今にも雨が降り出しそうな梅雨の空。
千聖はその日、アトリエに来るなり、ソファに深く沈み込んだ。修司は仕事机の前にいたが、その様子をちらりと横目で見て、何も言わなかった。
コーヒーだけ黙って持ってきた。
千聖はカップを受け取って、両手で包んで、一口も飲まなかった。
窓の外が暮れていく。
「……ドラマの役が、うまくいかなくて」
「どんな役?」
「感情の起伏が激しい子で。私とは、正反対みたいな役で」
「ふーん」
「わかるんです、役のことは。でも、感情がうまく出てこなくて。監督にも、何度もやり直しさせてしまって」
修司は手を動かしながら、静かに聞いていた。
「……千聖が感情を出しにくいのは、普段から抑えてるからだろ」
「わかってます」
「わかってるなら」
「わかってても、できないんです」千聖の声が、少し尖った。「わかってることと、できることは、違います」
「そうだな」
「修司さんは、簡単に言いますね」
「うん」
「私の話を、ちゃんと聞いてますか」
「聞いてる」
「聞いてるように、全然見えない」
修司が手を止めた。
「ちゃんと聞いてる。ただ、今の千聖は誰かに当たりたいだけだろ」
千聖は息を呑んだ。
「……当たって、ないです」
「当たってる」
「当たってない」
「声が刺さってる」
千聖は唇を結んだ。修司は続けた。
「別に構わないけどな。俺も今日はデザインがうまくいってなくて、余裕がない」
「……それは私には関係ないです」
「そうだな」
「機嫌悪いなら最初から言ってください」
「機嫌は悪くない。うまくいってないだけだ」
「同じです」
「違う」
「同じです」
修司が、静かに立ち上がって上着を取った。
「ベランダに出る。少し待ってろ」
千聖は何も言わなかった。
修司がベランダに出た。窓越しに、背中が見えた。タバコに火をつけた。細い煙が、梅雨の空に溶けていく。
千聖はカップを両手で包んで、その背中を見ていた。
——八つ当たりした。
部屋が静かになってから、それがじわりと沁みてきた。修司は何も悪くない。デザインがうまくいかなくて、余裕がなかっただけで。それなのに、千聖は声を尖らせた。
千聖は視線を落とした。
カップの中のコーヒーが、冷めかけていた。
しばらくして、修司がベランダから戻ってきた。
上着を掛けて、無言で台所に向かった。やかんの音がして、コーヒーの香りが漂ってきた。修司は何も言わなかった。千聖も黙っていた。
やがて修司が、新しいカップを持って戻ってきた。千聖の冷めたカップをそっと引き取って、代わりに温かいカップを置いた。
「……淹れなおした」
「……はい」
口をつけた。
甘い。砂糖が、二つ。温かかった。
「……すみません」
千聖は視線を落としたまま言った。
「八つ当たりして」
「…」
「修司さんは、悪くなかったのに」
「いや、俺も悪かったな、余裕なかったからってきつく言って」
修司は千聖の隣に腰を下ろした。いつもより、距離が近かった。千聖は少し身体が固くなった。
しばらく、二人とも黙っていた。
「……感情が出てこない、ってさ」
修司が、静かに言った。
「普段から全部抑えてるから、感情の切り替えが追いつかないんだろ」
「……多分、そうだと思います」
「ここでは、よく顔に出てるじゃないか」
千聖は一瞬、止まった。
「……どういう意味ですか」
「さっき、ちゃんと声が尖ってた。感情、出てたぞ」
千聖は言葉を失った。修司はさらりと続けた。
「ここでできてるなら、現場でもできるようになる。時間の問題だろ」
「……それは」
「千聖は、ちゃんと感情がある。ただ、出し方をまだ知らないだけだ」
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。
感情がある。出し方を知らないだけ。
千聖は目を伏せた。目の奥が、少し熱くなった。今日は泣かない、と思っていたのに、修司の一言はいつもそこを突いてくる。
「……意地悪ですね」
「何が」
「そういうことを、さらりと言うのが」
修司が、ふっと笑った。
それから、無言で立ち上がった。台所に向かう気配がした。千聖はカップを持ったまま待っていると、修司が戻ってきた。
小皿に、チョコレートが数粒。
修司はそのまま千聖の隣に座り直した。千聖の頭に、大きな手がそっと乗った。
千聖は動けなかった。
撫でるのではなかった。ただ、乗せる。重さだけが、そこにある。
「今日は頑張ったな」
低く、静かに言った。
千聖の喉が、きゅっと締まった。
「……子供扱いですね」
声が震えた。修司は手を乗せたまま、動かさなかった。
「今日だけ特別だ」
「なんで今日だけ」
「泣きそうな顔してるから」
「泣いてないです」
「だから今のうちに」
修司は手をそのままに、チョコレートを一粒つまんで、千聖の口元に差し出した。
千聖は固まった。
「……自分で食べられます」
「でも食わせてやる」
「……なんで」
「甘やかしてやる」
千聖の顔が、みるみる熱くなった。ポーカーフェイスが、完全に崩れていた。わかっていた。でも、どうしようもなかった。
「……修司さん」
「なんだ」
千聖は顔を真っ赤にしながら
「……わかってますよね」
「わかってる」
「わかってて、やってるんですか」
「わかってるから、やってる」
千聖は観念して、チョコレートを口に受けた。甘かった。
修司が手を頭から離した。千聖はカップを両手で包んで、うつむいた。耳まで熱い。ポーカーフェイスなど、どこにもなかった。
「……意地悪にも程があります」
「今日だけだ」
「今日だけにしてください」
「気が向いたら、また」
「修司さん」
修司は涼しい顔で、コーヒーを一口飲んだ。千聖はそれ以上言えなくて、チョコレートをもう一粒つまんだ。
甘かった。
コーヒーより、甘かった。
頭の上の、手の温もりがまだ残っていた。千聖はそっとそこに触れて、またうつむいた。
——意地悪。本当に、意地悪。
でも、嫌じゃなかった。
全然、嫌じゃなかった。