「なかなか連れてこないのよねえ」
ある日、唯はソファに寝そべりながら、ぽつりとつぶやいた。
「いつまで待たせるのかしら。もう直接会いに行っちゃおうかしら」
それは独り言のつもりだったが、唯は思いついたら行動が早い人だった。
翌日、唯はスマートフォンで「鷲須修司 アトリエ」と検索し、連絡先を見つけて電話をかけた。
「もしもし、お忙しい中失礼します。一ノ瀬と申しますが、お時間いただけますか」
旧姓を使った。千聖の母だと知られたら、警戒されるかもしれない。それに、ちゃんと素の修司を見てみたかった。
「服飾関係の知人から、鷲須さんのことを伺いまして。一度、作品を拝見できないかと」
電話の向こうで、修司が少し戸惑った声で応じた。
「……今週なら、空いてますけど」
「では、水曜日の午後はいかがでしょう」
「大丈夫です」
唯は電話を切ってから、にんまりと笑った。
「ふふ、楽しみだわ」
水曜日、唯はアトリエのドアをノックした。
「どうぞ」
ドアを開けると、修司が仕事机の前に立っていた。唯を見て、軽く頭を下げた。
「一ノ瀬さん、ですよね。鷲須です」
「初めまして。お忙しいところお邪魔してすみません」
唯は部屋の中を見回した。雑然と積まれた布地、スケッチ、トルソー。長年現場にいた人間の目で、その雑然さの中にある秩序を、すぐに見抜いた。
「いい空間ね。ちゃんと仕事をしてる人の部屋だわ」
「……ありがとうございます」
修司はソファを勧めて、コーヒーを淹れに台所へ向かった。唯はソファに腰を下ろしながら、棚に並んだスケッチをさりげなく眺めた。
「あら」
唯の指に、ひとつの指輪が光った。アンティーク調の細やかな細工が施された、指輪だった。
修司がコーヒーを持って戻ってきた時、その指輪が目に入った。
修司の手が、止まった。
「……その指輪」
「ええ?」
「見せてもらえますか」
唯は少し驚きながら、指輪を外して修司に渡した。修司はそれを手のひらに乗せて、しばらく眺めた。それから、裏側を確認した。
小さな刻印があった。
「……これは」
修司の声が、少し変わった。
「興山のじいさんの作だ、しかもかなり若い時の」
唯の目が、ふっと和らいだ。
「……興山?」
「祖父です。鷲須勝義。今は雅号で正阿弥興山と名乗ってます」
「やっぱり。」
「……知ってるんですか」
「ええ。昔、モデルをやっていた頃にお世話になったの。鷲須先生には」
修司はしばらく指輪を見ていた。それから、ゆっくりと唯に返した。
「……一ノ瀬さんは、祖父を訪ねてきたんですか」
唯は少し笑った。
「半分はそうかもしれないわね。あなたの名前を聞いて懐かしくなってもしかしてまた先生にお会いできるかなと思って」
「それで、先生は?」
修司は少し納得した顔で、唯の向かいに座った。
「祖父はまだ現役です。引退する気もないみたいで」
「あら、お元気なのね」
修司は少し苦笑した。
「元気すぎて困ってます」
「あら、どういうこと?」
「興山のじいさん、相変わらず朝から自分で作った純銀のちろりで燗酒飲んでるような人で。仕事しろよって言いたくなります」
唯が、思わず笑った。
「それは、昔と全然変わってないわね」
「変わってないんです。あと、若い女性を追いかけ回すのも変わってません。ただのスケベじじいですよ」
「……そう、本当に変わってないのね」
「えぇ、全く、なので会わない方がいいかもしれません」
修司が少し真剣な顔で言うので、唯はますますおかしくなった。
「ふふっ昔のままなのね、先生は」
「えぇ私がまだ小さかった頃から、偏屈で口が悪いです。お世辞とか権力が大嫌いで。政治家やどこかのお偉いさんが作品を欲しがって来ても、お前のような成金に鉄の心がわかるか、って追い返すような人で」
「それは、もう昔から有名だったわ。誰の言うことも聞かないって」
「今もそうです。誰の言うことも聞きません」
唯は懐かしそうに目を細めた。
「でも、すごい人だったわ。先生の作品の圧倒的な存在感とそれを成立させる超絶技巧、誰も真似できなかった」
修司は少し誇らしそうな顔をした。
「祖父のこと、こんなに知ってる人がいるとは思いませんでした」
「業界は狭いのよ。それに、あなたのおじいさまの作品は、本当に特別だったから」
二人の間に、不思議な親しみが流れ始めていた。
しばらく話していると、修司が唯の表情をふと見て、何かに気づいたように小さく首を傾けた。
「……一ノ瀬さん」
「ええ?」
「失礼ですけど、笑い方が、誰かに似てるような」
唯はくすりと笑った。
「気づくの早いわね」
「……まさか」
修司の目が、少し見開いた。
「ご想像通りよ」唯はにっこりと笑った。
「私は、白鷺 唯」
「千聖の母親よ」
修司は、しばらく黙っていた。
「……なぜ偽名で」
「素のあなたを見たかったから。千聖の母だと知ったら、構えるでしょう?」
「……まあ、多少は」
「だから、隠したのそれから、一ノ瀬は旧姓よ」
修司は少し息を吐いた。それから、ふっと笑った。
「やられました」
「ふふ、ごめんなさいね」
唯はコーヒーを一口飲んで、改めて修司を見た。
「今日来た理由は、二つあるの」
「二つ?」
「一つは、コートのお礼。あんな素敵なものを、娘にいただいて。本当にありがとう」
唯は丁寧に頭を下げた。修司は少し戸惑った様子で「いえ」と言った。
「もう一つは、あなたに会ってみたかったから」
唯は静かに、けれど真っ直ぐに言った。
「娘がどんな人を好きになったのか、ちゃんと知りたかったの」
修司は少しの間、何も言わなかった。それから、静かに頭を下げた。
「……ご挨拶が遅くなって、すみません」
「いいのよ。今日来られたから」
唯はやわらかく笑った。
それから、少し声のトーンを変えた。
「ねえ、修司さん」
「……はい」
「千聖とは、どこまでいってるの?」
修司は、一瞬止まった。
「……どこまで、というのは」
「付き合ってるの? それとも、まだなの?」
唯はにこにこしながら、けれど目はしっかりと修司を見ていた。母親の目だった。
修司は少し間を置いてから、答えた。
「……まだ、付き合ってはいません」
「あら。でも、コートを二着もあげるくらいだから、てっきり」
「気持ちは伝えてあります。卒業式の日に。千聖がまだ中学生の頃で」
唯の表情が、少し変わった。
「……千聖が、告白したの?」
「そうです」
「それで、修司さんは」
修司は少し視線を落として、それから静かに答えた。
「今すぐどうこうするつもりはない、と言いました。年も離れてるし、千聖はまだ子供だったから」
「でも」
「でも、嫌いじゃない、とも言いました」
唯はしばらく、修司を見ていた。
「……それから、ずっとこの距離なの?」
「はい」
「焦れったいわね」
「……自分でもそう思います」
唯はくすりと笑った。
「修司さんは、千聖のこと、どう思ってるの? ちゃんと聞かせて」
修司は、しばらく黙っていた。コーヒーカップを見つめながら、言葉を探しているようだった。
「……千聖は、最初は雨に濡れて立ち尽くしてる、子供でした。庇護対象で、お嬢ちゃんと呼ぶのがちょうどいい距離でした」
「うん」
「でも、いつの間にか、違いました。アトリエに来るたびに、千聖が何を考えてるか、何が好きか、どんな顔をするか、全部知りたくなって、いつの間にか惹かれてました」
唯は、静かに聞いていた。
「コートも、ブレスレットも、全部、千聖のために作りたいと思って作りました。理由なんて、それだけです」
「……それだけ、ね」
「千聖が好きです」
修司は、はっきりとそう言った。
「ただ、千聖はまだ高校生で、俺は大人で。今すぐどうこうするのは、違うと思ってます。千聖が大人になってから、改めて、ちゃんとした形にしたい」
唯は、しばらく修司を見つめていた。それから、ふっと表情が緩んだ。
「……いい答えね」
「……ありがとうございます」
「待たせてるって自覚はあるのね」
「あります」
「それなら、いいわ」唯はにっこりと笑った。「ちゃんと待てる人なら、安心して任せられる」
ちょうどその時、廊下から足音が聞こえた。
千聖だった。
ドアの前まで来て、ノックしようとした手が、止まった。
中から、声が漏れていた。
「……千聖が好きです」
千聖は、息を止めた。
ドアに、そっと耳を寄せた。
「ただ、千聖はまだ高校生で、俺は大人で。今すぐどうこうするのは、違うと思ってます。千聖がちゃんと大人になってから、改めて、ちゃんとした形にしたい」
千聖の胸が、どくどくと音を立てた。
修司の声が、こんなにはっきりと、千聖への気持ちを語っているのを、初めて聞いた。いつもは、からかいの中に紛れさせて、さらりとしか言わないのに。
——本当に、そう思ってくれていたの。
目の奥が、じわりと熱くなった。
「……いい答えね」
母の声がした。
「待たせてるって自覚はあるのね」
「あります」
「それなら、いいわ。ちゃんと待てる人なら、安心して任せられる」
千聖は、ドアの前で、しばらく動けなかった。
嬉しくて、恥ずかしくて、でもどうしようもなく胸がいっぱいで。ノックする手が、震えそうだった。
——どうしよう。
中に入ったら、今聞いた話を、知らないふりをしないといけない。でも、顔に出てしまいそうだった。
千聖は深呼吸を三回した。それでも、頬の熱は引かなかった。
意を決して、ドアをノックした。
「失礼します……」
声が、少し上ずった。
ドアを開けると、母がソファに座っていた。修司の向かいに。にこにこと、楽しそうに。
「……は」
千聖の口から、声にならない音が出た。
知っているのに、知らないふりをするのは、思った以上に難しかった。
「母さん……どうして」
「あら、千聖。ちょうどよかったわ」
千聖は鞄を持ったまま、視線を母と修司の間で何度も往復させた。修司の顔を見ると、胸がまた跳ねた。
——千聖が好きです、って。
その言葉が、頭の中でずっと繰り返されていた。
「修司さん、母が何か失礼なことを言っていませんでしたか」
声が、まだ少し震えていた。修司はいつも通りの涼しい顔で答えた。
「特には」
「本当ですか」
「指輪の話と、興山のじいさんの話と、コートのお礼」
千聖は、その答えに、ほんの少しだけ安堵した。母も修司も、千聖が立ち聞きしたことには気づいていないらしかった。
——よかった。
でも、知ってしまった事実は、もう消えなかった。
千聖はソファの端に、おそるおそる腰を下ろした。母の隣ではなく、できるだけ離れた場所に。今日はいつもより、修司の顔をまともに見られそうになかった。
唯が、そんな千聖の様子をじっと見ていた。
「……千聖」
「な、なに」
「顔、赤いわよ」
千聖は、びくりとした。
「……気のせいよ」
「気のせいじゃないわ。さっきから修司さんの方、ちらちら見てるし」
「見てないわ」
「見てる見てる」唯がにやにやしながら続けた。「何かあったの? 学校で良いことでもあった?」
「な、なにもないわ」
「ふうん」
唯の目が、楽しそうに細められた。母親の勘というものは、時々恐ろしいほど鋭い。千聖は内心で冷や汗をかきながら、視線を逸らした。
「修司さん」
唯が、今度は修司に話を振った。
「千聖、今日なんだか様子が変じゃない?」
修司が千聖をちらりと見た。千聖は思わず固まった。
修司は少しの間、千聖を見つめてから、何かに気づいたような顔をした。
「……千聖」
「……な、なんですか」
「廊下に、いたのか」
千聖の心臓が、跳ねた。
「……い、いつから」
「さあ。顔が分かりやすいから、なんとなく」
「それは……」
千聖は、もう言い訳が思いつかなかった。耳まで真っ赤になっているのが、自分でもわかった。
唯が、二人のやり取りを見て、ぱっと目を輝かせた。
「……あら、もしかして、聞いちゃったの? さっきの話」
「ち、ちがっ……」
「何を聞いたの?」
「な、なにも」
「修司さん、何の話してたんだったかしら」
唯がわざとらしく首を傾げると、修司が涼しい顔で答えた。
「千聖が好きだって話」
「修司さん!」
千聖は思わず立ち上がりかけた。修司は動じずに、コーヒーを一口飲んだ。
「隠すことでもないだろ」
「そういう問題じゃ……」
唯が、楽しそうに手を叩いた。
「やだ、可愛い。千聖、顔真っ赤よ」
「母さん」
「ふふ、いいじゃない。聞いちゃったなら、もう仕方ないわよ」
千聖はソファに座り直して、両手で顔を覆った。羞恥心と、嬉しさと、いろいろな感情がごちゃまぜになって、うまく整理できなかった。
「……ずるいです、二人とも」
「ずるくないわよ。本当のことだもの」
唯がにこにこしながら言った。修司も、珍しく少し照れたように視線を逸らした。
「……盗み聞きしたお前が言うことじゃない」
「わざとじゃないです。ノックしようとしたら、聞こえてしまっただけで」
「結果は同じだろ」
「……それは、そうですけど」
千聖は顔を覆ったまま、小さくなった。唯がそんな千聖の頭を、優しく撫でた。
「よかったわね、千聖」
「……母さん」
「ちゃんと、想われてるじゃない」
千聖は手の隙間から、修司をちらりと見た。修司は涼しい顔をしていたが、耳が、いつもより赤かった。
それを見て、千聖は少しだけ、安心した。
恥ずかしいのは、自分だけじゃなかった。
修司が涼しい顔で、千聖の分のコーヒーを淹れに立った。
「……千聖、慌てすぎ」
「慌てて当然でしょう。母さんがいきなりアトリエに来て、何を話したかわからないんだから」
修司がコーヒーを持って戻ってきた。千聖の前に置きながら、さらりと言った。
「砂糖二つ、だろ」
唯がその様子を見て、目を細めた。
「あら、いいわねえ」
「……母さん」
「なんでもないわ。仲がいいのねって思っただけよ」
千聖は耳が熱くなるのを感じながら、コーヒーを一口飲んだ。
部屋の中に、三人の空気が、不思議と馴染んでいた。
唯は満足そうにコーヒーを飲み、修司は涼しい顔で椅子に戻り、千聖はその間で、まだ少し動揺していた。
——どうしてこんなことになったの。
でも、不思議と、悪い空気ではなかった。
母が修司を気に入ってくれた。
修司も、母のことを嫌そうにはしていない。
その光景を見ながら、千聖は小さく息を吐いた。
窓の外に、冬の午後の光が差し込んでいた。