ブラック魔法少女、実録   作:クロヒツキ

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第1話

 ノイズ発生警報がスマホを震わせたのは、コンビニのレジで商品をスキャンしている最中だった。

 

 午前六時二十三分。早朝シフトの終わり際だ。久我明日香は手に持っていた牛乳パックをカゴに戻し、アルバイトの制服のままバックヤードへ走った。

 

「すみません、体調悪いんで早退します」

 

 嘘だ。店長も気づいている。でも、このコンビニの時給は九百八十円。止められてシフトを失うほうが痛い。

 

 ロッカーから自分の鞄を掴み、非常階段を駆け下りる。スマホの警報アプリが震え続けている。震源地はここから四百メートル。徒歩五分。変身すれば三十秒。

 

 階段を降りながら、明日香は左手首のクレジットデバイスを操作した。画面が起動し、エテルナ・クレジット社のロゴが浮かぶ。その下に、数字。

 

【現在のご融資残高:5,412,000円】

 

【うち利息未払分:63,000円】

 

【延滞日数:0日】

 

 画面をスワイプし、変身申請フォームを呼び出す。融資枠の残りは三百二十万円。今日はまだ変身していないから、日割り利息は最低限で済む。

 

「変身、申請します」

 

 デバイスに向かって声で認証する。生体認証が通り、エテルナ社のサーバーから魔力供給が開始される。

 

 全身が熱くなる。制服の上から「アーマー」が展開されていく。ただし、明日香のアーマーは安物だ。グレードC。契約開始時に選んだ「低コストプラン」の標準装備。黒と灰色のジャケットとパンツ。肘と膝に最低限のプロテクター。胸元にはエテルナ社のロゴ。そして背中には、提携金融機関「太閤ファイナンス」の広告が白抜きで浮かび上がる。

 

 広告料は月々の返済から天引きされる。広告が入るぶん金利が0.3パーセント下がる仕組みだ。明日香は迷わず広告ありを選んだ。見栄を気にする余裕はない。

 

 変身完了と同時に、視界の右端にタイマーが表示される。変身時間のカウントだ。1分ごとに十円、いや十万円が積み上がる。正確には、戦闘行動を取らなければ一分五万円。攻撃魔法を使えば別料金。防御魔法も。飛行魔法は一分十五万円。すべて従量課金。

 

 タイマーの横に、推定利用料がリアルタイムで表示されている。

 

 今はまだ「0円」。ここからだ。

 

 明日香は地面を蹴った。

 

 身体が跳ねる。強化された脚力で、駐車場のフェンスを飛び越え、住宅街の屋根を蹴って加速する。変身中の身体は驚くほど軽い。世界がスローモーションに見える。風の抵抗すら心地いい。

 

 この感覚だけは、正直、嫌いになれなかった。

 

 震源地は小さな公園だった。ブランコと滑り台と、砂場。朝の公園に人影はない。その中央で、空気が歪んでいる。

 

 歪みの中心に、ノイズがいた。

 

 ノイズは形が定まらない。黒い霧のようなものが、人の形を模倣しようとして失敗している。腕が三本に見える瞬間もあれば、頭部が二つに分裂する瞬間もある。輪郭が震え、ノイズが走る。目を凝らすと、霧の奥に人間の顔のようなものが浮かんでいる。歪んだ口が、何かを叫んでいる。

 

 無音だった。

 

 ノイズの周囲では、公園の砂が浮遊していた。ブランコの鎖が、誰も触っていないのに揺れている。物理法則が局所的に書き換えられている。

 

 明日香は公園の入口で着地し、デバイスをタップして戦闘モードを起動した。

 

【戦闘モード:基本料金適用中】

 

【身体強化:1分あたり50,000円】

 

【攻撃魔法(低出力):1発30,000円】

 

【防御魔法(部分展開):1回100,000円】

 

 ノイズが明日香を認識した。歪んだ顔がこちらを向く。口が開く。声は出ていない。でも、何を言っているかわかる。

 

 ——助けて。

 

 いつものことだ。ノイズはいつもそうだ。何かの助けを求める仕草をする。それが獲物を誘う習性なのか、それとも本当に助けを求めているのか、誰も知らない。

 

 知りたくもない。

 

 明日香は右手を前に出した。

 

「攻撃魔法、低出力。一発」

 

 デバイスが承認音を鳴らす。掌に光が集まる。熱い。ビリビリと痺れる。光は野球ボール大の球体になり、明日香の指先から放たれた。

 

 光球は一直線にノイズへ飛び、着弾した。

 

 命中。黒い霧が散り、ノイズの形がさらに崩れる。でも消えない。ノイズは公園の砂場に倒れ込み、砂を巻き上げながらもがいている。

 

【攻撃魔法×1:30,000円】

 

 もう一発。今度は少し大きめの光球を作る。掌が焼けるように熱い。指先が痺れる。

 

「攻撃魔法、中出力。一発」

 

【攻撃魔法(中出力):1発100,000円】

 

 光球がノイズの中心を貫いた。今度こそ、霧が晴れるように消えていく。空中に浮遊していた砂が落ち、ブランコの鎖が動きを止めた。

 

 ノイズが消えた場所に、小さな結晶が落ちている。魔力結晶だ。親指の先ほどの大きさ。透明度が低く、濁った緑色をしている。

 

【戦闘終了】

 

【本日のご利用明細】

 

【身体強化:2分18秒=115,000円】

 

【攻撃魔法(低出力)×1:30,000円】

 

【攻撃魔法(中出力)×1:100,000円】

 

【合計:245,000円】

 

【本日分の返済期限:2026年7月31日】

 

【現在のご融資残高:5,657,000円】

 

 明日香は息を吐いた。戦闘時間、約二分。二発で仕留めたのは上出来だ。いつもなら三発は必要だし、防御魔法を使えばもっと嵩む。今日はノイズが小さかった。運がいい。

 

 でも、二十四万五千円。

 

 コンビニの時給九百八十円。二十四万五千円を稼ぐには、二百五十時間。一ヶ月のバイト代が、二分の戦闘で消えた。

 

 変身を解除する。全身を覆っていたジャケットとパンツが光の粒子になって消え、制服姿に戻る。太閤ファイナンスの広告も消える。

 

 身体が重くなる。頭が痛い。吐き気がする。魔力二日酔いだ。いつものことだ。変身の反動で、身体から魔力が抜けるときに起こる症状。慣れた。慣れてしまった。

 

 明日香は公園の砂場に落ちている魔力結晶を拾った。濁った緑色の石。これをエテルナ社の買取窓口に持っていけば、相場で買い取ってくれる。今日の相場はいくらだろう。アプリを開く。

 

【本日の魔力結晶買取価格:1g=1,200円】

 

 この石はせいぜい二グラム。二千四百円。借金は二十四万五千円増えた。差し引き、二十四万二千六百円の赤字。

 

「上出来なのに、か」

 

 明日香は結晶をポケットに入れた。朝日が昇り始めている。住宅街の窓に光が反射する。そろそろ学校へ行く準備をしなければ。母はもう起きている時間だ。灯も。

 

 灯。

 

 妹の顔が浮かぶ。明日香はデバイスの別の画面を開いた。家族情報。灯の名前と、その下に「魔力適性値」が表示されている。

 

【久我灯:魔力適性値87.3】

 

 87.3。高い。明日香自身の適性値が72.1だから、妹のほうがずっと上だ。エテルナ社がこの数字を見たら、真っ先に営業をかけるだろう。十五歳になったら正式な契約が可能になる。灯はあと一年で十五歳だ。

 

 まだ灯には話していない。自分の借金も、魔法少女の仕組みも、適性値のことも。

 

 話せるわけがない。

 

 スマホが震えた。妹からのメッセージだ。

 

『朝ごはん、いる?』

 

 明日香は数秒迷って、返信した。

 

『食べる。いま帰る』

 

『パン焼いとくね』

 

 灯は毎朝、姉がコンビニのバイトから帰ってくる時間に合わせて朝食を用意する。母は看護師で夜勤が多いから、朝は灯が台所に立つことが多い。明日香が先に起きる日は明日香が作る。暗黙の分担だった。

 

 明日香は走って家に戻った。息が切れる。変身していない身体は重く、足がもつれる。頭痛が悪化してきた。家のドアを開けると、トーストの匂いがした。

 

「おかえり」

 

 灯が台所から顔を出す。中学生の制服を着ている。朝日を受けて、髪が透けて見える。

 

「ただいま。お腹空いた」

 

「コンビニでなんか食べてきたんじゃないの?」

 

「食べてない。忙しかった」

 

 嘘だ。でも、どのみち嘘をつくならこれくらいのほうがいい。

 

 テーブルにはトーストと目玉焼きとサラダが並んでいた。灯は向かいの席に座って、スマホをいじっている。

 

「ねえ、明日香」

 

「ん」

 

「魔法少女って、どんな感じ?」

 

 トーストを口に運びかけた手が止まる。明日香は表情を動かさずに、トーストを一口かじった。咀嚼して、飲み込んでから口を開く。

 

「なに、急に」

 

「友達がさ、適性検査で引っかかって。今度説明会に行くんだって」

 

 魔力適性検査。中学二年の秋に、全校一斉で行われる。灯も去年、受けた。その結果が87.3だ。でも、その数字は本人には通知されない。通知されるのは親と、そしてエテルナ社だけだ。

 

 母はあの数字の意味をよく理解していない。明日香は母に「大したことない数値だった」と説明した。嘘だ。

 

「どんな感じ、って聞かれても」

 

 明日香は目玉焼きを箸で割った。黄身がトーストの上に流れる。

 

「テレビでやってるようなのとは、多分、違うと思うよ」

 

「ちがうの?」

 

「ああいうのは広告だから。エテルナ社の」

 

 灯は少し首をかしげて、スマホの画面を明日香に見せた。

 

「これ、おとといのニュース」

 

 画面には、魔法少女の変身姿が映っていた。グレードAのドレス型アーマー。胸元にエテルナ社のロゴ。見出しは『若き魔法少女、ノイズから繁華街を守る! 都内で過去最大級のノイズを討伐』。

 

 その下に、小さく「提供:エテルナ・クレジット株式会社」と書いてある。

 

「かっこいいなと思って」

 

「かっこいいのは、あの衣装がグレードAだからだよ」

 

「グレード?」

 

「契約のランク。高いほど見た目は派手。維持費も跳ね上がる」

 

 灯が目をぱちぱちさせる。

 

「なんで知ってるの?」

 

 口が滑った。

 

 明日香は平静を装って、サラダを箸でつまんだ。

 

「ニュースでやってた。魔法少女にもいろいろあるんだって。契約のコースとか」

 

「ふうん。詳しいんだね」

 

「まあ、気になるし」

 

 会話を終わらせるために、明日香はトーストを急いで口に詰め込んだ。灯はまだ何か言いたそうだったが、時計を見て「もう行くね」と立ち上がった。

 

「ごちそうさま。食器は洗っておいて」

 

「うん。行ってらっしゃい」

 

 灯が玄関を出る。ドアが閉まる。

 

 一人になった台所で、明日香は深く息を吐いた。手が震えている。頭痛はまだ続いている。吐き気も。

 

 食器を流しに持っていき、水を出す。両手に水を溜めて顔を洗う。冷たい。頭が少しだけ冴える。

 

 デバイスが震えた。

 

 通知じゃない。着信だ。

 

 画面を見る。発信者は「栗原莉子」。リコだ。先月、魔法少女になったばかりの後輩。

 

「もしもし」

 

『明日香さんっ、ノイズが出てて、近くで警報鳴ってて、でも私、今日まだ変身してなくて、どうすればいいですか、変身していいですか、でもお金が』

 

 声が震えている。パニックを起こしている。

 

「落ち着いて。場所は」

 

『駅前の、ドラッグストアの近くです。今、駐車場に隠れてて』

 

「わかった。向かう。変身は待って」

 

『でも、警報がずっと鳴ってて、誰かが近づいたら』

 

「待て。リコ、お前の今月の変身、まだ余裕あるのか。借金額は」

 

 電話の向こうでリコが息を呑む。返事がない。

 

「残高、教えろ」

 

『……いま、五十二万です。先月分の返済もまだで』

 

 今月まだ五日だ。五十二万なら、もう変身の余裕などない。これ以上使えば、返済できずに延滞が始まる。そして三ヶ月延滞すれば、回収が来る。

 

 明日香は右手を握った。デバイスの画面をスワイプする。

 

【現在のご融資残高:5,657,000円】

 

「私が行く。お前は動くな」

 

『でも、明日香さんだって』

 

「五分で着く」

 

 電話を切る。デバイスでノイズ発生情報を確認する。震源地は駅前のドラッグストア。ここから走って三分。変身すれば三十秒。

 

 変身を申請するか。

 

 それとも、変身せずに行くか。変身せずに行っても、何もできない。魔法少女の身体強化がなければ、ノイズには触れることすらできない。

 

「変身、申請します」

 

 生体認証。サーバーからの魔力供給。身体が熱くなる。今度はさっきより熱い。連続変身の負荷だ。魔力二日酔いの上から、さらに魔力を注ぎ込まれる。胃がひっくり返りそうになる。

 

 制服が消え、アーマーが展開する。広告入りのグレードC。太閤ファイナンスのロゴが背中に浮かぶ。

 

【変身受付完了】

 

【現在のご融資残高:5,657,000円】

 

 明日香は地面を蹴った。

 

 駅前のドラッグストア駐車場。リコは車の陰にしゃがみ込んでいた。まだ十五歳。中学生だ。制服を着ている。手にはクレジットデバイス。画面が光っている。変身申請の一歩手前で止まっている。

 

「リコ」

 

 顔を上げるリコ。泣いている。

 

「あ、あの、私、やっぱり変身します。迷惑かけられないし」

 

「迷惑とかそういう話じゃない」

 

 明日香は駐車場の奥を見た。空気が歪んでいる。ノイズだ。今朝倒したものより大きい。黒い霧が、車のボンネットを腐食させている。金属が軋み、塗装が剥がれていく。

 

「ここは私がやる。お前は下がってろ」

 

「でも、明日香さんの借金」

 

「もう増えてる。最初からだ」

 

 明日香は両手を前に出した。

 

【攻撃魔法(中出力):1発100,000円】

 

 光球を作り出そうとした瞬間、ノイズが急に動いた。駐車場の車を飛び越え、明日香の目の前に迫る。反応が遅れた。さっきの戦闘の疲労と、連続変身の負荷が、身体を鈍らせている。

 

 防御魔法が間に合わない。

 

 ノイズの腕のようなものが、明日香の肩を切り裂いた。アーマーが破れ、皮膚が裂ける。熱い。血が噴き出す。

 

【戦闘中被弾を検知しました】

 

【治癒魔法の自動申請を行いますか? (1回:300,000円)】

 

「自動申請を停止。治癒魔法は自分で出す」

 

 デバイスに怒鳴る。自動申請のデフォルト設定を変えていなければ、ここで三十万円が加算されていた。エテルナ社は「安全のため」と称して、契約時に自動申請をオンにしている。

 

 肩から血を流しながら、明日香は光球を放った。

 

 一発、二発。ノイズの動きが鈍る。

 

 三発目で、ノイズは輪郭を失った。黒い霧が散っていく。駐車場の空気が元に戻る。

 

 ノイズが消えた場所に、また小さな魔力結晶が落ちている。今度はさっきより小さい。濁った緑色。二つとも。

 

【戦闘終了】

 

【本日のご利用明細】

 

【変身2回目:身体強化3分14秒=162,000円】

 

【攻撃魔法(中出力)×3:300,000円】

 

【被弾によるアーマー損傷】

 

【治癒魔法未使用】

 

【2回目合計:462,000円】

 

【本日合計:707,000円】

 

【現在のご融資残高:6,119,000円】

 

 六百万を超えた。

 

 明日香は肩を押さえながら、駐車場の縁石に座り込んだ。アーマーが破れた部分から、血が滴っている。治癒魔法は使わない。三十万円を節約するためだ。この程度の傷は、変身を解けば自然治癒が早まる。それで間に合う。

 

 リコが駆け寄ってくる。

 

「明日香さん、血が」

 

「平気だ。これくらい」

 

「でも」

 

「それより」

 

 明日香はリコの手首を掴んだ。デバイスが付いているほうの手首だ。画面を覗き込む。

 

【現在のご融資残高:528,000円】

 

【延滞:1日】

 

「延滞してるじゃないか」

 

 リコは黙ってうつむく。

 

「連絡は来てるのか。エテルナ社から」

 

「メールが。今日、電話も」

 

「内容は」

 

「明日までに返済がない場合、回収手続きに入るって」

 

 回収手続き。黒崎の顔が頭をよぎる。回収部門の連中は、期日を過ぎたら容赦しない。半年ほど前に、延滞した魔法少女が回収される現場を見た。中学三年生だった。彼女は両親に借金のことを隠していて、回収のときに初めて知った両親がエテルナ社に土下座していた。でも、契約は本人の意思で行われているから、親でも止められない。それが魔法少女信用供与システムのルールだ。

 

「いくら足りない」

 

「明日香さん、それは」

 

「聞いてる」

 

 リコは声を絞り出した。

 

「二十二万円です。今月の返済が」

 

 二十二万。明日香のデバイスを見る。残りの融資枠はあといくらだ。二百五十万。まだ余裕はある。ただし、自分の返済がさらに苦しくなる。

 

 明日香はデバイスを操作した。融資枠から二十二万円を追加で借り入れ、それをリコの口座に送金する。デバイスが確認画面を表示する。

 

【追加融資を申請しますか?】

 

【追加融資額:220,000円】

 

【実行後の残高:6,339,000円】

 

「待ってください」リコが明日香の腕を掴んだ。「なんで、そんなこと」

 

「お前が回収されたら、私は寝られない」

 

「でも、それじゃ明日香さんの借金が」

 

「どうせもう増えてる」

 

 確認ボタンを押す。

 

【追加融資が実行されました】

 

【ご融資残高:6,339,000円】

 

 デバイスが振動し、新たな借入金利が通知される。月利一五パーセント。六百万に対して月々の利息だけで八十万近い。元本返済はいつになるかわからない。

 

 リコは泣いている。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 

「泣くな。借金してでも生き残れ。生きて返せ」

 

 それが私の考えだ。間違っているかもしれない。でも、今はこれしか思いつかない。

 

「肩、治療しなきゃ」

 

 リコが自分のデバイスに手を伸ばす。治癒魔法を使おうとしている。

 

「使うな」明日香はリコの手を掴んで止めた。「私に治癒魔法を使うと、お前の借金に六十万円加算される。他人への治癒は倍額なんだ。忘れたのか」

 

「でも」

 

「この傷は浅い。絆創膏で済む。リコ、お前は自分の返済だけ考えろ。私のことはいい」

 

 リコは唇を噛みしめて、うつむいた。泣くのを堪えている。まだ子供だ。十五歳で、魔法少女になって、借金を背負って、母親の治療費を稼いでいる。それだけで充分だ。

 

 明日香は立ち上がった。変身を解除する。身体が急に重くなる。頭痛がさらに悪化して、視界が歪む。肩の傷がずきずきと痛む。

 

「帰るぞ。学校、遅れる」

 

「あ、はい」

 

 リコも立ち上がる。二人で駐車場を出る。朝の駅前通りは、通勤通学の人で混み始めている。誰も、さっきまでここにノイズがいたことなど知らない。魔法少女が戦っていたことも。借金が増えたことも。

 

 デバイスが震える。通知だ。エテルナ社から、定期的な「ご利用残高のお知らせ」。開いて閉じる。六三九万三〇〇〇円。今朝起きたときは五四一万だった。たった二時間で百万近く増えた。

 

 このままだ。

 

 このまま、数字は増え続ける。

 

 自宅に戻ると、灯の靴はなかった。もう出かけたあとだ。朝食の皿が流しに置かれている。テーブルの上に、灯の字でメモが残っていた。

 

『パン、食べてなかったよね。レンジで温めて食べて。学校がんばろう』

 

 トースターの上に、ラップをかけたトーストが置かれている。

 

 明日香はトーストに手を伸ばさなかった。代わりに、肩の傷を見るために洗面所へ行った。制服のブラウスを脱ぐ。肩口に、ノイズに切り裂かれた裂傷ができていた。アーマーがなければ腕が持っていかれていたかもしれない。でも、アーマーが破れたということは、修理費用がかかるということだ。デバイスの通知を見返す。

 

【アーマー損傷を検知しました】

 

【修理費用見積もり:45,000円(グレードC標準料金)】

 

【修理を予約しますか?】

 

 予約する。仕方ない。アーマーが壊れたまま次の戦闘に行くほうが危険だ。結晶の買取と合わせて、今日一日でさらに借金が積み上がる。

 

 洗面台の鏡を見る。肩から血がにじんでいる。絆創膏でどうにかなる傷じゃなかった。でも、治癒魔法の三十万円と、絆創膏の数百円を秤にかければ、答えは決まっている。

 

 救急箱からガーゼと包帯を出す。痛む肩を動かしながら、自分で傷口を拭き、ガーゼを当て、包帯を巻く。左手だけでやるのは難しい。何度も手が滑る。ガーゼが血で濡れる。

 

 そのとき、玄関のドアが開く音がした。

 

「明日香? いるの?」

 

 母だ。夜勤明けで帰ってきた。

 

 明日香は急いでブラウスを羽織り、包帯を隠した。洗面所から顔を出す。

 

「おかえり、母さん」

 

「ただいま。あれ、あんた、まだいたの。学校は」

 

「これから。ちょっと遅れた」

 

 母は疲れた顔で笑った。看護師の夜勤はきつい。医療費を稼ぐために、母は夜勤のシフトを多く入れている。父が蒸発して五年。母一人で姉妹を育てている。

 

「灯は?」

 

「もう行った」

 

「そっか。朝ごはん、食べた?」

 

「うん」

 

 嘘だ。さっきのトーストはまだ手をつけていない。でも、話すと長くなる。

 

 母はそれ以上問わず、自分の部屋に入っていった。ドアが閉まる。

 

 明日香は洗面所に戻り、包帯の巻き直しをした。ブラウスの上からはわからない程度に、でもしっかり止血できるように。慣れたものだった。

 

 制服を着直し、鞄を持つ。トーストは食べる時間がない。ラップを外してそのまま鞄に入れた。デバイスを見る。時間は午前八時十二分。一時間目の始業に、ぎりぎり間に合うかどうか。

 

 家を出る前に、居間の机の上にあった封筒に気づいた。エテルナ社のロゴが入っている。宛名は「久我明日香様」。いつの間にか届いていたらしい。

 

 中を開ける。月末の利用明細だ。そして、もう一枚。

 

『重要なお知らせ』

 

『お客様のご融資残高が600万円を超過されました。与信枠の増額を申請いただけます。増額後は最大1,000万円までの変身融資がご利用可能になります。また、グレードBへのアップグレード特典もご用意しております』

 

『お気軽にお電話ください。エテルナ・クレジット営業部 担当:白鳥』

 

 増額申請。

 

 百万を超えたら通知が来る。六百万を超えたら増額の案内が来る。一千万を超えたら、おそらく別の通知が来る。どこまでいっても終わらない。使えば使うほど、融資枠は広がっていく。

 

 それがエテルナ社のやり方だ。魔法少女を借金から逃がさないための。

 

 明日香は通知を折り畳み、制服のポケットに押し込んだ。スマホを開いて、灯にメッセージを送る。

 

『パン、持ってく。ありがとう』

 

 数秒後、既読がついて、返信が来た。

 

『食べてね! じゃないと午前中もたないよ』

 

『食べる』

 

 嘘だ。もう食べる時間はない。でも、こういう嘘は、何度も重ねてきた。

 

 デバイスを操作して、今日の借金額を再確認する。六三九万三〇〇〇円。今日一日で、百万近く増えた借金。治癒魔法を使わず、防御魔法も使わず、最小限の戦闘で、これだ。

 

 それでも私は、今日も変身して戦う。明日も。あさっても。

 

 だって、借金を返すには、戦い続けるしかないから。

 

 この街のどこかでまた、ノイズは発生する。警報が鳴り、魔法少女が必要になる。そして私は、デバイスを起動する。借金が増える。それでも戦う。戦って、結晶を拾って、換金して、少しだけ返す。でも、返した額より、借りる額のほうが大きい。

 

 これが、魔法少女信用供与システムというものだ。

 

 明日香は家を出た。

 

 頭痛は消えなかった。肩の傷はまだ痛む。それでも歩く。歩きながら、考える。

 

 灯には、このことを知られたくない。

 

 知られてはいけない。

 

 彼女があの適性値で魔法少女になったら、間違いなく同じ道を辿る。同じように借金を背負い、同じように返済に追われ、同じように、融資枠が一千万を超えたという通知を受け取る日が来る。

 

 それだけは、絶対に。

 

 鞄の中で、スマホが震えた。灯からの追加メッセージだ。

 

『ねえ、やっぱり魔法少女ってかっこいいよ。私もなれたらいいな』

 

 明日香は画面を見つめたまま、立ち止まった。頭の中で、六三九万の数字が点滅している。

 

 返信を打つ指が、震えてうまく動かない。打っては消し、打っては消す。なんと返せばいい。やめとけ、と書けば理由を聞かれる。理由を言うには、自分のすべてを話さなければならない。それはできない。でも、何も言わなければ、灯はいつか本当に。

 

 結局、明日香はこう打った。

 

『かっこいいだけじゃ、ないよ』

 

 送信。

 

 既読がつく。灯が返信を書いている。明日香はデバイスを握りしめた。握りしめると、手首のデバイスと、スマホと、二つの画面が同時に光る。

 

『どういう意味?』

 

 どういう意味か。

 

 教えられる日は来るのか。いや、来てはいけない。来る前に、なんとかしなければ。

 

 道の向こうで、また警報が鳴った。別の場所でノイズが発生したのだ。通勤中の人々がスマホを見て立ち止まる。誰かが「またか」と呟く。日常だった。街はノイズに慣れている。魔法少女がなんとかしてくれると思っている。それでいいと思っている。

 

 それでいいと、思われている。

 

 明日香はデバイスを握りしめ、走り出した。学校へ行く道の途中で、また変身するかもしれない。そうしたら、借金はさらに増える。

 

 それでも走る。

 

 だって、それ以外に道はないのだ。

 

 この街で魔法少女として生きる以上、借金から逃げることはできない。

 

 逃げた者から、回収されていく。

 

 だから私は、走り続ける。借金を背負って、戦い続ける。

 

 それが、私の選んだものだ。

 

 デバイスの画面が、走りながらも数字を更新している。六三九万から、また増えていく。止まらない。止められない。止める方法を、まだ知らない。

 

 でも、いつか。

 

 いつか、この数字をゼロにする方法を見つけるまでは。

 

 明日香は、走った。

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