ブラック魔法少女、実録 作:クロヒツキ
放課後、明日香は教室の自分の席でスマホを開き、灯からのメッセージをもう一度読んだ。
『どういう意味?』
朝、送った返信への質問だ。かっこいいだけじゃない、と書いたことへの。
既読をつけてから八時間が経っている。その間、灯から追加のメッセージはなかった。ただ、既読がついたまま、返信はない。考えているのだろう。あるいは、聞くのをやめたか。
明日香はスマホを制服のポケットに押し込んだ。答える言葉は、まだ見つからない。
教室には数人の生徒が残っているだけだった。部活に向かう者、友達と話しながら帰る者。明日香は誰にも声をかけずに廊下に出た。友達がいないわけではない。でも、放課後に約束をする余裕がなかった。バイトがある。あるいは、ノイズ警報が鳴る。どちらにしても、人と過ごす時間は持てない。
下駄箱で靴に履き替えていると、スマホが震えた。リコからだ。
『明日香さん、今日、お時間ありますか』
『ある。どうした』
『病院に来てもらえませんか。母のところに』
『わかった。何時』
『五時。母の病室で』
明日香は時計を見た。午後四時十二分。病院は駅の向こう。徒歩で三十分。急げば十分。変身すれば三分。
変身はしない。それだけで借金が増える。鞄を肩にかけ、走り出した。
病院はクレセント・シティ第二総合医療センター。地上三層に位置する大規模病院だ。エテルナ社の本社ビルからは目と鼻の先にある。ロビーには「エテルナ・クレジット医療提携機関」の表示があった。魔法少女信用供与システムは医療分野とも深く結びついている。魔力結晶の医療転用技術は、エテルナ社が特許を持つ。ノイズ討伐で得られる結晶が、ここで薬になる。
リコの母親がいるのは東病棟の六階だった。
エレベーターを降りると、消毒液の匂いが鼻をつく。長い廊下の両側に病室が並んでいる。見舞い客の姿はまばらだ。平日の夕方。仕事を終えた家族が少しずつ集まり始める時間帯。
六一五号室。リコがドアの前で待っていた。まだ学校の制服だ。手にはコンビニの袋。中身は飲み物とゼリー飲料。母親への差し入れだろう。
「明日香さん、来てくれてありがとうございます」
「いい。お母さんの具合は」
「今日は起きてます。話せます」
リコが病室のドアを開ける。個室だった。窓から夕日が差し込んでいる。ベッドの上に、痩せた女性が上半身を起こしていた。
「お母さん、明日香さんだよ。魔法少女の先輩」
リコの声は明るかった。借金のことは微塵も出さない声だ。
「初めまして、栗原です。いつも莉子がお世話になってます」
リコの母親はゆっくりと頭を下げた。その動きだけで疲れるのがわかる。頬はこけ、手首は骨が浮いていた。ベッドの横には点滴スタンド。モニターが心拍と血圧を表示している。
「明日香です。お見舞い遅くなってすみません」
明日香は持っていた花を差し出した。病院の売店で買った小さなブーケだ。リコの母親はうれしそうに受け取った。
「まあ、すみません。莉子、花瓶を借りてきて」
「うん」
リコが病室を出る。母親はその後ろ姿を見送ってから、明日香に向き直った。
「明日香さん、少しだけお話してもいいですか」
「はい」
母親はベッドの手すりを握った。
「莉子が魔法少女になって、よかったと思ってるんです」
明日香は何も言わず、次の言葉を待った。
「この病気になって、治療費がかかって。夫はもういなくて。私が働けなくなってから、本当にどうしようもなくて。そんなときに莉子が適性があるって。奨学金みたいな制度だって聞いて」
奨学金。
エテルナ社の営業トークだ。魔法少女信用供与は「未来ある少女への教育ローン」に似たイメージで売られている。融資という言葉は小さく、変身という特典が大きく語られる。
「莉子は何も言わないけど、大変じゃないですか。魔法少女の仕事って」
「……危険ではあります」
明日香は言葉を選んだ。
「でも、リコはよくやってます。私より冷静なときもあります」
これは嘘ではなかった。今朝の駐車場で、リコはパニックを起こしながらも、自分から変身しようとしていた。勇気がある。でも、その勇気が彼女の借金を増やす。
「明日香さんは、いつから魔法少女を」
「高校に入ってすぐです。一年と少し前です」
「そんなに長く」
母親の目が曇る。長く続けている魔法少女がどうなるか、彼女もどこかで聞いたことがあるのかもしれない。テレビやネットでは、ベテラン魔法少女のその後はほとんど報道されない。引退という言葉はあるが、その実態は語られない。
リコが花瓶を持って戻ってきた。花を活け、窓辺に置く。
「あ、そうだ。明日香さん、ちょっと」
リコは明日香の袖を引いた。廊下に出る。
ドアを閉めてから、リコは声を潜めた。
「来てくれてありがとうございます。母、すごく喜んでて」
「それだけか」
「……はい。それと、今日のノイジーが」
ノイジー。リコはまだノイズをそう呼ぶ。テレビの報道で使われる呼称だ。正式名称は情報生命体ノイズだが、メディアは「ノイジー」という愛称で呼ぶ。少しでも怖さを和らげるための言葉遣いだ。エテルナ社が広報戦略で広めた名称でもある。
「ノイズが、どうした」
「今日、二件目があったんです。午後の三時頃。私、近くにいて」
「変身したのか」
リコはうつむいた。
「しました。一回だけ。小さいやつだったから、低出力で二発で終わったんです。でも」
「いくらだ」
「四万五千円」
「それだけなら、まだ」
「でも、昨日の分と、一昨日の分とで、もう五十七万です」
五十七万。今朝、二十二万円を肩代わりしたから、残高は五十二万だったはずだ。そこから一日で五万増えた。このペースなら、次の返済日までにまた二十万は積み上がる。
「返済計画、見せろ」
「え」
「家計簿でもなんでもいい。お前がどうやりくりしてるか、全部見せろ」
リコはしばらく黙っていたが、鞄からノートを取り出した。表紙に手書きで「返済計画」と書いてある。
明日香は廊下の長椅子に座り、ノートを開いた。
初めて契約した日付。第一回変身の日付。借入額と返済額の一覧。そして、母親の治療費。
「医療費、月にいくらかかってる」
「今は月に二十五万くらいです。保険が効くぶんを引いて」
「そのほかの生活費は」
「母の貯金を崩してます。あと、親戚から少し借りて」
「リコの収入は」
「魔力結晶の買取で、先月が八万二千円。今月はまだ五万いかないです」
明日香はノートの数字を追った。収入より支出のほうがはるかに多い。魔法少女としての収入だけでは、生活費すらまかなえない。それどころか、変身するたびに借金が増えている。
「このままだと、三ヶ月持たない」
リコは長椅子の隣に座り、膝の上で両手を握りしめていた。
「わかってます。でも、戦わないと結晶が手に入らないし、戦うと借金が増えるし」
「治癒魔法は使ったか」
「まだです。母に使えば治るかもしれないと思ってたんですけど」
「効かない」
「はい。明日香さんに言われて、エテルナ社に確認しました。魔法少女の治癒魔法はノイズとの戦闘で負った傷だけが対象で、一般人の病気や怪我には効果がないって。契約書の細則に書いてありました」
契約書の細則。
重要事項説明の画面では三秒でスキップできるように表示される部分だ。白鳥たち営業部の説明会では決して触れられない。
「リコ、お前の魔力適性値はいくつだ」
「八十四です。平均よりちょっと高いって」
平均の三倍だ。エテルナ社が手放したくない数字だ。
「それだけ高ければ、ノイズが寄ってくる。お前の魔力に引き寄せられてる可能性もある」
「私のせいで」
「違う。そういう仕組みなんだ」
ノイズは人の負の感情に寄生する。そして、魔力適性値の高い者に引き寄せられる性質がある。つまり、適性値が高いほどノイズに遭遇しやすい。それで戦闘回数が増える。戦闘回数が増えれば借金も増える。エテルナ社はそれを承知で、適性値の高い少女に積極的に営業をかける。
「明日香さんは、適性値いくつですか」
「七十二」
「私より低い」
「だから余計な戦闘は避けられる。リコは無理だ。お前の魔力値じゃ、ノイズのほうから寄ってくる」
リコは黙り込んだ。
明日香はノートを閉じて、リコに返した。
「月曜、私と一緒に返済計画を立て直す。このままなら来月には延滞が始まる。そうなる前に、手を打つ」
「でも、どうやって」
「変身回数を減らす。一度の変身で複数のノイズを倒す。移動は徒歩と公共交通機関。攻撃魔法は低出力で統一。防御魔法は使うな。避けろ」
「避けるの、私、苦手で」
「練習しろ。怪我したら治癒魔法を使いたくなる。使ったら三十万だ。避けるほうが安い」
リコは泣きそうな顔で笑った。
「明日香さん、すごいですね。全部、頭に入ってる」
「入ってるさ。自分の借金もあるしな」
「……いくらになったんですか。今日の分で」
明日香は少し迷ってから答えた。
「六百三十九万」
リコの顔から笑みが消えた。
「私のせいで、二十二万も」
「気にするな。お前のせいじゃない。お前を助けると決めたのは私だ」
「でも」
「それより、お前の母親はお前が魔法少女だってことをどこまで知ってる」
「奨学金みたいな制度だって。詳しい借金のことは」
「話すな。話したら母親は自分を責める。それは病状に響く」
リコはうなずいた。
病室に戻ると、母親はうたた寝をしていた。窓の外は夕焼けが濃くなり、病室の壁がオレンジ色に染まっている。リコは母親に毛布をかけ直し、そっと髪を撫でた。
「お母さん、私、がんばるから」
小さな声だった。母親には聞こえていない。
明日香は窓の外を見た。病院の向かいに、エテルナ・クレジット本社ビルがそびえている。全面ガラス張りの高層建築だ。夕日を反射して、ビル全体が燃えているように輝いている。
「あのビル」
リコがつぶやいた。
「エテルナ社の本社。魔法少女全員の借金が、あそこに集まってる」
「全員でいくらだと思う」
「想像もつかないです」
明日香は数字を頭の中で転がした。クレセント・シティにいる魔法少女は公称で約二千人。平均借金額が五百万として、総額百億。実際はもっと多い。全国に展開するエテルナ社の債権総額は、数千億を超えると噂されている。魔法少女の借金は証券化され、市場で取引されている。投資家たちは魔法少女の返済能力に賭けているのだ。
「リコ、私そろそろ帰る。妹の飯を作らないと」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
「月曜、忘れるな」
「返済計画ですよね。やります」
病院を出ると、外はすっかり暗くなっていた。街灯がつき始めている。病院の前の通りには、仕事帰りの人々が歩いている。誰もがスマホを手に、今日の出来事をチェックしている。
明日香はスマホを開いた。灯からのメッセージはまだない。
変わりに、エテルナ社からの通知が届いていた。
『【お知らせ】お客様のご融資残高が基準額に達しました。つきましては、グレードアップキャンペーンのご案内です。今なら契約変更手数料が無料。最大融資枠一千万円。専用変身アーマーもご利用いただけます』
専用変身アーマー。グレードB。広告は入らない。見た目もまともだ。そのぶん金利が上がる。基本料金も上がる。グレードCの今でさえ、返済が追いつかないのに。
通知を消した。
家に着くと、灯はまだ帰っていなかった。部活の延長か、友達と遊んでいるのか。中学生はそういう時間があっていい。
明日香は制服を脱ぎ、肩の包帯を確認した。血は止まっている。傷口を消毒して、新しいガーゼを当てた。
台所に立ち、冷蔵庫を開ける。材料はそこそこある。鶏肉と玉ねぎと卵。親子丼が作れる。
米を研ぎ、炊飯器をセットする。玉ねぎを刻み、鶏肉を切る。出汁を作り、鍋に入れる。料理は嫌いじゃない。集中できる。数字のことを考えずに済む数少ない時間だ。
炊飯器が炊き上がる少し前に、玄関が開いた。
「ただいま!」
灯の声だ。
「おかえり」
「わ、親子丼だ」
灯が台所を覗き込む。制服のままだ。頬が少し赤い。走って帰ってきたのか。
「腹減った?」
「減った。部活きつかった」
「何部だっけ」
「バスケ。言ったじゃん」
「言ってたな」
灯は手を洗って、食器を並べ始める。姉妹で台所に立つと、狭い。でも、この狭さが落ち着く。
食卓に親子丼と味噌汁を並べ、二人で手を合わせる。
「いただきます」
灯は親子丼を勢いよくかき込んだ。
「うまい」
「よかった」
「明日香、料理うまくなったよね。前は卵がボソボソだったのに」
「練習したからな」
母がいない夜は、明日香が夕食を作ることが多い。灯も手伝う。父が蒸発してから、この習慣ができた。
「ねえ、明日香」
灯が箸を止めた。
「今日の朝のメッセージ、どういう意味だったの。かっこいいだけじゃないって」
明日香は味噌汁を一口すすってから、箸を置いた。
「テレビでやってる魔法少女は、きれいな部分だけ見せてる。それだけじゃないってことだ」
「きれいじゃない部分って?」
「汚れたり、怪我したりする。ニュースには映らないけど」
灯は親子丼を見つめたまま、少し黙った。
「それでも、私はかっこいいと思う。汚れても怪我しても、戦ってるのがかっこいい」
「……そうかもな」
「明日香は、魔法少女の友達いるんでしょ。前に話してた」
「いる。今日も会ってきた」
「その人も、かっこいい?」
明日香はリコの顔を思い浮かべた。母親の病室で、泣くのを堪えていたあの顔。
「かっこいいよ。ちゃんと自分の足で立ってる。大変なのに、逃げてない」
「じゃあ、やっぱりかっこいいじゃん」
灯は少し勝ち誇ったような顔で笑った。否定はしなかった。できない。実際、リコはかっこいい。借金に追われながらも戦っている。間違った選択だったかもしれないのに、それでも前に進んでいる。
「でもな、灯」
明日香は妹の目を見た。
「かっこいいってだけで、飛び込む世界じゃない。それだけは覚えておいて」
灯はしばらく姉の顔を見ていたが、小さくうなずいた。
「わかった。覚えとく」
それ以上は聞いてこなかった。灯は空気を読める。姉が言いたくないことを無理に聞き出すような子ではない。
夕食の後片付けをして、灯が風呂に入っている間に、明日香は自室でデバイスを操作した。
今日の収支を確認する。
【本日のご融資残高:6,339,000円】
朝は六百三十九万と言ったが、リコに肩代わりした二十二万円を含めると六百三十九万。さらに、あのあとアーマー修理費四万五千円を借り入れているから、正確には六百四十三万五千円。
それに、朝イチで倒したノイズの結晶二つと、リコを助けたときの結晶が一つ。合計で三つの結晶を買取に出した。エテルナ社の買取窓口で計量され、合計八グラム。買取価格は一グラムあたり千百円。合計八千八百円。
六千六百円が返済に充てられた。誤差だ。利息の一日分にもならない。
数字を眺めていると、デバイスに別の通知が届いた。
『【エテルナ・クレジット営業部】久我明日香様。お客様の魔力適性値と返済実績を拝見し、特別プログラムのご案内をお送りしております。次回の変身時に、最大50%の金利キャッシュバックを適用可能です。詳細はお電話にてご説明いたします。担当:白鳥』
金利キャッシュバック。甘い言葉だ。使ったぶんだけ借金が増えるのに、キャッシュバックという言葉で得をした気分にさせる。ギャンブルの還元率表示と同じ仕組みだ。
電話番号が書かれている。明日香は番号をデバイスの連絡先に登録した。かけるためではない。着信を拒否するためだ。
風呂から上がった灯が、バスタオルで髪を拭きながらリビングに来た。
「あ、そうだ。明日香、あした学校?」
「土曜だ。休み」
「私も。どっか行く?」
「どこに」
「駅前。新しいクレープ屋できたんだよ」
「いいな。午前中にバイトがあるから、午後なら」
「やった」
灯は嬉しそうに自分の部屋に戻っていった。
クレープ。六百円。明日香の借金の一日の利息は約三万円。クレープを買ったところで誤差だが、誤差を積み重ねると借金は減らない。
でも、灯と過ごす時間は誤差じゃない。借金のことを忘れられる、数少ない時間だ。
スマホが震えた。灯からのメッセージ。
『明日はクレープのあと本屋も行きたい』
『わかった』
『よかった。楽しみ』
既読をつけて、スマホを充電器に差した。
部屋の電気を消し、ベッドに横たわる。肩の傷がまだ痛む。天井を見上げながら、明日香は頭の中で数字を数えた。
六百四十三万五千円。月利十五パーセント。一ヶ月の利息は九十六万五千二百五十円。一日に換算すると約三万二千円。今、この瞬間も、一秒ごとに利息が発生している。寝ている間も、クレープを食べている間も、灯と話している間も。
でも、今は考えるのをやめよう。明日、灯とクレープを食べる。そのあと本屋に行く。それだけの予定がある。それでいい。
目を閉じる。
その瞬間、スマホが震えた。デバイスではない。スマホのほうだ。エテルナ社からの通知じゃない。個人の番号にメッセージが届いている。
差出人を見て、明日香は起き上がった。
黒崎。
回収部門の黒崎だ。連絡先を交換した覚えはない。相手はエテルナ社のデータベースから勝手に取得したのだろう。
メッセージを開く。
『栗原莉子様のご融資残高が延滞基準額に近づいています。久我様が保証人として肩代わりされた件につきましても、あわせてご確認ください。明日、午前十時、エテルナ社債権管理部にて面談を設定いたしました。ご出席をお願いいたします』
面談。出席。お願いしますと書いてあるが、これは命令だ。
そして、メッセージの最後に、小さく添えられていた。
『なお、ご家族へのご連絡はまだ行っておりません』
灯への連絡。母への連絡。
つまり、来なければ家族に知らせるという脅迫だ。
明日香はデバイスを握りしめた。力を込めすぎて、肩の傷が痛む。
クレープは、無理かもしれない。