富士の裾野に広がる広大な演習場において、全国の魔法科高校生たちが技術と誇りを懸けて競い合う夏の一大イベント――『全国魔法科高校親善魔法競技大会』、通称・九校戦がいよいよ本格的に幕を開けた。
華やかな開会式を終え、大会は二・三年生の選手たちによる「本戦」から順次スタートしていく。各校の威信が激突し、華麗な魔法の応酬に会場全体が熱狂に包まれる中、第一高校の代表陣もまた順調にポイントを重ねていた。
本戦三日目の朝。
選手やスタッフが滞在するホテルの巨大なダイニングルームでは、朝食をとる生徒たちが今日の試合の展望について賑やかに言葉を交わしていた。
「ちょっと漣。あんた、今日も部屋に引きこもる気? せっかくの本戦なんだから、少しは会場に行って先輩たちの応援をしにきなさいよ」
トレイを手にした千葉エリカが、呆れたような顔で漣の座るテーブルの向かいに腰を下ろした。その横には西城レオンハルトと柴田美月も続いている。
「そうだな。お前も一応、明日から出番のある代表選手なんだしよ。会場の空気くらい味わっておいた方がいいんじゃねえか?」
レオが豪快にパンをかじりながら同意する。
「……悪いな。俺は部屋で自分の競技のイメージトレーニングをしておきたいんだ。それに、人が多いところは昔から苦手でね」
漣は手元のサラダをつつきながら、極めてもっともらしい言い訳を口にした。
「御守くんも、明日はいよいよ新人戦のスピード・シューティングですからね。……無理に連れ出すのは良くないと思いますよ、エリカちゃん」
美月が気遣うように言うと、エリカは不満そうに息を吐いた。
「まあ、美月がそう言うなら仕方ないけど。でもあんた、あんまり根詰めすぎると本番で胃に穴が開くわよ?」
「……もうすでに開いてるよ」
漣がボソリと呟いた言葉の意味を、エリカたちは単なる「試合前の緊張」だと受け取ったようだった。だが、漣が会場に行きたくない本当の理由は別にある。
ダイニングルームの少し離れた一科生専用のテーブルから、先ほどからずっとこちらへ向けられている視線。
一科生男子たちの「なぜあんな二科生の落ちこぼれが代表面をして仲間と談笑しているんだ」という侮蔑と嫉妬の視線……よりも、さらに奥。
優雅に紅茶を飲みながら、エリカや美月と会話する漣に向かって「私の漣様に気安く話しかけないでいただけますか」と言わんばかりの、零下数十度の冷たいオーラを放っている司波深雪の存在だ。
(あんな他校の偵察部隊やエース級がうじゃうじゃいて、深雪の重すぎる視線が常に突き刺さってくる空間に行くなんて絶対にごめんだ。冷房の効いた部屋でジュースでも飲みながら中継を見てる方が遥かに快適だろ)
深雪からは「ぜひ一緒に観戦しましょう」と熱烈に誘われたが、漣は「自分の競技のための精神統一があるから」と正論を盾にして、それを固辞していた。
自分の出番である新人戦が始まるまでは、ひたすら気配を消し、ホテルの部屋で安全なモブ生活を謳歌する。それが転生者である彼が選んだ、最も生存率が高く、かつ精神衛生上良い立ち回りだった。
朝食をそそくさと終えた漣は、エリカたちに軽く手を振ると、深雪の視線から逃げるようにして自室へと戻っていった。
* * *
昼下がり。
割り当てられた薄暗い自室のベッドに寝転がり、漣は壁に設置された大型モニターを眺めていた。
「……やっぱり、クーラーの効いた部屋で見るスポーツ観戦が一番だな」
画面の中では、女子『バトル・ボード』の本戦準決勝が生中継されている。一高の風紀委員長である渡辺摩利が出場しているレースだ。
彼女は専用のウェットスーツに身を包み、鋭い眼差しで水上のコースを見据えている。
スタートの号砲と共に、摩利は初速から他を圧倒し、魔法による水流操作で滑るようにして第一コーナーへと突入していった。その滑らかなコーナリングと無駄のないサイオン制御に、モニター越しにも会場の地鳴りのような大歓声が伝わってくる。
(……そろそろだな)
だが、漣の目はレースの華やかさではなく、その背後で蠢く不穏な影を捉えようとモニターを凝視していた。
原作の知識を持つ漣は知っている。この華やかな表舞台の裏で、犯罪シンジケート『無頭竜』が一高の選手たちを狙い、卑劣な妨害工作を仕掛けてくることを。
中継映像の中で、トップを独走する摩利のすぐ後方を走っていた第七高校の選手が、突如としてバランスを大きく崩した。
その選手のボードは、まるで何かに操られるかのように制御を失い、異常な速度で暴走状態に陥る。制御不能の弾丸と化した他校のボードは、水面を跳ねるようにして、前方を走る摩利の背後へと激突コースを描いて突っ込んでいった。
映像越しに、観客の悲鳴が小さく響く。
摩利は背後に迫る異常を即座に察知した。自らの魔法で回避行動を取ることは十分に可能だっただろう。
だが、自分がここで避ければ、制御を失った他校の選手はそのまま猛スピードでコース外のコンクリート壁へ激突し、命に関わる大事故になる。
摩利は、自らの身体をクッションにして他校の選手を受け止める道を選んだ。
鈍い衝突音と共に、二人の身体が大きく空中に投げ出され、激しい水飛沫と共にコースの端へ叩きつけられる。
漣は、ポケットの中に忍ばせている特注のコントローラー型CADのグリップを、ぐっと握りしめた。親指がアナログスティックに触れ、人差し指がトリガーの遊びを引く。
(……やろうと思えば、あの衝突の運動エネルギーを遠隔操作で極小展開して『ゼロ』にして、摩利先輩を無傷で救うことは不可能じゃなかった。だが……)
漣はギリッと奥歯を噛み締めると、その手に込めた力をゆっくりと抜き、CADから指を離した。
(俺がここで裏から干渉して事故を無かったことにすれば、テロリストたちは『得体の知れない力』を警戒し、原作とは違う、観客席すらも巻き込む爆破テロなどの予測不可能な強硬策に出かねない)
無頭竜の狙いはあくまで大会での一高の敗北と、裏賭博での利益だ。だが、想定外の事態が続けば、彼らは焦りから手段を選ばなくなる恐れがある。
それに、こんな遠距離から大規模な事象消去を無理やり行えば、術式を維持するプロセスの痕跡が空間に必ず残る。一般人ならともかく一部の魔法師に気づかれる可能性がある以上、無理はできない。
(……摩利先輩には悪いが、ここは原作通り、達也に裏の連中を完全に潰してもらうのが、一番安全なルートだ)
摩利が負傷して棄権することは一高にとって痛手だが、命に関わるものではない。漣は自らの非情な判断に微かな罪悪感を覚えながらもモニターの電源を切り、静寂な部屋の中で深く息を吐き出した。
* * *
その頃。
演習場のピットに設けられた第一高校専用の調整ルームでは、重苦しい空気が充満していた。
モニターには、救護班のストレッチャーに乗せられ、顔を苦痛に歪めながら運ばれていく摩利の姿が映し出されている。その画面を、生徒会長の七草真由美と、部活連会頭の十文字克人が険しい顔で見つめていた。
「……骨折と、強烈な打撲。命に別状はないそうですが、今大会中の復帰は絶望的ですね」
真由美が、震える声で報告を口にする。
「摩利がやられるとは。だが、あの状況では回避すれば相手選手が死んでいる可能性すらあった。彼女の判断は正しかったと言うべきだろう」
十文字が重々しく腕を組んだ。
「単なる事故、で片付けるつもりですか?」
室内の空気を一瞬で凍らせるような、極めて平坦で冷徹な声。
部屋の隅でコンソールに向かっていた司波達也が、その顔から一切の感情を消し去って、二人へと振り返った。
「達也くん。それは、どういう意味?」
真由美が息を呑む。
「相手選手のボードの挙動、そして事故の瞬間に生じたサイオンの波形。……選手の操作ミスではありません。魔法式を意図的に暴走させるため、外部から仕組まれた遅延式ウイルス。おそらく『電子金蚕』と呼ばれる類のものによる、意図的な妨害工作です」
達也の『精霊の眼』は、他校の選手のCADから生じた不自然なサイオンのノイズを完全に捉えていた。
「妨害工作……! では、誰かが意図的に摩利を狙ったというのか?」
十文字の表情に、怒りの色が滲む。
「断定はできませんが、その可能性は極めて高い」
達也はそう言いながら、自らの論理回路の中で、バラバラに起きていた点と点を一本の明確な線で結びつけていた。
(行きのバスを狙った自爆まがいの体当たり。開会式前夜の宿舎への侵入。そして、今日のバトル・ボードでの工作)
間違いない。これらは独立した事件ではなく、すべて同じ組織の思惑で動いている。九校戦で一高の選手を狙い、確実に潰そうとしている何者かがいる。
達也の胸の内に、深雪の平穏な日常を脅かす外部の害悪に対する、静かで絶対的な排除の意志が満ちていく。
これまでは試合中の妨害で済んでいるが、このまま放置すれば、工作の矛先がいつ観客席にいる深雪に向かうか分からない。その可能性がわずかでも存在する以上、達也が取るべき行動は一つしかなかった。
(表の顔で隠しきれないのなら、裏からすべて解体するまでだ)
達也は自らの端末を操作し、国防軍の独立魔装大隊の情報網へと、暗号化されたアクセスを密かに開始した。敵の全容を洗い出し、一網打尽にするための周到な準備を進める。
そして達也はふと、調整ルームの窓からホテルのある方角を見やった。
あそこに引きこもっているはずの御守漣は、中継映像であの事故を見ていたはずだ。だが、遠隔から魔法を干渉してくるような痕跡は、達也の知覚には一切引っかからなかった。
(……彼が動こうと思えば、遠隔からでも摩利先輩の怪我を最小限に防ぐことはできたかもしれない。だが、彼はあえて静観を選んだ)
達也は、漣のその極めて実利的で徹底した自己防衛のスタンスに、一種の同族嫌悪にも似た共感を覚えていた。
無闇に力を使って敵を警戒させることや己の底を見せることを避け、本当に護るべき存在に危機が及ぶ瞬間にのみ、その魔法を起動させる。その徹底した合理主義は、達也の防衛理念と非常に似通っていた。
(お前が動かないのであれば、俺が動く。……だが、俺が裏の鼠どもを掃除している間、深雪の盾となる役目は、お前に任せるぞ)
華やかな歓声が飛び交う九校戦の表舞台の裏側で、暗闘の火蓋は、誰にも気づかれないまま静かに切って落とされた。
* * *
その日の夜。
ホテルの廊下には、一高の優勝候補筆頭であった渡辺摩利が負傷したというニュースが駆け巡り、生徒たちの間には重苦しく不安な空気が満ちていた。
「あの渡辺先輩が怪我をするなんて……」
「この後の種目、大丈夫なのかよ」
扉越しに聞こえてくるそんな生徒たちの声を聞きながら、漣はベッドの上で静かに瞳を閉じていた。
いよいよ明日から、自分が出場する一年生の新人戦が始まる。その憂鬱さに胃を痛めていると、部屋のドアが控えめにノックされた。
「……漣様。深雪ですわ。起きていらっしゃいますか?」
漣がドアを開けると、そこには少し沈んだ表情をした司波深雪が立っていた。
昼間の事故で摩利が負傷したこと、そして学内を覆い始めた不穏な空気に、彼女なりに心を痛めているようだった。
「司波さん……。摩利先輩のこと、聞いたよ。災難だったな」
「ええ……。命に別状はありませんでしたが、大会の続行は不可能だそうです。……お兄様は、あの事故が意図的に仕組まれたものだとお考えのようでした」
深雪は部屋に入るなり、不安そうに漣の袖口をきゅっと握りしめた。
「お兄様、今日の夕方からずっとピットから戻られなくて……。きっと、裏で私達を狙う犯人たちを焙り出そうとされているのだと思います。生徒会の方々も、摩利先輩の代わりをどうするかでピリピリされていて……私、少し不安になってしまって」
(……やっぱり、達也はすでに無頭竜の殲滅に向けて動き出してるな)
漣は内心で頷きながらも、深雪を安心させるように努めてボソリと言葉を返した。
「達也なら大丈夫だろ。あいつは頭も切れるし、何より魔法師としての実力が規格外だ。あいつが裏に回ったんなら、テロリストなんてすぐに終わるさ」
「……はい。お兄様のことは信じております」
深雪は小さく頷き、そして潤んだ瞳で漣を真っ直ぐに見上げた。
「ですが、私は……お兄様が裏で動かれている間、私に迫るかもしれない脅威から護ってくださるのは、漣様だと思ってよろしいのでしょうか?」
深雪の言葉には不安だけでなく、自分を守ってくれる存在への狂おしいほどの期待と独占欲が込められていた。
お兄様がいなくとも、自分が危険な目に遭えば、この人は必ずあの瑠璃色の光で私を護ってくれる。その歪んだ確信が、彼女の心を甘く痺れさせているのだ。
(……俺が逃げられないのを分かってて言ってるな)
漣はズキズキと痛む胃を押さえながら、重い溜息をついた。
彼としては、これ以上目立つ真似は絶対に避けたい。だが、目の前で縋り付いてくる少女を「知るか」と突き放すほどの冷酷さも持ち合わせてはいなかった。
「……あのな。俺はただの目立ちたくない二科生だ。達也みたいに、自分から動いてテロリストを倒したりは絶対にしないし、できないからな」
「はい」
「……ただ、万が一、達也の目が届かないところで、君のところに危険な魔法や破片が飛んでくるようなことがあれば……まあ、俺の影に隠れれば、それくらいは弾いてやる。だから、余計な心配はせずに自分の試合のことだけ考えてくれ」
それは漣にとって、「あくまで自分のパッシブ防壁のついでに守るだけ」という、最大限の妥協と予防線を張ったぶっきらぼうな回答だった。
「――っ!」
だが、その言葉を聞いた瞬間、深雪の顔がぱっと花が咲いたように明るく輝いた。
彼女の脳内では今の言葉が『どんな脅威が迫ろうとも、自分の背中に隠れれば絶対に守り抜いてみせる』という、この上なく甘い愛の誓いとして完全に変換されていた。
「……ありがとうございます、漣様。私、漣様のお言葉だけで、どんな困難でも乗り越えられそうですわ」
深雪は堪えきれないように、漣の胸元にそっと顔を埋めた。
(近い、近いって! これじゃただの抱擁だろ! 達也がどこかで『精霊の眼』で見てたらどう言い訳する気だ!)
漣はパニックになりながらも、彼女を乱暴に突き放すことはできず、両手を上げたままカカシのように硬直するしかなかった。
翌日。
第一高校の生徒を狙うテロの足音が近づく中、御守漣が出場する新人戦・男子『スピード・シューティング』の予選が、いよいよ幕を開けようとしていた。