絶対防壁の転生者は平穏に暮らしたい   作:雨風 時雨

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第8話

 新入部員勧誘期間が終わりを告げた4月中旬。第一高校の学内には、澱のように重く沈殿した空気が漂っていた。

 

 一科生と二科生の格差問題。それは先の模擬戦暴走事件や廊下での衝突を経て、もはや隠しきれない明確な亀裂となっていた。生徒たちの間では不穏な噂や冷ややかな視線の応酬が日常化し、一触即発の緊張感が校舎を包んでいる。

 

 御守漣は、放課後のチャイムが鳴ると同時に、周囲との関わりを絶つようにして教室を後にした。

 

 隣の席の司波達也は、数日前の廊下の一件以来、不気味なほどに静まり返っている。だが、その無機質な静寂こそが、達也が漣を本格的にマークし始めた何よりの証拠だった。

 

(……これ以上ここにいたら胃に穴が開く。達也の気が変わらないうちに、さっさと帰宅しよう)

 

 漣は内心で冷や汗を拭いながら、本館の賑やかな昇降口を避けた。人通りの少ない旧校舎の裏手を抜ける下校ルートを選び、足早に歩を進める。

 

 その時だった。

 

「御守くん。少し、お話しできるかしら」

 

 背後からかけられた凛とした声に、漣の足が止まる。

 

 振り返ると、そこには真剣な色を浮かべた2年生の女子生徒、壬生紗耶香が立っていた。剣道部のエースでありながら、二科生としての待遇改善を求める生徒たちの中心人物である。

 

(……このタイミングで、壬生先輩か)

 

 漣は内心で舌打ちをしながらも、瞬時にいつもの気弱な二科生の仮面を被った。

 

「あ、あの……何か、私に用でしょうか。これから帰宅するところなのですが……」

 

「ええ。引き止めてごめんなさい。でも、あなたの噂は私たち二科生の間でも聞いているわ」

 

 紗耶香は、漣のエンブレムのない胸元を見つめ、共感を誘うような瞳で語りかけてきた。

 

「あなたは御守の一族に生まれながら、実技の数値が低いというだけで、周囲から酷い扱いを受けているそうね。風紀委員からは無理やり手合わせを強要されてボロボロにされたと……」

 

(誰だ、そんな尾鰭をつけて俺の評判を広めたのは……)

 

 漣は顔を引きつらせたが、紗耶香の目は極めて真剣だった。彼女は、理不尽な格差に苦しむ二科生たちを救うため、純粋な正義感から漣を自分たちの活動に引き込もうとしていた。

 

「御守くん。一科生たちの傲慢な態度に、あなたも不満があるはずよ。あなたの御守としての防壁の知識も、決して無駄なものではないわ。……私たちと一緒に、一高の歪んだルールを正すための活動に参加しないかしら?」

 

 紗耶香の勧誘は熱を帯びていた。だが、原作の知識を持つ漣は、彼女たちのような不満を持つ生徒たちの背後に、反魔法テロ組織である『ブランシュ』の影がちらついていることを知っている。

 

 ここで頷けば、近く起こるであろうテロ騒動の際、最前線に立たされることは火を見るより明らかだった。

 

「お、お言葉ですが……!」

 

 漣はわざとらしく声を震わせ、深く頭を下げた。

 

「私は本当に、実技の才能がないだけの出来損ないなのです。先輩方がおっしゃる通り、私は一族の面汚しに過ぎません……。私には、そんな大層な活動に参加する資格も、勇気もありません。……どうか、私のことは放っておいてください!」

 

 漣はそう言い捨てるなり、紗耶香が引き止める間も与えず、そそくさとその場を立ち去った。

 

 紗耶香は、逃げるように去っていく漣の背中を、同情と無念さが入り混じった瞳で見送っていた。

 

 * * *

 

 その光景を、数十メートル離れた旧校舎の窓から、冷徹な眼光で見下ろしている少年がいた。

 

 達也である。彼は風紀委員としての学内パトロールの最中、漣の動向を密かに追跡し、今のやり取りを静かに分析していた。

 

(御守漣。上級生からの勧誘に対し、異常なまでの早さで自己を卑下し、逃走を図った。……単なる臆病者の反応ではない。まるで、彼女たちの背後にある危険を最初から知っているかのような立ち回りだ)

 

 達也はすでに入学直後、漣に関する表向きの経歴データには目を通していた。だが、そこには実技能力の低い名家の落ちこぼれという事実しか記載されていなかった。

 

 しかし、この数日で彼が見せた隠蔽技術は、軍や十師族の暗部にも匹敵するものだ。

 

(表のデータベースはすでに洗ったが、不審点は何一つ出なかった。あの完璧な偽装情報そのものが、彼の実態を巧妙に覆い隠している。……四葉の諜報網をさらに深く潜らせて、御守一族の裏の秘匿情報にまで直接アクセスする必要があるな)

 

 達也は実務的な処理手順だけを脳内で組み上げると、速やかにその場を去っていった。

 

 * * *

 

 そして、その達也の視線すらも、さらに高い位置から見つめている者がいた。

 

 本館の生徒会室。その窓際から、司波深雪は中庭の隅で行われた漣と紗耶香の会話を、静かに見下ろしていた。

 

(御守さん……。また、あのようにお心にもない仮面を被って、ご自身を卑下していらっしゃる)

 

 深雪は、書類を持つ手に微かに力を込めた。

 

 学内では今、二科生の待遇改善を求める声が日に日に大きくなっている。それに乗れば、彼も二科生たちの間で相応の居場所を得られたかもしれなかった。

 

 だが、彼は自ら一族の恥晒しという泥を被り、徹底的に騒ぎから遠ざかろうとした。

 

 彼が学内の不穏な空気や、達也たち風紀委員との衝突をいち早く予感し、自衛の手段を取っていることは、深雪にも容易に想像がついた。

 

(……このまま学内の不満が爆発し、騒動が過激化すれば、あの方も否応なしに巻き込まれてしまう)

 

 彼が必死に保とうとしている平穏な日常。それを守るためには、どうすればいいか。深雪の思考は、単なる感傷を捨て、生徒会役員としての極めて実務的な判断へと切り替わっていた。

 

(お兄様が風紀委員として実力行使に出る前に、生徒会として二科生たちの不満を早期に吸収し、事態を穏便に収拾しなければ。それが、あの方をこれ以上の危険から遠ざける唯一の方法……)

 

 深雪は冷たく透き通った瞳で中庭を見つめながら、次なる生徒会の会議に向けて、自らの頭の中で具体的な方策を練り始めていた。

 

 * * *

 

 その日の夜。自分のアパートのベッドに寝転がった漣は、重い溜息をつきながら天井を見上げていた。

 

 昼間の紗耶香からの勧誘。それは、原作における『ブランシュ襲撃テロ事件』の足音が、すぐそこまで迫っていることを意味していた。

 

 これまでは、達也の鋭い観察眼や、深雪の過剰な庇護に対してどう立ち回るかばかりに頭を悩ませてきた。

 

 だが、これからの数日間で起きる事態は、そんな個人的な関係性の次元ではない。武装したテロリストたちが銃器と魔法を持ち込んで学内になだれ込んでくる、本当の戦場だ。

 

(二科生の不満が爆発して、それを合図にテロリストの実行部隊が侵入してくる。達也や風紀委員が鎮圧に動くはずだが……問題は、俺がどう動くかだ)

 

 漣は思考を巡らせる。完全に身を隠して、すべてを達也たちに任せきりにできれば一番いい。

 

 しかし、もしテロリストの侵入経路上に自分が居合わせてしまったら? あるいは、達也がこの混乱に乗じて、どさくさ紛れに俺の防壁を破ろうと、裏から意図的に危険な状況を仕掛けてきたら?

 

 そして何より、深雪だ。彼女は自分の身に危険が迫れば、周りの目など気にせず、再び過激な魔法行使に走る可能性がある。

 

 もし彼女がテロリストの銃弾の前に立ちはだかるようなことがあれば、俺はどうする?

 

(ただ逃げ隠れしているだけじゃ、確実に詰む。達也の目をごまかしつつ、いざという時に事態を処理できる準備をしておかないと)

 

 漣はベッドから身を起こし、机の上に置かれている普段使いの旧式の携帯端末型CADを一瞥した。ライターの火すらまともに点けられない、完璧な落ちこぼれを演じるためのダミーデバイスだ。

 

 このダミーCADの貧弱な演算能力をフルに回しても、事象を無化する防壁を体表数ミリのパッシブや、柴田美月を助けた時のような手のひらサイズの極小展開に留めるのが限界だった。

 

 もしこの旧式CADで『境界無化』の本来の出力――広範囲の事象消去を無理に展開しようとすれば、CADの演算領域が即座にパンクし、制御を失った無の暴走が自分ごと周囲を飲み込んでしまう。

 

「……いざという時のために、あっちを出しておくか」

 

 漣は立ち上がり、部屋のクローゼットの奥に隠してある、厳重にロックされた小型のジュラルミンケースを取り出した。指紋とサイオン波長による2重の生体認証を解除し、蓋を開ける。

 

 そこに収められていたのは、魔法科高校の生徒が持つ一般的な銃型や携帯端末型のCADではない。

 

 前世の記憶を持つ漣が、御守一族の開発部門に無理を言って作らせた、彼専用の特注デバイス。それは、前世のVRゲームなどで使われていた『片手用モーションコントローラー』に似た形状のCADだった。

 

 片手でしっかりと握り込める流線型のグリップ。親指の配置箇所には小型のアナログスティックが備わり、人差し指と中指をかける位置には感圧式の物理トリガーが複数配置されている。

 

 現代の魔法師から見れば、おもちゃのようで異端すぎる形状。だが、転生者である彼にとって、この前世で慣れ親しんだ直感的な操作体系こそが、複雑な多次元の変数を最速で入力するための最適なインターフェースだった。

 

 この特注CADの圧倒的な演算補助と、親指とトリガーを使った直感的なコマンド入力があって初めて、漣は己の真の力――周囲の空間そのものを完全に制圧するような、広範囲かつ高難度な固有魔法を完璧に制御し、展開することが可能になる。

 

 片手で完結するため、もう片方の手を自由にしたまま素早い移動や回避行動を取れるのも、戦闘を避けて立ち回りたい彼にとっては理想的だった。

 

 漣はグリップを右手に握り込み、指先に馴染むスティックとボタンの感触を確かめた。

 

 これまでは、このケースを開けることすら避けてきた。このデバイスを取り出さなければならないような、血生臭い事態に巻き込まれること自体を徹底的に拒絶してきたからだ。

 

 だが、弾丸と魔法が飛び交う状況下では、もう気弱な二科生の演技など通用しない。

 

 自分の『境界無化』をどのタイミングで展開し、いかにして達也の『精霊の眼』からその痕跡を偽装しつつ、テロリストを無力化するか。

 

 迫り来る不可避のテロというイベントに対し、彼は静かなアパートの部屋で、一人、手元のスティックを弾きながら明確な戦術的シミュレーションを開始していた。




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