高校の入学式は、四月の晴れた日だった。
新しい制服、新しい教室、新しいクラスメイト。
千聖はそのすべてを、いつも通りのポーカーフェイスで受け流した。
式が終わって、HRが終わって、下校の流れに乗りながら、千聖はすでにアトリエのことを考えていた。
今日は行こう、と思っていた。新しい制服を、見せたかったから。
理由はそれだけだ、と自分に言い聞かせながら、千聖は雑居ビルに向かった。
「来たな、千聖」
ドアを開けると、修司がいつも通り振り向かずに言った。
千聖の名前が、さらりと呼ばれた。あの日以来、修司は「千聖」と「お嬢ちゃん」を気まぐれに使い分けている。どちらで呼ばれるかわからないから、千聖はドアを開けるたびに少しだけ構えてしまう。今日は名前だった。それだけで、胸の奥が少し跳ねた。
「……入学式でした、今日」
「おっ。制服、変わったな」
修司が初めて振り向いた。千聖の制服をさっと見て、それから目を細めた。
「似合ってる」
「……ありがとうございます」
「高校生になったな」
「なりました」
「相変わらず砂糖二つか」
「……はい」
修司は小さく笑って、台所に向かった。千聖はソファに腰を下ろして、新しい制服のスカートをそっと整えた。似合ってる、と言われた言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
しばらくして、修司がコーヒーを持ってきた。千聖の分を机に置いて、自分のカップを持ったまま立っていた。
何かを考えているような間だった。
「……修司さん?」
「千聖、ちょっと付き合え」
「え」
「買い物」
千聖は一瞬、意味が飲み込めなかった。
「……今からですか」
「あぁ。近くに雑貨屋がある。すぐ終わる」
「何を買いに」
「行けばわかる」
有無を言わさない口調だった。千聖はカップを持ったまま、少し戸惑いながら立ち上がった。
雑居ビルから歩いて五分ほどのところに、その雑貨屋はあった。小さな店で、棚に食器や日用品が並んでいる。修司は慣れた様子で中に入って、迷わずマグカップのコーナーに向かった。
千聖は後ろをついて歩きながら、状況を整理しようとした。
マグカップを、買いに来た。
修司はカップを一つ一つ手に取って、眺めている。陶器のもの、ガラスのもの、シンプルなもの、柄のあるもの。
千聖はその横に並んで、一緒に棚を見た。
「……何のカップを探してるんですか」
「千聖のやつ」
千聖は、一瞬止まった。
「……私の」
「アトリエに来るたびに俺のカップで出してるだろ。専用のやつがあった方がいい」
さらりと言った。修司は千聖の方を見ていなかった。棚のカップを手に取って、重さを確かめている。
千聖は胸の中で何かが、じわりと大きく揺れるのを感じた。
専用のカップ。千聖のための、カップ。アトリエに、千聖の居場所を作るみたいな、そういうことだ。修司はそれを、さりげなく、買い物に来た、の一言で済ませている。
——どうしよう。
どうしようもなかった。こういう時に限って、ポーカーフェイスが頼りない。
「……自分で選んでいいですか」
「どうぞ」
千聖は棚を見た。いくつかのカップが並んでいる。
シンプルな白。深い青。やわらかいベージュ。小さな花柄のもの。
千聖は少し考えてから、白地に細い金のラインが入ったカップを手に取った。飾りすぎず、でも無愛想でもない。砂糖二つのコーヒーを入れた時に、きれいに見えそうだと思った。
修司に差し出すと、修司が受け取って眺めた。
「これにするか」
「……はい」
「いい目してる」
「目、じゃなくてカップです」
「同じだろ」
千聖は小さく唇を結んだ。修司はカップを持ってレジに向かった。千聖がお金を出そうとすると、修司が先に払った。
「……いいんですか」
「俺が言い出したんだから」
「でも」
「千聖」
名前を呼ばれて、千聖は言葉を失った。修司はレシートを受け取りながら、千聖を横目で見た。
「ここに来る時のカップだから、俺が買う。それだけだ」
それだけだ、と言うのに、その一言がひどく重かった。千聖はもう何も言えなくて、ただ「……ありがとうございます」と返した。
アトリエに戻ると、修司はすぐにカップを洗って、棚の端に置いた。白地に金のライン。他のカップとは少し違う、千聖のカップ。
「次から、これに入れる」
「……はい」
「砂糖二つ、変わらないよな」
「変わらないです」
「子供だな」
「……もう高校生です」
「同じだろ」
千聖はソファに腰を下ろして、棚の端のカップを見た。自分のカップが、修司のアトリエにある。それだけのことなのに、なぜか胸の奥がずっと騒がしかった。
——これって、いわゆる。
考えかけて、千聖は思考を断ち切った。
修司はもう仕事に戻っている。いつも通りの背中だった。千聖はカップを両手で包んで、コーヒーを一口飲んだ。
甘い。砂糖が、二つ。
今日は、自分のカップで飲んだ。
それだけのことが、今夜ひどく特別に思えて、千聖は誰にも見せないように、そっと目を伏せた。