少女の形をしたレプリカ。
それが当時の白鷺千聖が自分自身に下していた評価だった。
中等部時代の千聖は、押し寄せる芸能活動の波と、学校生活の両立という重圧の渦中にいた。大人の期待に応え完璧な「白鷺千聖」であり続けること。それが当たり前だと自分に言い聞かせていたが、その日のスケジュールをすべて終えた時、彼女の小さなキャパシティは完全に限界を迎えていた。
外は容赦のない冷たい雨。
傘を開く気力すら湧かなかった。
千聖は駅へ向かう道すがら雨のカーテンに隠れるようにしてただぼーっと立ち尽くしていた。濡れた髪が頬に張り付き体温が奪われていく。思考が白く濁っていく中で不意に頭上を叩く雨音が遠のいた。
「よぉ、お嬢ちゃん。そんなとこで濡れてるとせっかくの顔が台無しだぜ」
低く、けれど酷く耳に心地よい声だった。
見上げると大きな傘が自分を差し掛け片手をポケットに突っ込んだ男が立っていた。
鷲須修司
それが古びた雑居ビルの一室にアトリエを構えたばかりの若き新人デザイナーとの出会いだった。
千聖は芸能人としての警戒心を働かせようとしたが冷え切った身体は言うことを聞かない。
修司は千聖の凍えた瞳を一瞥すると、ふっと口元を緩めた。余裕とそれからほんの少しだけ大人の包容力がそこには混ざっていた。
「限界って顔だな。俺のアトリエがこのビルの上だから暖まっていけよ。……ま、怪しい奴だと思うなら誰かに連絡しといて。誘拐犯のレッテルは勘弁だから」
拒む言葉を探す間もなく足が動いていた。
古いエレベーターを上がった先にその部屋はあった。
年季の入った雑居ビルの一室とは思えないほど中は広く雑然と布地やスケッチが積み上がっていた。
修司は千聖をソファに座らせるとすぐに奥から大きなタオルと一枚の衣服を持ってきた。
「服がびしょびしょだ。そのままじゃ風邪ひくな。とりあえずこれ着てな」
差し出されたのは修司自身が着るための黒いスウェットのパーカーだった。
千聖は戸惑いながらも脱衣所で濡れた制服を脱ぎそのパーカーに袖を通した。
「……大きい、わ」
鏡の中の自分を見て千聖は小さく息を呑んだ。
袖口から指先がほんの少し覗くばかりで裾は太もものあたりまで届いている。
見慣れた自分の顔が妙に幼く見えた。
部屋に戻ると修司は仕事机で作業を続けていた。
千聖がソファの端で大きすぎる袖をそっと握りしめて小さくなっていると修司が手元のマグカップを持って近づいてきた。
「まだ寒いだろ、ほら」
手渡されたカップからこうばしい香りが立ち上る。
千聖は本来、大の紅茶派だ。コーヒーの苦味は得意ではない。けれど冷え切った指先がカップの温もりを離せなくて恐る恐る口をつけた。
「……あ。甘い」
思わず顔を上げると修司が楽しそうに目を細めた。
「砂糖二つ入れといたよ。子供には苦いだろうと思ってさ」
「……子供じゃ、ないです」
「そう?俺にはそう見えるけどな」
あっさりと言い返されて千聖は言葉に詰まった。
修司は畳み掛けるでもなく、ただ「まあいいや」と笑って千聖の隣に腰を下ろした。
「美味しいです。……すごく、温かい」
嘘のない言葉が自然と口から溢れていた。
砂糖が二つ溶かされた甘口の熱いコーヒー。
それは千聖の凍りついた身体を内側からじんわりと溶かしていく。
修司はしばらく黙って自分のカップを傾けていた。
千聖の方を見るでもなく、急かすでもなく、ただそこにいる。その重さがむしろ千聖の胸の奥を静かに揺さぶった。
やがて修司が煙草でも吸うみたいな気怠い口調で言った。
「よく頑張ったな、お嬢ちゃん」
それだけだった。
何も付け加えなかった。
軽い声なのに妙に真っ直ぐ届いた。
千聖は俯いたまま唇をきつく結んだ。
泣きたくなかった。
泣くつもりなどなかった。
けれど目の奥がじわりと熱くなる。
「……意地悪ですね」
絞り出した言葉は我ながら意味をなしていなかった。
修司は軽く笑った気配がした。
「何が?」
「そういう……一言で崩すのが」
「本当のことを言っただけだろ」
そう言いながら千聖のぶかぶかの袖に隠れた手に大きな手をそっと重ねた。
それ以上でもそれ以下でもない。気障なのに嫌じゃなかった。
千聖はカップを両手で包んだまま静かに目を伏せた。涙は零れなかった。ただ鼻の奥が少しだけ痛かった。
芸能界の誰も学校の誰も言ってくれたことのない言葉。
張り詰めていた糸は声を上げるほど派手には切れなかった。
ただゆっくりとほぐれていった。
これが後に「特等席」と呼ばれるようになる二人の始まりの雨の日。
白鷺千聖が世界で唯一計算を捨てていられる場所を見つけた夜のことだった。