入学式の前日だった。
千聖はアトリエのソファに座って、砂糖二つのコーヒーを飲んでいた。修司はいつも通り仕事机の前にいる。窓の外は夕暮れで、部屋の中がオレンジ色に染まっていた。
明日から高校生になる。
それだけのことなのに、今日は少し、感傷的だった。中等部の制服を着てここに来るのは、今日で最後だ。次に来る時は、違う制服を着ている。それがなぜか、小さく胸に引っかかった。
「……修司さん」
「ん」
「明日、入学式なんです」
「うん、知ってる」
「なんか、変な感じがして」
「何が」
「中学生じゃなくなる、というか。……うまく言えないんですけど」
修司は手を動かしながら、静かに聞いていた。千聖は続けた。
「高校生になっても、ここに来ていいですか」
「来ればいい、それだけだ」
さらりと言って、また仕事に戻る。千聖はカップを両手で包んで、その背中を見た。
——名前、聞いてみようかな。
花音の声が、頭の中で蘇った。『お嬢ちゃんじゃなくて名前で呼んでください』って言ってみたら、と花音は言っていた。絶対にからかわれる、と思っていた。今もそう思っている。
けれど今日は、なぜか少し、言えそうな気がした。
「……あの」
「ん」
「一つ、お願いがあるんですが」
修司が振り向いた。千聖を見る目が、少し怪訝そうだった。
「なんだ」
千聖は一度息を吸った。
「名前で、呼んでいただけませんか」
しばらく、沈黙が続いた。
修司は千聖をまっすぐ見ていた。表情が読めない。千聖は視線を逸らさないようにしながら、続けた。
「お嬢ちゃん、という呼び方が嫌なわけじゃないんですけど。……一度だけ、呼んでもらえたことがあって。それからずっと、気になっていて」
「……気になってた、ね」
「はい」
修司は少しの間、千聖を見ていた。それから、ゆっくりと口の端を上げた。
「お嬢ちゃんが自分からそういうこと言うとは思わなかった」
「……からかわないでください」
「からかってない。感心してる」
「同じです」
修司は小さく笑った。千聖はカップをぎゅっと握った。からかわれるとわかっていた。わかっていても、頬が熱い。
修司はしばらく千聖を見てから、椅子を少し回して、正面から千聖に向き合った。
いつもと違う角度だった。千聖は思わず背筋を伸ばした。
「千聖」
静かに、呼んだ。
千聖の胸の中で、何かが大きく揺れた。お嬢ちゃん、ではない。名前だった。修司の声で、名前が呼ばれた。
「……はい」
声が、少し掠れた。修司は涼しい顔をしていた。
「呼べばいいんだろ、名前で」
「……意地悪ですね」
「何が」
「そんな顔で呼ぶのが」
「どんな顔だよ」
「……涼しすぎる顔」
修司はまた小さく笑って、椅子を机の方に戻した。千聖はしばらく、自分の膝の上を見ていた。
千聖。
耳の奥で、もう一度繰り返した。修司の声で。低くて、静かで、さらりとしていて。
——ずるい。
こんなに自然に呼ぶなんて、ずるい。私がどれだけ待っていたか、知らないくせに。
「……ずっと、知ってたんですか。名前」
「最初から知ってた」
「じゃあどうして」
「お嬢ちゃんの方が、しっくりきてたから」
「……今は」
修司は少し間を置いた。
「今は、どっちもしっくりくる」
千聖は視線を落とした。
どっちもしっくりくる。
それは、千聖が名前で呼ばれる人間になった、ということでもある。お嬢ちゃんという距離と、千聖という距離が、今は並んでいる。
今は十分だと思った。
「……ありがとうございます」
「何が」
「呼んでくれて」
修司は何も言わなかった。ただ、手を動かしながら、静かにそこにいた。
コーヒーの香りが漂っている。窓の外の夕暮れが、少し深くなっていた。
千聖はカップを傾けた。甘い。砂糖が、二つ。
明日から高校生になる。世界が少し広がる。それでもきっと、この場所に戻ってくる。砂糖二つのコーヒーを飲みに、修司の声を聞きに、名前を呼んでもらいに。
——千聖。
もう一度だけ、心の中で繰り返した。
修司の声で呼ばれた自分の名前が、今夜だけはひどく、好きだった。