砂糖二つの特等席   作:y@s

18 / 26
第18話 喧嘩とタバコ一本分の時間

 

 

今にも雨が降り出しそうな梅雨の空。

 

千聖はその日、アトリエに来るなり、ソファに深く沈み込んだ。修司は仕事机の前にいたが、その様子をちらりと横目で見て、何も言わなかった。

 

コーヒーだけ黙って持ってきた。

 

千聖はカップを受け取って、両手で包んで、一口も飲まなかった。

 

窓の外が暮れていく。

 

「……ドラマの役が、うまくいかなくて」

 

「どんな役?」

 

「感情の起伏が激しい子で。私とは、正反対みたいな役で」

 

「ふーん」

 

「わかるんです、役のことは。でも、感情がうまく出てこなくて。監督にも、何度もやり直しさせてしまって」

 

修司は手を動かしながら、静かに聞いていた。

 

「……千聖が感情を出しにくいのは、普段から抑えてるからだろ」

 

「わかってます」

 

「わかってるなら」

 

「わかってても、できないんです」千聖の声が、少し尖った。「わかってることと、できることは、違います」

 

「そうだな」

 

「修司さんは、簡単に言いますね」

 

「うん」

 

「私の話を、ちゃんと聞いてますか」

 

「聞いてる」

 

「聞いてるように、全然見えない」

 

修司が手を止めた。

 

「ちゃんと聞いてる。ただ、今の千聖は誰かに当たりたいだけだろ」

 

千聖は息を呑んだ。

 

「……当たって、ないです」

 

「当たってる」

 

「当たってない」

 

「声が刺さってる」

 

千聖は唇を結んだ。修司は続けた。

 

「別に構わないけどな。俺も今日はデザインがうまくいってなくて、余裕がない」

 

「……それは私には関係ないです」

 

「そうだな」

 

「機嫌悪いなら最初から言ってください」

 

「機嫌は悪くない。うまくいってないだけだ」

 

「同じです」

 

「違う」

 

「同じです」

 

修司が、静かに立ち上がって上着を取った。

 

「ベランダに出る。少し待ってろ」

 

千聖は何も言わなかった。

 

修司がベランダに出た。窓越しに、背中が見えた。タバコに火をつけた。細い煙が、梅雨の空に溶けていく。

 

千聖はカップを両手で包んで、その背中を見ていた。

 

——八つ当たりした。

 

部屋が静かになってから、それがじわりと沁みてきた。修司は何も悪くない。デザインがうまくいかなくて、余裕がなかっただけで。それなのに、千聖は声を尖らせた。

 

千聖は視線を落とした。

 

カップの中のコーヒーが、冷めかけていた。

 

 

しばらくして、修司がベランダから戻ってきた。

 

上着を掛けて、無言で台所に向かった。やかんの音がして、コーヒーの香りが漂ってきた。修司は何も言わなかった。千聖も黙っていた。

 

やがて修司が、新しいカップを持って戻ってきた。千聖の冷めたカップをそっと引き取って、代わりに温かいカップを置いた。

 

「……淹れなおした」

 

「……はい」

 

口をつけた。

 

甘い。砂糖が、二つ。温かかった。

 

「……すみません」

 

千聖は視線を落としたまま言った。

 

「八つ当たりして」

 

「…」

 

「修司さんは、悪くなかったのに」

 

「いや、俺も悪かったな、余裕なかったからってきつく言って」

 

修司は千聖の隣に腰を下ろした。いつもより、距離が近かった。千聖は少し身体が固くなった。

 

しばらく、二人とも黙っていた。

 

「……感情が出てこない、ってさ」

 

修司が、静かに言った。

 

「普段から全部抑えてるから、感情の切り替えが追いつかないんだろ」

 

「……多分、そうだと思います」

 

「ここでは、よく顔に出てるじゃないか」

 

千聖は一瞬、止まった。

 

「……どういう意味ですか」

 

「さっき、ちゃんと声が尖ってた。感情、出てたぞ」

 

千聖は言葉を失った。修司はさらりと続けた。

 

「ここでできてるなら、現場でもできるようになる。時間の問題だろ」

 

「……それは」

 

「千聖は、ちゃんと感情がある。ただ、出し方をまだ知らないだけだ」

 

その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。

 

感情がある。出し方を知らないだけ。

 

千聖は目を伏せた。目の奥が、少し熱くなった。今日は泣かない、と思っていたのに、修司の一言はいつもそこを突いてくる。

 

「……意地悪ですね」

 

「何が」

 

「そういうことを、さらりと言うのが」

 

修司が、ふっと笑った。

 

それから、無言で立ち上がった。台所に向かう気配がした。千聖はカップを持ったまま待っていると、修司が戻ってきた。

 

小皿に、チョコレートが数粒。

 

修司はそのまま千聖の隣に座り直した。千聖の頭に、大きな手がそっと乗った。

 

千聖は動けなかった。

 

撫でるのではなかった。ただ、乗せる。重さだけが、そこにある。

 

「今日は頑張ったな」

 

低く、静かに言った。

 

千聖の喉が、きゅっと締まった。

 

「……子供扱いですね」

 

声が震えた。修司は手を乗せたまま、動かさなかった。

 

「今日だけ特別だ」

 

「なんで今日だけ」

 

「泣きそうな顔してるから」

 

「泣いてないです」

 

「だから今のうちに」

 

修司は手をそのままに、チョコレートを一粒つまんで、千聖の口元に差し出した。

 

千聖は固まった。

 

「……自分で食べられます」

 

「でも食わせてやる」

 

「……なんで」

 

「甘やかしてやる」

 

千聖の顔が、みるみる熱くなった。ポーカーフェイスが、完全に崩れていた。わかっていた。でも、どうしようもなかった。

 

「……修司さん」

 

「なんだ」

 

千聖は顔を真っ赤にしながら

「……わかってますよね」

 

「わかってる」

 

「わかってて、やってるんですか」

 

「わかってるから、やってる」

 

千聖は観念して、チョコレートを口に受けた。甘かった。

 

修司が手を頭から離した。千聖はカップを両手で包んで、うつむいた。耳まで熱い。ポーカーフェイスなど、どこにもなかった。

 

「……意地悪にも程があります」

 

「今日だけだ」

 

「今日だけにしてください」

 

「気が向いたら、また」

 

「修司さん」

 

修司は涼しい顔で、コーヒーを一口飲んだ。千聖はそれ以上言えなくて、チョコレートをもう一粒つまんだ。

 

甘かった。

 

コーヒーより、甘かった。

 

頭の上の、手の温もりがまだ残っていた。千聖はそっとそこに触れて、またうつむいた。

 

——意地悪。本当に、意地悪。

 

でも、嫌じゃなかった。

 

全然、嫌じゃなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。