唯が帰った後、アトリエには静かな空気が戻った。
千聖はソファに座ったまま、しばらく動かなかった。修司は片付けを始めていたが、唯のカップを下げる手が、いつもより少しゆっくりだった。
「……疲れましたか」
「いや」修司は短く答えた。「面白い人だった」
「……本当にすみません。突然来るなんて」
「別に、迷惑じゃない」
修司はソファの隣に腰を下ろした。コーヒーの香りが、まだ部屋に残っていた。
「……修司さん」
「ん」
「お祖父様のこと、聞いてもいいですか」
修司は少し意外そうな顔をした。
「珍しいな、自分から聞くの」
「……知りたくなって」
修司はしばらく黙ってから、静かに話し始めた。
「鷲須勝義。雅号は正阿弥興山。彫金と鍛金の人間国宝だ」
「……人間国宝」
千聖は思わず繰り返した。
「すごい肩書きですね」
「肩書きなんて、じいさん自身は気にしてない。ただ自分の仕事をしてるだけだ」
「どんな人なんですか」
修司は少し笑った。
「最初に言っておくと、すごく口が悪い」
「……母にも、そう言っていましたね」
「本当だからな。お世辞も権力も大嫌いで、政治家でもどこかのお偉いさんでも、媚びてくる人間は容赦なく追い返す。お前のような成金に鉄の心がわかるか、ってよく言ってる」
「……強い方なんですね」
「強いというか、頑固だ。誰の言うことも聞かない」
千聖は少しその姿を想像した。豪放磊落な老人が、訪ねてきた権力者を一刀両断する姿。
「修司さんとは、仲がいいんですか」
「仲がいいかどうかはわからないけど、まあ、好きだな。口の悪い、偏屈で面白いじいさんだ」
「小さい頃から、よく会っていたんですか」
「工房に入り込んで、火吹き竹で遊んでもらってた」
「火吹き竹?」
「鍛金の火床に風を送る道具だ。子供にはおもちゃみたいなものだった」
千聖はその光景を思い浮かべた。小さな修司が、祖父の工房で火吹き竹を使って遊んでいる。隣で、勝義が槌を振っている。
「……かわいいですね」
「俺が?」
「光景が」
修司は少し笑った。
「あの工房の空気は、今でも覚えてる。火の熱さとか、金属の匂いとか。じいさんが何も言わずに、ただ手を動かしてる音とか」
「……それが、修司さんの仕事への向き合い方に、繋がっているんですか」
修司は少し間を置いた。
「物を見る目は、じいさんから教わった。教わったというか、見て覚えた」
「自然観察眼、って母が言っていましたね」
「じいさんは、自然をよく見てた。木の幹の模様とか、川の流れとか、そういうものを見て、デザインに落とし込む。誰に教えられたわけでもなく、自分でそうやって培ってきた人だ」
「……すごい人なんですね、本当に」
「すごいけど、煙草も吸うし大酒飲みの女好きで、仕事よりそっちが優先される日もある。完璧な人間じゃない」
千聖は思わず小さく笑った。
「……人間らしいですね」
「人間らしすぎる」
修司はコーヒーを一口飲んで、続けた。
「今でも工房に行くと、純銀のちろりで朝から酒飲んでる。仕事しろよって言いたくなる」
「会いに行くんですか、定期的に」
「たまにな。様子を見に行く。じいさんも一人だから」
「……一人、なんですか」
「祖母はもう亡くなってる。じいさんはそれから工房に移り住んで、好きなように生きてる」
千聖は少し黙った。修司の祖父の人生を、ほんの少しだけ覗いた気がした。
「……いつか、会ってみたいです」
修司は千聖を見た。少し驚いた顔をした。
「本気か」
「ええ」
「あのじいさんだぞ。若い女好きで、口も悪い。失礼なこと言われるかもしれない」
「それでも、修司さんの育った場所を、見てみたいです」
修司はしばらく千聖を見ていた。それから、ふっと笑った。
「……まあ、いつかな」
「約束ですか」
「約束ってほどじゃない。でも、連れていってもいい」
千聖は胸の中が、静かに温かくなった。
「……ありがとうございます」
「大したことじゃない」
修司はカップを傾けながら、窓の外を見た。冬の午後の光が、少しずつ夕方の色に変わりかけていた。
「……今日は、いろんなことを聞けました」
「あぁ」
「修司さんのこと、また少し知れた気がします」
修司は千聖を横目で見た。
「飽きないのか、俺の話」
「飽きません。もっと知りたいです」
修司は少し黙って、それから静かに言った。
「……そうか気が向いたらな、また話してやる」
千聖はその言葉を、胸の中でそっと受け取った。
「これからも、教えてください」
「あぁ」
千聖は小さく笑った。修司もまた、短く笑った気配がした。
コーヒーの香りが、部屋に漂っていた。窓の外の冬の光が、静かに暮れていった。
——いつか、興山さんに会える日が来るのかしら。
その日を、千聖は少し楽しみに思っていた。