展示会まであと二週間だった。
その間千聖はいつもより少し多くアトリエに顔を出した。
理由は特にない。
強いて言えば修司の仕事が気になった。
あのドレスがどう仕上がっていくのか見ていたかった。
修司は特に何も言わなかった。
来るたびに「来たな」と言ってコーヒーを淹れてまた仕事に戻る。
千聖はソファに座ってその背中を眺めた。
いつも通りだった。
いつも通りなのに千聖の中では何かが少しずつ積み上がっていた。
ある日、修司が千聖を作業机の前に呼んだ。
「ちょっといいか」
「……何ですか」
「これ、どう見える」
机の上に布地のサンプルが二枚並んでいた。
どちらも深い藍色だったが、一方はつやがあり、もう一方はマットな質感だった。
修司は腕を組んで二枚を交互に見ていた。
千聖は少し考えてからマットな方を指した。
「こっちの方が人が際立つ気がします。つやがある方は布地が主張しすぎるかもしれないので」
修司はしばらく黙って千聖が指した布地を手に取った。
光に透かして角度を変えながら見ている。
「……正解」
「え」
「俺もそっちにしようと思ってた。確認したかっただけ」
千聖は少し拍子抜けしてそれからおかしくなった。
確認のために呼んだのか。
修司はそういうことをさらりとする。
「……私でよかったんですか?確認相手が」
「目がいいからな」
それだけだった。
千聖は返す言葉を探して見つからなかった。
目がいいと修司は言う。
それが千聖への修司なりの評価だとわかっていた。
お嬢ちゃんという距離感の中にちゃんと千聖を見ている目がある。
その目が好きだった。
展示会の当日はよく晴れた土曜日だった。
会場は都内のギャラリーで白い壁に作品が並んでいた。
若手デザイナーたちの衣装がそれぞれの照明の下に立っている。
千聖は招待券を持って一人で会場に入った。
修司の作品は奥の一角にあった。
千聖は人の間をすり抜けてそこに辿り着いた瞬間、足が止まった。
あのドレスだった。
深い藍色のマットな布地が照明を受けて静かに立っていた。
装飾は最小限でシルエットだけが語っている。
背が高くて芯がある人が着た時に完成する、と修司は言っていた。
今はモデルが着ているのに確かにそう見えた。
その人がその人でいるための服。
千聖はしばらくその場に立ったままだった。
「来たな」
背後から声がした。
振り向くと修司がいた。
いつものアトリエとは少し違うきちんとした格好をしていた。
けれど表情はいつも通りで千聖を見て静かに目を細めた。
「……来ました」
「どうだ?」
「きれいです。すごく」
「そうか」
修司はドレスの方に視線を戻した。
千聖も並んでまた見た。
二人でしばらく黙ってドレスを見ていた。
「修司さん」
「ん」
「これを作ってよかったですか」
修司は少し間を置いた。
「ああ」
「どうして」
「最初に見た時お嬢ちゃんがきれいって言ったから」
千聖は一瞬息が止まった。
修司はこちらを見ていなかった。
ドレスを見たまま淡々と続けた。
「作ってる間、ずっとその声が基準になってた。これでいいかって迷う時に」
「……それは」
「褒め言葉だよ」
さらりと言って修司はようやく千聖を見た。
千聖は今どんな顔をしているのか自分ではわからなかった。
「……意地悪ですね」
「何が」
「そういうことをさらりと言うのが」
「本当のことを言っただけだろ」
修司は少し笑ってまた前を向いた。
千聖も前を向いた。
藍色のドレスが照明の中で静かに立っていた。
——私の声が基準になっていた。
その言葉の重さを千聖はゆっくりと測った。
修司は特別という言葉を使わない。
大事という言葉も使わない。
ただ、事実だけをさらりと置いていく。
それがずるくてそれが好きだった。
「……展示が終わったらまた来ていいですか」
千聖は前を向いたまま言った。
修司は少し間を置いてからいつもと同じ口調で答えた。
「どうぞ」
たった一言だった。
けれどその一言が今日一番温かかった。