砂糖二つの特等席   作:y@s

16 / 29
第16話 桜と、左腕のブレスレット

 

 

四月、桜が満開だった。

 

登校中も、駅のホームでも、どこを歩いても桜が見えた。

千聖はその景色を横目に見ながら、授業を終えて、いつも通りアトリエに向かった。

 

雑居ビルのエレベーターを上がって、廊下を歩く。いつも通りドアをノックしようとして、千聖は手を止めた。

 

ドアが、少し開いていた。

 

珍しい。いつもは閉まっている。千聖はそっと中を覗いた。修司の姿が、すぐには見えなかった。仕事机の前にいない。ソファにもいない。

 

奥のベランダだった。

 

窓越しに、修司の背中が見えた。外の手すりに腕をかけて、空を見ている。その口元に、細く煙が立ち上っていた。

 

タバコ、だった。

 

千聖は息を呑んだ。修司がタバコを吸うのは知っていた。アトリエでは吸わない、と言っていたから、千聖の前では一度も見たことがなかった。ベランダだから、外だから、ということなのかもしれない。

 

けれどその横顔が、いつもと少し違った。

 

窓から差し込む春の光の中で、修司はどこか遠くを見ていた。アンニュイ、という言葉がそのまま形になったみたいな表情だった。余裕もなく、からかいもなく、ただそこにいる。

 

——きれい。

 

思ってしまってから、千聖は内心で目を瞑った。きれい、は違う。格好いい、が正確かもしれない。でも、きれい、の方が近かった。春の光の中で煙草を咥えた横顔は、1枚の絵画みたいだった。

 

どくん、と心臓が鳴った。

 

千聖は慌てて視線を逸らして、もう一度ドアをノックした。

 

「……失礼します」

 

修司がベランダから振り向いた。タバコを手に持ったまま、千聖を見た。

 

「来たな。ちょっと待ってろ」

 

修司はタバコを外で揉み消して、窓から部屋に入ってきた。

千聖はソファに座りながら、さっきの横顔を頭から追い出そうとした。けど、追い出せなかった。

 

 

しばらく経った頃、廊下からインターホンの音がした。

 

修司が「千聖、出てくれるか」と言った。千聖は立ち上がって、ドアを開けた。

 

宅配業者が立っていた。

 

「鷲須様宛のお荷物です」

 

「はい、預かります」

 

小ぶりな小包だった。白い包装に、細い紐が結んである。

千聖が受け取って修司に渡すと、修司はそれを見た瞬間、口の端がわずかに上がった。

 

「……やっときたか」

 

小さく、独り言みたいに言った。それから、上着の内ポケットをさっと開けて、小包をそのまましまった。

 

千聖は首を傾けた。

 

「何ですか、それ」

 

「後でわかる」

 

「……意地悪ですね」

 

「よし」修司が立ち上がった。「花見に行くぞ」

 

「え」

 

「桜、満開だろ。行くぞ」

 

有無を言わさない口調だった。千聖は立ち上がりながら、胸の中が急に騒がしくなるのを感じた。

 

花見。修司と、二人で。

 

——これって。

 

考えかけて、千聖は思考を断ち切った。ただの花見だ。修司がそう言った。それだけのことだ。

 

 

アトリエの近くに、桜並木があった。

 

川沿いの道で、両岸に桜が続いている。平日の昼下がりで、人はまばらだった。花びらが風に乗って、ゆっくりと舞い落ちている。

 

千聖は修司の隣を歩きながら、空を見上げた。満開の桜が、青空を埋めていた。

 

「……きれいですね」

 

「あぁ」

 

「修司さん、お花見って好きですか」

 

「嫌いじゃない」

 

「いつも一人で来るんですか」

 

「来ない。毎年忙しくて、気づいたら散ってる」

 

千聖は少し驚いた。

 

「じゃあ今年は来られてよかったですね」

 

「千聖が来たからな」

 

さらりと言った。千聖は前を向いたまま、耳が熱くなるのをどうしようもなかった。

 

しばらく歩いて、人通りが少ない場所に出た。大きな桜の木が一本、川の端に立っていた。花びらが絶え間なく散っていた。修司が足を止めた。

 

「千聖」

 

「はい」

 

「目、瞑って」

 

千聖は一瞬、止まった。

 

「……え」

 

「左腕、出して。目は閉じたまま」

 

意味がわからなかった。けれど修司の声が静かで、からかっている様子ではなかった。千聖は素直に目を閉じて、左腕を差し出した。

 

上着の袖をまくると、春の空気が手首に触れた。

 

それから、細いものが腕に触れた。

 

指先の感触があった。修司の手が、千聖の手首のあたりで、ゆっくりと動いていた。何かが留まる、微かな感触がした。

 

「……開けていいぞ」

 

千聖はゆっくりと目を開けた。

 

左手首に、ブレスレットがあった。

 

細いシルバーのチェーン。所々に、小さな桜の花びらをかたどったモチーフが散っている。繊細で、可愛らしくて、千聖の手首に、ちょうどよく収まっていた。

 

千聖は、しばらく何も言えなかった。

 

ブレスレットを見ていた。桜の花びらが、揺れていた。頭の上でも、本物の花びらが舞っていた。

 

——どうして。

 

——こんな。

 

目の奥が、じわりと熱くなった。

 

千聖はポーカーフェイスを作ろうとした。うまくいかなかった。笑おうとした。笑えたかどうか、わからなかった。目が、潤んでいた。

 

「……千聖?」

 

修司の声が、少し低くなった。千聖は首を振った。

 

「……なんでも、ないです」

 

「なんでもないって顔じゃないけど」

 

「……なんでも、ないです」

 

もう一度繰り返した。声が、少し掠れた。千聖はブレスレットを見たまま、息を整えた。

 

泣きたくなかった。泣くつもりじゃなかった。けれど目の奥が、どうしても、熱かった。

 

しばらくして、千聖は顔を上げた。修司は千聖を見ていた。からかう顔ではなかった。ただ、静かに見ていた。

 

「……落ち着いたか」

 

「……はい。すみません」

 

「謝らなくていい」

 

「……これ、は」

 

「中等部の卒業と、高等部入学のお祝い」

 

修司はそれだけ言った。さらりと、事実みたいに。千聖は一度だけ、深く息を吸った。

 

「……ありがとうございます」

 

「あぁ」

 

「……すごく、うれしいです」

 

「知ってる」

 

「知らないでください」

 

修司が小さく笑った。千聖も、今度はちゃんと笑えた気がした。

 

 

それからしばらく、二人は桜並木を歩いた。

 

特別なことは何もなかった。修司はいつも通りで、ただ桜の下を並んで歩いた。花びらが風に舞うたびに、千聖は左手首のブレスレットを見た。

 

桜の花びらが、揺れた。

 

本物の花びらも、風に乗って降ってきた。

 

「……修司さん」

 

「ん」

 

「来年も、お花見に来られるといいですね」

 

修司はしばらく黙ってから、静かに言った。

 

「来ればいい」

 

「来ていいですか」

 

「千聖が来るならな」

 

千聖は前を向いたまま、そっと左手首を握った。細いチェーンの感触があった。

 

——来年も、ここに来る。

 

その約束を、胸の中にしまった。

 

 

帰宅してから、千聖は部屋の電気をつけないまま、ベッドに倒れ込んだ。

 

ブレスレットを、また見た。

 

部屋の薄暗い中でも、シルバーのチェーンが微かに光っていた。桜の花びらのモチーフが、千聖の手首で静かに揺れていた。

 

「……どうしよう」

 

誰もいない部屋で、呟いた。

 

どうしようもなかった。うれしすぎて、どうしていいかわからなかった。笑いたいのか、泣きたいのか、叫びたいのか、全部同時に来ていた。

 

千聖は枕に顔を埋めた。

 

「……きゃあ」

 

声に出してから、自分で驚いた。自分がこんな声を出すのは、たぶん初めてだった。でも止まらなかった。

 

「……どうしよう、本当に」

 

足をばたばたさせた。制御できなかった。ブレスレットを見るたびに、修司の手の感触が蘇った。手首に触れた指先。チェーンを留めた、静かな手。

 

枕に顔を埋めたまま、千聖はしばらくそのままでいた。

 

頃合いを見て、スマホを取り出した。花音の名前を呼び出して、通話ボタンを押した。

 

呼び出し音が二回鳴って、花音が出た。

 

「千聖ちゃん? どうしたの、珍しい」

 

「……花音」

 

「なに? 声変だよ、大丈夫?」

 

「大丈夫じゃない、かもしれない」

 

「え、何かあった?」

 

千聖は天井を見ながら、息を吸った。

 

「ブレスレット、もらった」

 

一瞬の沈黙。

 

「……誰に」

 

「修司さんに」

 

「えーーーーーー!!!!」

 

花音の声が、スマホの向こうで弾けた。千聖は思わず耳から離した。

 

「ちょ、ちょっと待って、詳しく聞かせて! いつ?! どこで?! どんなの?!」

 

「今日。桜並木で。桜の花びらのモチーフのシルバーのブレスレット」

 

「可愛い!!!」

 

「可愛い」

 

「千聖ちゃんが可愛いって言った!!」

 

「言った」

 

「わたし泣きそう」

 

「泣かないで」

 

「だって、千聖ちゃんが! ブレスレットを! 修司さんに!」

 

花音の声がまた上がりそうになって、千聖は「落ち着いて」と言った。花音が深呼吸する音がした。

 

「……ごめん。でも、すごいよそれ」

 

「うん」

 

「今どんな気持ち?」

 

千聖はブレスレットを見た。

 

「……どうしようもない」

 

「どうしようもないって」

 

「うれしすぎて、どうしていいかわからない」

 

「それ最高だよ!」花音の声が、やわらかくなった。「千聖ちゃん、今すごくいい顔してると思う」

 

「見えないでしょ」

 

「でも、してると思う。声でわかる」

 

千聖は天井を見たまま、小さく笑った。

 

「……花音」

 

「なに」

 

「話してよかった」

 

「いつでも話して。千聖ちゃんの惚気、いくらでも聞くから」

 

「惚気じゃない」

 

「惚気だよ」

 

電話口で、二人同時に笑った。

 

窓の外に、夜風が吹いた。桜の花びらが、暗い空に散っていく気がした。

 

千聖はブレスレットをそっと撫でた。

 

——修司さんが選んでくれた。

 

その事実が、今夜だけはどうしようもなく、甘かった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。