砂糖二つの特等席   作:y@s

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第22話 修司さんの、好きな場所

 

 

夏が終わって、街が少しずつ色を変え始めた頃、千聖はようやくアトリエに戻った。

 

二週間ぶりだった。エレベーターを上がって、廊下を歩いて、ドアをノックする。「開いてる」と返ってきた声が、いつも通りで、千聖は少しだけ息を吐いた。

 

「来たな、千聖」

 

修司は仕事机の前にいた。振り向きもせず、けれどちゃんと気づいていた。千聖はいつも通り「失礼します」と言って中に入った。

 

「……久しぶりになってしまって、すみませんでした」

 

「別に」

 

「連絡も、遅くなって」

 

「あぁ」

 

修司はそれ以上何も言わなかった。責めない。でも、受け取っている。それがいつも通りで、千聖はソファに腰を下ろした。

 

部屋をさっと見回した。

 

机の横のゴミ箱が、目に入った。

 

ハンバーガーの包み紙が、重なっていた。一枚、二枚、三枚。同じ店のロゴが入った紙が、几帳面に畳まれて積み上がっていた。

 

千聖はしばらくそれを見てから、おずおずと聞いた。

 

「……修司さん」

 

「ん」

 

「ゴミ箱の中が、ハンバーガーの包み紙だらけですけど」

 

「うん」

 

「……もしかして、それしか食べていないんですか」

 

修司がようやく振り向いた。千聖を見て、少し呆れたような顔をした。

 

「そんなわけないだろ」

 

「でも、三枚も」

 

「忙しかっただけだ。行きつけだから、つい頼みすぎる」

 

「行きつけがハンバーガーショップなんですか」

 

「何が悪い」

 

「……悪くはないですけど、心配になって」

 

修司はしばらく千聖を見ていた。それから、少し可笑しそうに口の端を上げた。

 

「心配してくれるのか」

 

「……しますよ、当然」

 

「そうか」

 

修司は椅子を引いて、立ち上がった。窓の外を見た。街路樹が、橙色に色づいていた。

 

「千聖、今日時間あるか」

 

「……え、はい」

 

「じゃあ出かけるか。行きつけの店、いくつか連れてってやる」

 

「いくつか、ですか」

 

「紅葉も綺麗だしな。ちょうどいい」

 

有無を言わさない口調だった。千聖は立ち上がりながら、胸の中が急に騒がしくなるのを感じた。

 

修司の行きつけの店。修司が好きな場所。

 

——修司さんのことが、わかるかもしれない。

 

 

最初に連れて行かれたのは、細い路地の奥にある小料理屋だった。

 

暖簾をくぐると、小上がりのある小さな店だった。カウンターに座ると、奥から女将が出てきた。五十代くらいの、きびきびした女性だった。

 

「あら修司くん、久しぶりじゃないの。最近来なかったから心配してたわよ」

 

「仕事が立て込んでた」

 

「まったく、ちゃんと食べてるの? 顔色は悪くないけど」

 

「食べてるよ」

 

「ちゃんと食べてるって顔じゃないわよ。あ、そうだ」

 

女将が千聖に気づいて、目を丸くした。それからにっこりと笑った。

 

「まあ、可愛いお嬢さん連れてきたじゃないの。修司くんにこんな子がいたなんて、聞いてないわよ」

 

「うるさい」

 

「新しい彼女?」

 

修司が少し固まった。千聖も思わず背筋を伸ばした。

 

「……違う」

 

「あら、そうなの? でもこんな可愛い子を連れてくるなんて、修司くんにしては珍しいじゃないの」

 

「うるさいって言ってる」

 

「まあまあ。いらっしゃい、お嬢さん。修司くんの知り合い?」

 

「……はい。白鷺千聖といいます」

 

「あらまあ、きれいな名前ねえ。修司くん、いい子捕まえたじゃないの」

 

「だから、うるさいって」

 

修司は顔をそっぽに向けた。耳が、少し赤かった。千聖は思わず、手で口を覆った。笑いそうだった。修司がこんな顔をするのは、初めて見た気がした。

 

女将は気風よく笑って、「照れちゃって、可愛いわねえ」と言った。

 

「修司くんがここに女の子連れてくるの、初めてよ。大事にしなさいよ」

 

「……わかってる」

 

ぼそりと、修司が言った。千聖はそれを聞いて、また手で口を覆った。耳が熱かった。

 

「千聖ちゃんって呼んでいい?」

 

「……はい、もちろんです」

 

「千聖ちゃん、修司くんのことよろしくね。この子、仕事になると周りが見えなくなるから、ちゃんと食べさせてやって」

 

「……肝に銘じます」

 

「まあ、しっかりした子ねえ。修司くん、大事にしなさいよ、ほんとに」

 

「わかってるって」

 

修司は再びそっぽを向いた。女将がまたくすくす笑った。千聖はこっそりと修司を横目で見た。

 

耳がまだ赤かった。

 

——修司さんが照れている。

 

からかい上手で、いつも余裕がある修司が、女将の前では少し違った。気安くされて、照れて、でも嫌そうじゃない。長い付き合いの人間との間にある、柔らかい空気があった。

 

女将が次々と料理を出してくれた。もつ煮、焼き魚、だし巻き卵。どれも丁寧な仕事で、温かかった。

 

「……おいしい」

 

千聖が思わず言うと、女将が嬉しそうにした。

 

「でしょう。修司くん、昔から気に入ってくれてね。学生の頃から来てるのよ」

 

「学生の頃から」

 

「ええ。いつもぼーっとカウンターに座って、黙って食べてたわねえ。今もそんなに変わらないけど」

 

「……変わっていないんですね」

 

「そこは変わらなくていいのよ。この子は、静かに食べるのが好きなんだから。でもね」

 

女将が少し声を落とした。

 

「昔より、顔がやわらかくなったわ。今日。千聖ちゃんのおかげかしらね」

 

修司は聞こえていないふりをして、もつ煮を食べていた。千聖はそれを見て、また笑いそうになった。

 

聞こえている。絶対に聞こえているのに、黙って食べている。

 

——可愛い。

 

思ってしまってから、千聖は内心で目を瞑った。修司を可愛いと思うのは、初めてかもしれなかった。

 

 

店を出ると、日が傾いていた。

 

「……いい女将さんですね」

 

千聖が言うと、修司が短く答えた。

 

「うるさいけど、悪い人じゃない」

 

「長い付き合いなんですね」

 

「高校の時から来てる」

 

「……高校から」

 

「近くの定食屋に行くつもりで、道を間違えて入ったんだ」

 

「迷い込んだんですか」

 

「そう。腹が減ってたから、まあいいやと思って入ったら、女将がやたら話しかけてきて」

 

千聖は想像した。高校生の修司が、道を間違えて小料理屋に入る。女将にやたら話しかけられながら、黙って食べている。

 

「……それからずっと通っているんですね」

 

「飯が美味かったから」

 

修司は川沿いの道を歩き始めた。千聖もならんで歩いた。街路樹の葉が、夕陽に照らされて燃えるように赤かった。

 

「……きれいですね」

 

「あぁ」

 

「修司さん、紅葉は好きですか」

 

「嫌いじゃない」

 

「お花見の時も、桜はあまり見に来ないって言っていたのに」

 

「千聖が来るなら来る」

 

さらりと言った。千聖は前を向いたまま、耳が熱くなるのを感じた。

 

しばらく並んで歩いた。落ち葉が、風に乗ってひらひらと舞った。修司は特に急がず、かといって止まりもせず、ただ歩いた。

 

——修司さんは、歩くのが好きなのかもしれない。

 

千聖はそう思いながら、隣の横顔を見た。夕陽の中で、修司の顔が少し柔らかく見えた。アトリエの中とは、少し違う顔だった。

 

「……修司さん」

 

「ん」

 

「誕生日、いつですか」

 

修司が少し間を置いた。

 

「なんで」

 

「知りたくて」

 

「……一月だ」

 

「何日ですか」

 

「十五日」

 

千聖は胸の中で繰り返した。一月十五日。

 

「……好きな食べ物は」

 

「さっきの店のもつ煮」

 

「ほかには」

 

「コーヒー」

 

「甘いものは苦手って言っていましたよね」

 

「砂糖二つのコーヒーは別だ」

 

千聖は思わず、また笑いそうになった。砂糖二つのコーヒーは別、と修司は言う。千聖のために淹れてきたコーヒーが、いつの間にか修司の中でも特別になっていた。

 

「……休日は何をしていますか」

 

「散歩。あとは本を読む」

 

「どんな本ですか」

 

「小説。推理ものが多い」

 

千聖は、また一つ知った。修司は推理小説が好きだ。休日は散歩。それが、修司の普通の休日だった。

 

 

次に連れて行かれたのは、紅葉の見える物静かなカフェだった。

 

木の温もりのある店内で、窓から色づいた木々が見えた。修司は迷わず窓際の席に座った。カウンターの中に、眼鏡をかけた物静かな男性がいた。修司を見て、小さく会釈した。

 

「いらっしゃいませ、鷲須さん。お連れ様ですか」

 

「いつものと、紅茶を一つ」

 

「かしこまりました。紅茶はどちらになさいますか」

 

修司は千聖を見た。

 

「千聖、何にする」

 

「……ダージリンをいただけますか」

 

「ダージリンですね。少々お待ちください」

 

男性は静かに作業に入った。千聖はカウンターを見ながら、小さく首を傾けた。

 

「……マスターとは、お知り合いなんですか」

 

「よく来るから、顔は知られてる。でも、あまり話さない」

 

「お互い、そういうのが好きなんですね」

 

「うん。余計なことを聞いてこないから、来やすい」

 

千聖は少し可笑しくなった。女将のいる小料理屋では気安くされて、ここでは黙って過ごす。修司は、場所によって違う顔を持っていた。

 

紅茶が来た。温かい湯気が立ち上った。一口飲むと、やわらかくて、やさしい味がした。

 

「……おいしい」

 

「だろ」

 

「修司さん、紅茶はあまり飲まないのに、わかるんですね」

 

「千聖が好きだから、美味しい店を探した」

 

千聖は、カップを持ったまま止まった。

 

探した。千聖のために、紅茶の美味しい店を探した。それをここに連れてきた。

 

「……いつから、探していたんですか」

 

「さあ。気づいたら調べてた」

 

「……ずるいですね」

 

「何が」

 

「そういうことを、さらりと言うのが」

 

修司はコーヒーを一口飲んで、窓の外を見た。色づいた木々が、風に揺れていた。千聖もそれを見た。

 

窓の外も、カップの中も、温かかった。

 

 

夜になった。

 

修司は千聖を、路地の奥の古いビルに連れていった。地下に下りる階段があった。

 

「……どこですか、ここ」

 

「行きつけのバー。大丈夫、千聖にはソフトドリンク出してもらうから」

 

扉を開けると、薄暗い店内に、ゆっくりとしたジャズが流れていた。カウンターに数人、テーブルに一組。静かで、落ち着いた空間だった。

 

バーテンダーの男性が、修司を見て軽く頷いた。年は修司より少し上だろうか。物静かで、けれどどこか温かみのある顔をしていた。

 

「鷲須さん、久しぶりですね」

 

「仕事が立て込んでたからな」

 

「それはお疲れ様でした。お連れ様ですか」

 

「ノンアルで頼む。俺はいつものを」

 

「かしこまりました」

 

バーテンダーは静かに準備を始めた。千聖はカウンターの端に座りながら、ジャズに耳を傾けた。

 

「……いい曲ですね」

 

「ここのマスター、選曲がいいんだ」

 

バーテンダーが、さりげなく言った。

 

「鷲須さん、最近はよく来られていましたよ。一人でカウンターに座って、ずっとスケッチされていて」

 

「……そうなんですか」

 

千聖が言うと、修司が少し咳払いをした。

 

「仕事の息抜きだ」

 

「いつも一人でいらっしゃるのに、今日はお連れ様がいて。よかったですね」

 

「……余計なことを言うな」

 

「失礼しました」

 

バーテンダーは微かに笑って、グラスを磨き始めた。千聖はそれを見ながら、また笑いそうになった。

 

マスターもさりげなく修司をからかっている。修司はまたそっぽを向いている。

 

「……バーで、スケッチをするんですね」

 

「静かだから、集中できるんだ」

 

「ここが好きなんですね」

 

「一人でいられるからな」

 

「今日は一人じゃないですけど」

 

「……ふん」

 

修司は少し間を置いた。

 

「千聖を連れてきたかったから、今日は来た」

 

また、そういうことを言う。さらりと。千聖は視線を落として、グラスを両手で包んだ。

 

ジャズが、ゆっくりと流れていた。

 

「……修司さん」

 

「ん」

 

「今日、修司さんのことをたくさん知れました」

 

「そうか」

 

「誕生日も、好きな食べ物も、行きつけの店も、推理小説が好きなことも、散歩が好きなことも」

 

「……覚えたのか、全部」

 

「はい」

 

修司はしばらく黙っていた。グラスを傾けながら、前を向いていた。

 

「……千聖が聞いてくれたから、話せた」

 

「え」

 

「自分のことを聞いてくる人が、あまりいなかったから」

 

千聖は、その言葉を胸の中でゆっくりと転がした。

 

聞いてくる人が、あまりいなかった。修司は誰かの話を聞く側で、自分のことを話す機会が少なかった。

 

——私が、聞けてよかった。

 

「……これからも、教えてくれますか」

 

修司は千聖を横目で見た。

 

「何を」

 

「修司さんのこと。まだ、知らないことの方が多いから」

 

修司はしばらく黙って、また前を向いた。

 

「……どうぞ」

 

その一言が、今夜一番温かかった。

 

グラスの中のジンジャエールが、ほんのりと甘かった。

 

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