砂糖二つの特等席   作:y@s

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第24話 ライトグレーのコート

 

 

十一月になると、空気が一気に冷たくなった。

 

ファッション誌の撮影は、冬物の特集だった。スタジオに入ると、ラックにずらりと衣装が並んでいた。スタイリストが一着ずつ説明しながら、今日の撮影の流れを教えてくれた。

 

「最後の一着が、今回のメインなんです。一点物で、新進気鋭のデザイナーさんにお願いして」

 

スタイリストがラックの端から取り出したのは、黒いコートだった。

 

フードにフォックスファーがあしらわれ、ゴールドのビットが上品なアクセントになっている。軽量のウール生地が、柔らかく光を受けていた。

 

千聖はそのコートを見た瞬間、息が止まりそうになった。

 

「……これは」

 

「素敵でしょう? 鷲須修司さんのデザインで、この撮影のために仕立てていただいたんです」

 

修司の、コートだった。

 

「……鷲須さんの」

 

「はい。最近すごく注目されているんですよ。白鷺さん、ご存知ですか?」

 

千聖は少し間を置いてから、静かに答えた。

 

「……少し」

 

「では、袖を通してみてください」

 

千聖はコートに手を通した。

 

ウールの生地が、肩にそっと落ちた。フードのファーが、頬の近くで柔らかく揺れた。ゴールドのビットが、指先に当たった。

 

軽かった。でも、温かかった。

 

——修司さんが、作った。

 

それだけで、胸の奥が静かに揺れた。このコートに修司の手が触れていた。デザインを考えて、布地を選んで、形にした。それを今、千聖が着ている。

 

「……白鷺さん、大丈夫ですか?」

 

スタイリストの声で、千聖は我に返った。

 

「……はい、すみません。すごく、素敵で」

 

「でしょう? よくお似合いですよ」

 

千聖は鏡の前に立った。黒いコートの中で、自分の顔が、いつもと少し違って見えた。

 

 

撮影が始まった。

 

カメラマンが「いいですね」と言いながら、シャッターを切り続けた。千聖はいつも通りのポーカーフェイスで、レンズの前に立っていた。

 

のはずだった。

 

「白鷺さん、今日は表情がいつもと違いますね」

 

カメラマンが言った。

 

「……そうですか」

 

「なんか、やわらかい。恋する顔、みたいな」

 

千聖は内心で目を瞑った。

 

コートを着るたびに、修司のことを考えていた。仕立てた手のことを、デザインを考えていた時間のことを。それが顔に出ていた。

 

「そのままで行きましょう。すごくいい」

 

シャッターが、また切られた。

 

その写真が、後日表紙を飾ることを、千聖はまだ知らなかった。

 

 

雑誌が出たのは、それから一月ほど後だった。

 

表紙の千聖は、黒いコートを着て、少しだけ遠くを見ていた。普段のポーカーフェイスとは違う、柔らかい表情だった。カメラマンの言っていた「恋する顔」が、そのまま印刷されていた。

 

特集のインタビューページには、こんな見出しがついていた。

 

「白鷺千聖、恋愛観を語る」

 

千聖はその雑誌を手にした時、少しだけ顔が熱くなった。

 

 

後日、アトリエに行くと、修司が仕事机の前でその雑誌を開いていた。

 

千聖は入り口で、一瞬固まった。

 

「……修司さん」

 

「来たな」修司はページから目を上げないまま言った。「この表紙、お前だろ」

 

「……ええ」

 

「いい顔してる」

 

千聖はソファに座りながら、視線を逸らした。

 

「……ありがとうございます」

 

「なんの撮影だったんだ」

 

「冬物の特集で。衣装の中に、修司さんのコートがあって」

 

修司がようやく顔を上げた。千聖を見た。

 

「俺のコート?…あれか」

 

「ええ。一点物で仕立てたやつが、撮影に使われていて。スタイリストさんから聞いて、驚いたんですけど」

 

「……そうか」

 

修司はそれだけ言って、また雑誌に目を落とした。インタビューページを開いた。

 

「恋愛観を語る、ね」

 

「……読まないでください」

 

「もう読んだ」

 

千聖は思わず「修司さん」と言った。修司はさらりと続けた。

 

「好きな人のタイプは、自分のことを見てくれる人、か」

 

「……」

 

「表情が理由で表紙になったって書いてある」

 

「……それは」

 

「いい顔してたから、だろ」修司は雑誌を閉じた。「俺のコートを着て」

 

千聖は返す言葉を失った。修司は涼しい顔をして、コーヒーを一口飲んだ。

 

「……意地悪ですね」

 

「本当のことを言っただけだろ」

 

千聖はカップを両手で包んで、視線を落とした。耳が熱かった。

 

しばらく沈黙が続いてから、千聖は素直に口をついた。

 

「……あのコート、すごく素敵でした」

 

「そうか」

 

「ファーのフードが温かくて、ゴールドのビットが上品で。あんな素敵なコート、なかなか見つからなくて」

 

修司は少し間を置いた。

 

「気に入ったのか」

 

「ええ。冬も本格的になってきたし、そろそろ冬物を出さないとと思っていたんですけど、あれを着てしまうと他のがどれも物足りなくて」

 

修司は何も言わなかった。千聖のことを、静かに見ていた。

 

それだけだった。

 

 

数日後、千聖がアトリエを訪ねると、修司はいつも通り仕事机の前にいた。

 

「来たな、千聖」

 

「失礼します」

 

千聖はソファに向かいかけて、足が止まった。

 

アトリエの隅のトルソーに、コートがかかっていた。

 

黒ではなかった。

 

ライトグレーだった。フードのフォックスファーが白く、ゴールドのビットが光を受けて静かに輝いていた。ウールの生地が、柔らかく空気を纏っていた。

 

あのコートと、同じだった。でも、違った。

 

「……修司さん」

 

「ん」

 

「あのコートは」

 

「お前のために仕立て直した」

 

さらりと言った。修司は振り向かなかった。手を動かしながら、淡々としていた。

 

千聖は、しばらく動けなかった。

 

ライトグレーのコートが、トルソーの上で静かに立っていた。千聖のために、仕立て直した。サイズも、色も、千聖に合わせて。

 

「……どうして」

 

「似合うと思ったから」

 

「でも」

 

「気に入ったんだろ」

 

千聖は唇を結んだ。気に入ったと言った。あのコートが好きだと言った。ただそれだけのことで、修司はこれを作った。

 

——また。

 

——また、こういうことをする。

 

目の奥が、じわりと熱くなってきた。千聖はそれをなんとか堪えて、トルソーのそばに近づいた。そっと袖に触れた。柔らかかった。

 

「……袖、通していいですか」

 

「どうぞ」

 

千聖はコートに袖を通した。ライトグレーのウールが、肩にそっと落ちた。ファーが、頬の近くで揺れた。

 

鏡はなかった。でも、修司が振り返った。

 

千聖をひと目見て、静かに目を細めた。

「やっぱり、そっちの方が似合うな」

 

千聖はコートの前を合わせたまま、俯いた。

 

「……意地悪ですね」

 

「何が」

 

「また、こういうことをするのが」

 

「千聖が欲しそうにしてたから」

 

「欲しそうに、なんてしていなかったです」

 

「してた」

 

千聖は黙った。修司はまた机に向き直った。

 

「持っていっていい。お前のために仕立てた一着なんだからな」

 

千聖はライトグレーのコートを着たまま、しばらく立っていた。

 

修司が作った。千聖のために。

 

前は桜のブレスレット。前は簪。そして今度は、コートだった。修司はいつも、さりげなく、当たり前みたいに、千聖のために何かを作る。

 

「……ありがとうございます」

 

声が、少し掠れた。

 

「あぁ」

 

「大切にします」

 

「知ってる」

 

「知らないでください」

 

修司が、短く笑った。千聖も、目を伏せたまま、小さく笑った。

 

コーヒーの香りが漂ってきた。砂糖二つの、甘いコーヒー。

 

千聖はコートを着たまま、ソファに腰を下ろした。

 

窓の外に、冬の空が広がっていた。

 

——このコートを着て、また修司さんと歩きたい。

 

その思いを、胸の中にそっとしまった。

 

 

帰宅してから、千聖はコートをそっとハンガーにかけた。

 

ライトグレーのウール。白いファー。ゴールドのビット。

 

鏡の前で、もう一度袖を通してみた。

 

「……どうしよう」

 

誰もいない部屋で、呟いた。

 

修司のコートを、千聖のために仕立て直した。サイズも、色も。それだけでどうしようもなくなるのに、「やっぱりそっちの方が似合うな」なんて言うから。

 

「……きゃあ」

 

また出た。枕に顔を埋めた。

 

コートを着たまま、ベッドに倒れ込んだ。ファーが頬に触れた。柔らかかった。修司の手が、このコートに触れていた。

 

「……どうしよう、本当に」

 

足をばたばたさせた。制御できなかった。

 

しばらくそのままでいてから、コートをハンガーに戻した。丁寧に、大事に。

 

——明日、着ていこう。

 

そう思いながら、千聖は目を閉じた。眠りにつくまで、ひどく時間がかかった。

 

 

翌朝、千聖はライトグレーのコートを着て登校した。

 

校門をくぐった時、花音が目を丸くした。

 

「千聖ちゃん、そのコート……」

 

「おはよう、花音」

 

「おはよう、じゃなくて。そのコート、どこで買ったの? すごく素敵」

 

「……いただいたのよ」

 

「いただいた? 誰に?」

 

千聖は少し間を置いた。

 

「……修司さんに」

 

花音が、その場で止まった。

 

「……え」

 

「コートを」

 

「……修司さんに、コートを、もらったの?」

 

「ええ」

 

花音はしばらく千聖のコートを見ていた。それから、何かに気づいたように目を瞬いた。

 

「……ねえ、千聖ちゃん」

 

「なに」

 

「この前の雑誌の表紙のコート、黒かったよね」

 

「……ええ」

 

「このコート、それと同じじゃない? 形が一緒だよ」

 

千聖は黙った。

 

花音の目が、じわじわと大きくなった。

 

「……もしかして、あの表紙のコート、修司さんが作ったの?」

 

「……ええ」

 

「で、色違いを千聖ちゃんのために仕立て直したの?」

 

「……そういうことになるわね」

 

花音は口を両手で覆った。目が潤んでいた。

 

「……放課後、カフェ行こう」

 

「花音」

 

「絶対行こう。全部聞かせて」

 

千聖は小さく息を吐いた。

 

「……わかったわ」

 

 

放課後、いつものカフェで、花音の質問攻めが始まった。

 

「まず聞くけど、雑誌の表紙のコート、修司さんが作ったって、いつ知ったの?」

 

「撮影の日に、スタイリストさんから聞いて」

 

「知った時、どうだったの?!」

 

「……動揺したわ。まさかと思って」

 

「そうだよね! 好きな人が作ったコートを着て撮影するんだもん!」花音がミルクティーを置いた。「それで表情が柔らかくなったんでしょ? カメラマンさんに恋する顔って言われたって書いてあったもん」

 

「……そうかもしれないわ」

 

「で、アトリエに行ったら修司さんが雑誌読んでたんでしょ?」

 

「ええ。インタビューページまで読んでいて」

 

「好きな人のタイプ、聞かれたやつ?」

 

「……ええ」

 

「なんて答えたの?」

 

千聖は少し間を置いた。

 

「自分のことを見てくれる人、って答えたわ」

 

花音がまた口を覆った。

 

「……それって、修司さんのことでしょ」

 

「……花音」

 

「違うの?」

 

千聖は視線を落とした。

 

「……違わないわ」

 

花音がハンカチを取り出した。千聖は「泣かないでよ」と言った。

 

「だって嬉しくて。で、コートはどういう流れでもらったの?」

 

千聖は話した。撮影後、あのコートが好きだと修司に話したこと。数日後、アトリエのトルソーにライトグレーのコートがかかっていたこと。

 

花音は一言一言に反応した。

 

「お前に似合うように仕立て直した、って言ったの?」

 

「ええ」

 

「それだけで泣きそうになった?」

 

「……ならなかったわ」

 

「顔が言ってるよ」

 

千聖は紅茶を一口飲んだ。花音が続けた。

 

「コートって、普通にプレゼントしようと思ったらすごく大変じゃない。一から仕立て直すって、時間も手間も全然違うよ」

 

「……そうね」

 

「それを千聖ちゃんのためにやったんだよ、修司さんが」花音がやわらかく言った。「ブレスレットの時も、簪の時も、そして今回のコートも。修司さん、ずっと千聖ちゃんのことを形にしてくれてるよ」

 

千聖はその言葉を、胸の中でゆっくりと転がした。

 

形にしてくれている。ブレスレットも、簪も、コートも。全部、千聖のために修司が作ったものだった。

 

「……ええ」

 

「幸せそうだよ、千聖ちゃん」

 

「……そうかしら」

 

「そうだよ。今日、登校してきた時から顔が違った」

 

千聖はコートの袖をそっと見た。ライトグレーのウールが、柔らかく光を受けていた。

 

「……着てきてよかったわ」

 

「めちゃくちゃ似合ってるよ。修司さんのセンス、ほんとにいいね」

 

「そうでしょう」

 

また得意げな顔になっていると、自分でわかった。花音がくすくす笑った。

 

「千聖ちゃん、修司さんのこと自慢する顔になってる」

 

「……自慢じゃないわ」

 

「自慢だよ」

 

千聖は小さく息を吐いて、紅茶を飲んだ。

 

窓の外に、冬の夕暮れが広がっていた。街に、イルミネーションが灯り始めていた。

 

「……花音」

 

「なに」

 

「また惚気てしまったわ」

 

「今回は惚気じゃないって言わないの?」

 

「……コートをもらっておいて、惚気じゃないとは言えないわ」

 

花音が声を上げて笑った。千聖も、小さく笑った。

 

——このコートを着て、修司さんともっと色んな場所に行きたい。

 

来年の冬も、再来年の冬も。

 

その思いは、まだ声にならなかった。でも、胸の中でちゃんと、温かかった。

 

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