入学式まで、あと十日だった。
千聖は制服の採寸を終えて、いつものカフェに向かった。
花音が先に来ていて、ミルクティーを両手で包みながら窓の外を見ていた。千聖の姿を見つけると、ぱっと顔を上げた。
「千聖ちゃん、おつかれ。採寸どうだった?」
「問題なく終わったよ」
「よかった。わたしちょっと裾が長くて直してもらったんだよね」
他愛ない話をしながら、千聖は紅茶を頼んだ。窓から春の光が差し込んでいる。穏やかな午後だった。
「……ねえ、花音」
「なに?」
「この前、修司さんに告白したんだけど」
花音が、カップを持ったままぴたりと止まった。
「……今、なんて言った?」
「告白した」
「し、したの?!」
「うん」
「どうだった?!」
千聖は少し考えてから、答えた。
「……今すぐどうこうするつもりはないけど、嫌いじゃないって言われた」
花音の目が、みるみる潤んだ。
「千聖ちゃん……!……!」
「なにも泣かなくても」
「だって、ずっと一人で抱えてたんだもん。よかったよ、ほんとに」
花音はハンカチを取り出して、目元を押さえた。千聖はそれを見ながら、胸の中が少し温かくなった。
「……ありがとう」
「うん。でも、そっかあ。嫌いじゃない、かあ」
「修司さんらしい答えだと思う」
「確かに。千聖ちゃんが話してくれてた感じだと、そういう人だよね」
花音はハンカチをしまいながら、にっこりした。
「よかったね、千聖ちゃん。一歩進んだよ」
「……そうかしら」
「そうだよ。で、それからどう? また会ってるの?」
「うん。先週も行ったわ」
「どうだった?」
千聖はカップを持ったまま、少し間を置いた。
「……それが、少し気になることがあって」
「なになに」
「告白した日ね、一度だけ名前を呼んでもらえたんだけど」
花音が目を丸くした。「千聖」って?
「うん。でもあれから、一度も呼んでもらえないんだよね。また『お嬢ちゃん』に戻って」
花音はしばらく、何かを考えるような顔をした。それから、困ったような温かい顔で言った。
「それ、千聖ちゃん的にはどうなの」
「……どうにも、気になって」
「気になるよねえ」
「あの一回が、聞き間違いだったのかなって思う時もあるし。でも確かに聞こえたんだよね」
「聞き間違いじゃないと思うよ、絶対」
「どうしたら、また呼んでもらえるのか」
花音はミルクティーをひと口飲んで、真剣な顔で考え込んだ。千聖はそれを待った。
「……ねえ、千聖ちゃん」
「なに」
「じゃあ、逆に聞いてみるのは?」
「聞くって」
「『お嬢ちゃんじゃなくて名前で呼んでください』って」
千聖はしばらく黙った。頭の中で、その場面を想像した。修司の顔。涼しい目。絶対にからかわれる。
「……それは、恥ずかしい」
「でも一番早いよ?」
「花音、それは無理」
「えー」
「絶対にからかわれる」
「まあ、からかわれるだろうけど」花音がくすくす笑った。「でも、からかいながらでも呼んでくれるかもよ」
千聖は視線を落とした。確かに、修司ならそういうことをするかもしれない。意地悪に笑いながら、さらりと名前を呼ぶ。それはそれで、困る。
「……考えてみる」
「うん。あとね」
「なに」
「千聖ちゃん、それ惚気だよ」
「……え」
「名前を一回呼んでもらえただけで、こんなに気にしてるんだもん。完全に惚気」
千聖は耳が熱くなるのを感じた。花音がにこにこしながら続けた。
「いい顔してるよ、今」
「……してない」
「してる。ポーカーフェイス、崩れてる」
千聖は手で頬を覆った。花音がまたくすくす笑った。
「千聖ちゃんが幸せそうで、わたし嬉しいよ」
その一言に、千聖は返す言葉を失った。
幸せ。
そうかもしれない。名前を一度呼んでもらえただけで、こんなに引きずっている。それはきっと、幸せの一種だ。
「……花音」
「なに?」
「また相談、聞いてくれる?」
「もちろん。千聖ちゃんの惚気、いくらでも聞くよ」
「惚気じゃないよ」
「惚気だよ」
千聖は小さく息を吐いて、紅茶を一口飲んだ。温かくて、少し甘かった。
窓の外の春の光が、柔らかく傾いていた。入学式まで、あと十日。
——名前、また呼んでもらえるかな。
その答えは、まだ先にあった。