気づけば、外の雨音が細くなっていた。
千聖はソファの上で膝を抱え、カップの底に残ったコーヒーを眺めていた。修司はあれから作業机に戻り、スケッチの続きを描いている。声をかけるでもなく、追い払うでもなく、ただ同じ空気の中にいる。その距離感が、妙に居心地よかった。
居心地がいい、と気づいた瞬間、千聖は自分に少し驚いた。
見知らぬ男のアトリエで、お下がりのパーカーを着て、砂糖二つのコーヒーを飲んでいる。白鷺千聖として許容できる状況ではない。けれど、その「白鷺千聖」がひどく遠い話に思えた。
「……そろそろ、失礼します」
我に返ったように声を出すと、修司が振り向きもせずに言った。
「雨、まだやんでないぞ」
「でも、遅くなりますし」
「五分待て」
断言する口調に、千聖は言い返せなかった。修司は手を動かしながら、窓の外に視線を流した。
「やみかけてる。もう少ししたら傘なしでも行けるくらいになる」
「……お天気予報士みたいですね」
「このビル、窓が多いんだよ。雨の降り方、なんとなくわかるようになる」
さらりと返されて、千聖は小さく口を閉じた。反論の隙がない。修司という人間は、こちらが言葉を構える前に、静かに一手先を打ってくる。
五分ほど経った頃、修司が立ち上がった。
「行くか」
窓の外を見ると、確かに雨は霧のように細くなっていた。千聖は着替えのために席を立ち、脱衣所で制服に袖を通した。まだ少し湿っていたが、もう着ないわけにはいかない。パーカーを丁寧に畳んで戻しに行くと、修司が首を傾けた。
「それ、持っていっていいよ」
「え」
「どうせ今日はもう着ない。また来た時に返してくれれば」
さらりと言いのけた。「また来た時」。千聖はその言葉の意味を測りかねて、少しの間、畳んだパーカーを抱えたまま黙った。
「……押し付けですね」
「お嬢ちゃんが持ってた方が似合うから」
「それは……」
言い返そうとして、言葉が続かなかった。似合う、と言われたのに、なぜか子供扱いをされた時と同じくらい、うまく返せない。修司は千聖の動揺をはっきりと見抜いているくせに、涼しい顔をしていた。
「行くぞ」
古いエレベーターを下り、ビルの外に出ると、雨はほとんど上がっていた。濡れた路面に街灯が映り込んでいる。修司はそのまま並んで歩き始めた。傘は持っていない。千聖もつられて傘を開かなかった。
「最寄り、どっち方向?」
「……東口の方です」
「じゃあ途中まで同じだ」
それ以上の説明もなく、修司は千聖の隣を歩いた。歩幅を合わせるでもなく、かといって置いていくでもない。ちょうどよい距離感が、むしろ千聖を少し落ち着かなくさせた。
「……あの」
「ん」
「今日のこと、誰にも言わないでいただけますか」
修司は一拍置いて、千聖を横目で見た。
「誰に言うんだよ」
「……そうですね。すみません、変なことを」
「芸能人だっけ、お嬢ちゃん」
千聖は少し体を強張らせた。修司は続けた。
「見てりゃわかるよ。立ち姿が違う。それに、さっきまでずっと何かを抑えてる顔してた」
「…………」
「別に根掘り葉掘り聞く気はないから、安心していい。俺には関係ない話だ」
冷たい言い方ではなかった。むしろ、どこか清々しいくらいに、ただの事実として告げていた。千聖は胸の中で何かが、すとんと落ちる音を聞いた。
関係ない。
その言葉がこんなに楽に聞こえたのは、初めてだった。
駅の灯りが見えてきた頃、修司が足を止めた。
「ここまででいいか」
「……はい。ありがとうございました」
千聖は振り返って、修司に向かって頭を下げた。お礼の言い方が、どうにも追いつかない気がした。温かいコーヒーの話だけじゃなく、雨の中の傘の話だけじゃなく、「よく頑張ったな」の話も、全部ひっくるめて礼を言いたいのに、言葉がひとつしか出てこない。
「ありがとうございました」
もう一度言った。修司は特に深く受け取る様子もなく、軽く手を上げた。
「気をつけてな、お嬢ちゃん」
踵を返す背中を、千聖はしばらく見ていた。雨上がりの夜気の中、修司の足音が遠ざかっていく。
胸の中が、妙に静かだった。
嵐の後みたいに。
改札をくぐりながら、千聖はそっと腕の中のパーカーを抱え直した。まだ、修司のアトリエの匂いがした。コーヒーと、布地と、微かに消えかけた何かの香り。
また来た時に返してくれれば。
千聖は目を伏せた。
来るつもりなど、なかった。
——けれど不思議と、来ないとも言い切れなかった。