雑誌の評判が思いのほかよかった。
発売から数日でSNSに「白鷺千聖の表紙が好き」「今回のインタビューが素直で好感が持てる」という声が溢れた。特集ページへの反響も大きく編集部から千聖の事務所に連絡が入った。
「次号は白鷺さんの特集を組みたいんです」
担当編集者がにこやかに言った。
「私物紹介のページを中心に白鷺さんの素の部分を見せていきたくて」
千聖は了承した。
私物紹介の撮影は一週間後に行われた。
机の上に並べた本、普段使いのコスメ、部屋に飾っている小物。編集者が一つずつ確認しながら撮影を進めていく中で、編集者が千聖の腕に目を留めた。
ブレスレットだった。
細いシルバーのチェーンに、桜の花びらのモチーフが散っている。
編集者が目を細めた。
「素敵なブレスレットですね。でも今は冬ですよ、少し季節外れかな」
「ええ、わかっているんですけれど」千聖は少し間を置いた。「大切な宝物なので」
「どんな宝物なんですか? 少し話していただけますか」
千聖はブレスレットを手に持ったまま静かに答えた。
「大切な人に、いただいたんです。桜の季節に。それからずっと、一番特別なものだから」
「素敵なエピソードですね。ぜひ記事に入れさせてください」
シャッターが切られた。
千聖はブレスレットを手首に着けて窓の外を見た。
冬の光が、シルバーのチェーンに当たって静かに揺れた。
撮影の後、編集者が少し申し訳なさそうな顔をした。
「白鷺さん一つご相談があって」
「なんでしょう」
「先月号のコートなんですが読者からの問い合わせがとても多くて。どこで買えるのかって声が殺到していて」
千聖は少し驚いた。
「そんなに、ですか」
「ええ。それだけじゃなくて業界の大手からも問い合わせが来ていて。自社ブランドで扱えないかって。デザイナーさんに打診していただけないかとご連絡をいただいているんですが」
「……鷲須さんに、ですか」
「はい。ただ、先生が返事を渋っていらっしゃって。編集部としても少し困っていて……白鷺さんと面識がおありと伺ったので、もし機会があれば」
千聖はしばらく黙った。
「……伝えられるかどうか、わかりませんけれど。聞いてみます」
翌週、アトリエに行った時、千聖は修司にその話を切り出した。
修司はコーヒーを一口飲んでから静かに言った。
「知ってる」
「……知っていたんですか」
「編集部から連絡は来てる。返事を保留にしてるだけだ」
「どうして返事をしないんですか。せっかくの話なのに」
修司は少し間を置いてから机に向き直った。
「あのコートは気まぐれで作ったんだ。半分趣味みたいなもので、採算なんて考えていなかった」
「……それは」
「それに、世間に出す気もなかった」
千聖は首を傾けた。
「でも、あの雑誌の撮影には出したじゃないですか」
修司は少し黙った。
「あそこの編集部は、俺のことを昔から懇意にしてくれてるから。目を引く一着が欲しいと頼まれたんだ。だから出した」
「……それだけですか」
「それだけだ」
千聖はカップを両手で包んで修司の横顔を見た。修司は手を動かしながら淡々としていた。
「……それなら、どうして大手の話を断るんですか。懇意にしている編集部の頼みは聞いたのに」
修司は手を止めた。
少し間を置いてから静かに言った。
「あのコートは、本当に高価な素材を使ってるんだ。商売にしようとすると、どうしても妥協しなければならないところが出てくる。素材を落とすか、工程を省くか。そうなったら、もうあのコートじゃない」
「……だから、趣味の一点物なんですか」
「そうだ。採算を考えた瞬間にあの一着は別の何かになる。それが嫌なんだ」
千聖はその言葉を静かに聞いた。
修司のこだわりがそこにあった。妥協しないために商売にしない。採算を度外視するからあの一着でいられる。それが修司の仕事への向き合い方だった。
「……そういう作り方をするんですね」
「趣味でやる時はな。仕事は仕事でちゃんとやる。でも、あのコートは別だ」
千聖を見た。少しの間、黙っていた。
それから静かに続けた。
「あのコートは、千聖が着て完成した」
千聖は息を呑んだ。
「……え」
「雑誌の写真を見た時にそう思った。あのコートは千聖が着た時に初めてあの形になった。だから」
修司は視線を手元に戻した。
「世間に出す気にどうしてもなれない」
千聖はしばらく何も言えなかった。
あのコートは千聖が着て完成した。だから世間に出したくない。修司はそう言った。さらりと当たり前みたいに。
「……あれは、お前のための一着だ」
最後に修司がそれだけ言った。
千聖はカップを持ったまま視線を落とした。
目の奥がじわりと熱くなってきた。
「……修司さん」
「ん」
「意地悪ですね」
「何が」
「そういうことをさらりと言うのが」
修司は短く笑った。
「本当のことを言っただけだろ」
千聖は唇を結んだ。本当のことを言っただけ。修司はいつもそう言う。それがいつもひどく真っ直ぐに届く。
「……編集部の方には、なんとお伝えしましょうか」
「俺から直接断る。心配しなくていい」
「……そうですか」
「千聖が気にすることじゃない」
千聖はそっと、左手首のブレスレットに触れた。桜の花びらが指先に当たった。
ブレスレットもコートも。
全部、世に一つだけ。全部、千聖のためだけ。
「……ありがとうございます」
声がまた少し掠れた。
修司は振り向かないまま短く答えた。
「うん」
しばらく沈黙が続いた。コーヒーの香りが部屋の中に漂っていた。
修司がおもむろに立ち上がった。アトリエの隅をちらりと見た。
千聖も視線を追った。
トルソーがあった。ライトグレーのコートの隣に、もう一本。黒いコートが静かにかかっていた。撮影が終わって編集部から返却されたものだった。
「……あれも」
修司が少し間を置いてから言った。
「お前が着るか?」
千聖は一瞬止まった。
「……え」
「撮影が終わって戻ってきた。俺が着るものでもないし置いといても仕方ない」
千聖はトルソーの黒いコートを見た。
撮影の日に袖を通したコートだった。修司が作って、千聖が着て、表紙になったコートだった。ライトグレーは千聖のために仕立て直したもの。黒は最初に千聖が着たもの。
「……でも、それは」
「どうした」
「……最初のコートですよね。修司さんが最初に仕立てたやつ」
「そうだな」
「それをいただいていいんですか」
修司はさらりと言った。
「千聖が着て完成したんだから、千聖が持ってればいい」
千聖は返す言葉を失った。
ライトグレーもそうだった。修司はいつもそうやって当たり前みたいに言う。千聖が着て完成した。だからお前が持っていればいい。
「……意地悪ですね」
「何が」
「そういう言い方をするのが」
修司は少し笑ってまた机に向き直った。
「着てみるか」
「……今、ですか」
「どうせ帰る時に着て帰ることになるだろ」
千聖は立ち上がって黒いコートのそばに近づいた。
袖を通した。ウールが肩に落ちた。フードのファーが頬の近くで揺れた。ゴールドのビットが指先に当たった。
撮影の日と同じだった。
けれど今はスタジオじゃなくてアトリエで、修司がすぐそこにいた。
千聖はコートの前を合わせながら修司を見た。
修司は振り返っていた。
千聖を見て静かに目を細めた。
「やっぱりお前が着るべきコートだな」
千聖は俯いた。
耳が熱かった。目の奥もまた少し熱かった。
「……黒とライトグレー、両方いただくんですか」
「そうなる」
「……贅沢ですね」
「千聖が似合うから仕方ない」
千聖はコートの袖をそっと握った。
修司は本当にさらりと言う。似合うから仕方ない。贅沢でもなんでもなく、ただの事実みたいに。
「……ありがとうございます」
「大事にしろよ」
「はい」
千聖は小さく笑った。修司も短く笑った気配がした。
コーヒーの香りがまだ漂っていた。窓の外の冬の空が少し青かった。
黒いコートとライトグレーのコート。
どちらも修司が作った。
どちらも千聖が着て完成した。
どちらも世にひとつだけの千聖のための一着。
——これが全部、私のものになった。
その事実が今夜だけはどうしようもなく重かった。
温かい意味で重かった。