翌日の昼休み、千聖はいつものカフェに花音を呼び出した。
LINEを送ったのは朝のホームルームが終わった直後だった。「放課後、時間ある?」と送ると、三分もしないうちに「あるある!どうしたの?」と返ってきた。千聖は「報告がある」とだけ返した。
花音からは「!!!!」とだけ返ってきた。
放課後、いつものカフェに着くと、花音はすでに来ていた。ミルクティーを両手で包んで、入り口をじっと見ていた。千聖の姿を見つけると、椅子から半分立ち上がりそうな勢いで手を振った。
「千聖ちゃん! 報告って何?!」
「座って、花音」
「だって気になって。昨日入学式だったんだよ、何かあった?」
千聖は紅茶を注文してから、花音の向かいに座った。花音はもうすでに、にこにこしている。何も話していないのに、もう楽しそうだった。
「……昨日、アトリエに行ったんだけど」
「うんうん」
「修司さんに、買い物に連れていってもらった」
花音の目が、ぱっと輝いた。
「買い物?! どこ? 何買ったの?」
「近くの雑貨屋で」千聖は少し間を置いた。「……私専用のマグカップを、買ってもらった」
しばらく、沈黙が続いた。
花音はぽかんとしていた。それから、じわじわと顔が赤くなっていった。
「……ち、千聖ちゃん」
「うん」
「それ、すごくない?」
「……そうかな」
「そうだよ! 専用カップって、つまり『また来ること前提』ってことだよ! アトリエに千聖ちゃんの居場所作ったってこと!」
花音の声が少し大きくなって、千聖は思わず「花音、声」と言った。花音は慌てて口を押さえた。
「ご、ごめん。でも、すごいよそれ」
「……うん」
「千聖ちゃんは、どうだったの。その時」
千聖は紅茶が来るのを待ちながら、少し考えた。どうだったか。胸の奥がずっと騒がしかった。ポーカーフェイスが頼りなかった。帰り道、何度も棚の端のカップを思い出した。
「……どうしようもなかった」
「どうしようもなかったって」
「ポーカーフェイス、多分あんまり保ててなかった」
花音がくすくす笑った。
「そっか。で、修司さんは?」
「涼しい顔してた」
「相変わらずずるいね、その人」
「……本当に」
紅茶が来た。千聖はカップを両手で包んだ。その仕草が、昨日のアトリエでの自分と重なった。
白地に金のライン。砂糖二つのコーヒー。
「あとね」
「まだあるの?」
「名前、また呼んでもらえた」
花音が、今度こそ椅子から浮きそうになった。
「えっ、何回も?」
「うん。買い物の時も、アトリエに戻ってからも」
「千聖ちゃん……!」
「泣かないで花音」
「だって嬉しくて。よかったね、名前定着してきてるんだよ」
千聖は視線を落として、紅茶を一口飲んだ。温かかった。
「……うん。よかった、と思う」
「思う、じゃなくてよかったんだよ絶対」
花音はハンカチを取り出しながら、にこにこした。
「千聖ちゃん、今日もいい顔してるよ」
「……してない」
「してる。昨日から顔が違う」
「そんなこと」
「ポーカーフェイス、全然崩れてるよ」
千聖は思わず手で頬を覆った。花音がまたくすくす笑った。
「ねえ千聖ちゃん、それ完全に惚気だよ」
「……報告、よ」
「同じだよ。カップ一個の話でこんなに顔が緩むんだもん」
「緩んでない」
「緩んでる」
千聖は小さく息を吐いた。花音は笑いながらも、やわらかい目をしていた。
「でも、いいよね。カップってさ、毎回使うから。修司さん、千聖ちゃんのこと毎回思い出すよ、それ」
千聖は一瞬、その言葉の意味を考えた。
そうだ。千聖が来ない日も、カップは棚にある。修司がコーヒーを淹れるたびに、棚の端の白地に金のラインのカップが目に入る。
——毎回、思い出す。
「……花音、それは考えすぎだよ」
「考えすぎじゃないと思うけどなあ」
「だって修司さんはそういう意味で」
「千聖ちゃん」
花音が、少し真剣な顔で言った。
「その人ね、たぶん千聖ちゃんのこと、すごく大事にしてるよ。言葉にしないだけで」
千聖は黙った。
「嫌いじゃない、って言ってくれた人でしょ。カップ買ってくれた人でしょ。名前で呼んでくれるようになった人でしょ」
「……うん」
「全部、ちゃんと動いてるよ。ゆっくりだけど」
千聖は紅茶を一口飲んだ。甘かった。
ゆっくりだけど、動いている。
その言葉が、胸の奥にじんわりと沁みた。急かされない。でも、止まってもいない。それが修司らしかった。
「……花音」
「なに」
「やっぱり惚気だったかも」
花音が声を上げて笑った。千聖は小さく笑い返した。
窓の外に、春の夕暮れが広がっていた。
——カップ、ちゃんとあるかな。明日も。
次にアトリエに行く日のことを、千聖はもう考えていた。