卒業式は、三月の晴れた日だった。
体育館に並んだ白い椅子、証書を受け取る手、先生の声、泣いているクラスメイト。
千聖はそのすべてを、どこか遠くから眺めていた。感慨がないわけではない。けれど胸の中で一番大きく鳴っていたのは、卒業への感傷ではなかった。
——今日、言おう。
朝から、そう決めていた。
高校生になる。花咲川女子学園の、高等部に進む。
世界が少し広がる。
その前に、ちゃんと言葉にしておきたかった。
伝わらなくてもいい。
届かなくてもいい。
ただ、このままにしておくのが、もう苦しかった。
証書を受け取りながら、千聖はまっすぐ前を向いた。ポーカーフェイスは崩れていない。隣のクラスメイトが涙を拭っていた。千聖の目は、乾いたままだった。
泣くとしたら、今夜かもしれない、と思った。
式が終わって、クラスメイトたちが写真を撮り合っている中、千聖はそっと輪を抜けた。
制服のまま、アトリエに向かった。
雑居ビルの前に立った時、春の風が吹いた。
一年前、雨の中でここに来た日のことを、千聖は思い出した。傘を開く気力もなくて、ただ立ち尽くしていた夜。あの時と、今の自分は、どこが違うのだろう。
少し、強くなったかもしれない。
そう思いながら、エレベーターのボタンを押した。
ドアをノックすると、いつも通り「開いてる」と返ってきた。
中に入ると、修司は仕事机の前にいた。千聖の姿を見て、一瞬だけ目を止めた。制服姿だからかもしれない。
「……卒業式だったか、今日」
「はい」
「おめでとう」
さらりと言った。
千聖は「ありがとうございます」と返して、でもソファには座らなかった。入り口の近くに立ったまま、鞄の持ち手をそっと握った。
修司が首を傾けた。
「座らないのか」
「……今日は、少し話があって」
「うん」
「座ると、言えなくなりそうなので」
修司は椅子を回して、千聖の方を向いた。仕事の手を止めて、ただ待っている。急かさない。いつも通りの、修司の間の取り方だった。
千聖は一度、息を吸った。
「……修司さんのことが、好きです」
声は、思ったより静かに出た。震えなかった。千聖は修司をまっすぐ見ていた。
「一回り年が違うことも、わかっています。今の私がまだ子供だということも。それでも、言わないままにしておくのが、もう無理でした」
修司は黙っていた。表情が読めなかった。千聖は続けた。
「返事は、いらないです。ただ、知っていてほしかっただけなので」
言い切った。
胸の中が、不思議なくらい静かだった。嵐の前ではなくて、嵐の後みたいに。言葉にした途端、ずっと重かったものが、すとんと軽くなった。
しばらく、沈黙が続いた。
修司が、立ち上がった。
ゆっくりとした足取りで、千聖の方に近づいてきた。千聖は動けなかった。修司は千聖の前で立ち止まって、少し低い位置から千聖の目を見た。
「返事はいらないって言ったけど」
「……はい」
「俺が言いたいから、聞いてくれるか」
千聖は小さく頷いた。
修司はしばらく千聖を見てから、静かに言った。
「今すぐどうこうするつもりはない。お嬢ちゃんはまだ高校生になるところで、俺は二十七で、それは本当のことだから」
「……はい」
「でも」
修司が、少し間を置いた。
「嫌いじゃない。ずっと前から」
千聖の胸の中で、何かが静かに、大きく揺れた。
「それだけじゃ足りないのはわかってる。でも今は、それだけしか言えない」
「……十分です」
千聖の声が、少しだけ掠れた。修司は千聖の頭に、大きな手をそっと乗せた。撫でるのではなく、ただ乗せる。重さだけが、そこにあった。
「高校、頑張れよ」
「……はい」
「また来い」
「……来ます」
修司は手を離して、また机に戻っていった。千聖はしばらく、その場に立ったままだった。
窓の外に、春の光が傾いていた。
——嫌いじゃない。ずっと前から。
その言葉を、胸の中でそっと繰り返した。今すぐどうこうするつもりはない、と修司は言った。それは、いつかどうこうするかもしれない、ということでもある。
千聖はそれを、希望と呼ぶことにした。
「……コーヒー、いただいてもいいですか」
修司が振り向かないまま、言った。
「砂糖二つでいいか」
「はい」
「相変わらず子供だな」
「……もうすぐ、高校生です」
「同じだろ」
千聖は小さく笑った。笑ったことに、自分で少し驚いた。泣くかもしれないと思っていたのに、笑っていた。
コーヒーの香りが漂ってくる。千聖はソファに腰を下ろして、大きすぎる袖をそっと握った。
砂糖二つの、甘いコーヒー。
この場所が、やっぱり好きだと思った。