夏休みに入ってから、千聖はアトリエに行けていなかった。
ドラマの撮影、雑誌の取材、イベントの出演。仕事が重なって、気づけば二週間が過ぎていた。修司に連絡を入れようとして、やめた。何を送ればいいかわからなかった。「会えなくて寂しい」は、まだ言える段階ではない気がした。「仕事が落ち着いたら行きます」も、なんとなく気恥ずかしかった。
結局、何も送らないまま、日が経った。
花音には「ちゃんと連絡しなよ」と言われた。「そうね」と返したきり、まだできていない。
修司の誕生日も、好きな食べ物も、まだ聞けていない。
その日は、ドラマの衣装合わせだった。
スタジオに入ると、スタイリストの女性が笑顔で迎えてくれた。三十代くらいの、感じのいい人だった。
「白鷺さん、お疲れ様です。今日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
衣装を何着か試着して、鏡の前に立つ。スタイリストが細かく調整しながら、話しかけてきた。
「今回のドラマ、衣装のコンセプトが素敵ですよね。デザイナーさんのセンスが光ってて」
「ええ、そうですね」
「白鷺さん、今回のデザイナーさんってご存知ですか。鷲須修司さんっていう方で」
千聖は、鏡の中で動きが止まった。
「……鷲須、修司さん」
「ええ。若手なんですけど、すごく注目されてて。去年の合同展示で名前が広まって、今年からドラマや映画の衣装も手がけるようになったんです。センスがよくて、着る人のことをよく考えたデザインをする方で」
千聖は鏡の中の自分を見た。
修司が、デザインした衣装を、千聖が着ている。
「……そうなんですね」
「白鷺さん、今日の衣装もすごくお似合いですよ。鷲須さんのデザイン、白鷺さんの雰囲気にぴったりで」
千聖はしばらく、鏡の中の衣装を見た。
修司が作った服を、千聖が着ている。それがひどく不思議で、それからひどく自然な気がした。
「……鷲須さんって、どんな方なんですか」
声に出してから、千聖は少し驚いた。自分から聞くとは思っていなかった。スタイリストは嬉しそうに答えた。
「ご存知ないんですか? すごくかっこいい方ですよ。寡黙で、でもデザインへのこだわりがすごくて。打ち合わせでも、着る人のことをとにかく考えてるのが伝わってきて。あまりしゃべらないけど、一言一言が的確で」
「……寡黙なんですね」
「ええ。でも、たまにさらりと面白いことを言うんですよ。そのギャップが、またかっこよくて」
千聖は思わず、小さく笑ってしまった。
「……そうですね」
「ご存知なんですか?」
「少し」
スタイリストは少し嬉しそうな顔をして、また続けた。
「業界での評判もすごくいいんですよ。気難しそうに見えて、実はちゃんと人の話を聞いてくれるって。現場でも信頼されてて」
「……現場でも」
「ええ。あ、あと」スタイリストが少し声を落とした。「独身で、彼女もいないらしいって、噂で聞きましたけど」
千聖は、鏡の中で目が瞬いた。
「……そうなんですか」
「ええ。仕事一筋って感じで。ま、噂ですけどね」
千聖はそれ以上、何も聞かなかった。
衣装合わせは続いた。でも千聖の頭の中は、ずっと修司のことだった。
業界での評判がいい。着る人のことを考えてデザインする。寡黙で、でも一言一言が的確で。
全部、千聖が知っている修司だった。
でも、千聖が知らない修司も、そこにあった。
——業界ではそんな風に見られているのか。
千聖は修司を、アトリエの中でしか見たことがない。砂糖二つのコーヒーを淹れてくれる修司、千聖をからかう修司、デザイン画に向かう修司。
でも修司には、千聖の知らない場所での顔がある。当たり前のことなのに、今更実感した。
衣装合わせが終わって、帰り支度をしながら、千聖はスタイリストにもう一つだけ聞いた。
「……鷲須さんって、今おいくつなんですか」
「確か、二十七か二十八だったと思いますよ。若いですよね、あの実力で」
「……そうですね」
二十七。知っていた。でも、業界の人が「若いですよね」と言う二十七。修司が積み上げてきたものが、千聖の知らないところにある。
千聖はスタジオを出てから、スマホを取り出した。
修司への連絡画面を開いた。
しばらく眺めてから、打ち始めた。
「仕事が落ち着いてきました。近いうちに、伺ってもいいですか」
送信した。
三分ほどして、返信が来た。
「どうぞ」
たった一言だった。
千聖はそれを見て、小さく笑った。
どうぞ。いつも通りの、修司の返し方だった。業界で評判になっても、現場で信頼されていても、千聖への返事はたった一言の「どうぞ」だった。
——早く、会いたい。
今度こそ、ちゃんと聞こうと思った。誕生日も、好きな食べ物も。
修司のことを、もっと知りたかった。