七月の初め千聖は撮影帰りだった。
その日の仕事は時代劇の撮影で衣装は淡い水色の浴衣だった。撮影が早く終わって着替える時間がもったいなくて千聖はそのままアトリエに向かった。
正確にはそのまま来る口実を探していた。
修司に見せたかった。
修司は服飾デザイナーだから衣装を見せると何か言ってくれるかもしれない。そういう理由を心の中で丁寧に並べながら千聖は雑居ビルのエレベーターに乗った。
ドアをノックした。返事がなかった。
もう一度ノックした。やっぱり返事がなかった。でも鍵はかかっていなかった。修司は出かける時は必ず鍵をかける。ということは中にいるはずだ。
千聖はそっとドアを開けた。
修司がソファに横になっていた。
上着を脱いで腕を額に乗せて目を閉じている。寝ていた。胸が静かに上下している。
千聖は入り口でしばらく動けなかった。
修司の寝顔を見たことがなかった。
起きている時の修司はいつも余裕がある。からかう目で静かな声で千聖のポーカーフェイスをすり抜けてくる。けれど今はそのどれもなかった。ただ、眠っていた。長い睫毛が頬に影を落としていた。
——きれい。
また思ってしまった。
今度は訂正しなかった。きれいで合っていた。
千聖はそっとドアを閉めて足音を立てないようにソファの側まで歩いた。修司の顔を少し上から見た。
どくん、と心臓が鳴った。
近い。近すぎた。この距離で修司を見たことがなかった。
千聖は慌てて一歩下がった。浴衣の袖がさらりと揺れた。修司は動かなかった。まだ眠っていた。
千聖はおずおずとソファの端に腰を下ろして修司が起きるのを待つことにした。
待ちながらまた横顔を見た。
——ずるい。
寝ているだけなのにずるかった。
「……来てたのか」
修司が目を開けたのはそれから十五分ほど経った頃だった。千聖は慌てて視線を逸らした。
「……いつからいた」
「少し前から。その、起こすのが悪くて」
修司は身を起こして千聖を見た。それから浴衣に気づいた。
千聖を上から下まで、ゆっくりと見た。
「撮影か」
「はい。時代劇で」
「……きれいだな」
さらりと言った。千聖は耳が熱くなるのを感じながら「ありがとうございます」と返した。修司はもう一度、浴衣を眺めた。
「水色か。よく合ってる」
「……修司さん、それ仕事目線ですか」
「半分は」
「もう半分は?」
「普通にきれいだと思った」
千聖は視線を落とした。修司はそういうことを本当にさらりと言う。いつまで経っても慣れなかった。
修司が立ち上がった。台所に向かいながら言った。
「今日、近くで夏祭りやってる。行くか」
千聖は顔を上げた。
「……夏祭り、ですか」
「浴衣のまま行けばいい。丁度いいだろ」
有無を言わさない口調だった。千聖は胸の中が急に騒がしくなるのを感じながら「……はい」と答えた。
夕方になると街が夏の匂いになっていた。
焼きそばの香り、金魚すくいの水の音、遠くから聞こえる祭囃子。人通りが増えて浴衣姿の人たちが行き交っていた。
千聖は修司の隣を歩きながら左手首のブレスレットをそっと触れた。
「……お腹、空いてますか」
「まあ」
「何か食べますか」
「千聖は何がいい」
「……わたあめが食べたいです」
「じゃあ買ってくる。待ってろ」
修司が屋台に向かった。千聖はその背中を見ながら夏の夜気を吸い込んだ。
——夏祭り。修司さんと。
夢みたいだと思った。思ってから夢じゃないと思った。本当のことだった。
修司が戻ってきた。わたあめを一本持っていた。千聖に渡して自分は焼き鳥を持っていた。
「……一本でいいんですか」
「千聖が食べたいって言ったんだろ」
「一緒に食べようかと」
「甘いものは得意じゃない」
「……砂糖二つのコーヒーは淹れてくれるのに」
「それは千聖のためだろ」
千聖はわたあめを一口かじった。甘かった。夏の夜の中で綿飴がふわりと溶けた。
しばらく歩いていると人混みが少し増えてきた。千聖が石畳の段差に気づかず足を踏み外しそうになった。
その瞬間手を掴まれた。
修司の手だった。大きくて温かかった。
「……気をつけろ」
「……すみません」
修司はそのまま手を離さなかった。
「離すなよ」
千聖は息が止まりそうだった。
繋がれた手の感触が頭の中をいっぱいにした。修司の手のひらが千聖の手のひらよりずっと大きかった。指が長かった。温かかった。
——どうしよう。
どうしようもなかった。わたあめを持ったまま、千聖はただ歩いた。修司も何も言わなかった。ただ手を繋いで並んで歩いた。
人混みの中でその手だけがひどくはっきりしていた。
しばらく歩いた先に小さな雑貨の屋台があった。
修司が足を止めた。千聖も止まった。修司は屋台をさらりと眺めながら千聖の手を離さないまま左手だけで何かを手に取った。
簪だった。
細いシルバーの軸に小さな白い花がいくつか咲いている。繊細で可愛らしくて浴衣によく合いそうだった。
修司はそれをしばらく眺めてから屋台の人に何か言った。千聖は隣で聞いていたが修司の声が低くて聞こえなかった。
「……何を買ったんですか」
「後でわかる」
「また後で、ですか」
「そう」
千聖は小さく息を吐いた。修司はまた歩き始めた。手はまだ繋いだままだった。
祭りの端の方に人通りの少ない場所があった。
しばらく歩くと笹飾りが見えてきた。
大きな笹の枝に色とりどりの短冊が揺れている。傍に小さなテーブルがあって短冊と筆ペンが置いてあった。子供連れの家族が楽しそうに書いていた。
修司が足を止めた。
「……短冊、書くか」
千聖は少し驚いた。修司がこういうことを言い出すとは思っていなかった。
「修司さんがですか」
「千聖が書きたそうな顔してた」
「……してませんでした」
「してた」
千聖は小さく息を吐いてテーブルに近づいた。短冊を一枚取って筆ペンを手に持った。
願い事。
千聖はしばらく考えてから静かに書いた。
書き終えてから短冊を裏返した。修司には見せたくなかった。
「何て書いたんですか修司さんは」
振り向くと修司が短冊を笹に結びつけているところだった。
「なに」
「何を書いたんですか」
「秘密」
千聖は思わず修司の結んだ短冊を目で追った。風に揺れて文字が見えそうで見えない。
「……見てもいいですか」
「だめ」
「どうしてですか」
「願い事は叶うまで言わないもんだろ」
修司はさらりと言って千聖の短冊を手に取った。笹に結んでくれた。千聖のと修司のと二枚の短冊が並んで揺れた。
千聖はその二枚を見た。
修司の短冊の文字が風でちらりと見えた気がした。見えたと思ったら、また風で裏返った。
——なんて書いたんだろう。
「行くぞ」
修司が歩き始めた。千聖はもう一度だけ短冊を見てから、後を追った。
二枚の短冊が夏の夜風に揺れていた。
大きな木の下で提灯の光が揺れていた。修司が足を止めた。
「千聖、こっち向け」
「……はい」
「髪、結っていいか」
千聖は一瞬固まった。
「……え」
「浴衣に髪を下ろしたままじゃ暑いだろ。結んでやる」
千聖は返す言葉を探して見つからなかった。ただこくりと頷いた。
修司は千聖の後ろに立った。千聖の髪に大きな手が触れた。
丁寧だった。乱暴ではなかった。髪をまとめてゆっくりと結い上げていく。千聖は前を向いたまま動かなかった。
後頭部に何かが刺さる感触がした。
「……いいぞ」
千聖が振り返ると修司がいつも通りの顔をしていた。
「鏡、持ってるか」
千聖はポーチから小さな手鏡を取り出した。映すと髪が結い上げられていて白い花の簪が挿してあった。
さっき買っていた簪だった。
千聖は鏡を持ったまましばらく何も言えなかった。
「……修司さん」
「なんだ」
「これ、さっき買ったやつですよね」
「あぁ」
「……私のために」
「浴衣に合うと思ったから」
千聖は鏡を下げた。目の奥がまた熱くなってきた。今日は泣かないと決めていたのに。でも修司は毎回こうする。さりげなく当たり前みたいに千聖のために何かをしてくれる。
「……ずるいですね」
「何が」
「全部」
修司が小さく笑った。
「……似合ってるぞ」
千聖は俯いた。
顔が熱かった。
帰り道もしばらく手を繋いでいた。
人混みが薄くなってから修司はそっと手を離した。千聖は離れた手のひらの感触をなんとなく握りしめた。
アトリエの前で別れた。
「気をつけて帰れよ」
「……はい」
「浴衣、よく似合ってたぞ」
「……ありがとうございます」
千聖は頭を下げて歩き出した。背中に修司の視線を感じた気がした。
振り返らなかった。振り返ったら顔を見られる。今の自分の顔を修司に見せたくなかった。
帰宅してから千聖は部屋の鏡の前に立った。
髪はまだ結い上げたままだった。白い花の簪が鏡の中で揺れていた。
千聖はしばらく鏡を見ていた。
それからベッドに倒れ込んだ。
「……どうしよう」
枕に顔を埋めた。
手を繋いでいた。
簪を買ってもらった。
髪を結ってもらった。
似合ってると言われた。
短冊も並んで結んだ。
全部が今夜の出来事だった。
——修司さんは何を書いたんだろう?
気になって仕方なかった。
願い事は叶うまで言わないもんだろと修司は言った。
叶うまでということは叶えようとしている何かがある。それが何なのか千聖には想像もできなかった。
「きゃあ」
また出た。でも止まらなかった。
足をばたばたさせた。簪を外すのが惜しくてまだつけたままだった。修司の手の感触がまだ残っていた。手のひらも髪も。
「……どうしよう本当に」
しばらくそのままでいてからスマホを取り出した。
花音。通話。
二回で出た。
「千聖ちゃん?」
「……花音」
「どうしたの、声がおかしい。大丈夫?」
「大丈夫じゃないかもしれないわ」
「また何かあったの?」
千聖は天井を見ながら息を吸った。
「……夏祭りに行ってきたの」
「うんうん」
「修司さんと」
一瞬の沈黙。
「……二人で?」
「ええ、二人で」
「えーーーーーー!!!!」
千聖は耳からスマホを離した。
「ちょっと待って! 詳しく! 全部教えて!!」
千聖は簪をそっと手で触れながら話し始めた。浴衣のこと。昼寝の顔のこと。手を繋いだこと。簪のこと。髪を結ってもらったこと。そして、短冊のこと。
花音は途中で何度も「えっ」と言い何度かハンカチを取り出す音がした。
「……千聖ちゃん、それ完全にデートだよ」
「……そうかしら」
「そうだよ!! 手繋いで、簪買ってもらって、髪結ってもらって、短冊まで並べて。デートじゃなかったら何なの!!」
「……修司さんは何とも思っていないかもしれないけれど」
「思ってるよ絶対!!」
「……でも、短冊に何を書いたのか気になって」
「えっ、見せてもらえなかったの?」
「ええ。願い事は叶うまで言わないって」
花音が少し黙った。それからやわらかい声で言った。
「……千聖ちゃん、それって叶えようとしてるってことだよ」
千聖は息を呑んだ。
「……そう、かしら」
「そうだと思う。何かを願ってるってことだよ。修司さんが」
千聖は簪のモチーフを指先で撫でた。白い花がふるふると揺れた。
「……可愛いのよこの簪」
「見たい!! 明日学校で見せて!!」
「ええ持っていくわ」
「千聖ちゃん今どんな顔してる?」
千聖は天井を見た。
「……真っ赤になっていると思うわ」
「だよね。声でわかる」花音の声がやわらかくなった。「よかったね、千聖ちゃん」
「……ええ」
「本当によかった。ちゃんと進んでるよ、二人」
千聖は目を伏せた。
ちゃんと進んでいる。ゆっくりだけど確かに。
「……花音」
「なに」
「また惚気てしまってごめんなさい」
「惚気じゃないって言わないの?」
「……今日は、惚気かもしれない」
花音が声を上げて笑った。千聖も枕に顔を埋めたまま小さく笑った。
窓の外に夏の夜が広がっていた。
千聖は簪を外して枕元に置いた。明日の朝もこれを見たらまた顔が熱くなるだろう。
それでよかった。
——修司さんの短冊、何て書いてあったんだろう。
その答えは、まだ先にあった。
けれどその問いが今夜はひどく甘かった。