砂糖二つの特等席   作:y@s

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第13話 名前を呼ぶということ

 

入学式の前日だった。

 

千聖はアトリエのソファに座って、砂糖二つのコーヒーを飲んでいた。修司はいつも通り仕事机の前にいる。窓の外は夕暮れで、部屋の中がオレンジ色に染まっていた。

 

明日から高校生になる。

 

それだけのことなのに、今日は少し、感傷的だった。中等部の制服を着てここに来るのは、今日で最後だ。次に来る時は、違う制服を着ている。それがなぜか、小さく胸に引っかかった。

 

「……修司さん」

 

「ん」

 

「明日、入学式なんです」

 

「うん、知ってる」

 

「なんか、変な感じがして」

 

「何が」

 

「中学生じゃなくなる、というか。……うまく言えないんですけど」

 

修司は手を動かしながら、静かに聞いていた。千聖は続けた。

 

「高校生になっても、ここに来ていいですか」

 

 

「来ればいい、それだけだ」

 

さらりと言って、また仕事に戻る。千聖はカップを両手で包んで、その背中を見た。

 

——名前、聞いてみようかな。

 

花音の声が、頭の中で蘇った。『お嬢ちゃんじゃなくて名前で呼んでください』って言ってみたら、と花音は言っていた。絶対にからかわれる、と思っていた。今もそう思っている。

 

けれど今日は、なぜか少し、言えそうな気がした。

 

「……あの」

 

「ん」

 

「一つ、お願いがあるんですが」

 

修司が振り向いた。千聖を見る目が、少し怪訝そうだった。

 

「なんだ」

 

千聖は一度息を吸った。

 

「名前で、呼んでいただけませんか」

 

しばらく、沈黙が続いた。

 

修司は千聖をまっすぐ見ていた。表情が読めない。千聖は視線を逸らさないようにしながら、続けた。

 

「お嬢ちゃん、という呼び方が嫌なわけじゃないんですけど。……一度だけ、呼んでもらえたことがあって。それからずっと、気になっていて」

 

「……気になってた、ね」

 

「はい」

 

修司は少しの間、千聖を見ていた。それから、ゆっくりと口の端を上げた。

 

「お嬢ちゃんが自分からそういうこと言うとは思わなかった」

 

「……からかわないでください」

 

「からかってない。感心してる」

 

「同じです」

 

修司は小さく笑った。千聖はカップをぎゅっと握った。からかわれるとわかっていた。わかっていても、頬が熱い。

 

修司はしばらく千聖を見てから、椅子を少し回して、正面から千聖に向き合った。

 

いつもと違う角度だった。千聖は思わず背筋を伸ばした。

 

「千聖」

 

静かに、呼んだ。

 

千聖の胸の中で、何かが大きく揺れた。お嬢ちゃん、ではない。名前だった。修司の声で、名前が呼ばれた。

 

「……はい」

 

声が、少し掠れた。修司は涼しい顔をしていた。

 

「呼べばいいんだろ、名前で」

 

「……意地悪ですね」

 

「何が」

 

「そんな顔で呼ぶのが」

 

「どんな顔だよ」

 

「……涼しすぎる顔」

 

修司はまた小さく笑って、椅子を机の方に戻した。千聖はしばらく、自分の膝の上を見ていた。

 

千聖。

 

耳の奥で、もう一度繰り返した。修司の声で。低くて、静かで、さらりとしていて。

 

——ずるい。

 

こんなに自然に呼ぶなんて、ずるい。私がどれだけ待っていたか、知らないくせに。

 

「……ずっと、知ってたんですか。名前」

 

「最初から知ってた」

 

「じゃあどうして」

 

「お嬢ちゃんの方が、しっくりきてたから」

 

「……今は」

 

修司は少し間を置いた。

 

「今は、どっちもしっくりくる」

 

千聖は視線を落とした。

どっちもしっくりくる。

それは、千聖が名前で呼ばれる人間になった、ということでもある。お嬢ちゃんという距離と、千聖という距離が、今は並んでいる。

 

今は十分だと思った。

 

「……ありがとうございます」

 

「何が」

 

「呼んでくれて」

 

修司は何も言わなかった。ただ、手を動かしながら、静かにそこにいた。

 

コーヒーの香りが漂っている。窓の外の夕暮れが、少し深くなっていた。

 

千聖はカップを傾けた。甘い。砂糖が、二つ。

 

明日から高校生になる。世界が少し広がる。それでもきっと、この場所に戻ってくる。砂糖二つのコーヒーを飲みに、修司の声を聞きに、名前を呼んでもらいに。

 

——千聖。

 

もう一度だけ、心の中で繰り返した。

 

修司の声で呼ばれた自分の名前が、今夜だけはひどく、好きだった。

 

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