翌日の昼休み、千聖は約束通り簪を持って登校した。
ポーチの中に、白い花の簪を入れていた。
朝、鏡の前で一度つけてみて、また外した。学校につけていくのは少し恥ずかしかったけれど、花音に見せると言ったから持ってきた。
中庭のベンチで、花音がすでに待っていた。
千聖の姿を見つけると、花音は立ち上がりそうな勢いで手を振った。
「千聖ちゃん! 簪、持ってきた?」
「ええ、持ってきたわ」
千聖はポーチから簪を取り出して、花音に渡した。花音は両手で受け取って、まじまじと眺めた。
「……可愛い。すごく繊細だね、これ」
「ええ。細いシルバーで、花びらのモチーフが所々に散っていて」
「修司さんが選んだの?」
「……ええ」
「センスいいね」
千聖は少し照れながら、「そうでしょう」と返した。
花音がくすくす笑った。
「千聖ちゃん、今すごく得意げな顔してるよ」
「……していないわ」
「してる。修司さん自慢してる顔」
千聖は視線を逸らした。自慢、という言葉が、思いのほか図星だった。
「……自慢じゃないわ。ただ、事実を話しているだけよ」
「事実=自慢だよ」
「花音」
「はいはい」
花音は簪を丁寧に千聖に返しながら、にこにこした。千聖はそれをポーチにしまいながら、続けた。
「昨日の夜、もう一度見てしまって。朝も起きてすぐ見てしまって」
「可愛い」
「……可愛くないわ」
「可愛いよ。あ、そうだ」
花音が、ふと思い出したように言った。
「修司さんって、どんな人なの? 千聖ちゃんから話は聞いてるけど、実際どんな感じなんだろうって、ずっと気になってて」
「どんな感じって」
「雰囲気とか、話し方とか。なんか、からかい上手で、千聖ちゃんのポーカーフェイスを見抜いて、さらりと一言で動揺させる人でしょ?」
「……ええ、まあ」
「かっこいい、それ」
千聖は少し間を置いた。かっこいい。そうだ。修司はかっこいい。千聖がそれを認めるのは、今更なことだった。
「……ええ。かっこいいわよ」
また得意げな顔になっていると、自分でわかった。
花音がまたくすくす笑って、それから首を傾けた。
「修司さんって、他にどんな人なの? 好きな食べ物とか、趣味とか」
千聖は、そこで少し止まった。
好きな食べ物。趣味。
「……コーヒーは飲むわ。甘いものは得意じゃないって言っていたけれど」
「それ千聖ちゃんの砂糖二つの話だよ。修司さん自身の好みって、どんな感じ?」
「……」
千聖は黙った。
「休みの日は何してるの?」
「……わからないわ」
「誕生日は?」
「……知らない」
「好きな音楽とか」
「……聞いたことがなかったわ」
花音が、少し不思議そうな顔をした。千聖は視線を落とした。
——知らない。
自慢していた。さっきまで、得意げに修司のことを話していた。センスがいい、かっこいい、さらりと一言で動揺させる。そういうことは、いくらでも話せる。
けれど、修司自身のことを、千聖は何も知らなかった。
誕生日も、好きな食べ物も、休日の過ごし方も、昔のことも。
「……千聖ちゃん?」
「……ごめんなさい。少し、考えていたわ」
「どうしたの?」
「……修司さんのことを、私は何も知らないんだなと思って」
花音は少し黙った。千聖は続けた。
「自慢していたくせに。好きだと思っていたくせに。聞かれたら、何も答えられなくて」
「……でも、千聖ちゃんが知ってることもあるよ。コーヒーの淹れ方とか、仕事への向き合い方とか、千聖ちゃんへの接し方とか」
「それは……修司さんが私に見せてくれた部分だけよ。修司さん自身のことじゃない」
花音はしばらく、千聖を見ていた。
「千聖ちゃん、それって聞けばいいんじゃないかな」
「……聞く、というのが」
「誕生日とか、好きなものとか。別に難しいことじゃないと思うよ」
千聖はそれを頭の中で想像した。修司に、誕生日を聞く。好きな食べ物を聞く。
できないことはない。でも、なぜかそういうことを、今まで一度も聞いていなかった。
——私は、修司さんに何を聞いてきたんだろう。
修司に話を聞いてもらうことはあった。千聖が困っていると、修司がそこにいた。でも千聖は、修司のことをどれだけ聞いていただろう。
「……花音」
「なに」
「……私、自分のことばかり話していたかもしれないわ。修司さんに」
花音は少し目を丸くして、それからやわらかく笑った。
「それは、修司さんがそういう場所を作ってくれてたんじゃないかな。千聖ちゃんが話せるように」
「……そうかもしれないけれど」
「でも、千聖ちゃんが修司さんのことをもっと知りたいって思ってるなら、それはいいことだよ。一方通行じゃなくなる」
千聖はその言葉を、胸の中でゆっくりと転がした。
一方通行じゃなくなる。
今まで、修司は千聖のことをよく見ていた。千聖が何も言わなくても、気づいていた。けれど千聖は修司のことを、どれだけ見ていただろう。
「……次に会ったら、聞いてみるわ」
「何を?」
「誕生日。それから、好きな食べ物も」
花音がにこっと笑った。
「いいね。修司さん、びっくりするかもよ」
「……そうかしら」
「千聖ちゃんに聞かれると思ってないんじゃないかな、きっと」
千聖は少し間を置いた。修司が驚く顔を、想像しようとした。うまく想像できなかった。修司はいつも涼しい顔をしているから。
でも、少しだけ驚いてくれたら、うれしいと思った。
「……花音」
「なに?」
「会ってみたいと言ってたわね、修司さんに」
花音の目が、ぱっと輝いた。
「うん! 会いたい!」
「……いつかは、紹介するわ。もう少し、二人の時間が積み重なってから」
「いつか?」
「まだ早い気がして」
花音は少し黙って、それからにっこりした。
「わかった。待ってる」
「……ありがとう」
「でも、早く会いたいな」
「花音」
「はいはい」
花音がまた笑った。千聖は小さく息を吐いて、お弁当の蓋を開けた。
帰り道、千聖は一人で歩きながら、花音との会話を反芻した。
修司の誕生日を知らない。好きな食べ物を知らない。休日の過ごし方も、昔のことも。
自慢していたくせに。
——私は、修司さんのことをどれだけ知っているんだろう。
アトリエの場所は知っている。砂糖二つのコーヒーを淹れてくれることを知っている。仕事への向き合い方を知っている。からかい方を知っている。千聖が限界の時にそこにいてくれることを知っている。
それは全部、修司が千聖に向けてくれた部分だった。
修司自身が、どんな人間なのか。何が好きで、何が嫌いで、どんな過去があって、何を夢見ているのか。
千聖は、何も知らなかった。
——聞いてみよう。
次に会ったら、聞いてみよう。誕生日でも、好きな食べ物でも。ささいなことでもいい。修司のことを、もっと知りたかった。
千聖は左手首のブレスレットをそっと触れた。桜の花びらのモチーフが、指先に当たった。
修司は千聖のために、冬からデザインを考えていた。
千聖は修司のために、何ができるだろう。
その問いの答えは、まだ出なかった。けれど問い続けることが、きっと大事なのだと思った。
——修司さんのことを、もっと知りたい。
夕暮れの道を歩きながら、千聖はその気持ちを、胸の中にそっとしまった。