矛盾があったらご報告ください
新入部員勧誘期間の3日目を迎えた第一高校の風紀委員会室には、放課後の重苦しい静寂が漂っていた。
スチール製の簡素なデスクに向かい、腕を組んで考え込んでいるのは、風紀委員長を務める3年生の渡辺摩利。その隣には、左腕に風紀委員の青い腕章を巻いた司波達也が、微動だにせず直立していた。
「――なるほどな。達也、お前がそこまで不審に思うのも無理はない」
摩利は、達也から提出された一昨日の第二小体育館での暴走事件に関する非公式の報告に目を通し、鋭い双眸を細めた。
達也の報告は、極めて不気味なものだった。
桐原武明の『高周波ブレード』の暴発により、観客席の柴田美月へ飛散した鋭利な木刀の破片。それが美月に直撃する直前、物理的な衝撃と運動エネルギーそのものが完全に相殺され、綺麗に消滅したという事実。
達也は自身の特異知覚能力である精霊の眼によってその現象を完璧に捉え、その発生源が同じ教室の隣の席に座る二科生、御守漣であることを看破していた。
だが、自身の極秘の能力を他人に明かすことなど、達也の行動理念において万に一つもあり得ない。
そのため、達也は摩利への報告において、あくまで「通常の範囲の観察」による仮説として、言葉を慎重に選んで説明していた。
「美月の目の前に飛来した破片が消滅した際、空間に残留サイオンの飛散が全く観測されませんでした。物理的に破片が弾け飛んだのではなく、何らかの事象干渉によって衝撃エネルギーの全中和が極小範囲で行われた可能性があります。その瞬間、近くにいた1学年E組の御守漣のサイオンが不自然な減衰を見せていました」
「御守漣か。実技のスコアは学年でも底辺、名家の落ちこぼれと聞いていたが……。お前がそこまで警戒するなら、ただの無能じゃないな」
摩利はデスクを指先でリズミカルに叩きながら、不敵な笑みを浮かべた。
彼女は、実技試験という画一的な評価基準だけで弾かれた二科生の中にも、規格外の特化能力を持つ原石が眠っていることを知っている。
「面白い。風紀委員は常に、防御や制圧に長けた人員を求めているからな。特に、実技数値だけでは測れない二科生の中には、思わぬ特化型の原石が眠っているものだ。お前の言う『監視』とやらも、風紀委員に引き込んで目の前に縛り付けておけば、一番都合が良いだろう?」
摩利は立ち上がり、自身の黒い風紀委員の制服を軽く整えた。
達也は、その摩利の提案を合理的であると判断した。
未知の要素を持つ対象を自分の監視下に置いて行動を制限する。そのためには、風紀委員という組織に彼を縛り付けるのが最も効率的だ。
「……分かりました。では、俺は先に訓練場で待機しています。彼の誘導は、委員長にお任せしてもよろしいでしょうか」
「ああ、任せておけ。逃がしはしないさ」
* * *
放課後。
漣は、今日も誰よりも早く校門を出て、完璧な下校ルートを辿るつもりで昇降口へと向かっていた。
だが、旧校舎との連絡通路を通り過ぎようとした瞬間、彼の前に立ちはだかる長身の影があった。
「おい、1年生。ちょっと面を貸せ」
鋭い眼光。ショートカットの黒髪に、黒い風紀委員の制服を翻した少女――渡辺摩利。
(うわ、出たよ。風紀委員長、渡辺摩利……。なんでピンポイントで俺を待ち伏せしてやがるんだ。絶対に嫌な予感しかしない)
漣は内心で激しく頭を抱えたが、その表情にはおどおどとした無能な二科生の仮面を完璧に貼り付けた。
「あの……私に、何か用でしょうか。私はただの二科生で、これから帰宅するところなのですが……」
「まあ、そう怯えるな。悪い話じゃない。ちょっとお前の『御守の防壁』、見せてほしいと思ってな」
摩利は有無を言わせぬ態度で漣の肩に手を置き、そのまま第一体育館の地下にある、風紀委員専用の室内訓練場へと彼を半ば強制的に連行していった。
訓練場に足を踏み入れた瞬間、漣は、その場に待ち受けていた面々を見て、完全に魂が抜けるような絶望を味わっていた。
室内には、すでに先回りして待機していた、左腕に腕章を巻いた司波達也。
そして、なぜかその傍らで、心配そうに胸元に手を当てて佇んでいる司波深雪の姿もあった。
深雪は、達也が風紀委員長と共に御守漣を呼び出し、その実力を測るための実力テストを強行しようとしていることを察知していた。
お兄様に彼を傷つけさせないため、そして彼の秘密を守るために、無理を言って同行を申し出ていたのだ。
摩利が漣を連れて訓練場に入ってきたのを受け、達也は静かに一礼した。
「風紀委員長。お待ちしておりました」
達也の声が、冷たく響く。
漣はだんまりを決め込み、俯きがちに立ち尽くした。
「さて、御守。単刀直入に言う。お前を風紀委員に推薦する声があってな。だが、お前が本当に実技スコア通りの無能なのか、それとも一族の名に恥じない強固な『壁』を持っているのか、私の目で確かめさせてもらう」
摩利は訓練用ステージの壇上に立ち、模擬戦用の木刀を構えた。
「ルールは簡単だ。ここで私と3分間、手合わせをしてもらう。お前が私の攻撃を3分間耐えきったら、勧誘は諦め、お前を二度と煩わせないと約束しよう。だが、耐えきれずにお前の防壁が破れたら――大人しく風紀委員に入ってもらう」
(絶対に嫌だ。なんで俺が風紀委員なんてトラブルの温床に入らなきゃいけないんだ。美少女に囲まれる達也のスリリングな日常を、隣の席でハラハラしながら見守るだけで俺の心臓は限界なんだよ……!)
漣は心の中で悲痛な叫びを上げながら、気弱な声を絞り出した。
「お、お言葉ですが、私は一族の中でもサイオンが最低値の出来損ないなのです。一高の風紀委員など、私のような落ちこぼれにはおこがましすぎます……。どうか、ご勘弁いただけないでしょうか」
「断る。名門なら、いくら落ちこぼれとは言え、防壁の一枚くらいは張れるだろ? ほら、CADを構えろ」
摩利は不敵に笑い、じりじりと間合いを詰めてくる。
漣は、カバンからあの旧式で低スペックな携帯端末型CADを取り出さざるを得なかった。
観客席から見つめる達也の瞳は、自身の特異な知覚を誰にも明かさないまま、深層の認識において漣の情報体を凝視していた。
そして深雪もまた、きつく握りしめた拳を胸元に当て、祈るような瞳で漣を見つめていた。
(御守さん、どうか……お怪我をなさらないで……)
深雪の脳裏には、あの日沖縄で自分を救った瑠璃色の美しい光が、鮮明に蘇っていた。
彼女は、目の前の青年が、自分の秘密を守るために、ここでも全力の力を隠し通そうとしていることを、誰よりも正しく理解していた。
「――始めるぞ!」
摩利の声と共に、模擬戦が開始された。
摩利がCADを操作し、瞬時に展開したのは気流を操作する真空刃。
視認不能な大気の刃が、鋭い風切り音を立てて漣へと肉薄する。
(くそ、普通に喰らったら首が飛ぶ! かといって、ここで『境界無化』の持つ本来の拒絶を展開して、あの真空刃を音もなく消去してしまえば、達也に一瞬で未知の異端の力だと見破られる……!)
漣の脳内演算領域が、かつてない超高速で回転し始めた。
生存を賭けた、極限の偽装防衛戦。
一番被害が少なく、それらしく見えるための解決策は一つ。
漣は、本来の境界無化のゼロ領域を、自身の体表からわずか数センチの位置に、あたかも御守一族の標準的な防御魔法である多重光子障壁が発動しているかのような、偽の情報を肉付けして展開した。
激しい衝突音。
「ッ……!」
漣の目の前に、今にもひび割れて砕け散りそうな、頼りない弾性障壁が展開された。
摩利の放った真空刃がその障壁に激突した瞬間、漣の常時防壁がそのエネルギーを極限まで中和し、消滅させた。
だが、漣はわざと、防壁が激しく火花を散らし、激しい衝撃波を周囲に物理的に発生させることで、ギリギリのところで耐えきったかのように見せかけたのだ。
「ほう……! なかなかいい防壁じゃないか!」
摩利の瞳に、好戦的な光が宿る。
彼女は休む間もなく、木刀を構えて物理的な接近戦を仕掛けてきた。
木刀から放たれる激しい斬撃が、漣の防壁を次々と叩きつける。
漣は、わざと一歩、二歩と後退り、呼吸を荒くし、あたかもサイオンが枯渇しかけて限界を迎えつつある落ちこぼれの演技を徹底した。
防壁が木刀の一撃を浴びるたびに、ガラスが割れるような派手なクラッシュ音を響かせ、今にも壊れそうな脆さを演出する。
(強すぎても怪しまれる、弱すぎたら普通に骨が折れる……! 力加減が難しすぎるだろ、この手合わせ!)
漣は心の中で冷や汗をダラダラと流しながら、模擬戦用の時計の針を盗み見た。
残り時間、1分。
観客席の達也は、その漣の不自然な防壁の崩壊プロセスを、自身の冷徹な観察眼でじっと凝視していた。
(……やはり、偽装している)
達也は、冷徹に漣のサイオンの流れを分析していた。
確かに、漣の防壁は今にも砕け散りそうに見える。
物理的な衝撃に対しても、漣は必死に押し戻されているように見える。
だが、その防壁が砕け散る瞬間のサイオンの消失データが、あまりにも完璧に整理され、綺麗に消えすぎているのだ。
まるで、最初からそこに衝突したはずの摩利の攻撃ベクトルそのものを、境界線上で虚無へと吸い込んでいるかのように。
漣の息の乱れも、サイオンの枯渇も、すべてが緻密に計算された無能の演技である可能性が、達也の論理的思考の中で確信へと変わりつつあった。
そして、そのすぐ隣に立つ深雪の胸の内は、今にも破裂しそうなほどの焦燥と、漣に対する痛々しいほどの庇いたいという熱い想いで支配されていた。
(御守さん、あそこまでして……ご自身の力を隠そうとなさるのですね。皆様の目をごまかすために、ご自身を傷つけてまで……)
あのような絶対の力を持っていながら、それをごまかすためだけに、これほど屈辱的な無能の演技を強いられ、床の上を無様に這いずっている。
実力を隠したいという彼自身の頑なな都合を守るため、自分たちの前でひたすら嘲笑の的になり、這いつくばっている漣の姿。
その哀れで、しかし一途なまでに自らを守ろうとする泥臭い姿は、深雪の心に、この上ない愛おしさと、達也たちの理不尽な追及に対する静かなる憤り、そして何よりも私が彼を護らなければならないという強烈な庇護欲を呼び覚ましていた。
「これで、最後だ――!」
摩利が木刀を大きく振りかぶり、限界出力を超えた渾身の一撃を振り下ろした。
漣の目の前にあった頼りない防壁が、派手な爆音と共に粉々に砕け散った。
「っ……!」
漣は、その衝撃に押し出されるようにして、わざと無様に後ろへと大きく転がり、訓練場の床の上に激しく尻餅をついた。
手からこぼれ落ちた旧式のCADが、甲高い音を立てて床を滑っていく。
摩利は「まだいけるな?」と、追撃、あるいは倒れた彼の底をさらに測るかのように、一歩足を踏み出した。
その瞬間。
「――そこまでになさいませ、風紀委員長」
凜とした、しかし背筋が凍りつくような冷気を帯びた美しい声が、訓練場を支配した。
深雪が、いつもの完璧な氷の美姫の佇まいのまま、摩利の前に静かに割り入るようにして、一歩前へと踏み出していた。
彼女の全身から漏れ出る凍てつくようなサイオンの気圧が、訓練場の温度を確実に数度下げ、摩利の追撃の気配を完全に凍りつかせて制止する。
「3分間の時計は、すでに今、タイムアップを告げました。これ以上の追撃は、デモンストレーションの枠を超えた一方的な暴力とみなされかねません。生徒会の立場としても、これ以上の続行は見過ごせません」
深雪は冷たく、美しい瞳で摩利を射抜いた。
その毅然とした立ちはだかりは、表向きは生徒会役員としてのルールの遵守を謳っているが、その実体は、床に倒れ伏す漣をこれ以上傷つけさせまいとする、彼女自身の必死の盾であった。
床に這いつくばる漣は、自分の目の前に立ちはだかる深雪の美しい背中を見上げ、内心で深く息を吐いた。
(……助かった。深雪、ナイスアシストだ。あのまま渡辺摩利の追撃を喰らってたら、使わずにはいられなかったかもしれないな、ありがとう……)
漣は、深雪が文字通り自分を庇ってくれたことに対する深い感謝を、その冷や汗のなかで確かに感じていた。
「……ふむ。確かに、タイムアップだな。少し熱が入りすぎた、悪かったな、御守」
摩利は小さくため息をつき、木刀を肩に担ぎ直した。
深雪が放った冷たいプレッシャーに、これ以上の追撃は無意味であると悟ったのだ。
漣は、床にへたり込んだまま、わざと激しく肩で息をし、髪を乱しながら、消え入りそうな情けない声を絞り出した。
「はぁ、はぁ……。やはり……私には、これ以上は……。防壁も、完全に砕けてしまいました……。私のような無能には、風紀委員など……とても無理です……」
漣は、完璧なだんまりと情けない落ちこぼれの演技を最後まで徹底した。
これだけ無様に防壁を破られ、床に転がってみせ、さらに深雪にまで庇われる情けなさを示したのだ。
これ以上、摩利が勧誘を続ける理由はない。
「分かった。3分間耐えきったのは事実だ。約束通り、勧誘は諦めよう。だが、お前、本当にただの出来損ないなのか?」
「はい……一族の恥晒しです」
漣は即座に、力強く、そして情けなく答えた。
彼はそそくさと床から立ち上がり、滑っていったCADを拾い上げると、風紀委員会室の面々から逃げるように、深々と一礼をして訓練場を後にした。
重苦しい静寂が、再び訓練場に降りる。
「……達也。お前はどう見た?」
摩利が、去り行く漣の背中を見送りながら、達也に問いかけた。
達也は、一般的な魔法工学および観察眼に基づく冷徹なプロファイリングとしての、もっともらしい分析を摩利に提示しようとした。
「……彼の防壁が砕けた際、サイオンの枯渇があまりに急激すぎました。通常の破砕であれば、空間に飛散する残留サイオンが確認されるはずです。しかし、彼の魔法の崩壊にはその痕跡が全くなかった。魔力枯渇による崩壊を装うために、自ら魔法式を解除して見せかけたと――」
達也が、漣の真の実力と嘘を冷徹に告発しようとした、その刹那。
「お兄様」
深雪が、その達也の言葉を優しく、しかし有無を言わせぬ強い調子で遮った。
「御守さんは、御守の一族でありながら、一族の基本的な術式を維持することすら、周囲から出来損ないと言われるほどに苦労されていると聞いております。……今日の手合わせも、彼は自らの誇りすら捨てて、限界を超えて耐え凌いでいただけなのではないでしょうか。お兄様の目には不自然に映ったかもしれませんが、私には……彼が、とても痛々しく見えましたわ」
深雪は、達也の鋭い分析を、彼への同情と、彼が本当に限界であったという方向へミスリードするように、優しく、しかしはっきりと漣を庇うための擁護を口にした。
達也は、深雪がここまで特定の他者――それも一見無能な二科生の少年を明確に庇い、自分に対して言葉を遮ってまで同情を寄せているその姿を見て、論理回路に生じた深刻なエラーのような、冷たい衝撃を覚えていた。
深雪が、自分に対して嘘をつき、他者を擁護している。
達也は、深雪がこれほどまでにその少年を庇う理由を、まだ知らない。
だが、深雪がそこまで言うのならと、達也はそれ以上の分析の追及を一度保留することにした。
「……そうか。深雪がそこまで言うなら、俺の見間違いだったのかもしれない。少し、観察過剰だったな」
「いいえ、お兄様。お兄様が学内の安全のために気にかけてくださるのは、とても素晴らしいことですわ」
深雪はそう言って、いつものように達也に甘えるような美しい微笑みを返した。
だが、その微笑みの裏で、彼女は達也を騙し、あの人の平穏を守り抜いたという、かつてない強烈な背徳感と、漣に対する秘密の共有者となったことへの、狂おしいほどの喜びを噛み締めていた。
達也は、深雪の微笑みを正面から受け止めながらも、その最深部において、御守漣に対する警戒心を、最も排除すべき
(御守漣……。お前が深雪に何をしたかは知らないが、深雪の精神構造に干渉し、俺に嘘をつかせるほどの存在であるならば、必ずその情報を解体し、排除する)
夕日に赤く染まった第一体育館の窓から、斜光が差し込む。
その光は、彼らの間に引かれた、決して交わることのない境界線を、冷たく、そして不気味に照らし出していた。