砂糖二つの特等席   作:y@s

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第26話 どっちのコートを着るか問題と母の尋問

 

 

翌朝、千聖は鏡の前で立ち尽くしていた。

 

ハンガーにコートが二着かかっていた。

 

黒。ライトグレー。

 

どちらも修司が作った。

どちらも千聖のための一着。

どちらも着るたびに胸が騒がしくなる。

 

「……どっちにしよう」

 

誰にともなく呟いた。

 

ライトグレーを胸に当てた。柔らかくて冬の光に馴染む。

黒を当てた。凛として少し大人びて見える。

 

またライトグレーを当てた。

 

やっぱり黒を当てた。

 

「千聖、まだ支度できてないの?」

 

ドアから母の声がした。千聖は「今すぐ行くわ」と返しながら、もう一度二着を見比べた。

 

「うーん」

 

うなり声が出た。珍しいことだった。服装で悩むことは普段あまりない。

 

ドアが開いて母が顔を出した。

 

「どうしたのそんなところで。あら、素敵なコートね」

 

「……どっちが似合うかしら」

 

母は千聖の顔を見てそれから二着のコートを見た。しばらく首を傾けてにこりと言った。

 

「どっちも可愛いわよ」

 

「……それが一番困る答えだわ」

 

「でも本当のことだもの。どっちもよく似合うわよ千聖」

 

千聖はため息をついた。母はそのままドアに手をかけながら言った。

 

「早く決めないと学校に遅刻するわよ」

 

「……わかったわ」

 

千聖はもう一度二着を見た。

 

「こっちにするわ」

 

ライトグレーのコートに袖を通した。ウールが肩に落ちた。鏡を見ると、冬の朝の光の中で自分の顔が柔らかく見えた。

 

「行ってきます」

 

玄関を出た。

 

 

千聖が出て行ってから母は何気なく部屋に戻った。

 

ハンガーに残った黒いコートが目に入った。

 

「……ちょっと借りるわね」

 

誰もいない部屋で呟いてコートを手に取った。

 

持った瞬間、手が止まった。

 

「……あら、あらあらあら」

 

生地の感触が普通ではなかった。

 

母はかつて、トップモデルとしてハイブランドの舞台に立ち続けていた。世界中のコレクションを渡り歩き、一流の職人が手がけた衣装を身にまとってきた。だからこそ、わかる。

 

「すごいわね、このコート」

 

袖を通してみた。

 

「……これは」

 

肩への落ち方が滑らかすぎた。普通のコートは肩のラインに少し抵抗がある。でもこれは、まるで最初からそこにあったかのように自然に落ちた。

 

縫製を確認した。

裏地を捲った。

糸の細さ運びの均一さ。

仕上げの丁寧さ。

 

「この縫製……今の日本にこれだけの技術を持った職人、何人いるかしら」

 

呟きながら生地を光に透かした。

 

「この生地も一般には流通していないものね。どこで手に入れたのかしら」

 

ベルトの留金に触れた瞬間また手が止まった。

 

「……金を下地に、プラチナを象嵌してある」

 

指先でそっと確かめた。重さ、色味。間違いなかった。

 

「……普通、こんなことしないわね。これ」

 

ビット、留金、飾りボタン、装飾をさらに近くで見た。和彫りの細かい模様とそこに嵌め込まれた象嵌の組み合わせ。

 

「それにこの和彫りと象嵌の組み合わせ……この精密さと完成度すごいわね」

 

母はしばらく留金を見ていた。

 

「こんなことができる人、私が現役の時でも一人しか知らないわ。本当に一人だけ。このコートに関わっているの?」

 

留金の裏を確認した。小さな刻印があった。

 

眼鏡を取り出してそれを見た。

 

「……鷲須?」

 

母はしばらく黙った。

 

「……もしあの人なら、今はかなり高齢よね。あの人が千聖の相手? ありえないか」

 

記憶の断片がゆっくりと繋がりかけた。でも、まだはっきりしない。

 

フードのファーに触れた。

 

「フェイクじゃないわ。本物のフォックス」

 

コートを脱いで改めて全体を眺めた。

 

「こんなコートを二着も用意できるなんて、どこのお金持ちかしら」

 

あの子最近、少し顔つきが変わったのよね。気のせいかもしれないけど。でも母親の勘というものがあってね。

 

「……帰ってきたら、ちゃんと聞いてみないといけないわね」

 

そう思いながら台所に向かった。

 

 

夕方、千聖が帰宅すると母がリビングのソファに座って待っていた。

 

「お帰り千聖」

 

「ただいま」

 

「ちょっと座りなさい」

 

母の声のトーンが少し違った。

千聖は鞄を持ったままソファの向かいに腰を下ろした。

 

「なあに改まって」

 

「あなたの彼氏、何者?」

 

千聖は一瞬止まった。

 

「……彼氏じゃないわ」

 

「じゃあ、なんなの」

 

「……知り合いよ」

 

「知り合いがあんな高価なコートをくれるの?」

 

母の目が真剣だった。かつてのトップモデルとしての顔つきだった。日常のお茶目な母ではない。本気で話を聞く顔だった。

 

千聖は少し緊張した。

 

「……そのコートが何か」

 

「あなたに聞かせたいことがあるの。あのコートについてね」

 

母は一度姿勢を正した。

 

「あのコートの生地はね、一般には流通していないものよ。どこで手に入れたのかと思ったけど、ツテがあるなら手に入れられる。でも値段はかなりのものよ。それから縫製した職人は、今の日本に何人いるかしら、あの裏地の仕上げと糸の運び、あんな丁寧な仕事をする職人は、私が現役の頃でも数えるほどしかいなかった」

 

「……そう、なの?」

 

「それから、あのビット、留金や飾りボタン、の装飾はね、本物の金とプラチナよ。わかった? あの装飾はイミテーションじゃなくて本物の素材を使ってる。」

 

「……知りませんでした」

 

「そうでしょうね。普通はわからない。でも私にはわかるの」母はコーヒーを一口飲んだ。

 

「それから和彫りと象嵌の組み合わせ、あの装飾の細工ね。相当名のある職人が手がけているわ。」

母が少し声を落とした。

 

「金を下地にプラチナを象嵌してあるの。それに和彫りと象嵌の組み合わせ、あのセンスはちょっと見たことがないくらいよ」

 

「……それは」

 

「普通、やらないわよ。こんなことをするコストも、技術も。このレベルで、できる職人は私が現役の時でも一人しか知らなかったわ。本当に一人だけ。その人の刻印があの留金の裏に入っていた」

 

千聖は、息を呑んだ。

 

「……留金の裏に」

 

「ええ。それからあのファーはフェイクじゃないわ。本物のフォックス。生地も、装飾も、ファーも。全部が、妥協のない一点物よ」

 

母はコーヒーを一口飲んだ。

 

「こんなコートを量産したら一着作るだけで大赤字ね。採算なんて絶対に合わない。だからこそ一点物なのよ。趣味でしか作れない代物」

 

千聖はその言葉を胸の中で転がした。

 

——採算を考えた瞬間にあの一着は別の何かになる。

 

修司が言っていた言葉が蘇った。

修司が趣味の一点物と言っていた理由が今初めてはっきりとわかった。

妥協できないから商売にしない。商売にしないからあの一着でいられる。

 

「……合点がいったわ」

 

「何が?」

 

「修司さんがあのコートを趣味の一点物だと言っていた理由が」

 

母は少し目を細めた。

 

「修司さん、というのね」

 

「ええ」

 

「苗字は?」

 

「……鷲須よ」

 

母が固まった。

 

コーヒーカップを持ったまま動かなくなった。

 

「……鷲須」

 

「ええ」

 

母はしばらく何かを考えていた。記憶を探るような目をしていた。それからゆっくりと口を開いた。

 

「……鷲須、というと。あの鷲須先生の……」

 

「何か知ってるの?」

 

「ということは、お孫さんね」

 

「……え」

 

母はカップをテーブルに置いた。

それからふっと表情を緩めた。

 

「血は争えないってやつかしらねえ」

 

「母さん、どういうこと」

 

「あの留金の刻印の作品を私が現役の頃、一度だけ身に付けたことがあるの。鷲須というお名前の職人さんが手がけたジュエリーを。金を下地にプラチナを象嵌できた、ただ一人の職人さんよ。その刻印が、あの留金の裏に入っていた。お弟子さんか、あるいはそのまたお弟子さんか、とずっと思ってたんだけど」母は少し遠い目をした。「お孫さんなら全部納得だわ」

 

千聖は何も言えなかった。修司にそんな背景があったとは。

 

「千聖」

 

母が真剣な目で千聖を見た。

 

「あなたとんでもない人に見初められたわね」

 

「……見初められたという表現はどうかと」

 

「でも事実でしょ。あのコートがその証拠よ」

母はにっこりした。

「将来は安泰ね。幸せ間違いなしだわ」

 

「ちょっと母さん」

 

「早く孫の顔が見たいわー」

 

「ちょっと何一人で納得してるのよ」

 

千聖は思わず素の口調になった。母がくすくす笑った。

 

「だって筋書きが見えてくるんですもの」

 

「見えてこなくていいわ」

 

「ふふ。まあいいわ」母は少し真剣な顔に戻った。

 

「でもね、千聖。私がその修司さんのことを教えてあげてもいいけど、それじゃつまんないでしょ」

 

「……どういう意味」

 

「修司さんに、聞いてご覧なさい。色々面白い話が聞けるわよ。私が話すより、ずっとね」

 

千聖はしばらく黙っていた。

鷲須という名前。

留金の刻印。

孫。

 

修司には、まだ千聖が知らない大きな何かがあった。

 

「……聞いてみるわ」

 

「そうなさい」母がぱっと明るい顔になった。

「そうだ、今度連れてきなさい。会ってみたいわ」

 

「……それは、まだ早いわ」

 

「なんで?コートを二着もくれたんでしょ。もう十分でしょ」

 

「早いものは早いのよ」

 

「いやー楽しくなってきたわねえ」

母が嬉しそうに笑った。

「修司さんっていうのね。いい名前だわ」

 

「母さん」

 

「はいはい。でも千聖、一つだけ言わせて」

 

母がやわらかく言った。

 

「あのコートを作ってくれた人は、あなたのことをちゃんと見てる人よ。あのコートがその証拠。大事にしてもらいなさい」

 

千聖は視線を落とした。

 

大事にしてもらいなさい。母の言葉が胸の奥に静かに落ちた。

 

「……ええ」

 

「よろしい」

 

母は立ち上がって台所に向かいながら言った。

 

「夕飯できるまで少し待ってね。あ、今度本当に連れてきなさいよ。楽しみにしてるから」

 

「……考えておくわ」

 

「考えるじゃなくて、連れてきなさい」

 

千聖は小さく息を吐いた。

 

鷲須という名前。

留金の刻印。

金を下地にプラチナを象嵌できた、ただ一人の職人。

 

——修司さんってどんな人から生まれてきたんだろう。

 

知らないことがまた一つ増えた。

 

でも今度は不安ではなかった。

知りたい、という気持ちだけがあった。

 

 

翌日、学校に着くと花音が校門で待っていた。

 

千聖の姿を見た瞬間、目が輝いた。

 

「千聖ちゃん! そのコート初めて見る! 黒い方!それって雑誌で着てたやつ?」

 

「おはよう花音」

 

「おはよう! 昨日と違うコートだよ。もしかしてそれも貰ったの?」

 

「……ええ」

 

「二着!!」花音が声を上げかけて自分で口を押さえた。「ごめん。でも、両方もらったの?」

 

「そういうことになったわ」

 

「……放課後カフェ行こう」

 

「また質問攻めにするつもりでしょう」

 

「するよ。当然」

 

千聖は小さく息を吐いた。花音はにこにこしながら並んで歩いた。

 

「でもほんとに素敵だよ、そのコート。ライトグレーのコートも素敵だったけど、黒い方も全然雰囲気が違って」

 

「そうかしら」

 

「うん。千聖ちゃんがいつもより、なんか……余裕があって今日は凛としてる感じ?」

 

千聖は少し考えた。余裕。自分ではわからなかったけれど、修司が作ったコートを着ていると、どこか背筋が伸びる気がした。

 

「うん」

 

「……修司さんのセンスのおかげかもしれないわ」

 

「また自慢してる」

 

「してないわ」

 

「してる」

 

二人で笑いながら校舎に入った。

 

 

昼休み廊下を歩いているとクラスメイトが声をかけてきた。

 

「白鷺さん、あのコートどこのブランド? すごく素敵で」

 

「……一点物なの。市販はされていないわ」

 

「えっ、オーダーメイド? どこに頼んだの?」

 

「知り合いのデザイナーさんに」

 

「いいなあ。ねえ、白鷺さんって普段のスキンケアどうしてるの?」

 

気づけば千聖は数人に囲まれていた。コートの話から、スキンケアの話、コスメの話。千聖はいつも通りの顔で、一つずつ答えた。

 

雑誌の特集の影響もあるのかクラスでの視線が少し変わった気がした。「白鷺千聖」としてではなく、同じ学校の女の子として、親しみを持って見てくれるようになった。

 

それは、悪くなかった。

 

 

放課後のカフェで花音の質問攻めが始まった。

 

「まず、なんで二着になったか経緯を教えて」

 

千聖は話した。撮影で使った黒いコートが返却されてアトリエに戻ったこと。修司に「お前が着るか」と言われたこと。千聖が着て完成したと言われたこと。

 

それから昨夜の母との話も。

 

花音は最初は次々とリアクションをしていたが、母親の話になった途端、目が丸くなった。

 

「……お母さん元モデルさんなんだよね」

 

「ええ」

 

「それで、コートを一目見て全部わかったの?」

 

「ほぼ全部、解説してくれたわ。生地のことも、縫製のことも、装飾が金を下地にプラチナを象嵌してあって、和彫りと象嵌の組み合わせのセンスが見たことがないくらいだということも」

 

「金にプラチナ!!」

 

「声、花音」

 

「ごめん。でも……それって、すごく高価なコートだってこと?」

 

「母さん曰く、量産したら一着作るだけで大赤字になるくらいのものらしいわ」

 

花音は少し黙った。

 

「……それで、修司さんが趣味の一点物って言ってた理由がわかったの?」

 

「ええ。採算を考えたら絶対に作れない。だから趣味でしか作れない。妥協しないために、商売にしない。修司さんが言っていたことが、全部繋がったわ」

 

「……千聖ちゃん、修司さんってどんな人なの」

 

「それがね」千聖は少し間を置いた。「母さんが修司さんの名前を聞いて固まって。鷲須という職人さんを昔知っていたらしくて。修司さんのお祖父さんかもしれない、って」

 

「え」

 

「詳しくは修司さんに聞いてみなさいって言われたわ」

 

花音はしばらく、千聖を見ていた。

 

「……千聖ちゃん、とんでもない人に好かれてる気がする」

 

「母さんにも同じことを言われたわ」

 

「お母さん、なんて言ってたの?」

 

「将来は安泰、幸せ間違いなし、早く孫の顔が見たい、って」

 

花音が爆発した。

 

「お母さん最高!!!」

 

「一人で納得しないでほしいわよ」

 

「でも正しいよ! コートを二着もくれて、ブレスレット作ってくれて、簪買ってくれて、砂糖二つのコーヒー淹れてくれて、それって全部千聖ちゃんのことが好きだからだよ!」

 

千聖は視線を落とした。

 

「……修司さんに、聞いてみようと思っているの」

 

「何を?」

 

「お祖父さんのこと。コートのこと。修司さんのこと」

 

花音がやわらかく笑った。

 

「いいね。千聖ちゃんが修司さんのことをもっと知ろうとしてる」

 

「……ええ」

 

「それで、お母さんは修司さんに会いたいって言ってたの?」

 

「今度連れてきなさいって」

 

「会わせるの?」

 

千聖は少し考えた。

 

「……いつかは、ね」

 

「早い方がいいよ、絶対。お母さんと修司さん、絶対面白いことになりそう」

 

「それが心配なのよ」

 

花音がまた笑った。千聖も小さく笑った。

 

窓の外に冬の夕暮れが広がっていた。

 

——修司さんお祖父さんのこと話してくれるかしら。

 

知りたいことがまた増えた。

 

でも今度はそれが楽しみだった。

 

 

それからしばらくして千聖はコートをあちこちに着ていくようになった。

 

学校に。撮影現場に。事務所への移動に。修司のアトリエに。

 

黒とライトグレーを日によって使い分けながら、どちらを着ていても、胸の奥が少し温かくなった。

 

コートが目立つのか、千聖自身が目立つのか、少しずつ噂が広まっていった。

 

最初に気づいたのは事務所のマネージャーだった。

「白鷺さん、最近いつも同じコートを着てますよね。もしかしてお気に入りですか?」

 

「……ええ」

 

「すごく素敵ですよね。どこのブランドですか?」

 

「一点物です」

 

「誰かに作ってもらったんですか?」

 

「……知り合いに」

 

マネージャーはそこで少し間を置いた。何かを察したような顔をして、それ以上は聞かなかった。

次に気づいたのは、撮影現場のカメラマンだった。

「白鷺さんそのコートって、もしかして鷲須修司さんのデザインじゃないですか? 雑誌の撮影で使ってたやつと似てて」

千聖は一瞬止まった。

「……なぜわかるんですか」

 

「線が同じです。あの人のデザイン、見ればわかるんですよ。鷲須さんと知り合いなんですか?」

 

「……少し」

 

カメラマンは「へえ」と言って、それ以上は聞かなかった。けれどその「へえ」の含みが、少し千聖の胸をざわめかせた。

 

——噂になってる。

 

修司と千聖の名前が静かに結びつきかけていた。

千聖はそれに気づいて少し焦った。修司が困るかもしれない。

千聖のせいで修司の仕事に何か影響が出たら。

でも同時に胸の奥がほんの少しだけ、ときめいていた。

修司の名前と千聖の名前が同じ文脈で語られる。それが恥ずかしくて困って、でも——。

——悪くないと思ってしまうのはいけないことかしら。

 

千聖は視線を落として、コートの袖をそっと握った。

 

修司が作った。千聖のための一着。

 

その事実がどんな噂よりも重くて温かかった。

 

 

その頃、修司の仕事も忙しくなっていた。

雑誌の掲載以来、修司への問い合わせは増える一方だった。断っても断っても来る。修司はそれを淡々とさばきながらアトリエで黙々と仕事を続けていた。

千聖がアトリエに行くと机の上のスケッチが以前より増えていた。

 

「……忙しそうですね」

 

「まあな」

 

「無理していませんか」

 

「してない」

 

「ハンバーガーばかり食べてませんか」

 

修司が少し笑った。

「千聖が来る日は、ちゃんとした飯を食ってる」

 

「……それ以外の日は」

 

「知らなくていい」

 

「修司さん」

 

「大丈夫だ」

 

千聖はカップを両手で包んで修司の背中を見た。

忙しくなったのはあのコートのせいかもしれない。

千聖が着て表紙になったから修司の名前が広まった。千聖のせいで修司の世界が少し変わってしまったかもしれない。

「……修司さん、一つ聞いてもいいですか」

 

「ん」

 

「最近、私のコートのことで噂になっているみたいで。修司さんに迷惑をかけていないか、心配で」

 

修司は手を止め、振り向いて千聖を見た。

それから短く言った。

「迷惑じゃない」

 

「でも」

 

「千聖が着てくれてるなら、それでいい」

 

千聖はまたその一言に言葉を失った。

修司はもう机に向き直っていた。鉛筆がスケッチの上を走り始めた。

千聖はコーヒーを一口飲んだ。

甘い。砂糖が二つ。

窓の外の冬の空が澄んでいた。

——千聖が着てくれてるなら、それでいい。

その言葉が今夜もずっと胸の中に残った。

 

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