四月、桜が満開だった。
登校中も駅のホームでもどこを歩いても桜が見えた。
千聖はその景色を横目に見ながら授業を終えていつも通りアトリエに向かった。
雑居ビルのエレベーターを上がって廊下を歩く。
いつも通りドアをノックしようとして千聖は手を止めた。
ドアが少し開いていた。
珍しい、いつもは閉まっている。
千聖はそっと中を覗いた。修司の姿がすぐには見えなかった。仕事机の前にいない。ソファにもいない。
奥のベランダだった。
窓越しに修司の背中が見えた。外の手すりに腕をかけて空を見ている。その口元に細く煙が立ち上っていた。
タバコ、だった。
千聖は息を呑んだ。修司がタバコを吸うのは知っていた。アトリエでは吸わないと言っていたから千聖の前では一度も見たことがなかった。ベランダだから外だからということなのかもしれない。
けれどその横顔がいつもと少し違った。
窓から差し込む春の光の中で修司はどこか遠くを見ていた。
アンニュイ、という言葉がそのまま形になったみたいな表情だった。余裕もなく、からかいもなく、ただそこにいる。
——きれい。
思ってしまってから千聖は内心で目を瞑った。きれいは違う。格好いい、が正確かもしれない。
でも、きれい、の方が近かった。
春の光の中で煙草を咥えた横顔は1枚の絵画みたいだった。
どくん、と心臓が鳴った。
千聖は慌てて視線を逸らしてもう一度ドアをノックした。
「……失礼します」
修司がベランダから振り向いた。タバコを手に持ったまま千聖を見た。
「来たな。ちょっと待ってろ」
修司はタバコを外で揉み消して窓から部屋に入ってきた。
千聖はソファに座りながらさっきの横顔を頭から追い出そうとした。けど追い出せなかった。
しばらく経った頃、廊下からインターホンの音がした。
修司が「千聖、出てくれるか」と言った。
千聖は立ち上がってドアを開けた。
宅配業者が立っていた。
「鷲須様宛のお荷物です」
「はい、預かります」
小ぶりな小包だった。白い包装に細い紐が結んである。
千聖が受け取って修司に渡すと修司はそれを見た瞬間口の端がわずかに上がった。
「……やっときたか」
小さく独り言みたいに言った。
それから上着の内ポケットをさっと開けて小包をそのまましまった。
千聖は首を傾けた。
「何ですか、それ」
「後でわかる」
「……意地悪ですね」
「よし」修司が立ち上がった。「花見に行くぞ」
「え」
「桜、満開だろ。行くぞ」
有無を言わさない口調だった。
千聖は立ち上がりながら胸の中が急に騒がしくなるのを感じた。
花見。修司と、二人で。
——これって。
考えかけて千聖は思考を断ち切った。ただの花見だ。修司がそう言った。それだけのことだ。
アトリエの近くに桜並木があった。
川沿いの道で両岸に桜が続いている。
平日の昼下がりで人はまばらだった。花びらが風に乗ってゆっくりと舞い落ちている。
千聖は修司の隣を歩きながら空を見上げた。満開の桜が青空を埋めていた。
「……きれいですね」
「あぁ」
「修司さん、お花見って好きですか」
「嫌いじゃない」
「いつも一人で来るんですか」
「来ない。毎年忙しくて気づいたら散ってる」
千聖は少し驚いた。
「じゃあ今年は来られてよかったですね」
「千聖が来たからな」
さらりと言った。千聖は前を向いたまま耳が熱くなるのをどうしようもなかった。
しばらく歩いて人通りが少ない場所に出た。
大きな桜の木が一本、川の端に立っていた。花びらが絶え間なく散っていた。修司が足を止めた。
「千聖」
「はい」
「目、瞑って」
千聖は一瞬、止まった。
「……え」
「左腕出して。目は閉じたまま」
意味がわからなかった。けれど修司の声が静かでからかっている様子ではなかった。千聖は素直に目を閉じて左腕を差し出した。
上着の袖をまくると春の空気が手首に触れた。
それから細いものが腕に触れた。
指先の感触があった。修司の手が千聖の手首のあたりでゆっくりと動いていた。何かが留まる微かな感触がした。
「……開けていいぞ」
千聖はゆっくりと目を開けた。
左手首にブレスレットがあった。
細いシルバーのチェーン。所々に小さな桜の花びらをかたどったモチーフが散っている。繊細で可愛らしくて千聖の手首にちょうどよく収まっていた。
千聖はしばらく何も言えなかった。
ブレスレットを見ていた。桜の花びらが揺れていた。頭の上でも本物の花びらが舞っていた。
——どうして。
——こんな。
目の奥がじわりと熱くなった。
千聖はポーカーフェイスを作ろうとした。うまくいかなかった。笑おうとした。笑えたかどうかわからなかった。目が潤んでいた。
「……千聖?」
修司の声が少し低くなった。千聖は首を振った。
「……なんでも、ないです」
「なんでもないって顔じゃないけど」
「……なんでもないです」
もう一度繰り返した。声が少し掠れた。千聖はブレスレットを見たまま息を整えた。
泣きたくなかった。泣くつもりじゃなかった。けれど目の奥がどうしても熱かった。
しばらくして千聖は顔を上げた。修司は千聖を見ていた。からかう顔ではなかった。ただ、静かに見ていた。
「……落ち着いたか」
「……はい。すみません」
「謝らなくていい」
「……これ、は」
「中等部の卒業と、高等部入学のお祝い」
修司はそれだけ言った。さらりと事実みたいに。千聖は一度だけ深く息を吸った。
「……ありがとうございます」
「あぁ」
「……すごく、うれしいです」
「知ってる」
「知らないでください」
修司が小さく笑った。千聖も今度はちゃんと笑えた気がした。
それからしばらく二人は桜並木を歩いた。
特別なことは何もなかった。修司はいつも通りでただ桜の下を並んで歩いた。花びらが風に舞うたびに千聖は左手首のブレスレットを見た。
桜の花びらが揺れた。
本物の花びらも風に乗って降ってきた。
「……修司さん」
「ん」
「来年もお花見に来られるといいですね」
修司はしばらく黙ってから、静かに言った。
「来ればいい」
「来ていいですか」
「千聖が来るならな」
千聖は前を向いたままそっと左手首を握った。細いチェーンの感触があった。
——来年もここに来る。
その約束を胸の中にしまった。
帰宅してから千聖は部屋の電気をつけないままベッドに倒れ込んだ。
ブレスレットをまた見た。
部屋の薄暗い中でもシルバーのチェーンが微かに光っていた。桜の花びらのモチーフが千聖の手首で静かに揺れていた。
「……どうしよう」
誰もいない部屋で呟いた。
どうしようもなかった。うれしすぎてどうしていいかわからなかった。笑いたいのか、泣きたいのか、叫びたいのか、全部同時に来ていた。
千聖は枕に顔を埋めた。
「……きゃあ」
声に出してから自分で驚いた。自分がこんな声を出すのはたぶん初めてだった。でも止まらなかった。
「……どうしよう、本当に」
足をばたばたさせた。制御できなかった。ブレスレットを見るたびに修司の手の感触が蘇った。手首に触れた指先。チェーンを留めた静かな手。
枕に顔を埋めたまま千聖はしばらくそのままでいた。
頃合いを見てスマホを取り出した。花音の名前を呼び出して通話ボタンを押した。
呼び出し音が二回鳴って花音が出た。
「千聖ちゃん? どうしたの、珍しい」
「……花音」
「なに? 声変だよ、大丈夫?」
「大丈夫じゃないかもしれない」
「え、何かあった?」
千聖は天井を見ながら、息を吸った。
「ブレスレット、もらった」
一瞬の沈黙。
「……誰に」
「修司さんに」
「えーーーーーー!!!!」
花音の声がスマホの向こうで弾けた。千聖は思わず耳から離した。
「ちょ、ちょっと待って、詳しく聞かせて! いつ?! どこで?! どんなの?!」
「今日。桜並木で。桜の花びらのモチーフのシルバーのブレスレット」
「可愛い!!!」
「可愛い」
「千聖ちゃんが可愛いって言った!!」
「言った」
「わたし泣きそう」
「泣かないで」
「だって、千聖ちゃんが! ブレスレットを! 修司さんに!」
花音の声がまた上がりそうになって千聖は「落ち着いて」と言った。花音が深呼吸する音がした。
「……ごめん。でもすごいよそれ」
「うん」
「今どんな気持ち?」
千聖はブレスレットを見た。
「……どうしようもない」
「どうしようもないって」
「うれしすぎてどうしていいかわからない」
「それ最高だよ!」花音の声がやわらかくなった。「千聖ちゃん、今すごくいい顔してると思う」
「見えないでしょ」
「でもしてると思う。声でわかる」
千聖は天井を見たまま、小さく笑った。
「……花音」
「なに」
「話してよかった」
「いつでも話して。千聖ちゃんの惚気いくらでも聞くから」
「惚気じゃない」
「惚気だよ」
電話口で二人同時に笑った。
窓の外に夜風が吹いた。桜の花びらが暗い空に散っていく気がした。
千聖はブレスレットをそっと撫でた。
——修司さんが選んでくれた。
その事実が今夜だけはどうしようもなく甘かった。