十一月になると、空気が一気に冷たくなった。
ファッション誌の撮影は、冬物の特集だった。スタジオに入ると、ラックにずらりと衣装が並んでいた。スタイリストが一着ずつ説明しながら、今日の撮影の流れを教えてくれた。
「最後の一着が、今回のメインなんです。一点物で、新進気鋭のデザイナーさんにお願いして」
スタイリストがラックの端から取り出したのは、黒いコートだった。
フードにフォックスファーがあしらわれ、ゴールドのビットが上品なアクセントになっている。軽量のウール生地が、柔らかく光を受けていた。
千聖はそのコートを見た瞬間、息が止まりそうになった。
「……これは」
「素敵でしょう? 鷲須修司さんのデザインで、この撮影のために仕立てていただいたんです」
修司の、コートだった。
「……鷲須さんの」
「はい。最近すごく注目されているんですよ。白鷺さん、ご存知ですか?」
千聖は少し間を置いてから、静かに答えた。
「……少し」
「では、袖を通してみてください」
千聖はコートに手を通した。
ウールの生地が、肩にそっと落ちた。フードのファーが、頬の近くで柔らかく揺れた。ゴールドのビットが、指先に当たった。
軽かった。でも、温かかった。
——修司さんが、作った。
それだけで、胸の奥が静かに揺れた。このコートに修司の手が触れていた。デザインを考えて、布地を選んで、形にした。それを今、千聖が着ている。
「……白鷺さん、大丈夫ですか?」
スタイリストの声で、千聖は我に返った。
「……はい、すみません。すごく、素敵で」
「でしょう? よくお似合いですよ」
千聖は鏡の前に立った。黒いコートの中で、自分の顔が、いつもと少し違って見えた。
撮影が始まった。
カメラマンが「いいですね」と言いながら、シャッターを切り続けた。千聖はいつも通りのポーカーフェイスで、レンズの前に立っていた。
のはずだった。
「白鷺さん、今日は表情がいつもと違いますね」
カメラマンが言った。
「……そうですか」
「なんか、やわらかい。恋する顔、みたいな」
千聖は内心で目を瞑った。
コートを着るたびに、修司のことを考えていた。仕立てた手のことを、デザインを考えていた時間のことを。それが顔に出ていた。
「そのままで行きましょう。すごくいい」
シャッターが、また切られた。
その写真が、後日表紙を飾ることを、千聖はまだ知らなかった。
雑誌が出たのは、それから一月ほど後だった。
表紙の千聖は、黒いコートを着て、少しだけ遠くを見ていた。普段のポーカーフェイスとは違う、柔らかい表情だった。カメラマンの言っていた「恋する顔」が、そのまま印刷されていた。
特集のインタビューページには、こんな見出しがついていた。
「白鷺千聖、恋愛観を語る」
千聖はその雑誌を手にした時、少しだけ顔が熱くなった。
後日、アトリエに行くと、修司が仕事机の前でその雑誌を開いていた。
千聖は入り口で、一瞬固まった。
「……修司さん」
「来たな」修司はページから目を上げないまま言った。「この表紙、お前だろ」
「……ええ」
「いい顔してる」
千聖はソファに座りながら、視線を逸らした。
「……ありがとうございます」
「なんの撮影だったんだ」
「冬物の特集で。衣装の中に、修司さんのコートがあって」
修司がようやく顔を上げた。千聖を見た。
「俺のコート?…あれか」
「ええ。一点物で仕立てたやつが、撮影に使われていて。スタイリストさんから聞いて、驚いたんですけど」
「……そうか」
修司はそれだけ言って、また雑誌に目を落とした。インタビューページを開いた。
「恋愛観を語る、ね」
「……読まないでください」
「もう読んだ」
千聖は思わず「修司さん」と言った。修司はさらりと続けた。
「好きな人のタイプは、自分のことを見てくれる人、か」
「……」
「表情が理由で表紙になったって書いてある」
「……それは」
「いい顔してたから、だろ」修司は雑誌を閉じた。「俺のコートを着て」
千聖は返す言葉を失った。修司は涼しい顔をして、コーヒーを一口飲んだ。
「……意地悪ですね」
「本当のことを言っただけだろ」
千聖はカップを両手で包んで、視線を落とした。耳が熱かった。
しばらく沈黙が続いてから、千聖は素直に口をついた。
「……あのコート、すごく素敵でした」
「そうか」
「ファーのフードが温かくて、ゴールドのビットが上品で。あんな素敵なコート、なかなか見つからなくて」
修司は少し間を置いた。
「気に入ったのか」
「ええ。冬も本格的になってきたし、そろそろ冬物を出さないとと思っていたんですけど、あれを着てしまうと他のがどれも物足りなくて」
修司は何も言わなかった。千聖のことを、静かに見ていた。
それだけだった。
数日後、千聖がアトリエを訪ねると、修司はいつも通り仕事机の前にいた。
「来たな、千聖」
「失礼します」
千聖はソファに向かいかけて、足が止まった。
アトリエの隅のトルソーに、コートがかかっていた。
黒ではなかった。
ライトグレーだった。フードのフォックスファーが白く、ゴールドのビットが光を受けて静かに輝いていた。ウールの生地が、柔らかく空気を纏っていた。
あのコートと、同じだった。でも、違った。
「……修司さん」
「ん」
「あのコートは」
「お前のために仕立て直した」
さらりと言った。修司は振り向かなかった。手を動かしながら、淡々としていた。
千聖は、しばらく動けなかった。
ライトグレーのコートが、トルソーの上で静かに立っていた。千聖のために、仕立て直した。サイズも、色も、千聖に合わせて。
「……どうして」
「似合うと思ったから」
「でも」
「気に入ったんだろ」
千聖は唇を結んだ。気に入ったと言った。あのコートが好きだと言った。ただそれだけのことで、修司はこれを作った。
——また。
——また、こういうことをする。
目の奥が、じわりと熱くなってきた。千聖はそれをなんとか堪えて、トルソーのそばに近づいた。そっと袖に触れた。柔らかかった。
「……袖、通していいですか」
「どうぞ」
千聖はコートに袖を通した。ライトグレーのウールが、肩にそっと落ちた。ファーが、頬の近くで揺れた。
鏡はなかった。でも、修司が振り返った。
千聖をひと目見て、静かに目を細めた。
あ
「やっぱり、そっちの方が似合うな」
千聖はコートの前を合わせたまま、俯いた。
「……意地悪ですね」
「何が」
「また、こういうことをするのが」
「千聖が欲しそうにしてたから」
「欲しそうに、なんてしていなかったです」
「してた」
千聖は黙った。修司はまた机に向き直った。
「持っていっていい。お前のために仕立てた一着なんだからな」
千聖はライトグレーのコートを着たまま、しばらく立っていた。
修司が作った。千聖のために。
前は桜のブレスレット。前は簪。そして今度は、コートだった。修司はいつも、さりげなく、当たり前みたいに、千聖のために何かを作る。
「……ありがとうございます」
声が、少し掠れた。
「あぁ」
「大切にします」
「知ってる」
「知らないでください」
修司が、短く笑った。千聖も、目を伏せたまま、小さく笑った。
コーヒーの香りが漂ってきた。砂糖二つの、甘いコーヒー。
千聖はコートを着たまま、ソファに腰を下ろした。
窓の外に、冬の空が広がっていた。
——このコートを着て、また修司さんと歩きたい。
その思いを、胸の中にそっとしまった。
帰宅してから、千聖はコートをそっとハンガーにかけた。
ライトグレーのウール。白いファー。ゴールドのビット。
鏡の前で、もう一度袖を通してみた。
「……どうしよう」
誰もいない部屋で、呟いた。
修司のコートを、千聖のために仕立て直した。サイズも、色も。それだけでどうしようもなくなるのに、「やっぱりそっちの方が似合うな」なんて言うから。
「……きゃあ」
また出た。枕に顔を埋めた。
コートを着たまま、ベッドに倒れ込んだ。ファーが頬に触れた。柔らかかった。修司の手が、このコートに触れていた。
「……どうしよう、本当に」
足をばたばたさせた。制御できなかった。
しばらくそのままでいてから、コートをハンガーに戻した。丁寧に、大事に。
——明日、着ていこう。
そう思いながら、千聖は目を閉じた。眠りにつくまで、ひどく時間がかかった。
翌朝、千聖はライトグレーのコートを着て登校した。
校門をくぐった時、花音が目を丸くした。
「千聖ちゃん、そのコート……」
「おはよう、花音」
「おはよう、じゃなくて。そのコート、どこで買ったの? すごく素敵」
「……いただいたのよ」
「いただいた? 誰に?」
千聖は少し間を置いた。
「……修司さんに」
花音が、その場で止まった。
「……え」
「コートを」
「……修司さんに、コートを、もらったの?」
「ええ」
花音はしばらく千聖のコートを見ていた。それから、何かに気づいたように目を瞬いた。
「……ねえ、千聖ちゃん」
「なに」
「この前の雑誌の表紙のコート、黒かったよね」
「……ええ」
「このコート、それと同じじゃない? 形が一緒だよ」
千聖は黙った。
花音の目が、じわじわと大きくなった。
「……もしかして、あの表紙のコート、修司さんが作ったの?」
「……ええ」
「で、色違いを千聖ちゃんのために仕立て直したの?」
「……そういうことになるわね」
花音は口を両手で覆った。目が潤んでいた。
「……放課後、カフェ行こう」
「花音」
「絶対行こう。全部聞かせて」
千聖は小さく息を吐いた。
「……わかったわ」
放課後、いつものカフェで、花音の質問攻めが始まった。
「まず聞くけど、雑誌の表紙のコート、修司さんが作ったって、いつ知ったの?」
「撮影の日に、スタイリストさんから聞いて」
「知った時、どうだったの?!」
「……動揺したわ。まさかと思って」
「そうだよね! 好きな人が作ったコートを着て撮影するんだもん!」花音がミルクティーを置いた。「それで表情が柔らかくなったんでしょ? カメラマンさんに恋する顔って言われたって書いてあったもん」
「……そうかもしれないわ」
「で、アトリエに行ったら修司さんが雑誌読んでたんでしょ?」
「ええ。インタビューページまで読んでいて」
「好きな人のタイプ、聞かれたやつ?」
「……ええ」
「なんて答えたの?」
千聖は少し間を置いた。
「自分のことを見てくれる人、って答えたわ」
花音がまた口を覆った。
「……それって、修司さんのことでしょ」
「……花音」
「違うの?」
千聖は視線を落とした。
「……違わないわ」
花音がハンカチを取り出した。千聖は「泣かないでよ」と言った。
「だって嬉しくて。で、コートはどういう流れでもらったの?」
千聖は話した。撮影後、あのコートが好きだと修司に話したこと。数日後、アトリエのトルソーにライトグレーのコートがかかっていたこと。
花音は一言一言に反応した。
「お前に似合うように仕立て直した、って言ったの?」
「ええ」
「それだけで泣きそうになった?」
「……ならなかったわ」
「顔が言ってるよ」
千聖は紅茶を一口飲んだ。花音が続けた。
「コートって、普通にプレゼントしようと思ったらすごく大変じゃない。一から仕立て直すって、時間も手間も全然違うよ」
「……そうね」
「それを千聖ちゃんのためにやったんだよ、修司さんが」花音がやわらかく言った。「ブレスレットの時も、簪の時も、そして今回のコートも。修司さん、ずっと千聖ちゃんのことを形にしてくれてるよ」
千聖はその言葉を、胸の中でゆっくりと転がした。
形にしてくれている。ブレスレットも、簪も、コートも。全部、千聖のために修司が作ったものだった。
「……ええ」
「幸せそうだよ、千聖ちゃん」
「……そうかしら」
「そうだよ。今日、登校してきた時から顔が違った」
千聖はコートの袖をそっと見た。ライトグレーのウールが、柔らかく光を受けていた。
「……着てきてよかったわ」
「めちゃくちゃ似合ってるよ。修司さんのセンス、ほんとにいいね」
「そうでしょう」
また得意げな顔になっていると、自分でわかった。花音がくすくす笑った。
「千聖ちゃん、修司さんのこと自慢する顔になってる」
「……自慢じゃないわ」
「自慢だよ」
千聖は小さく息を吐いて、紅茶を飲んだ。
窓の外に、冬の夕暮れが広がっていた。街に、イルミネーションが灯り始めていた。
「……花音」
「なに」
「また惚気てしまったわ」
「今回は惚気じゃないって言わないの?」
「……コートをもらっておいて、惚気じゃないとは言えないわ」
花音が声を上げて笑った。千聖も、小さく笑った。
——このコートを着て、修司さんともっと色んな場所に行きたい。
来年の冬も、再来年の冬も。
その思いは、まだ声にならなかった。でも、胸の中でちゃんと、温かかった。