砂糖二つの特等席   作:y@s

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第19話 七夕と浴衣と繋いだ手

 

 

七月の初め、千聖は撮影帰りだった。

 

その日の仕事は時代劇の撮影で、衣装は淡い水色の浴衣だった。撮影が早く終わって、着替える時間がもったいなくて、千聖はそのままアトリエに向かった。

 

正確には、そのまま来る口実を探していた。

 

修司に見せたかった。

修司は服飾デザイナーだから、衣装を見せると何か言ってくれるかもしれない。そういう理由を、心の中で丁寧に並べながら、千聖は雑居ビルのエレベーターに乗った。

 

ドアをノックした。返事がなかった。

 

もう一度ノックした。やっぱり返事がなかった。でも、鍵はかかっていなかった。修司は出かける時は必ず鍵をかける。ということは、中にいるはずだ。

 

千聖はそっとドアを開けた。

 

修司がソファに横になっていた。

 

上着を脱いで、腕を額に乗せて、目を閉じている。寝ていた。胸が静かに上下している。

 

千聖は入り口で、しばらく動けなかった。

 

修司の寝顔を、見たことがなかった。

 

起きている時の修司は、いつも余裕がある。からかう目で、静かな声で、千聖のポーカーフェイスをすり抜けてくる。けれど今は、そのどれもなかった。ただ、眠っていた。長い睫毛が、頬に影を落としていた。

 

——きれい。

 

また思ってしまった。

 

今度は、訂正しなかった。きれい、で合っていた。

 

千聖はそっとドアを閉めて、足音を立てないようにソファの側まで歩いた。修司の顔を、少し上から見た。

 

どくん、と心臓が鳴った。

 

近い。近すぎた。この距離で修司を見たことがなかった。

 

千聖は慌てて一歩下がった。浴衣の袖がさらりと揺れた。修司は動かなかった。まだ眠っていた。

 

千聖はおずおずとソファの端に腰を下ろして、修司が起きるのを待つことにした。

 

待ちながら、また横顔を見た。

 

——ずるい。

 

寝ているだけなのに、ずるかった。

 

 

「……来てたのか」

 

修司が目を開けたのは、それから十五分ほど経った頃だった。千聖は慌てて視線を逸らした。

 

「……いつからいた」

 

「少し前から。その、起こすのが悪くて」

 

修司は身を起こして、千聖を見た。それから、浴衣に気づいた。

 

千聖を上から下まで、ゆっくりと見た。

 

「撮影か」

 

「はい。時代劇で」

 

「……きれいだな」

 

さらりと言った。千聖は耳が熱くなるのを感じながら、「ありがとうございます」と返した。修司はもう一度、浴衣を眺めた。

 

「水色か。よく合ってる」

 

「……修司さん、それ仕事目線ですか」

 

「半分は」

 

「もう半分は?」

 

「普通に、きれいだと思った」

 

千聖は視線を落とした。修司はそういうことを、本当にさらりと言う。いつまで経っても、慣れなかった。

 

修司が立ち上がった。台所に向かいながら言った。

 

「今日、近くで夏祭りやってる。行くか」

 

千聖は顔を上げた。

 

「……夏祭り、ですか」

 

「浴衣のまま行けばいい。丁度いいだろ」

 

有無を言わさない口調だった。千聖は胸の中が急に騒がしくなるのを感じながら、「……はい」と答えた。

 

 

夕方になると、街が夏の匂いになっていた。

 

焼きそばの香り、金魚すくいの水の音、遠くから聞こえる祭囃子。人通りが増えて、浴衣姿の人たちが行き交っていた。千聖は修司の隣を歩きながら、左手首のブレスレットをそっと触れた。

 

「……お腹、空いてますか」

 

「まあ」

 

「何か食べますか」

 

「千聖は何がいい」

 

「……わたあめが食べたいです」

 

「じゃあ買ってくる。待ってろ」

 

修司が屋台に向かった。千聖はその背中を見ながら、夏の夜気を吸い込んだ。

 

——夏祭り。修司さんと。

 

夢みたいだ、と思った。思ってから、夢じゃない、と思った。本当のことだった。

 

修司が戻ってきた。わたあめを一本持っていた。千聖に渡して、自分は焼き鳥を持っていた。

 

「……一本でいいんですか」

 

「千聖が食べたいって言ったんだろ」

 

「一緒に食べようかと」

 

「甘いものは得意じゃない」

 

「……砂糖二つのコーヒーは淹れてくれるのに」

 

「それは千聖のためだろ」

 

千聖はわたあめを一口かじった。甘かった。夏の夜の中で、綿飴がふわりと溶けた。

 

しばらく歩いていると、人混みが少し増えてきた。千聖が石畳の段差に気づかず、足を踏み外しそうになった。

 

その瞬間、手を掴まれた。

 

修司の手だった。大きくて、温かかった。

 

「……気をつけろ」

 

「……すみません」

 

修司はそのまま、手を離さなかった。

 

「離すなよ」

 

千聖は、息が止まりそうだった。

 

繋がれた手の感触が、頭の中をいっぱいにした。修司の手のひらが、千聖の手のひらより、ずっと大きかった。指が長かった。温かかった。

 

——どうしよう。

 

どうしようもなかった。わたあめを持ったまま、千聖はただ歩いた。修司も何も言わなかった。ただ、手を繋いで、並んで歩いた。

 

人混みの中で、その手だけがひどくはっきりしていた。

 

 

しばらく歩いた先に、小さな雑貨の屋台があった。

 

修司が足を止めた。千聖も止まった。修司は屋台をさらりと眺めながら、千聖の手を離さないまま、左手だけで何かを手に取った。

 

簪だった。

 

細いシルバーの軸に、小さな白い花がいくつか咲いている。繊細で、可愛らしくて、浴衣によく合いそうだった。

 

修司はそれをしばらく眺めてから、屋台の人に何か言った。千聖は隣で聞いていたが、修司の声が低くて聞こえなかった。

 

「……何を買ったんですか」

 

「後でわかる」

 

「また後で、ですか」

 

「そう」

 

千聖は小さく息を吐いた。修司はまた歩き始めた。手は、まだ繋いだままだった。

 

 

祭りの端の方に、人通りの少ない場所があった。

 

しばらく歩くと、笹飾りが見えてきた。

 

大きな笹の枝に、色とりどりの短冊が揺れている。傍に小さなテーブルがあって、短冊と筆ペンが置いてあった。子供連れの家族が、楽しそうに書いていた。

 

修司が足を止めた。

 

「……短冊、書くか」

 

千聖は少し驚いた。修司がこういうことを言い出すとは、思っていなかった。

 

「修司さんが、ですか」

 

「千聖が書きたそうな顔してた」

 

「……してませんでした」

 

「してた」

 

千聖は小さく息を吐いて、テーブルに近づいた。短冊を一枚取って、筆ペンを手に持った。

 

願い事。

 

千聖はしばらく考えてから、静かに書いた。書き終えてから、短冊を裏返した。修司には見せたくなかった。

 

「何書いたんですか、修司さんは」

 

振り向くと、修司が短冊を笹に結びつけているところだった。

 

「なに」

 

「何を書いたんですか」

 

「秘密」

 

千聖は思わず、修司の結んだ短冊を目で追った。風に揺れて、文字が見えそうで見えない。

 

「……見てもいいですか」

 

「だめ」

 

「どうしてですか」

 

「願い事は、叶うまで言わないもんだろ」

 

修司はさらりと言って、千聖の短冊を手に取った。笹に結んでくれた。千聖のと、修司のと、二枚の短冊が並んで揺れた。

 

千聖はその二枚を見た。

 

修司の短冊の文字が、風でちらりと見えた気がした。見えた、と思ったら、また風で裏返った。

 

——なんて書いたんだろう。

 

「行くぞ」

 

修司が歩き始めた。千聖はもう一度だけ短冊を見てから、後を追った。

 

二枚の短冊が、夏の夜風に揺れていた。

 

 

大きな木の下で、提灯の光が揺れていた。修司が足を止めた。

 

「千聖、こっち向け」

 

「……はい」

 

「髪、結っていいか」

 

千聖は一瞬、固まった。

 

「……え」

 

「浴衣に髪を下ろしたままじゃ暑いだろ。結んでやる」

 

千聖は返す言葉を探して、見つからなかった。ただ、こくりと頷いた。

 

修司は千聖の後ろに立った。千聖の髪に、大きな手が触れた。

 

丁寧だった。乱暴ではなかった。髪をまとめて、ゆっくりと結い上げていく。千聖は前を向いたまま、動かなかった。

 

後頭部に、何かが刺さる感触がした。

 

「……いいぞ」

 

千聖が振り返ると、修司がいつも通りの顔をしていた。

 

「鏡、持ってるか」

 

千聖はポーチから小さな手鏡を取り出した。映すと、髪が結い上げられていて、白い花の簪が挿してあった。

 

さっき買っていた簪だった。

 

千聖は鏡を持ったまま、しばらく何も言えなかった。

 

「……修司さん」

 

「なんだ」

 

「これ、さっき買ったやつですよね」

 

「あぁ」

 

「……私のために」

 

「浴衣に合うと思ったから」

 

千聖は鏡を下げた。目の奥が、また熱くなってきた。今日は泣かないと決めていたのに。でも、修司は毎回こうする。さりげなく、当たり前みたいに、千聖のために何かをしてくれる。

 

「……ずるいですね」

 

「何が」

 

「全部」

 

修司が、小さく笑った。

 

「……似合ってるぞ」

 

千聖は俯いた。

 

顔が、熱かった。

 

 

帰り道も、しばらく手を繋いでいた。

 

人混みが薄くなってから、修司はそっと手を離した。千聖は離れた手のひらの感触を、なんとなく握りしめた。

 

アトリエの前で別れた。

 

「気をつけて帰れよ」

 

「……はい」

 

「浴衣、よく似合ってたぞ」

 

「……ありがとうございます」

 

千聖は頭を下げて、歩き出した。背中に、修司の視線を感じた気がした。

 

振り返らなかった。振り返ったら、顔を見られる。今の自分の顔を、修司に見せたくなかった。

 

 

帰宅してから、千聖は部屋の鏡の前に立った。

 

髪はまだ結い上げたままだった。白い花の簪が、鏡の中で揺れていた。

 

千聖はしばらく、鏡を見ていた。

 

それから、ベッドに倒れ込んだ。

 

「……どうしよう」

 

枕に顔を埋めた。

 

手を繋いでいた。

簪を買ってもらった。

髪を結ってもらった。

似合ってると言われた。

短冊も、並んで結んだ。

全部が、今夜の出来事だった。

 

——修司さん、何を書いたんだろう?

 

気になって、仕方なかった。

願い事は、叶うまで言わないもんだろ、と修司は言った。叶うまで、ということは、叶えようとしている何かがある。それが何なのか、千聖には想像もできなかった。

 

「きゃあ」

 

また出た。でも止まらなかった。

 

足をばたばたさせた。簪を外すのが惜しくて、まだつけたままだった。修司の手の感触が、まだ残っていた。手のひらも、髪も。

 

「……どうしよう、本当に」

 

しばらくそのままでいてから、スマホを取り出した。

 

花音。通話。

 

二回で出た。

 

「千聖ちゃん?」

 

「……花音」

 

「どうしたの、声がおかしい。大丈夫?」

 

「大丈夫じゃない、かもしれないわ」

 

「また何かあったの?」

 

千聖は天井を見ながら、息を吸った。

 

「……夏祭りに、行ってきたの」

 

「うんうん」

 

「修司さんと」

 

一瞬の沈黙。

 

「……二人で?」

 

「ええ、二人で」

 

「えーーーーーー!!!!」

 

千聖は耳からスマホを離した。

 

「ちょっと待って! 詳しく! 全部教えて!!」

 

千聖は簪をそっと手で触れながら、話し始めた。浴衣のこと。昼寝の顔のこと。手を繋いだこと。簪のこと。髪を結ってもらったこと。そして、短冊のこと。

 

花音は途中で何度も「えっ」と言い、何度かハンカチを取り出す音がした。

 

「……千聖ちゃん、それ完全にデートだよ」

 

「……そうかしら」

 

「そうだよ!! 手繋いで、簪買ってもらって、髪結ってもらって、短冊まで並べて。デートじゃなかったら何なの!!」

 

「……修司さんは、何とも思っていないかもしれないけれど」

 

「思ってるよ絶対!!」

 

「……でも、短冊に何を書いたのか、気になって」

 

「えっ、見せてもらえなかったの?」

 

「ええ。願い事は叶うまで言わないって」

 

花音が、少し黙った。それから、やわらかい声で言った。

 

「……千聖ちゃん、それって、叶えようとしてるってことだよ」

 

千聖は、息を呑んだ。

 

「……そう、かしら」

 

「そうだと思う。何かを願ってるってことだよ。修司さんが」

 

千聖は簪のモチーフを指先で撫でた。白い花が、ふるふると揺れた。

 

「……可愛いのよ、この簪」

 

「見たい!! 明日学校で見せて!!」

 

「ええ、持っていくわ」

 

「千聖ちゃん、今どんな顔してる?」

 

千聖は天井を見た。

 

「……真っ赤になっていると思うわ」

 

「だよね。声でわかる」花音の声が、やわらかくなった。「よかったね、千聖ちゃん」

 

「……ええ」

 

「本当に、よかった。ちゃんと進んでるよ、二人」

 

千聖は目を伏せた。

 

ちゃんと進んでいる。ゆっくりだけど、確かに。

 

「……花音」

 

「なに」

 

「また惚気てしまって、ごめんなさい」

 

「惚気じゃないって言わないの?」

 

「……今日は、惚気かもしれない」

 

花音が、声を上げて笑った。千聖も、枕に顔を埋めたまま、小さく笑った。

 

窓の外に、夏の夜が広がっていた。

 

千聖は簪を外して、枕元に置いた。明日の朝もこれを見たら、また顔が熱くなるだろう。

 

それでよかった。

 

——修司さんの短冊、何て書いてあったんだろう。

 

その答えは、まだ先にあった。

 

けれどその問いが、今夜はひどく、甘かった。

 

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