ブラック魔法少女、実録 作:クロヒツキ
雨の中、明日香は灯の手を引いて駅のコンコースに駆け込んだ。
「ごめん、先に帰ってて」
「明日香、どこ行くの」
「友達のところ。母親が倒れたって」
リコの母親。病状が急変したのだ。つい二日前に会ったばかりだ。あのときは起きて話せていたのに。
灯は何か言いたそうだったが、うなずいた。
「わかった。でも、連絡して」
「する」
「絶対だよ」
灯に傘を持たせ、明日香は駅前からタクシーを拾った。病院までは地下鉄よりタクシーのほうが速い。運転手に行き先を告げ、デバイスを開く。リコのメッセージはさらに続いていた。
『お母さんの心拍が下がってて、医者が集まってて、でも私、何もできなくて』
『変身したら治癒魔法が使えるかもしれない。でも効かないって言われたし、それにお金も』
『どうすればいいですか』
文字が震えている。音声入力をしているのか、句読点が抜けている箇所がある。
明日香は通話ボタンを押した。
二コールでリコが出た。
『明日香さん』
「いま向かってる。十分で着く。母親の容態は」
『わかんないです。さっきまで話してたのに、急にモニターが鳴って、看護師さんがたくさん来て』
「リコ、落ち着け。変身はまだするな」
『でも、もし私の治癒魔法で助かるなら』
「効かない。前に確認しただろ。魔法少女の治癒魔法はノイズとの戦闘で負った傷だけだ。一般人の病気には効かない。契約書の細則にある」
電話の向こうで、リコが息を詰める音がした。
『それでも、もし、少しでも可能性があるなら。お金なら、あと三十万は融資枠が残ってて』
「使うな。可能性に賭けて借金を増やすな。いま行くから、それまで待て」
通話を切る。
タクシーの窓の外、雨が強まっている。クレセント・シティの街路は水に濡れて光り、信号の赤が滲んで見えた。ワイパーが規則的に動く。運転手は何も言わない。
デバイスでリコの融資状況を確認する。残高五十七万二千円。融資枠の残りは三十万。これを使い切れば、リコの借金は八十七万を超える。来月の返済はさらに厳しくなる。
もしリコがここで治癒魔法を使ったら、六十万円加算される。他人への治癒は倍額だ。一発で借金が百十七万を超える。そこまでいけば、もう返済は不可能だ。あとは回収を待つだけになる。
十六歳になる前に。
タクシーが病院の正面に着いた。明日香は料金を払い、走る。自動ドアを抜け、エレベーターに飛び乗る。六階。東病棟。六一五号室。
病室の前には、看護師が二人と医師が一人、そして廊下の長椅子に座り込んでいるリコがいた。
「明日香さん……!」
リコが立ち上がる。制服のままだった。昨日と同じ制服。ずっとここにいたのだろう。目は赤く腫れている。
「お母さんは」
「わかんないです。中で、処置してて」
病室のドアが閉まっている。中からは医療機器のアラーム音と、医師の指示する声が聞こえる。
「リコ、変身はしなかったな」
「してないです。でも、しようと思った。しようとしたんです。デバイスも出して、声認証もかけて。でも、明日香さんの言葉が頭に浮かんで」
リコは手に持っていたクレジットデバイスを明日香に見せた。画面には変身申請の確認画面が表示されたままだ。あと一歩で、変身が実行されるところだった。
「よく堪えた」
明日香はリコの手からデバイスを取り上げ、申請をキャンセルした。
「よく堪えた。えらい」
リコの肩が震えている。泣くまいとしているのだろう。でも、涙は止まらない。
「私、魔法少女になったのに、お母さんに何もできない」
「違う。魔法少女になったのは、お母さんの治療費を稼ぐためだ。それはできてる」
「でも、お母さんが苦しんでるのに、私はただ待ってるだけで」
「それでいい」
明日香はリコの隣に座った。
「魔法少女は万能じゃない。むしろ、できることより、できないことのほうが多い。戦って、借金して、それで結局、助けられないことのほうが多い」
「だったら、なんで魔法少女なんてあるんですか」
リコの声が、今まで聞いたことのない響きを帯びた。怒りだった。
「なんで私たちが、こんな」
「システムだからだ」
明日香は壁にもたれて、天井を見た。病院の天井はどこまでも白い。清潔で、無機質で、人の苦しみをただ覆っている。
「魔法少女信用供与はシステムだ。俺たちはその部品だ。借金して、戦って、返済する。それが回ってる限り、システムは止まらない」
ドアが開いたのは、それから十分ほど経ってからだった。
医師が出てくる。五十代の男性医師だ。少し疲れた顔をしている。
「栗原さんですか」
「はい」
リコが立ち上がる。
「お母様の容態は落ち着きました。ただ、血圧がかなり下がっていて、いつ急変してもおかしくない状態です」
リコの顔から血の気が引く。
「今後の治療について、ご相談したいことがあります。お父様は」
「いません」
「では、ご親族の方で相談できる方は」
「私が話を聞きます」
明日香が医師の前に進み出た。
「栗原莉子の先輩の、久我です。保護者代わりというわけではありませんが、相談には同席します」
医師は少し考えてから、うなずいた。
「病室でお話ししましょう。お母様は眠っていらっしゃいますが、経過観察のためモニターはつけたままにします」
三人で病室に入る。リコの母親はベッドに横たわっていた。顔色は白く、呼吸は浅い。モニターの光だけが、小さな電子音を規則的に刻んでいる。
「端的に申し上げます」
医師はカルテを開いた。
「お母様の病状は、魔力欠乏性免疫不全です。体内で魔力を生成する機能が低下し、免疫力が著しく落ちています。この病気は難病指定を受けており、治療法は確立されていません。現在は対症療法で症状を抑えている状態です」
「魔力欠乏性」と明日香は繰り返した。
「はい。実は、魔法少女の魔力二日酔いと似たメカニズムで起こると言われています。ただ、魔法少女の場合は変身時に外部から魔力を供給されるため、体内で魔力を生成する必要がありません。むしろ、変身を繰り返すことで、もともと体内で魔力を作る機能が衰えていくのです」
リコが顔を上げた。
「それって、魔法少女のせいで、お母さんが病気になったんですか」
「違います。お母様の病気は遺伝的なものです。ただ、不思議な符合ではありますね。お嬢様は魔法少女で、外部から魔力を供給されている。お母様は体内の魔力生成ができなくなっている」
医師は淡々と言った。リコはうつむいた。
「今後の治療ですが、もう一つ選択肢があります」
「なんでしょう」
「魔力結晶を用いた輸液治療です。魔法少女がノイズ討伐で回収する魔力結晶を加工し、医療用の輸液として投与する方法です。まだ試験段階ですが、症状の改善に効果があった症例があります」
「それ、やってください」
リコが身を乗り出した。
「お金ならなんとかします。いくらですか」
「一回の治療で、魔力結晶を三グラム使用します。費用は、結晶代と加工費、投与費用を合わせて一回につき約四十万円です。公的保険はまだ適用されていません。月に二回の投与が標準的です。つまり、月八十万円」
八十万円。リコの顔から表情が消えた。
「月、八十万」
「はい。ただ、効果が見られればお母様は退院も可能かもしれません。そうなれば入院費が浮きます。差し引きでは、月々の負担がそれほど増えない可能性もあります」
明日香は口を開いた。
「その魔力結晶は、エテルナ社が提供しているんですか」
「そうです。エテルナ・クレジット社が特許を持つ医療技術です。魔法少女の皆さんが回収した結晶が、こうして医療に転用されている。素晴らしい循環だと思いませんか」
医師は本心でそう言っていた。悪気はない。ただ、自分の治療の選択肢を提示しているだけだ。
でも、その選択肢は、魔法少女が戦って借金を増やして手に入れた結晶を、再び魔法少女が借金をして買い戻すという仕組みだった。結晶を手に入れるために借金をする。その結晶で治療を受けるために、さらに借金が必要になる。
素晴らしい循環。エテルナ社にとっては、確かにそうだ。
「医師、一つ質問です」
「どうぞ」
「魔法少女の治癒魔法では、この病気は治せないんですか」
医師は首を振った。
「魔法少女の治癒魔法は、物理的な外傷の回復に特化しています。病気の治癒には効果がありません。これはシステム上の制限というより、魔力の性質の問題です。魔法少女に供給される魔力は戦闘用に最適化されていて、生体の複雑な治療には適さないのです」
戦闘用に最適化。つまり、最初からそう設計されているのだ。戦うことだけが目的で、救うことは目的ではない。魔法少女の魔力は最初から、人を救うためには作られていない。
「わかりました。治療については、また改めて」
明日香が言うと、医師はうなずいて病室を出た。
リコは母親の手を握っていた。細い手だった。点滴の針が刺さっていて、青い血管が透けて見える。
「月八十万円」
リコが言った。
「私、バイトもしてない。変身してお金借りて、戦って結晶を拾うだけ。それだけで月八十万なんて、絶対無理だ」
「リコ」
「でも、やるしかないですよね。お母さんが助かるなら」
リコが笑った。泣きながら笑う顔だった。
「借金、いくらまでなら大丈夫かな。五百万くらいまでは、みんな行ってるんですよね」
明日香は答えられなかった。
五百万。六百万。一千万。どこまでいっても、借金はただの数字になる。その数字が、自分を縛る鎖だと気づいたときには、もう遅い。
「リコ、一つ提案がある」
「なんですか」
「魔力結晶の輸液、エテルナ社を通さないルートを探す」
「でも、特許があるって」
「医療用に加工する前の、生の結晶だ。私が回収した結晶を、直接病院に持ち込んで治療に使えないか。買取に出すより、直接使ったほうが価値がある」
リコは目を大きく開いた。
「そんなこと、できるんですか」
「わからない。でも、調べる価値はある。もしできれば、治療費は大幅に下がる。結晶の市場価格は一グラム千百円。でも医療用の結晶は一グラム十三万円以上で売られている。エテルナ社が中間で十倍以上を抜いているんだ」
「でも、それって契約違反じゃ」
「契約書には、回収した結晶は『エテルナ社の指定する買取窓口に持ち込むこと』と書いてある。でも、それを破った場合の罰則は書いてない。つまり、持ち込まない自由はある」
明日香は以前、契約書を隅々まで読んだことがある。あの細則の中に、抜け穴がないかを探した。そのときは結晶のことは気にも留めなかったが、今は違う。
「リコ、お前の母親の命は、エテルナ社に搾取されていいものじゃない」
リコは母親の手を握ったまま、小さくうなずいた。
「でも、どうやって直接使うんですか」
「ネットで調べた。この病気の患者会が、結晶の自主流通をやってるらしい。違法じゃない。グレーゾーンだ。まずはその情報を集める」
「私もやります」
「いや、リコはお母さんに付いていてやれ。調べるのは私がやる」
「なんで明日香さんは、いつもそうなんですか」
リコが顔を上げた。その目はもう泣いていなかった。
「いつも、私のことは私がやるからって、何もさせてくれない。肩代わりも、今回の調べ物も、全部ひとりで。なんでですか」
「それは」
「明日香さんは私の保証人になってる。借金も肩代わりした。それなのに、私には何もさせない。私が役に立てないみたいだ」
リコの声は落ち着いていたが、言葉は鋭かった。
「私は先輩を助けたい。助けたいんです。いつも助けられてばかりじゃ、嫌なんです」
病室に沈黙が流れた。
モニターの電子音だけが、ふたりの間を通り過ぎていく。
「わかった」
明日香は言った。
「じゃあ、役割分担だ。私は結晶の自主流通ルートを探す。リコは、病院側と交渉してくれ。結晶を外部から持ち込んだ場合の治療費を試算してもらう。それと、主治医にこの治療が本当に効果があるのか、データを出してもらえ」
「交渉、私にできますか」
「できる。リコは娘だ。保護者じゃない。でも、リコが母親の治療について真剣に考えていると医者に示せ。そうすれば、向こうも対応が変わる」
リコは目をこすってから、うなずいた。
「やります」
「よし」
明日香は立ち上がった。
「それから、もう一個。今夜は家に帰れ。風呂に入って、飯を食って、寝ろ」
「でも、お母さんが」
「お前が倒れたら、誰がお母さんを支えるんだ」
リコはしばらく考えてから、うなずいた。
「……わかりました。九時になったら帰ります」
「そうしろ」
病室を出る前に、明日香はもう一度リコの母親の顔を見た。白く痩せた頬。閉じられた目。それでも胸はかすかに上下している。生きている。生きているから、まだ戦える。
病院の廊下には、見舞い客の姿がちらほらとあった。どの顔も暗い。日曜の夕方、病院に来る人々は、それぞれの重いものを持っている。
エレベーターを待っていると、デバイスが震えた。
通知だ。エテルナ社の広報部から。
『【お知らせ】本日、クレセント・シティでノイズの集団発生が予測されています。お住まいの地域は警戒レベル3です。ご契約の魔法少女様は変身待機をお願いいたします。待機時間中の変身については、特別融資レートが適用されます』
集団発生。複数のノイズが同時に出現する現象だ。警戒レベル3は、直近で五体以上の出現が予測されることを意味する。そんな日は、魔法少女の出動回数が増え、借金が大きく増える。
そして、特別融資レート。金利が一時的に下がる代わりに、変身時間の下限が設定される。つまり、長時間戦えという意味だ。長く戦えば、そのぶん課金される。金利が下がっても、元本が増えれば利息は増える。
エテルナ社の通知はいつもそうだ。一見、魔法少女に寄り添っているように見せかけて、実際はすべて借金を増やす方向に誘導する。
デバイスをしまい、エレベーターに乗る。
一階に降りると、病院のロビーに人だかりができていた。テレビモニターの前だ。ニュース番組が、今日のノイズ集団発生予測を報じている。地図上に赤い点がいくつも表示され、市内の警戒区域が示されている。
「またノイジーかよ」
「今日は出歩かないほうがいいな」
「でも仕事があるし」
人々は口々に言い、やがて散っていく。ノイズが発生することは日常だった。警戒区域に近づかない限り、自分たちは安全だと思っている。そして、もし襲われても、魔法少女が助けてくれると思っている。
ロビーを出て、タクシーを拾う。
雨は小降りになっていたが、空はまだ厚い雲に覆われている。スマホを開くと、灯からのメッセージが来ていた。
『家に着いた。そっちは大丈夫?』
『大丈夫。いま帰る』
『友達のお母さん、どうだった』
『落ち着いた。これから様子見』
『よかった。晩ごはん、作ろうか?』
いつもなら「いいよ」と返すところだったが、今日は違った。
『頼む。冷蔵庫にあるもの適当に使って』
『りょうかい。味噌汁と、あと野菜炒めでいい?』
『いい』
『わかった。作って待ってる』
灯はもう夕食の準備を始めるだろう。あの子は手際がいい。包丁も火も扱える。子供の頃から母の代わりに台所に立ってきたからだ。
そうやって、灯はいつも誰かの代わりをしてきた。母の代わり。姉の代わり。まだ十四歳なのに。
家に着くと、台所から油の跳ねる音がしていた。味噌汁の匂いもする。靴を脱ぎ、手を洗う。
「おかえり」
灯がフライパンを片手に言った。
「いい匂いだ」
「野菜炒め、豚肉ちょっとだけ入れた。あと味噌汁は豆腐とワカメ」
「上出来だ」
二人で食卓を整える。母は今夜も夜勤だ。病院で看護師をしている母は、人の命を救う仕事をしている。なのに、娘の借金も、もう一人の娘の苦しみも知らない。
「いただきます」
灯はテレビをつけた。ニュース番組だ。ちょうどノイズ警戒情報が流れている。
「今日、ノイズが出るって」
灯が野菜炒めを箸でつまみながら言った。
「ああ。警戒レベル3だ」
「魔法少女、大変だね」
灯の口調は平坦だった。でも、その目は明日香を見ていた。昼間の約束のことが、まだ二人の間に横たわっている。
「灯」
「なに」
「昼のことだが」
「約束は守る」
灯は明日香の言葉を遮った。
「魔法少女にはならない。でも、だからって、あたしは何もしないわけじゃないから」
「なにを」
「まだわかんない。でも、考える。明日香が危ないことをしてるのに、私だけ安全なところにいるのは嫌だ。できることを探す」
「灯」
「大丈夫。変身するとか、借金するとか、そういうのじゃないやつを探すから」
灯はご飯を口にかき込んだ。話は終わりだとでも言うように。
明日香はそれ以上言えなかった。灯は頑固だ。一度決めたら曲げない。母に似たのか、それとも自分に似たのか。
夕食を終え、灯が風呂に入っている間に、明日香は自室でデバイスを開いた。
ネットで「魔力欠乏性免疫不全 結晶 自主流通」と検索する。いくつかの掲示板と、患者会のブログがヒットした。その中に「クレセント・シティ 結晶相互扶助会」という名前があった。
サイトを開く。簡素な作りのページに、次のように書いてある。
『私たちは、魔力欠乏性免疫不全の患者とその家族による相互扶助グループです。魔法少女の皆様から直接ご提供いただいた魔力結晶を、医療機関を通じて患者に届ける活動を行っています。現在、エテルナ社の医療用結晶は高額であり、多くの患者が治療を断念しています。私たちは、結晶が本来持つ価値を、必要な人に届けるための橋渡しを目指しています』
連絡先が記載されていた。メールアドレスと、待ち合わせに使われる喫茶店の名前。
喫茶店は、地上第四層の工業区にある。クレセント・シティの貧困層が多い地域だ。
明日香はその名前をデバイスにメモした。
次の休みに行こう。そして、この相互扶助会のやり方で、リコの母親の治療費を減らせるかどうかを確かめる。
デバイスのもう一つの画面では、今夜のノイズ警戒情報が更新されていた。警戒レベルは3のまま。発生予測時刻は、今夜十時から深夜二時。
十時まであと一時間半。
明日香はベッドに横たわった。身体が重い。肩の傷がまだ痛む。それでも、寝てはいられない。今夜も、警報が鳴れば出なければならない。
灯が風呂から上がり、自分の部屋に戻っていく足音が聞こえた。
そのあと、少しして、リビングのほうで何かが動く音がした。灯はまだ起きているらしい。何をしているのか、明日香は見に行かなかった。灯には灯の「できること」がある。それを止める権利は、姉にはない。
午後九時四十六分。デバイスが震えた。
エテルナ社の自動通知。ノイズ発生警報。場所は地上第四層。工業区。相互扶助会の喫茶店がある地域だ。
明日香は起き上がった。制服から部屋着に着替え、デバイスを左手首に装着する。
部屋を出ると、リビングの明かりがついていた。灯がソファに座って、ノートパソコンを開いている。何かを調べているようだった。
「行くの」
灯が顔を上げずに言った。
「行く。すぐ戻る」
「気をつけて」
「いつも通りだ」
玄関で靴を履く。傘は持たない。変身すれば濡れない。変身すれば借金が増える。濡れて風邪をひくほうが安い。でも、ノイズを倒さなければ街が壊れる。街が壊れれば、灯の生活も、母の仕事も、リコの母親の病院も危なくなる。
ドアを開けた。雨はもうやんでいたが、雲は厚く、星は見えない。
明日香は走り出した。デバイスが「変身申請」の画面で待機している。必要なときに、すぐに押せるように。
工業区までは、変身して飛べば二分。走れば十五分。どちらを選ぶか。
デバイスを見る。融資残高は六百四十三万五千円。
「変身は、まだ」
自分に言い聞かせる。できるだけ走る。どうしても間に合わないときだけ、変身する。
夜の街を走りながら、明日香は考える。
今日、灯に本当のことを話した。借金の額も、魔法少女の仕組みも。灯は泣いて、それでも約束した。魔法少女にならないと。
でも、それで守れるのだろうか。
灯はこれから、自分で情報を集め、自分のできることを探すと言った。それはきっと、魔法少女の世界に近づくことだ。知れば知るほど、灯は自分の無力さに苦しむかもしれない。何かできないかと、もがくかもしれない。
それでも、知らないままでいるよりはいい。
少なくとも、灯は選択できる。知った上で、何をするかを決められる。自分はそうできなかった。気づいたときには、もう借金を背負っていた。
工業区の入り口に着いた。
街灯が少なく、通りは暗い。古い工場と倉庫が並び、人通りはほとんどない。その奥で、空気が歪んでいる。
ノイズだ。
一体じゃない。三体。警戒レベル3は正確だった。
歪んだ空気の中心で、黒い霧が三つの形を模倣しようとしている。人間の形に近いもの、四足の獣のようなもの、そしてただの塊のまま蠢いているもの。
ノイズたちはまだ何も破壊していなかったが、その周囲では、金属製のシャッターが軋み、アスファルトにひびが入り始めている。
「変身、申請します」
声が震えていた。三体同時は初めてだ。でも、やるしかない。
生体認証が通る。全身が熱くなる。アーマーが展開する。グレードC。背中に太閤ファイナンスの広告。
デバイスがタイマーを起動した。
【戦闘モード起動】
【身体強化:1分あたり50,000円】
【推定戦闘難度:高】
【推奨:防御魔法の積極的利用】
推奨と書いてあるが、これはエテルナ社の売上推奨だ。防御魔法を使うほど課金される。でも、三体相手に防御魔法なしで戦えるか。
ノイズの一体が、明日香を認識した。獣型のノイズだ。霧でできた四足が、地面を蹴る。速い。
明日香は右手を前に出した。
「攻撃魔法、中出力。一発」
光球が獣型のノイズに命中する。霧が散り、形が崩れる。でも、完全には消えない。
もう一体が動いた。人型に近いノイズだ。腕のようなものを伸ばしてくる。
「防御魔法」
【防御魔法(部分展開):1回100,000円】
光の壁が展開し、ノイズの腕を弾く。衝撃が腕に響く。でも、防げた。防御魔法を使わなければ、さっきので肩の傷が開いていたかもしれない。
「攻撃魔法、中出力。もう一発」
今度は人型に命中。霧が薄れ、輪郭が揺らぐ。
三体目の塊型ノイズが、じわりじわりと距離を詰めてくる。これは動きが遅い。でも、そのぶん密度が濃い。低出力の攻撃魔法では効かないかもしれない。
「攻撃魔法、中出力」
三発目。塊型に命中。霧が大きく揺らぐが、それでも消えない。
デバイスのカウンターが回る。戦闘時間はすでに三分を超えている。借金が積み上がっていく。
獣型のノイズが再び動いた。さっきよりも速い。片腕を破壊されたのに、動きが鈍っていない。
「くそ」
防御魔法をもう一度展開。衝撃。そして、光球をもう一発。
ようやく獣型が消えた。地面に小さな結晶が落ちる。
残り二体。
人型が、叫ぶような仕草をした。声は出ていない。いつもの無音の叫びだ。でも、その口の動きが、妙にはっきりと見えた。
——助けて。
いつものことだ。いつものことなのに、今夜はそれが妙に頭に残った。
「攻撃魔法、中出力」
人型に命中。霧が完全に晴れる。結晶が落ちる。
最後の一体。塊型。まだ蠢いている。攻撃魔法を三発も受けて、まだ形を保っている。
「攻撃魔法、中出力。これで四発目」
掌が焼けている。連続使用で、魔力回路が熱を持っている。手袋の上からでもわかるほど熱い。
光球が塊の中心を貫く。ようやく霧が散り、結晶が落ちた。
【戦闘終了】
【本日のご利用明細:第四層工業区戦闘】
【変身1回】
【身体強化:8分17秒=414,167円】
【攻撃魔法(中出力)×4:400,000円】
【防御魔法(部分展開)×2:200,000円】
【合計:1,014,167円】
【本日のご融資残高:7,449,167円】
残高が七百四十四万を超えた。
たった八分間の戦闘で、百万円以上が加算された。
三体のノイズが消えた場所に、魔力結晶が三つ落ちている。どれも小さい。しゃがんで拾い、手のひらに乗せる。合計でせいぜい五グラム。買取価格で五千五百円。
百一万四千円の借金と、五千五百円の収入。差し引き、百万円以上の赤字。
数字を見つめていると、吐き気がこみ上げてきた。変身の反動による魔力二日酔いだけじゃない。借金という重力が、身体全体を地面に押しつけてくる感覚だった。
それでも、倒さなければ街が壊れた。工場の夜勤の人たちが危険にさらされた。リコの母親の病院に、結晶を運ぶ物流が止まったかもしれない。やるしかなかった。やるしかなかったから、やった。
変身を解除する。アーマーが消え、部屋着のスウェットに戻る。太閤ファイナンスの広告も消える。
頭が痛い。吐き気がする。慣れた。慣れてしまった。
明日香は結晶を三つ、ポケットに入れた。これをどうするか。買取に出すか、それとも相互扶助会に回すか。
買取に出せば五千五百円。扶助会に回せば、リコの母親の治療に使えるかもしれない。結晶三グラムで、輸液一回分だ。エテルナ社を通せば四十万円。扶助会なら、加工費だけで済むかもしれない。
決めるのは、あとでいい。
とにかく家に帰ろう。灯が待っている。
走って家に戻ると、リビングの明かりはまだついていた。灯がソファで寝ている。ノートパソコンは膝の上にあり、画面にはエテルナ社のコーポレートサイトが表示されている。「企業情報」「株主向け情報」「社会貢献活動」。
灯は調べていた。エテルナ社のことを。
ノートパソコンをそっと閉じ、毛布を掛ける。灯は小さく身じろぎしたが、起きなかった。
テーブルの上に、メモが置いてあった。灯の字だ。
『明日香へ。夜食にサンドイッチ作ったから冷蔵庫に入ってる。あと、エテルナ社のサイト、表だけじゃなくて奥の方まで見てる。なんか変なとこ見つけたら教える。約束は守るから安心して。灯』
明日香はメモを折り畳み、ポケットに入れた。
冷蔵庫を開けると、ラップに包まれたサンドイッチが二つ。ハムとレタスと、卵が挟まっている。手作りだ。
一つを取り出し、かぶりつく。パンが少し固くなっていたが、うまかった。何より灯が作ったものだ。
食べながら、デバイスの数字を見る。七百四十四万。
もうすぐ八百万。八百万を超えたら、またエテルナ社から増額の案内が来る。一千万を超えたら、グレードBへの変更が必須になる。そうなれば、返済はさらに遠のく。
それでも、まだ選択肢はある。
相互扶助会。結晶の自主流通。調べなければならないことは山ほどある。
そして、灯が言った「変なところ」のことも。灯はああ見えて勘が鋭い。もしかしたら、姉が見落としている何かに、先に気づくかもしれない。
明日香はサンドイッチを食べ終え、部屋に戻った。
デバイスを充電器に差し、ベッドに横たわる。スマホには灯からのメッセージはない。同じ家の中にいるから、当然だ。
でも、いつかこうして家に帰れなくなるかもしれない。
回収されるかもしれない。戦闘で死ぬかもしれない。
そのときのために、何を残せるか。
頭の中で、数字が回り続ける。利息の計算。返済のシミュレーション。結晶の買取価格と、扶助会のルート。
眠りに落ちる直前、明日香は明日の予定を決めた。
午前中に、地上第四層の喫茶店に行く。相互扶助会の連絡先を辿ろう。リコにも連絡する。そして、灯にはどこまで話すか、決めなければ。
でも、今夜はまず寝る。
身体がもう限界だった。肩の傷が痛み、頭痛が脈を打っている。目を閉じると、ノイズのあの無音の叫びが、まだ耳の奥に残っていた。
——助けて。
助けて、と叫んでいたのは、ノイズなのか。それとも、ノイズになった元・魔法少女たちなのか。
わからない。でも、それが事実なら、私たちは自分たちの先輩を殺していることになる。戦って、結晶を奪って、それを金に換えて、自分の借金を返している。
そうやってシステムは回っている。
私たちは、自分たちの死んだ仲間の上で、踊らされているだけなのかもしれない。
明日香は、そのまま深い眠りに落ちた。