ブラック魔法少女、実録 作:クロヒツキ
土曜の朝、明日香は午前七時に自宅を出た。灯はまだ寝ている。約束は午後からだ。それまでにこの用事を済ませる。
エテルナ・クレジット本社ビルはクレセント・シティの地上第一層、金融街の中心にある。地上三十八階、地下三階。全面ガラス張りの外壁には、朝日を受けて「ETERNA CREDIT」の巨大ロゴが浮かび、その下に「信用は、未来を創る」というコーポレートスローガンが電光表示されていた。
正面玄関を入ると、広いロビーに空調の効いた空気が流れていた。床は磨き上げられた御影石。壁面には大型モニターが設置され、魔法少女の活躍を描いた企業CMがループ再生されている。グレードAのドレス型アーマーを着た少女がノイズを浄化し、街を見下ろしながら微笑む映像だ。ナレーションは「あなたの未来を、私たちとともに」。白鳥の声だった。
受付カウンターで用件を告げると、社員証を首から下げた若い女性が「債権管理部は十二階です。担当の黒崎がお待ちです」と案内した。
エレベーターの中で、明日香はデバイスを確認した。現在の融資残高は六百四十三万五千円。今朝も利息が加算されている。昨日よりさらに三千二百円増えていた。一日で三千二百円。時給換算すれば、眠っている間も働いているのと同じだ。利息だけが働いている。
十二階のエレベーターホールには、観葉植物と革張りのソファが配置されていた。壁にはエテルナ社の年表。創業者エテルナ・キョウヘイの肖像写真。そして「魔法少女信用供与システム開発記念」のプレート。債権管理部の受付で名前を告げると、すぐに「第三面談室へ」と案内された。
面談室は小さな会議室だった。白い壁に、長机が一脚と向かい合う椅子が二脚。窓はない。机の上にはミネラルウォーターのペットボトルが二本、エテルナ社のロゴ入りで置かれていた。
黒崎は奥の椅子に座って待っていた。男女の判別がつきにくい細身の体躯。黒いスーツ。髪は短く整えられているが、前髪を少し長めに残している。表情は平坦だ。机の上に、タブレット端末と書類の束が置かれている。
「おかけください、久我明日香様」
性別を感じさせない声だった。高いわけでも低いわけでもない。抑揚が少なく、機械音声のような正確さで発音される。
明日香は指定された椅子に座った。背もたれが低い。自然と前かがみになる。相手の椅子は背もたれが高い。面談室の設計からして、権力勾配が作られている。
「本日はご足労いただきありがとうございます」
黒崎はタブレットを起動し、画面を明日香に向けた。
「まず、栗原莉子様のご融資状況についてご説明します」
タブレットの画面には、リコの契約情報が表示されていた。
【契約者:栗原莉子(15歳)】
【契約開始日:2026年5月12日】
【ご融資残高:572,000円】
【延滞日数:2日】
【連帯保証人:久我明日香】
「連帯保証人」
明日香の声が硬くなった。
「肩代わりの契約は、連帯保証人だったのか」
「契約書第八条二項に明記されています。他者の返済を代位弁済した場合、弁済者は自動的に連帯保証人としての地位を取得します。久我様はご署名の前に、契約書をご確認されましたか」
確認した。でも、読んではいなかった。あのときはリコを助けることで頭がいっぱいだった。
「栗原様の延滞がこのまま続いた場合、保証人である久我様に残債全額の一括返済義務が発生します。現時点で五十七万二千円。これはご存知の通りです」
「延滞はまだ二日だ。三ヶ月経たないと回収執行されないはずだ」
「その通りです。しかし、延滞三十日を超えた時点で保証人への通知が行われます。ご家族にも、です」
黒崎の指がタブレットをスワイプした。次の画面。灯の顔写真と、その下に表示された数字。
【久我灯:魔力適性値87.3】
明日香は息を呑んだ。
「なぜこれを」
「エテルナ社は適性検査の結果を保有しています。久我灯様は非常に高い数値を示されています。来年、十五歳になられれば、当社から正式にご案内を差し上げる予定です」
「妹には手を出すな」
「手を出すとは人聞きの悪い。我々は機会を提供しているだけです。魔法少女信用供与は未成年者でも利用できる、数少ない金融商品ですから」
黒崎の口調はあくまで事務的だった。感情がない。それが逆に怖かった。
「面談の目的を教えてください」
明日香は机の下で拳を握った。
「二つあります」
黒崎は指を二本立てた。
「第一に、栗原莉子様の返済計画の見直しです。現状のままでは三十日以内に延滞が確定し、保証人である久我様にも影響が及びます。これを回避するために、栗原様の変身頻度と返済計画を再構築する必要があります」
「第二は」
「久我明日香様ご自身の契約についてです。現在の融資残高は六百四十三万五千円。返済実績は良好ですが、融資枠に対する利用率が高く、このままでは一年以内に与信枠を超過する可能性があります」
黒崎は新しい画面を表示した。明日香の返済シミュレーションだった。
「現在のペースで変身と返済を続けた場合、来年三月には融資残高が一千万円に達します。その時点でグレードBへの契約変更が必須となります。変更後は月々の最低返済額が現在の二・三倍に増加します」
一千万。月々の返済が二・三倍。今でさえ利息に追われているのに。
「そこで、ご提案です」
黒崎は書類の束から一枚を取り出した。エテルナ社のロゴが入った提案書だ。
「当社の『魔法少女債権ファンド』にご参加いただくという方法があります」
「債権ファンド」
「はい。魔法少女の債権を投資家に販売し、その資金を返済に充てる仕組みです。久我様の返済実績は投資家にとって魅力的です。このファンドに参加いただければ、一時的に最大三百万円の返済資金を調達できます。その代わり、変身の一部に投資家指定の条件が付与されます」
「条件とは」
「変身時間の延長です。投資家にとって、魔法少女の変身時間が長いほど魔力結晶の回収量が増え、投資リターンが高まります。そこで、一回の変身につき最低五分以上の戦闘時間を確保していただく。そうすれば、ファンドからの資金調達が可能になります」
明日香は机の上のペットボトルを握った。冷たい。
「それはつまり、もっと借金を増やせってことか」
「資金調達と借入は異なります。しかし、結果として変身時間が延びれば、変身にかかる課金も増加します。それは否定しません」
「断る」
明日香は即答した。
「変身時間を延ばせば借金が増える。借金を減らすための提案が、借金を増やす。矛盾してる」
黒崎は初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。笑ったわけではない。表情というより、反応に近い微かな動きだった。
「久我様は賢明ですね。大半の契約者様は、この提案に乗られます。目の前の返済が楽になるからです。長期的には損だと理解していても」
「私が断ったら、どうなる」
「栗原様の返済計画見直しは継続します。ただし、保証人としての久我様への通知は予定通り行われます。そして、久我灯様へのご案内も」
「脅しか」
「事実のご説明です」
黒崎はタブレットを閉じた。面談終了の合図だった。
明日香は立ち上がった。
「リコの返済計画は私が立て直す。三十日以内に延滞は解消する。それで保証人への通知は止められるな」
「可能です。ただし、延滞が一度でも発生すれば、その時点で通知が実行されます」
「あと、妹には連絡するな」
「それは契約者である久我様の口からお伝えになることをお勧めします。我々からの案内は、適切な時期に適切な形で行われますので」
黒崎も立ち上がった。背は明日香より少し高い。痩せているのに、圧迫感があった。スーツの袖口から、左手首に巻かれたリストバンドが見えた。よく見ると、リストバンドの下に古い火傷のような痕がある。
魔法少女だった者に特有の痕だ。変身デバイスを長期間装着し続けた皮膚は、魔力の熱で変色する。明日香の手首にも同じ痕がある。
黒崎はその痕を隠すように袖を直した。
「面談は以上です。お気をつけてお帰りください」
「黒崎、あんた」
明日香はドアの前で立ち止まった。
「元、魔法少女か」
黒崎は答えなかった。ただ、ドアが閉まるまで、ずっと明日香の目を見ていた。
エレベーターで一階に降りる間、明日香は壁にもたれて目を閉じた。頭の中で、黒崎の左手首の火傷痕が焼きついていた。それと、黒崎が最後に見せたあの沈黙。肯定でも否定でもない、ただの沈黙。でも、その沈黙は肯定と同じ重さを持っていた。
ロビーに降りると、大型モニターの映像が変わっていた。ニュース番組だ。昨日、都内で発生したノイズの被害状況が流れている。商店街のガラスが割れ、車が数台横転したらしい。魔法少女が到着するまでに四十分かかった。その間に被害が拡大した、とキャスターは言っていた。
そのとき、ロビーの自動ドアが開いて、白鳥が入ってきた。
エテルナ社の広報担当。白鳥は今日も完璧な笑顔で、パステルピンクのスーツを着こなしていた。手にはタブレットと紙コップのカフェラテ。その背後には、テレビカメラを担いだ取材班がいた。
「あら、久我明日香さん。奇遇ですね」
白鳥は明日香を見つけると、すり寄るように近づいてきた。
「おはようございます。今日は黒崎とお話でしたか。どうでした? あの子、ちょっと堅いでしょう」
「……あの子」
「回収部門はどうしても怖いイメージがありますからね。でも、仕事は正確です。優秀ですよ、彼は。いえ、彼女でしたかね」
白鳥は軽く首をかしげて笑った。性別をわざと曖昧にすることで、話題の軽さを演出している。全部わかっているくせに。
「白鳥さん、私はこれで」
「あ、ちょっと待ってください。せっかくなので、明日香さんにも取材を受けてほしいんです」
「取材」
「はい。エテルナ社の広報番組で、『現役魔法少女のリアルな日常』っていう特集をやるんです。グレードCの契約者の声って、なかなか聞けないんですよ。皆さん、カメラの前だと緊張されちゃって」
「断ります」
「なぜですか。素敵な企画ですよ。明日香さんのような堅実な方が出てくだされば、これから契約を考えている子たちの参考になる。融資に不安を感じている子たちに、こういう道もあるって示せるんです」
白鳥の声は柔らかく、表情は親しげだった。でも、目だけは値踏みをしていた。明日香を品定めしている。テレビ映えするかどうか。視聴率が取れるかどうか。
「私は顔を出したくない」
「匿名でも構いません。声だけでも」
「それも断る」
「残念です」
白鳥は本当に残念そうな顔をした。演技だ。営業トークの一部だ。
「でも、もし気が変わったらいつでもご連絡ください。あ、そうだ。今度、妹さんとご一緒にいかがですか。久我灯さん、たしか十四歳でしたよね。来年から契約可能ですし、事前に雰囲気を知っておくのもいいかと」
明日香の心臓が冷たくなる。
「灯に近づくな」
「近づくなんて。うちは魔法少女を応援する会社です。未来ある少女たちに、選択肢を提示しているだけです。契約するもしないも、ご本人とご家族の自由ですから」
白鳥は笑顔を崩さなかった。崩さずに、ゆっくりと明日香の肩に手を置いた。
「ただ、選択肢を知らないと選べないでしょう? だから私たちは情報をお届けするんです。灯さんのような高い適性値の方には、特にね」
白鳥の手が離れた。カフェラテの紙コップを口に運び、「それでは、また」と言い残して取材班のほうへ歩いていく。
ロビーを出て、外の空気を吸った。金融街のビル群の間を、ビジネススーツの男女が行き交っている。誰もがエテルナ社のビルを見上げることなく通り過ぎる。あのビルが何をしているか、知っている人も知らない人も、等しく無関心だった。
スマホが震えた。灯からだ。
『いつ帰る?』
『もうすぐ』
『クレープ楽しみ! 新作のイチゴチョコがいいな』
『わかった』
『あ、でも午後から雨だって。傘持ってく?』
『持ってく』
『りょうかい。駅前で待ち合わせしよっか』
『そうしよう』
既読をつけて、ポケットにスマホを戻す。駅に向かう道すがら、明日香はデバイスを操作した。リコの返済計画を作り直すためのデータを集める。リコの契約情報、過去の変身履歴、結晶買取の記録。エテルナ社のシステムから一部を閲覧できるが、詳細は本人のデバイスを直接見なければわからない。
でも、まずは灯との約束だ。
駅前のクレープ屋は、新しくできたばかりの小さな店舗だった。ピンクの看板に「クレープ・ルミエール」と書いてある。店内から甘い匂いが流れてくる。日曜の午後は、学生や家族連れで賑わっていた。
灯は店の前で待っていた。私服だ。白いブラウスにデニム。髪はポニーテールにしている。
「明日香、こっち!」
灯が手を振る。姉の姿を見つけたとき、灯の顔はぱっと明るくなる。こういう顔を見せるのは、家ではあまりない。
「待った?」
「ちょっとだけ。でも大丈夫。行列は並んどいたよ。もうすぐ順番」
二人で列に並ぶ。前に四組。カップルと、友達同士の女子高生と、母親に連れられた小さな子。
「なににする?」と灯がメニューを指さす。
「お前のと同じでいい」
「じゃあイチゴチョコ二つ!」
五分後、クレープが二つ出来上がった。灯は写真を撮ってから、一口かじる。
「うまっ」
「うまいな」
「チョコがまだ溶けてる。ちょっとあったかい」
「そうだな」
二人で歩きながらクレープを食べる。空は曇り始めていた。灯の言った通り、午後から雨らしい。
「ねえ、明日香」
「ん」
「今朝、どこ行ってたの」
「ちょっと、用事」
「エテルナ社」
灯が静かに言った。クレープを齧る手は止まっていない。目は前を向いたままだった。
「なんで」
「朝、起きたら明日香の部屋のゴミ箱にあの封筒があった。エテルナ社からの封筒。それで、どこ行ったのかなって」
さっきの封筒。昨夜届いていた通知。中身は見られたか。
「魔法少女の友達のことで、呼び出された。たいしたことじゃない」
「また、それ」
灯が立ち止まった。初めて目が合う。
「いつもそうだよ。たいしたことじゃないって、何も教えてくれない」
「灯」
「私、ばかじゃないよ。明日香の手首の痕、前から知ってる。変身デバイスの痕だって、自分で調べた」
雨粒が一滴、明日香の頬に落ちた。空から細かい雨が降り始める。
「明日香は魔法少女なの?」
クレープを持ったまま、灯はもう一口も食べていなかった。チョコが紙から溶け出して、手を汚している。
「……そうだ」
言ってしまった。
「いつから」
「高校に入ってすぐ」
「一年以上前だ。それで、今までずっと隠してたの」
「隠してた」
雨が本格的に降り始めた。クレープ屋の前の人々が、慌てて傘を広げたり軒下に避難したりしている。でも灯は動かなかった。
「なんで教えてくれなかったの」
「教えられなかった」
「なんで」
「お前を巻き込みたくなかった」
「それで、今までずっと一人で」
灯の声が震え始める。
「一人で、戦って、それで、借金して。朝のメッセージ、『かっこいいだけじゃない』って、そういう意味だったんだ。そういうことか」
「灯、とりあえず雨を」
「借金いくらあるの」
「……六百四十三万」
灯の目が一瞬で見開かれた。唇が小さく震える。クレープが手から滑り落ちて、濡れた歩道に落ちた。
「六百、四十三、万」
「そうだ」
「返せるの、それ」
「返す」
「どうやって」
「戦い続けるしかない。戦って、結晶を拾って、少しずつ返す」
灯は雨に濡れたまま、じっと明日香を見つめていた。その目には、怒りと、悲しみと、そして、もっと別の何かがあった。恐怖だ。姉を失うことへの恐怖。
「私、適性値あるんでしょ」
「ある。とても高い」
「じゃあ」
「だめだ」
明日香は灯の両肩を掴んだ。クレープの紙が地面に落ちる。雨でどんどん濡れていく。
「絶対にだめだ。お前は魔法少女になるな。これだけは約束しろ。どんなことがあっても、エテルナ社と契約するな」
「でも、それじゃあ明日香が」
「私はいい。私が選んだことだ。でも、お前は違う。お前はまだ選べる。選ばせてくれ。頼む」
灯の目から涙が溢れた。雨と混ざって、どちらかわからなくなる。
「約束して」
明日香はもう一度言った。
「魔法少女にはならない。どんなに適性値が高くても、どんなに勧誘されても、断る。それができないなら、私はもう家に帰れない」
「なんで、そんな」
「お前を守るために私は魔法少女になった。お前まで魔法少女になったら、私がやってきたことは全部無駄になる。六百四十三万の借金を背負ったことも、友達を助けるために肩代わりしたことも、全部」
灯は泣きながら、うなずいた。
「……わかった。約束する」
「絶対か」
「絶対」
「破ったら許さない」
「許さなくていい。でも、その代わり」
灯は濡れた顔を上げた。
「明日香も約束して。絶対に、死なないで」
雨音だけが、しばらく二人を包んでいた。
「わかった」と明日香は言った。「死なない。借金を返し終わるまでは、絶対に」
灯は明日香の胸に顔を埋めた。妹の髪は雨で濡れて冷たかったが、体温は感じた。生きている。生きているから、守らなければいけない。
駅前の交差点で、信号が変わった。雨で霞んだ街の中を、ノイズ発生警報のサイレンがどこか遠くで鳴っていた。また誰かが戦っている。誰かが借金を増やしている。
明日香は灯の肩を抱きながら、デバイスに届いた新しい通知を見た。雨の滴が画面を叩き、文字が滲む。
リコからだ。
『先輩、今すぐ来てください。お母さんが、急に。私、変身しないと。でもお金が』
時刻は午後二時十七分。雨脚がさらに強くなった。