砂糖二つの特等席   作:y@s

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第11話 卒業の日、特等席へ

 

卒業式は、三月の晴れた日だった。

 

体育館に並んだ白い椅子、証書を受け取る手、先生の声、泣いているクラスメイト。

千聖はそのすべてを、どこか遠くから眺めていた。感慨がないわけではない。けれど胸の中で一番大きく鳴っていたのは、卒業への感傷ではなかった。

 

——今日、言おう。

 

朝から、そう決めていた。

 

高校生になる。花咲川女子学園の、高等部に進む。

世界が少し広がる。

その前に、ちゃんと言葉にしておきたかった。

伝わらなくてもいい。

届かなくてもいい。

ただ、このままにしておくのが、もう苦しかった。

 

証書を受け取りながら、千聖はまっすぐ前を向いた。ポーカーフェイスは崩れていない。隣のクラスメイトが涙を拭っていた。千聖の目は、乾いたままだった。

 

泣くとしたら、今夜かもしれない、と思った。

 

 

式が終わって、クラスメイトたちが写真を撮り合っている中、千聖はそっと輪を抜けた。

 

制服のまま、アトリエに向かった。

 

雑居ビルの前に立った時、春の風が吹いた。

一年前、雨の中でここに来た日のことを、千聖は思い出した。傘を開く気力もなくて、ただ立ち尽くしていた夜。あの時と、今の自分は、どこが違うのだろう。

 

少し、強くなったかもしれない。

 

そう思いながら、エレベーターのボタンを押した。

 

 

ドアをノックすると、いつも通り「開いてる」と返ってきた。

 

中に入ると、修司は仕事机の前にいた。千聖の姿を見て、一瞬だけ目を止めた。制服姿だからかもしれない。

 

「……卒業式だったか、今日」

 

「はい」

 

「おめでとう」

 

さらりと言った。

千聖は「ありがとうございます」と返して、でもソファには座らなかった。入り口の近くに立ったまま、鞄の持ち手をそっと握った。

 

修司が首を傾けた。

 

「座らないのか」

 

「……今日は、少し話があって」

 

「うん」

 

「座ると、言えなくなりそうなので」

 

修司は椅子を回して、千聖の方を向いた。仕事の手を止めて、ただ待っている。急かさない。いつも通りの、修司の間の取り方だった。

 

千聖は一度、息を吸った。

 

「……修司さんのことが、好きです」

 

声は、思ったより静かに出た。震えなかった。千聖は修司をまっすぐ見ていた。

 

「一回り年が違うことも、わかっています。今の私がまだ子供だということも。それでも、言わないままにしておくのが、もう無理でした」

 

修司は黙っていた。表情が読めなかった。千聖は続けた。

 

「返事は、いらないです。ただ、知っていてほしかっただけなので」

 

言い切った。

 

胸の中が、不思議なくらい静かだった。嵐の前ではなくて、嵐の後みたいに。言葉にした途端、ずっと重かったものが、すとんと軽くなった。

 

しばらく、沈黙が続いた。

 

修司が、立ち上がった。

 

ゆっくりとした足取りで、千聖の方に近づいてきた。千聖は動けなかった。修司は千聖の前で立ち止まって、少し低い位置から千聖の目を見た。

 

「返事はいらないって言ったけど」

 

「……はい」

 

「俺が言いたいから、聞いてくれるか」

 

千聖は小さく頷いた。

 

修司はしばらく千聖を見てから、静かに言った。

 

「今すぐどうこうするつもりはない。お嬢ちゃんはまだ高校生になるところで、俺は二十七で、それは本当のことだから」

 

「……はい」

 

「でも」

 

修司が、少し間を置いた。

 

「嫌いじゃない。ずっと前から」

 

千聖の胸の中で、何かが静かに、大きく揺れた。

 

「それだけじゃ足りないのはわかってる。でも今は、それだけしか言えない」

 

「……十分です」

 

千聖の声が、少しだけ掠れた。修司は千聖の頭に、大きな手をそっと乗せた。撫でるのではなく、ただ乗せる。重さだけが、そこにあった。

 

「高校、頑張れよ」

 

「……はい」

 

「また来い」

 

「……来ます」

 

修司は手を離して、また机に戻っていった。千聖はしばらく、その場に立ったままだった。

 

窓の外に、春の光が傾いていた。

 

——嫌いじゃない。ずっと前から。

 

その言葉を、胸の中でそっと繰り返した。今すぐどうこうするつもりはない、と修司は言った。それは、いつかどうこうするかもしれない、ということでもある。

 

千聖はそれを、希望と呼ぶことにした。

 

「……コーヒー、いただいてもいいですか」

 

修司が振り向かないまま、言った。

 

「砂糖二つでいいか」

 

「はい」

 

「相変わらず子供だな」

 

「……もうすぐ、高校生です」

 

「同じだろ」

 

千聖は小さく笑った。笑ったことに、自分で少し驚いた。泣くかもしれないと思っていたのに、笑っていた。

 

コーヒーの香りが漂ってくる。千聖はソファに腰を下ろして、大きすぎる袖をそっと握った。

 

砂糖二つの、甘いコーヒー。

 

この場所が、やっぱり好きだと思った。

 

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