の演算能力でなんとでもなる。問題は実技試験のほうだ。
漣の魔法演算領域は境界無化に9割以上を占有されているため、他の魔法はどう頑張ってもライター以下の火か、そよ風程度しか出せない。実技で再び最低評価を叩き出せば、二科生としての底辺の地位は揺るがない。
だが、漣にとってはそれが狙い通りでもあった。目立たず、期待されず、ただ静かにやり過ごす。それが転生者としての唯一の生存戦略なのだから。
ピピッ、ピピッ。
その時、机の上に置かれていた専用の通信端末が、無機質な着信音を鳴らした。
画面に表示された発信元を見て、漣の顔からスッと血の気が引いた。
【発信元:御守本家】
(……実家の当主からか。テロの時に特注CADを使った件でこってり絞られたばかりなのに、今度はなんだ?)
漣は重い足取りで端末の前に座り、通信の受諾ボタンを押した。
画面に映し出されたのは、和室の奥で厳格な顔つきをした老人――御守一族の現当主であり、漣の祖父の姿だった。
『――漣よ。一高での生活には慣れたか』
「ご無沙汰しております、当主様。おかげさまで、どうにか……」
『フン。どうにか、ではない。……お前の一高での実技の成績について、本家の長老たちの間から、不満の声を抑えるのが限界に達しているのだ』
祖父の目が、鷹のように鋭く光る。その背後に流れる、名門としての重苦しいまでの威圧感が、通信画面を超えて漣の部屋の空気を支配した。
『御守一族は、国防の盾を担う名門ぞ。十師族や防衛関係の他家からも、一目置かれる存在であるはずだ。……それなのに、その直系の血を引く者が、学内でライター以下の無能と嘲笑され、落ちこぼれのウィードとして甘んじている。これでは他家から「御守は防ぐだけの亀」「他人の陰に隠れてやり過ごす、卑怯者の盾」と、一族そのものが侮蔑される原因になりかねん!』
「そ、そう言われましても、当主様。一族の掟に従い、私の『境界無化』は厳重に秘匿しております。あの力を隠し通すためには、表向きは魔法資質の低い落ちこぼれを演じるしかありませんが……」
『馬鹿者が!!』
祖父の怒号が、端末のスピーカーを大きく震わせた。
『境界無化を隠せとは言ったが、一族に泥を塗るほどの無能を晒せとは言っておらん! 御守の魔法は防御に特化しているが、それ故に攻撃能力を欠く。だが、お前には、あの絶対の防壁を維持するために培った、もう一つの特性があるだろう。……極限まで無駄を削ぎ落とした、異常な「魔法の起動速度」と「事象の概念操作」だ!』
漣は、嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
漣の『境界無化』は、事象の干渉そのものをゼロにする魔法だ。そして、それを瞬時に展開するために、彼の脳内演算は、魔法が発動して標的に到達するまでの物理的摩擦や重力干渉などの抵抗すらも『無』にする特性を持っていた。
出力こそ最低値だが、魔法の起動から着弾までの速度――『初速』においてだけは、誰にも真似できない神速の領域に達している。
『8月には、魔法科高校の威信をかけた親善魔法競技大会――九校戦が控えている。お前はあれに出場しろ』
「……は!? いやいやいや、無理ですよ! あんな一科生のエリートばかりが出る大会に、実技最低の私が選ばれるわけがありません!」
『フン。選考の根回しなら、すでに防衛省と一高の理事会を通じて強烈に圧力をかけてある。我が一族の者の実技スコアが低いのは、守備特化に極振りしているためだ。その真の力を見せる場を与えよ、とな』
(……あのクソジジイッ!! なんで勝手に、そんな恐ろしい圧力をかけてねじ込んでるんだよ!)
漣は内心で絶叫したが、祖父の言葉は無情にも続いた。
『お前が出場する競技はスピード・シューティングだ。的を破壊する出力など必要ない。お前のその異常な初速と、弾が飛翔する軌道上の空気抵抗を無化する力だけを使えば、誰よりも早く的に当てることなど造作もなかろう。御守の技術が、攻撃競技でも他家の一科生を凌駕することを示してこい』
「そんな、目立つことをすれば、生徒会や、あの……」
『これは一族の決定だ。お前が九校戦で面子を保てば、先月の特注CAD無断使用の件は完全に不問にしてやる。だが、もし無様な結果を残して一族に泥を塗れば……お前を本家に連れ戻し、一生地下の結界要員として幽閉するからな』
プツッ。
一方的に通告を終えると、通信は無情にも切断された。
暗くなった画面に映る自分の顔を見つめながら、漣は絶望の淵に突き落とされていた。
九校戦。
それは、原作において達也が技術スタッフとして無双し、深雪が圧倒的な力を見せつける、夏の一大イベントである。
漣にとっては、二人が富士の演習場へ行っている2週間こそが、彼らの重すぎるプレッシャーから解放される「最高に平和な夏休み」になるはずだったのだ。
それが、実家の理不尽な面子のせいで、自ら代表選手として表舞台に引きずり出されることになってしまった。
(……終わった。俺の平和な夏休みが、完全に終わった……!)
イレギュラーな兄妹から逃げ隠れするどころか、自ら彼らと同じ舞台に立たなければならなくなった。
8月の九校戦へ向けて、転生者・御守漣の胃痛と波乱に満ちた絶望の夏が、すぐそこまで迫っていた。