翌朝。
一高の校舎を包む空気は、昨日から始まった部活動勧誘週間の狂騒的な騒がしさを残しながらも、どこか張り詰めた冷たさを帯びていた。
1学年E組の教室。
窓際の後ろから2番目の席に座る御守漣は、机の上に置いた電子教科書に視線を落としたまま、額に浮かびそうになる冷や汗を必死に抑え込んでいた。
原因は、すぐ左隣の席から、文字通り「物理的なプレッシャー」となって伝わってくる、冷徹極まりない気配だった。
司波達也は、いつも通り端正な姿勢で席に座り、手元に置いた情報端末を静かに操作している。
背筋を伸ばし、周囲の喧騒から隔絶されたかのように佇むその姿は、周囲のニ科生たちから見れば、ただの物静かで冷徹な青年に過ぎない。
だが、漣の体表数ミリの範囲に展開された『境界無化』の微弱防壁は、異質な波動を感知していた。
それは生家である御守一族の厳格な掟、そして自分自身の「平和な隠居生活」を守るために常時パッシブで展開しているものだ。
防壁は、達也の全身から漣の方向へとのみ、ピンポイントで照射されているサイオンの観測波動を克明に捉えていた。
現代魔法理論において、魔法師の周囲には常に微弱なサイオンが漏洩している。
だが、達也が発しているのはそのような生ぬるいものではなかった。
達也の瞳は、一般的な魔法師が持つ知覚をはるかに超越した『精霊眼』として、目の前の少年の「嘘」を執拗に解き明かそうとしていた。
昨日の第二小体育館。桐原武明の『高周波ブレード』の暴走に伴い、砕け散った木刀の振動破片が柴田美月へと飛来した、あの一瞬。
達也は、美月の眼前で確かに、物理運動のベクトルそのものがエネルギー保存法則を完全に無視して「無」へと相殺される瞬間を、その特異な眼で目撃していた。
その現象を引き起こしたサイオンの残響は、3年前の沖縄で妹の深雪を救い、達也がずっと探し求めていた「瑠璃色の防壁」の波長と、1ミリの狂いもなく一致していたのだ。
(……おいおい、お兄様。プレッシャーのせいで、俺の席の周りの空気だけが本当に氷点下になってる気がするんだが。勘弁してくれ、ただのライター以下の落ちこぼれなんだから……)
漣は心の中で必死に頭を抱えながら、表情を完全に殺し、石像のようにだんまりを決め込んでいた。
彼の『境界無化』は、達也が発する精霊眼の知覚波動を、体表の境界線上で音もなく「虚無」へと相殺している。
達也がどれほど深く漣の情報体をスキャンしようとしても、相殺された結果として返ってくるのは、完璧に整合性の取れすぎたダミーの情報だけだった。
「事象干渉力もサイオン放出量も、魔法幾何学的な最低評価に位置する一般の二科生」
その評価こそが、漣が作り上げた偽りの姿である。
情報が読めない。いや、正確には「読ませてくれない」ような、物理的・事象的な空白が、この少年の体表面を覆っている。
これほどまでの隠蔽技術を持つ魔法師が、ただの2科生として同じ教室の隣の席に座っている。
その事実だけで、達也にとっては看過できない潜在的脅威だった。
漣が少しでも不審な動きを見せれば、即座に無力化するかのような、凍りつくような「静かなる殺気」が、サイオンの圧力となって隣の席から絶え間なく押し寄せてきている。
その緊迫した空気を、前方の席から歩いてきた少女の声が和らげた。
「司波くん。昨日は、本当にありがとうございました」
丸眼鏡をかけた柴田美月が、少し頬を赤らめながら、達也の席の前で丁寧に頭を下げていた。
昨日、闘技場で桐原武明の『高周波ブレード』が暴走した際、達也は風紀委員として一瞬にして事件を鎮圧した。
美月は、自分がその暴走から助かったのは、達也が風紀委員として飛び込んできてくれたからだと思い込んでいる様子だった。
「気にする必要はない、柴田さん。僕は風紀委員としての役目を果たしただけだ」
達也は極めて平坦な声で答え、情報端末から顔を上げた。
美月は、その達也の冷淡とも取れる態度を恐れる風でもなく、少し不思議そうに人差し指を顎に当てて首を傾げた。
「あの……でも、司波くんが割り込まれる直前、私の目の前で、何かすごく綺麗な瑠璃色の光が見えた気がするんです。あれは、司波くんの魔法……だったんでしょうか」
その言葉が、E組の窓際の一角に、再び一瞬の凍てつく沈黙をもたらした。
(――ッ、美月、余計なことを思い出すな……!)
漣は心の中で冷や汗を流しながら、窓の外の桜の木をじっと見つめる作業に集中した。
美月は、その特異な目『水晶眼(霊子放射光過敏症)』を持っている。
だからこそ、普通の人間には「不自然な魔法の不発」としか見えなかったあの瞬間、極小展開された『境界無化』の残光を、無意識のうちに感じ取ってしまったのだ。
達也は美月の言葉を聞き、ほんの一瞬、その鋭い視線を隣の漣へと走らせた。
しかし、達也の精霊眼が漣をいくら見通そうとしても、返ってくるのは「サイオン量も干渉力も最低値の、無口で凡庸な二科生」というダミーの情報だけ。
達也は、目の前に存在する「空白の情報体」への不信感をさらに強めながら、美月へと言葉を返した。
「いや。僕が発動したのはキャスト・ジャミングの変形と体術だけだ。そんな美しい光が出るような魔法は使っていない。君の『過敏症』による、一時的な光の錯覚だろう」
「あ、そ、そうですよね……。変なことを聞いてしまって、ごめんなさい」
美月はお辞儀をして、自分の席へと戻っていった。
達也は再び端末へと視線を落としたが、漣の肌には、隣から注がれる殺気に近いサイオンの警戒圧が、先ほどよりも一段と強くなったことがはっきりと感じられた。
絶対に、この男に関わってはならない。
一高に入学してまだ3日目。漣は、転生者としての自衛の誓いを、さらに深く胸に刻み込むのだった。
* * *
その頃、本校舎の最上階にある生徒会室では、司波深雪が新入部員勧誘期間の安全管理業務を片付けながら、事務用情報端末の画面を凝視していた。
昨日の第二小体育館での騒動を受け、一科生と二科生の心理的摩擦は急激に加速している。
風紀委員会や生徒会は、学内パトロールの強化や書類の手続きなどで多忙を極めていた。
生徒会長である七草真由美たちが他の作業や呼び出しで室外へ出ているため、広々とした室内には現在、彼女一人しか残されていない。
深雪の操作する画面に映し出されていたのは、第一高校の生徒データベース。
そこには、一枚の男子生徒の写真と、その横に記された「御守漣」という名前が表示されていた。
【御守 漣(みもり れん)】
【1学年E組。二科生】
【実技適性:E(最低評価)。筆記適性:B】
【特記事項:実家は防壁魔法の名門『御守』。ただし本人の事象干渉力、およびサイオン放出量は著しく低く、名家の出来損ないとして扱われている】
深雪は、その画面の文字列を、白く細い指先でそっとなぞった。
「出来損ない、だなんて……。あの方が、そのようなはずがありません」
深雪の唇から、小さな、しかし熱を孕んだ消え入りそうな呟きが漏れる。
3年前の沖縄。自分に向けて放たれた地対地ミサイルを、音もなく瑠璃色の光に変えて消滅させた絶対の盾。
あの驚異的な事象干渉力と、世界を静寂で満たすほどの高純度のサイオン。
あれほどの神業を持つ魔法師が、一高の実技測定で「最低評価」を受けるなど、どう考えても不自然極まりない。
(お兄様のように、魔法の評価基準そのものが彼の実力を測れなかったのか……。あるいは、ご自身で力を周囲から隠すために、意図して測定器の数値を極限まで落としたのですね)
深雪は、彼の徹底した隠密の意思を正しく察していた。
彼は実力を隠したいのだ。だからこそ、あの日、自分にも「内緒にしてくれ」と言った。
お兄様にすらその存在を知られたくないから、彼は今、この学園で「無能な二科生」の仮面を被り続けている。
(お約束は、守らなければなりません。お兄様にも、決してお話ししてはならない……。けれど)
深雪の胸の内で、あの日からくすぶり続けていた熱い憧憬が、抑えきれない衝動となって溢れ出しそうになっていた。
彼を、もう一度、間近で見つめたい。
お兄様に知られることなく、ほんの一瞬でもいいから、彼と言葉を交わしたい。
彼が自分の力を隠してまでこの学校に潜んでいる理由、そしてその無口な瞳の奥にある真実を、知りたい。
「……御守さん」
深雪は情報端末の画面を閉じ、そっと立ち上がった。
生徒会書記としての立場を利用すれば、学内のパトロールと称して、彼のいる場所へ近づくことは容易だ。
氷の美姫と謳われる少女は、その冷徹な知性を、最愛のお兄様の目を盗んで「御守漣を追跡する」という、ただ一つの秘めたる目的のために稼働させ始めた。
* * *
放課後。
漣は誰よりも早く教室を飛び出していた。
お兄様である達也が風紀委員の事務連絡のために渡辺摩利のもとへ向かい、クラスの連中が各部活のデモンストレーションに出かける、その一瞬の隙を突いた、完璧な隠密退却。
(よし、今日も一日、なんとか乗り切ったぞ。このまま裏口の非常階段を抜けて、裏門から一気に下校する)
いつもの昇降口は、部活動のデモンストレーションや一科生たちの勧誘活動でごった返している。
達也や深雪と再び接触するリスクを減らすため、漣は原作知識を駆使し、最も人通りの少ないルートを選択した。
旧校舎と本校舎を繋ぐ連絡通路、そのさらに奥にある非常用階段。
薄暗い、静かな連絡通路。冷たいコンクリートの匂いが漂うその空間を、漣は足音を消して進んでいく。
だが、その進路を遮るように、前方から滑り込んできた白い一科生の制服があった。
漣はピタリと足を止め、その場で全身の血液が凍りつくのを感じた。
そこには、一科生を象徴する花冠のエンブレムを胸に輝かせ、この世のものとは思えないほど美しい貌をした少女が立ち尽くしていた。
司波深雪。
彼女は、漣がこのルートを通ることを予期していたかのように、待ち構えていたのだ。
「――御守さん」
深雪の、鈴を転がすような美しい声が、静かな連絡通路に響いた。
(嘘だろ……。なんでここにいるんだ、深雪……!)
漣はだんまりを決め込み、感情を排した無表情を崩さなかったが、内心では凄まじいパニックに陥っていた。
彼女の美しい瞳は、3年前のあの日と同じ、強い熱情を秘めて漣を真っ直ぐに見つめている。
漣は、関わり合いを避けるために一歩後退り、そのまま無言で引き返そうとした。
しかし、その漣の背後から、コツ、コツ、と、もう一つの静かで冷徹な足音が響いてきた。
連絡通路の薄暗い影から姿を現したのは、左腕に風紀委員の青い腕章を巻いた、司波達也だった。
「お兄様……!?」
深雪が息を呑み、驚きに顔を強張らせる。
達也は、深雪が生徒会の仕事を終えた後、不自然な足取りでこの人気のない連絡通路へと向かったことを、完全に把握していた。
風紀委員の学内センサー、そして自身の『精霊眼』によるサイオンの追跡。それらを逃れる術はなかった。
達也の視線は、深雪を通り越し、完全に漣の全身へと固定されていた。
達也の右手が、腰に下げたCADのホルスターのすぐ近くで、静かに、しかし迷いなく添えられている。
達也から放たれているのは、表向きは冷静でありながら、その内側で渦巻く「静かなる殺気」だった。
妹の深雪が、自分に隠し事をしてまで、正体不明の不審な二科生と接触しようとした。
達也にとって、深雪の心を乱し、かつ自分の精霊眼をすり抜けるような不気味な技術を持つ御守漣という存在は、もはや「最大の排除対象」として認識されつつあった。
「深雪。こんな場所で何をしている。生徒会の報告会議の時間だ」
達也の声は、静かだったが、大気を凍らせるほどの絶対的な威圧感を孕んでいた。
その言葉の矛先は深雪に向けられているが、彼から放出されている凄ましき威圧のサイオン波形は、津波のように漣の『境界無化』の常時防壁へと叩きつけられていた。
(……くっ、お兄様、本気で殺気立ってやがる。ここで一歩でも動いたら、分解魔法で消し去られかねないぞ……!)
漣は体表面の無化防壁の出力を、極限の精度で維持した。
達也の威圧的なサイオン波形は、漣の防壁に触れた瞬間に、熱も衝撃も発生させずに「無」に還元され消滅する。
だが、その情報の消失そのものが、達也の精霊眼には「不自然な空白」としてさらに色濃く映り、警戒心を深めさせる悪循環に陥っていた。
しかし、漣は転生者だ。
ここで自分の『境界無化』のフル出力を展開すれば、達也との戦闘になり、自分の穏やかな学園生活は一瞬で崩壊する。
だからこそ、漣は最後まで「だんまり」を貫き、おどおどとした落ちこぼれの二科生を完璧に演じることに決めた。
「す、すみません……。通り道を間違えたみたいです。失礼します」
漣は、気弱な声を少し震わせながら、達也の放つ凄ましき威圧感に耐えかねたように、わざと小さく肩を竦めて見せた。
そして、俯きがちに頭を下げ、二人から視線を逸らしたまま、足早にその場を通り過ぎようとする。
深雪は、立ち去ろうとする漣の背中に向けて、思わず声をかけそうになった。
(御守さん、待って……!)
だが、彼女はその言葉を喉の奥で辛うじて呑み込んだ。
ここで彼を引き止めれば、お兄様は確実に彼の正体を暴こうと、その恐るべき力を行使する。
あの日、彼が自分に残した「内緒にしてくれ」というお願いを、そして彼の「実力を隠したい」という隠密の意思を守るためには、自分もここで黙って、彼を行かせなければならない。
漣は、達也の静かな殺気と、深雪の切ない視線をその背中に受けながら、だんまりを貫き通し、足早に連絡通路の向こうへと消え去っていった。
人気のない連絡通路に、重苦しい沈黙が降りる。
「深雪」
達也が、静かに妹を呼んだ。
その瞳には、深雪に対してのいつもの優しい配慮がありながらも、どこか射抜くような鋭さが潜んでいた。
「あの男、御守漣に、何の用だ。昨日から、深雪は彼に対して不自然にサイオンを揺らしている」
「お兄様……。いいえ、ただ……お兄様と同じE組の生徒として、少し気になる噂を耳にしただけです。それ以上のことは、何もありません」
深雪は、そう言って、優しく微笑んで見せた。
だが、その微笑みの裏で、彼女は人生で初めて、最愛のお兄様に対して明確な「嘘」をついている自分を自覚していた。
あの人の秘密を守るため。あの瑠璃色の美しい光の主を、お兄様の冷徹な排除の眼から守るため。
達也は深雪のそのわずかな、しかし決定的な心の変化を、精霊眼の知覚領域で確かに感知していた。
深雪が、自分に隠し事をした。
その事実が、達也の胸の内に、御守漣という少年に対する、これまでにない深い警戒心と、静かな怒りを宿らせていく。
(御守漣……。お前が深雪に何をしたかは知らないが、彼女を脅かす存在ならば、僕は容赦しない)
絶対に原作に関わりたくない転生者の必死の隠蔽工作は、皮肉にも、最強の風紀委員の底知れぬ敵意と、美しき生徒会書記の生涯消えることのない深い熱情を、完全に引き寄せる結果となってしまった。
窓の外では、夕日に赤く染まった桜の花びらが、彼らの足元を冷たく通り抜けて舞い散っていた。
* * *
同日夜、司波兄妹の自宅。
最新鋭のセキュリティシステムに保護されたリビングルームで、達也は一人、完全に私物化された非公式の並列演算処理端末を起動していた。
画面に点滅するのは、昼間、学内データベースからダウンロードした『御守漣』という少年のバイオメトリクス情報、および過去の実技試験での測定数値データである。
(実技適性、E)
(サイオン放出強度、標準値の5分の1以下)
(事象干渉力、実質的な限界値以下の低出力)
どれほど精査しても、データの数値は一貫して「魔法師としての実戦能力が欠落している」ことを示している。
第一高校に入学することすら奇跡に近い、名家の出来損ない。その評価は、提出されたどの試験記録を見ても覆りようがない。
だが、達也の脳内にインストールされた『精霊眼』の記憶は、そのデータの整合性を端から否定していた。
(昨日の美月の目前での情報消去。そして、今日の連絡通路ですれ違った際に見せた、サイオン相殺の無駄の無さ……)
達也は静かに目を閉じ、昼間の連絡通路でのやり取りを反芻する。
あの時、達也は深雪の不可解な行動を阻止するため、そして何より深雪をその正体不明の不審者から引き剥がすために、風紀委員としての腕章を盾に割り込んだ。
その際、達也は意図的に、常人であれば恐怖のあまりその場に頽れ、最悪の場合は精神領域に軽微なパニックを起こすほどの「戦闘用サイオン圧」を漣に向けて放っていた。
並みの魔法師であれば、そのサイオン圧を浴びせられた瞬間、身を守ろうと反射的に防壁魔法を全力で展開するか、あるいは自己防衛のためにサイオンを暴発させてしまう。
だが、あの少年は違った。
漣は怯えて見せた。肩を竦め、声を震わせ、いかにも「実力のない二科生が、威圧的な一科生に恐れをなした」かのような、完璧に計算された気弱な態度を。
しかし、達也の精霊眼は、その怯えた少年の体表に衝突した自身のサイオン圧が、衝撃波としての運動エネルギーも、威圧を構成する波動の情報構造も、すべて「ゼロ」に変換されて霧散していく様子を捉えていた。
(恐怖すらしていない。僕の放ったサイオンの圧力を、ただの呼吸と同じように、完全に『無』へと還元してのけた)
あれは、単なる防御魔法ではない。
対象の魔法式や運動ベクトルを情報次元から直接書き換える、あるいは「存在そのものを否定する」ような、極めて概念的で凶悪な固有の性質。
かつて沖縄の戦場で、深雪の命を奪おうとしたミサイルを消滅させたとされる『絶対の防壁』。
(あの力をこれほどまでに完璧に隠蔽し、かつ一般の落ちこぼれとして一高に潜み続けている理由は何だ)
達也の冷徹な思索は、一つの仮説へと辿り着く。
他国からの潜入工作員、あるいは十師族を含む国内の権力組織による隠密工作。
そのどちらであったとしても、あの少年が一高に潜んでいること自体が、この学校の安全、そして何より『深雪の平穏』にとって最大の爆弾であった。
達也にとって、この世で守るべき価値のあるものは司波深雪ただ一人。
たとえ国防の要と呼ばれる御守一族の人間であろうと、深雪に不穏な影を落とすのであれば、自分自身の手でその存在を世界の表舞台から『分解』し、消去する。
達也の胸の内に宿った、静かで、しかし決して消えることのない冷酷な殺意は、深夜の自室で静かにその温度を研ぎ澄ませていた。
同じ頃、自室のベッドの上で、深雪は一人、自室の明かりを消した暗闇の中で、自身の胸の鼓動を直に感じていた。
お兄様に、初めて嘘をついた。
その事実が、深雪の清廉な魂に、重く、しかしどこか甘美な痛みを伴って刻み込まれていた。
深雪にとって、司波達也は世界そのものであり、神に等しい存在だった。
彼を裏切ること、彼に隠し事をすることなど、これまでの人生において一度としてあり得なかった。
だが、昼間の連絡通路で。
お兄様が漣に対して、触れれば魂ごと切り裂かれかねないほどの、おぞましい殺気を孕んだサイオン圧を放ったあの瞬間。
深雪の心臓は、恐怖ではなく、かつてない焦燥で破裂しそうになっていた。
お兄様の『
(お兄様にあの方の真の力を知られてはならない。知られれば、お兄様はあの方を『驚異』とみなして、必ず排除しようとされる……)
あの人は、ただ静かに生きようとしているだけなのだ。
周囲から無能と笑われ、蔑まれ、一科生たちの格好の嘲笑の的になりながらも、彼はその美しい盾を誰にも見せようとはしない。
その不器用なほど徹底した「だんまり」の背後にある、言葉にできないほどの深い事情。
深雪は、彼を護りたかった。
お兄様の冷酷な刃から、あの瑠璃色の美しい光の主を。
そして何より、あの日自分を死の淵から救ってくれた、あの静かで優しい無口な少年の平穏を。
(私が……あの方の秘密を、守らなければ)
それは、お兄様への愛と忠誠を裏切る行為かもしれない。
だが、彼女の胸の内で、あの瑠璃色の静寂に対する憧憬は、お兄様への絶対的な帰依とはまた別の、彼女自身の『一人の少女としての自我』を、初めて強く、激しく励起させていた。
初めて共有した、お兄様の知らない、あの方と私だけの秘密。
深雪はベッドの中で膝を抱え、自分の火照るような頬を冷たい指先で抑えた。
明日もまた、学校であの人の隣の席に座るお兄様と、そのさらに隣で静かに本を読むあの人の姿を見ることになる。
交わるはずのなかった境界線。
絶対に原作に関わりたくなかった転生者・御守漣の必死の抵抗は、最強の兄妹の視線と、それぞれの異なる理由による『執着』を、完全にその身へと引き寄せる結果となってしまった。
夜は静かに更け、春の冷たい夜風が、窓の外の桜の梢を寂しげに揺らし続けていた。
土日どっちかのみの投稿になりそうです