千聖は五月になってもブレスレットをつけて登校した。
毎朝、鏡の前で左手首を確認する。細いシルバーのチェーンと桜の花びらのモチーフ。それを見るたびに桜並木のあの日が蘇った。目を閉じて、左腕を差し出して、指先の感触があって——。
「千聖ちゃんまた見てる」
花音がおかしそうに言った。二人並んで登校している最中だった。
「……見てない」
「見てた。三回目だよ今朝」
「数えないで」
「可愛いもん、しょうがないよ」
千聖は視線を前に戻した。花音がくすくす笑っていた。
その日の放課後千聖はアトリエに向かった。
修司はいつも通り仕事机の前にいた。今日はデザイン画の整理をしているらしく机の上に何枚もスケッチが広がっていた。
「来たな、千聖」
「失礼します」
千聖はソファに座って砂糖二つのコーヒーを受け取った。修司はまたスケッチの整理に戻っていた。束をまとめて、クリップで留めて、ファイルに挟んでいく。
窓が少し開いていた。
春の終わりの風が部屋に入ってきた。
その瞬間だった。
机の上のスケッチがさっと舞い上がった。
「あ」
修司が声を上げた。数枚のデザイン画が風に乗って床に散らばった。千聖は素早くソファから立ち上がって近くに落ちた一枚を拾った。
「ありがとう、そっち——」
修司が言いかけて止まった。
千聖が手にしていたのは一枚のデザイン画だった。
細いシルバーのチェーン。所々に散った小さな花びらのモチーフ。寸法のメモ。素材の書き込み。丁寧な修司の字。
千聖はその紙を見たまま動けなかった。
ブレスレットだった。
自分の手首についているあのブレスレットのデザイン画だった。
修司が書いていた。修司がデザインしていた。どこかの既製品じゃなかった。修司のオリジナルだった。
——修司さんが。
——私のために作ってくれた。
「……千聖」
修司の声が少し低くなった。千聖はデザイン画から目を離せなかった。
線が細かった。花びらのモチーフの角度まで丁寧に書き込まれていた。どのくらい時間をかけて書いたのか千聖には想像もできなかった。
「……これ」
声が掠れた。
「修司さんが、描いたんですか」
修司は少し間を置いた。
「……そうだ」
「これで、作ってもらったんですか」
「職人に頼んだ。デザインだけ俺が描いた」
「……いつから」
「冬くらいから考えてた」
冬。千聖は息を呑んだ。冬から。中等部の三年生の冬から。千聖が卒業する前からもう考えていた。
目の奥がじわりと熱くなった。
またかと千聖は思った。またこうなる。修司の前でこうなる。ポーカーフェイスが全然間に合わない。
「……千聖、泣くな」
「泣いて、ないです」
「目が潤んでる」
「……潤んでない、です」
修司が立ち上がった。千聖からデザイン画をそっと取って机の上に伏せた。それから千聖と目を合わせないまま少しだけそっぽを向いた。
耳が赤かった。
千聖は初めて見た、修司の耳が赤い、あの修司が少し赤い。
「……修司さん」
「なんだ」
「耳、赤いです」
「……うるさい」
「照れてるんですか」
「照れてない」
「照れてます」
修司はそのままそっぽを向いたままだった。千聖は手で口を覆った。笑いたかった。泣きたかった。両方同時に来ていた。
「……意地悪ですね」
「俺が?」
「そういうものを作ってくれるのが」
修司はしばらく黙っていた。それからぼそりと言った。
「……似合うと思ったから」
「似合う、だけですか」
また間が空いた。修司はまだそっぽを向いていた。
「……千聖に、持っていてほしかった」
その言葉が胸の奥にすとんと落ちた。
持っていてほしかった。
それは、ただのプレゼントじゃない。
修司が千聖のことを冬からずっと考えていて、デザインを描いて、職人に頼んで、桜の日に渡した。
その全部が、この一言に入っていた。
千聖は目を伏せた。
目から一粒だけ零れた。
「……千聖」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔だけど」
「大丈夫です。ただ、うれしくて」
修司はまだそっぽを向いていた。けれどその耳はまだ赤かった。千聖はそれを見ながらそっと左手首を握った。
細いチェーンの感触があった。
「……ありがとうございます」
「あぁ」
「大切にします」
「知ってる」
「知らないでください」
修司が短く笑った気配がした。千聖も今度はちゃんと笑えた。
二人でしばらく黙っていた。
修司はゆっくりと振り返り机に向き直った。デザイン画を束に戻して今度はちゃんと窓から離れた場所に置いた。
千聖はソファに戻ってコーヒーを一口飲んだ。
甘い。砂糖が二つ。
冬から考えていた。
その事実がコーヒーより甘かった。