砂糖二つの特等席   作:y@s

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第18話 喧嘩とタバコ一本分の時間

 

 

今にも雨が降り出しそうな梅雨の空。

 

千聖はその日アトリエに来るなりソファに深く沈み込んだ。

修司は仕事机の前にいたがその様子をちらりと横目で見て何も言わなかった。

 

コーヒーだけ黙って持ってきた。

 

千聖はカップを受け取って両手で包んで一口も飲まなかった。

 

窓の外が暮れていく。

 

「……ドラマの役がうまくいかなくて」

 

「どんな役?」

 

「感情の起伏が激しい子で。私とは正反対みたいな役で」

 

「ふーん」

 

「わかるんです、役のことは。でも感情がうまく出てこなくて。監督にも何度もやり直しさせてしまって」

 

修司は手を動かしながら静かに聞いていた。

 

「……千聖が感情を出しにくいのは、普段から抑えてるからだろ」

 

「わかってます」

 

「わかってるなら」

 

「わかっててもできないんです」千聖の声が少し尖った。「わかってることとできることは違います」

 

「そうだな」

 

「修司さんは簡単に言いますね」

 

「うん」

 

「私の話、ちゃんと聞いてますか」

 

「聞いてる」

 

「聞いてるようには全然見えない」

 

修司が手を止めた。

 

「ちゃんと聞いてる。ただ今の千聖は誰かに当たりたいだけだろ」

 

千聖は息を呑んだ。

 

「……当たって、ないです」

 

「当たってる」

 

「当たってない」

 

「声が尖ってる」

 

千聖は唇を結んだ。修司は続けた。

 

「別に構わないけどな。俺も今日はデザインがうまくいってなくて余裕がない」

 

「……それは私には関係ないです」

 

「そうだな」

 

「機嫌悪いなら最初から言ってください」

 

「機嫌は悪くない。うまくいってないだけだ」

 

「同じです」

 

「違う」

 

「同じです」

 

修司が静かに立ち上がって上着を取った。

 

「ベランダに出る。少し待ってろ」

 

千聖は何も言わなかった。

 

修司がベランダに出た。窓越しに背中が見えた。タバコに火をつけた。細い煙が梅雨の空に溶けていく。

 

千聖はカップを両手で包んでその背中を見ていた。

 

——八つ当たりした。

 

部屋が静かになってからそれがじわりと沁みてきた。修司は何も悪くない。デザインがうまくいかなくて余裕がなかっただけで。それなのに千聖は声を尖らせた。

 

千聖は視線を落とした。

 

カップの中のコーヒーが冷めかけていた。

 

 

しばらくして修司がベランダから戻ってきた。

 

上着を掛けて無言で台所に向かった。やかんの音がしてコーヒーの香りが漂ってきた。修司は何も言わなかった。千聖も黙っていた。

 

やがて修司が新しいカップを持って戻ってきた。

千聖の冷めたカップをそっと引き取って代わりに温かいカップを置いた。

 

「……淹れなおした」

 

「……はい」

 

口をつけた。

 

甘い。砂糖が二つ。温かかった。

 

「……すみません」

 

千聖は視線を落としたまま言った。

 

「八つ当たりして」

 

「…」

 

「修司さんは悪くなかったのに」

 

「いや、俺も悪かったな余裕なかったからってきつく言って」

 

修司は千聖の隣に腰を下ろした。

いつもより距離が近かった。

千聖は少し身体が固くなった。

 

しばらく二人とも黙っていた。

 

「……感情が出てこないってさ」

 

修司が静かに言った。

 

「普段から全部抑えてるから感情の切り替えが追いつかないんだろ」

 

「……多分、そうだと思います」

 

「ここではよく顔に出てるじゃないか」

 

千聖は一瞬止まった。

 

「……どういう意味ですか」

 

「さっきはちゃんと声が尖ってた。感情出てたぞ」

 

千聖は言葉を失った。修司はさらりと続けた。

 

「ここでできてるなら現場でもできるようになる。時間の問題だろ」

 

「……それは」

 

「千聖はちゃんと感情がある。ただ出し方をまだ知らないだけだ」

 

その言葉が胸の奥にすとんと落ちた。

 

感情がある。出し方を知らないだけ。

 

千聖は目を伏せた。目の奥が少し熱くなった。今日は泣かないと思っていたのに修司の一言はいつもそこを突いてくる。

 

「……意地悪ですね」

 

「何が」

 

「そういうことをさらりと言うのが」

 

修司がふっと笑った。

 

それから無言で立ち上がった。台所に向かう気配がした。千聖はカップを持ったまま待っていると修司が戻ってきた。

 

小皿にチョコレートが数粒。

 

修司はそのまま千聖の隣に座り直した。

千聖の頭に大きな手がそっと乗った。

 

千聖は動けなかった。

 

撫でるのではなかった。ただ乗せる。重さだけがそこにある。

 

「今日は頑張ったな」

 

低く静かに言った。

 

千聖の喉がきゅっと締まった。

 

「……子供扱いですね」

 

声が震えた、修司は手を乗せたまま、動かさなかった。

 

「今日だけ特別だ」

 

「なんで今日だけ」

 

「泣きそうな顔してるから」

 

「泣いてないです」

 

「だから今のうちに」

 

修司は手をそのままにチョコレートを一粒つまんで千聖の口元に差し出した。

 

千聖は固まった。

 

「……自分で食べられます」

 

「でも食わせてやる」

 

「……なんで」

 

「甘やかしてやる」

 

千聖の顔がみるみる熱くなった。ポーカーフェイスが完全に崩れていた。わかっていた。でも、どうしようもなかった。

 

「……修司さん」

 

「なんだ」

 

千聖は顔を真っ赤にしながら

「……わかってますよね」

 

「わかってる」

 

「わかっててやってるんですか」

 

「わかってるからやってる」

 

千聖は観念してチョコレートを口に受けた。甘かった。

 

修司が手を頭から離した。千聖はカップを両手で包んでうつむいた。耳まで熱い。ポーカーフェイスなどどこにもなかった。

 

「……意地悪にも程があります」

 

「今日だけだ」

 

「今日だけにしてください」

 

「気が向いたら、また」

 

「修司さん」

 

修司は涼しい顔でコーヒーを一口飲んだ。

千聖はそれ以上言えなくてチョコレートをもう一粒つまんだ。

 

甘かった。

 

コーヒーより甘かった。

 

頭の上の手の温もりがまだ残っていた。千聖はそっとそこに触れてまたうつむいた。

 

——意地悪。本当に意地悪。

 

でも、嫌じゃなかった。

 

全然、嫌じゃなかった。

 

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