夏が終わって街が少しずつ色を変え始めた頃、千聖はようやくアトリエに戻った。
二週間ぶりだった。エレベーターを上がって廊下を歩いてドアをノックする。「開いてる」と返ってきた声がいつも通りで千聖は少しだけ息を吐いた。
「来たな、千聖」
修司は仕事机の前にいた。
振り向きもせず、けれどちゃんと気づいていた。
千聖はいつも通り「失礼します」と言って中に入った。
「……久しぶりになってしまって、すみませんでした」
「別に」
「連絡も遅くなって」
「あぁ」
修司はそれ以上何も言わなかった。責めない。でも、受け取っている。それがいつも通りで千聖はソファに腰を下ろした。
部屋をさっと見回した。
机の横のゴミ箱が目に入った。
ハンバーガーの包み紙が重なっていた。一枚、二枚、三枚。同じ店のロゴが入った紙が几帳面に畳まれて積み上がっていた。
千聖はしばらくそれを見てからおずおずと聞いた。
「……修司さん」
「ん」
「ゴミ箱の中がハンバーガーの包み紙だらけですけど」
「うん」
「……もしかして、それしか食べていないんですか」
修司がようやく振り向いた。千聖を見て少し呆れたような顔をした。
「そんなわけないだろ」
「でも、三枚も」
「忙しかっただけだ。行きつけだからつい頼みすぎる」
「行きつけがハンバーガーショップなんですか」
「何が悪い」
「……悪くはないですけど、心配になって」
修司はしばらく千聖を見ていた。それから少し可笑しそうに口の端を上げた。
「心配してくれるのか」
「……しますよ、当然」
「そうか」
修司は椅子を引いて立ち上がった。窓の外を見た。街路樹が橙色に色づいていた。
「千聖、今日時間あるか」
「……え、はい」
「じゃあ出かけるか。行きつけの店、いくつか連れてってやる」
「いくつか、ですか」
「紅葉も綺麗だしな。ちょうどいい」
有無を言わさない口調だった。千聖は立ち上がりながら胸の中が急に騒がしくなるのを感じた。
修司の行きつけの店。修司が好きな場所。
——修司さんのことがわかるかもしれない。
最初に連れて行かれたのは、細い路地の奥にある小料理屋だった。
暖簾をくぐると、小上がりのある小さな店だった。カウンターに座ると、奥から女将が出てきた。五十代くらいのきびきびした女性だった。
「あら修司くん、久しぶりじゃないの。最近来なかったから心配してたわよ」
「仕事が立て込んでた」
「まったく、ちゃんと食べてるの? 顔色は悪くないけど」
「食べてるよ」
「ちゃんと食べてるって顔じゃないわよ。あ、そうだ」
女将が千聖に気づいて、目を丸くした。それからにっこりと笑った。
「まあ、可愛いお嬢さん連れてきたじゃないの。修司くんにこんな子がいたなんて聞いてないわよ」
「うるさい」
「新しい彼女?」
修司が少し固まった。千聖も思わず背筋を伸ばした。
「……違う」
「あら、そうなの? でもこんな可愛い子を連れてくるなんて修司くんにしては珍しいじゃないの」
「うるさいって言ってる」
「まあまあ。いらっしゃい、お嬢さん。修司くんの知り合い?」
「……はい。白鷺千聖といいます」
「あらまあ、きれいな名前ねえ。修司くん、いい子捕まえたじゃないの」
「だから、うるさいって」
修司は顔をそっぽに向けた。耳が少し赤かった。千聖は思わず手で口を覆った。笑いそうだった。修司がこんな顔をするのは初めて見た気がした。
女将は気風よく笑って「照れちゃって、可愛いわねえ」と言った。
「修司くんがここに女の子連れてくるの初めてよ。大事にしなさいよ」
「……わかってる」
ぼそりと修司が言った。千聖はそれを聞いてまた手で口を覆った。耳が熱かった。
「千聖ちゃんって呼んでいい?」
「……はい、もちろんです」
「千聖ちゃん、修司くんのことよろしくね。この子仕事になると周りが見えなくなるから、ちゃんと食べさせてやって」
「……肝に銘じます」
「まあ、しっかりした子ねえ。修司くん、大事にしなさいよ、ほんとに」
「わかってるって」
修司は再びそっぽを向いた。女将がまたくすくす笑った。千聖はこっそりと修司を横目で見た。
耳がまだ赤かった。
——修司さんが照れている。
からかい上手で、いつも余裕がある修司が、女将の前では少し違った。
気安くされて、照れて、でも嫌そうじゃない。長い付き合いの人間との間にある、柔らかい空気があった。
女将が次々と料理を出してくれた。もつ煮、焼き魚、だし巻き卵。どれも丁寧な仕事で、温かかった。
「……おいしい」
千聖が思わず言うと、女将が嬉しそうにした。
「でしょう。修司くん、昔から気に入ってくれてね。学生の頃から来てるのよ」
「学生の頃から」
「ええ。いつもぼーっとカウンターに座って、黙って食べてたわねえ。今もそんなに変わらないけど」
「……変わっていないんですね」
「そこは変わらなくていいのよ。この子は静かに食べるのが好きなんだから。でもね」
女将が少し声を落とした。
「昔より、顔がやわらかくなったわ。今日。千聖ちゃんのおかげかしらね」
修司は聞こえていないふりをして、もつ煮を食べていた。千聖はそれを見て、また笑いそうになった。
聞こえている。絶対に聞こえているのに、黙って食べている。
——可愛い。
思ってしまってから千聖は内心で目を瞑った。修司を可愛いと思うのは初めてかもしれなかった。
店を出ると日が傾いていた。
「……いい女将さんですね」
千聖が言うと修司が短く答えた。
「うるさいけど、悪い人じゃない」
「長い付き合いなんですね」
「高校の時から来てる」
「……高校から」
「近くの定食屋に行くつもりで道を間違えて入ったんだ」
「迷い込んだんですか」
「そう。腹が減ってたからまあいいやと思って入ったら、女将がやたら話しかけてきて」
千聖は想像した。
高校生の修司が道を間違えて小料理屋に入る。
女将にやたら話しかけられながら黙って食べている。
「……それからずっと通っているんですね」
「飯が美味かったから」
修司は川沿いの道を歩き始めた。
千聖もならんで歩いた。
街路樹の葉が夕陽に照らされて燃えるように赤かった。
「……きれいですね」
「あぁ」
「修司さん、紅葉は好きですか」
「嫌いじゃない」
「お花見の時も桜はあまり見に来ないって言っていたのに」
「千聖が来るなら来る」
さらりと言った。
千聖は前を向いたまま耳が熱くなるのを感じた。
しばらく並んで歩いた。
落ち葉が風に乗ってひらひらと舞った。
修司は特に急がずかといって止まりもせずただ歩いた。
——修司さんは歩くのが好きなのかもしれない。
千聖はそう思いながら隣の横顔を見た。
夕陽の中で修司の顔が少し柔らかく見えた。
アトリエの中とは少し違う顔だった。
「……修司さん」
「ん」
「誕生日いつですか」
修司が少し間を置いた。
「なんで」
「知りたくて」
「……一月だ」
「何日ですか」
「十五日」
千聖は胸の中で繰り返した。一月十五日。
「……好きな食べ物は」
「さっきの店のもつ煮」
「ほかには」
「コーヒー」
「甘いものは苦手って言っていましたよね」
「砂糖二つのコーヒーは別だ」
千聖は思わずまた笑いそうになった。
砂糖二つのコーヒーは別と修司は言う。
千聖のために淹れてきたコーヒーがいつの間にか修司の中でも特別になっていた。
「……休日は何をしていますか」
「散歩。あとは本を読む」
「どんな本ですか」
「小説。推理ものが多い」
千聖はまた一つ知った。修司は推理小説が好きだ。休日は散歩。それが修司の普通の休日だった。
次に連れて行かれたのは紅葉の見える物静かなカフェだった。
木の温もりのある店内で窓から色づいた木々が見えた。修司は迷わず窓際の席に座った。
カウンターの中に、眼鏡をかけた物静かな男性がいた。修司を見て、小さく会釈した。
「いらっしゃいませ鷲須さん。お連れ様ですか」
「いつものと紅茶を一つ」
「かしこまりました。紅茶はどちらになさいますか」
修司は千聖を見た。
「千聖、何にする」
「……ダージリンをいただけますか」
「ダージリンですね。少々お待ちください」
男性は静かに作業に入った。千聖はカウンターを見ながら、小さく首を傾けた。
「……マスターとはお知り合いなんですか」
「よく来るから顔は知られてる。でもあまり話さない」
「お互いそういうのが好きなんですね」
「余計なことを聞いてこないから来やすい」
千聖は少し可笑しくなった。女将のいる小料理屋では気安くされてここでは黙って過ごす。修司は場所によって違う顔を持っていた。
紅茶が来た。温かい湯気が立ち上った。
一口飲むとやわらかくて、やさしい味がした。
「……おいしい」
「だろ」
「修司さん紅茶はあまり飲まないのにわかるんですね」
「千聖が好きだから美味しい店を探した」
千聖はカップを持ったまま止まった。
探した。
千聖のために紅茶の美味しい店を探した。それをここに連れてきた。
「……いつから、探していたんですか」
「さあ。気づいたら調べてた」
「……ずるいですね」
「何が」
「そういうことをさらりと言うのが」
修司はコーヒーを一口飲んで窓の外を見た。
色づいた木々が風に揺れていた。
千聖もそれを見た。
窓の外もカップの中も温かかった。
夜になった。
修司は千聖を路地の奥の古いビルに連れていった。地下に下りる階段があった。
「……どこですか、ここ」
「行きつけのバー。大丈夫、千聖にはソフトドリンク出してもらうから」
扉を開けると薄暗い店内にゆっくりとしたジャズが流れていた。カウンターに数人、テーブルに一組。静かで、落ち着いた空間だった。
バーテンダーの男性が修司を見て軽く頷いた。年は修司より少し上だろうか。物静かでけれどどこか温かみのある顔をしていた。
「鷲須さん、久しぶりですね」
「仕事が立て込んでたからな」
「それはお疲れ様でした。お連れ様ですか」
「ノンアルで頼む。俺はいつものを」
「かしこまりました」
バーテンダーは静かに準備を始めた。
千聖はカウンターの端に座りながらジャズに耳を傾けた。
「……いい曲ですね」
「ここのマスター選曲がいいんだ」
バーテンダーがさりげなく言った。
「鷲須さん、最近はよく来られていましたよ。一人でカウンターに座ってずっとスケッチされていて」
「……そうなんですか」
千聖が言うと修司が少し咳払いをした。
「仕事の息抜きだ」
「いつも一人でいらっしゃるのに、今日はお連れ様がいて。よかったですね」
「……余計なことを言うな」
「失礼しました」
バーテンダーは微かに笑ってグラスを磨き始めた。
千聖はそれを見ながらまた笑いそうになった。
マスターもさりげなく修司をからかっている。修司はまたそっぽを向いている。
「……バーで、スケッチをするんですね」
「静かだから集中できるんだ」
「ここが好きなんですね」
「一人でいられるからな」
「今日は一人じゃないですけど」
「……ふん」
修司は少し間を置いた。
「千聖を連れてきたかったから、今日は来た」
また、そういうことを言う。さらりと。
千聖は視線を落として、グラスを両手で包んだ。
ジャズがゆっくりと流れていた。
「……修司さん」
「ん」
「今日、修司さんのことをたくさん知れました」
「そうか」
「誕生日も、好きな食べ物も、行きつけの店も、推理小説が好きなことも、散歩が好きなことも」
「……覚えたのか全部」
「はい」
修司はしばらく黙っていた。グラスを傾けながら前を向いていた。
「……千聖が聞いてくれたから、話せた」
「え」
「自分のことを聞いてくる人があまりいなかったから」
千聖はその言葉を胸の中でゆっくりと転がした。
聞いてくる人があまりいなかった。
修司は誰かの話を聞く側で自分のことを話す機会が少なかった。
——私が聞けてよかった。
「……これからも教えてくれますか」
修司は千聖を横目で見た。
「何を」
「修司さんのこと。まだ、知らないことの方が多いから」
修司はしばらく黙ってまた前を向いた。
「……どうぞ」
その一言が今夜一番温かかった。
グラスの中のジンジャエールがほんのりと甘かった。