砂糖二つの特等席   作:y@s

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第28話 じいさんの話

 

 

唯が帰った後、アトリエには静かな空気が戻った。

 

千聖はソファに座ったまま、しばらく動かなかった。修司は片付けを始めていたが、唯のカップを下げる手が、いつもより少しゆっくりだった。

 

「……疲れましたか」

 

「いや」修司は短く答えた。「面白い人だった」

 

「……本当にすみません。突然来るなんて」

 

「別に、迷惑じゃない」

 

修司はソファの隣に腰を下ろした。コーヒーの香りが、まだ部屋に残っていた。

 

「……修司さん」

 

「ん」

 

「お祖父様のこと、聞いてもいいですか」

 

修司は少し意外そうな顔をした。

 

「珍しいな、自分から聞くの」

 

「……知りたくなって」

 

修司はしばらく黙ってから、静かに話し始めた。

 

「鷲須勝義。雅号は正阿弥興山。彫金と鍛金の人間国宝だ」

 

「……人間国宝」

 

千聖は思わず繰り返した。

 

「すごい肩書きですね」

 

「肩書きなんて、じいさん自身は気にしてない。ただ自分の仕事をしてるだけだ」

 

「どんな人なんですか」

 

修司は少し笑った。

 

「最初に言っておくと、すごく口が悪い」

 

「……母にも、そう言っていましたね」

 

「本当だからな。お世辞も権力も大嫌いで、政治家でもどこかのお偉いさんでも、媚びてくる人間は容赦なく追い返す。お前のような成金に鉄の心がわかるか、ってよく言ってる」

 

「……強い方なんですね」

 

「強いというか、頑固だ。誰の言うことも聞かない」

 

千聖は少しその姿を想像した。豪放磊落な老人が、訪ねてきた権力者を一刀両断する姿。

 

「修司さんとは、仲がいいんですか」

 

「仲がいいかどうかはわからないけど、まあ、好きだな。口の悪い、偏屈で面白いじいさんだ」

 

「小さい頃から、よく会っていたんですか」

 

「工房に入り込んで、火吹き竹で遊んでもらってた」

 

「火吹き竹?」

 

「鍛金の火床に風を送る道具だ。子供にはおもちゃみたいなものだった」

 

千聖はその光景を思い浮かべた。小さな修司が、祖父の工房で火吹き竹を使って遊んでいる。隣で、勝義が槌を振っている。

 

「……かわいいですね」

 

「俺が?」

 

「光景が」

 

修司は少し笑った。

 

「あの工房の空気は、今でも覚えてる。火の熱さとか、金属の匂いとか。じいさんが何も言わずに、ただ手を動かしてる音とか」

 

「……それが、修司さんの仕事への向き合い方に、繋がっているんですか」

 

修司は少し間を置いた。

 

「物を見る目は、じいさんから教わった。教わったというか、見て覚えた」

 

「自然観察眼、って母が言っていましたね」

 

「じいさんは、自然をよく見てた。木の幹の模様とか、川の流れとか、そういうものを見て、デザインに落とし込む。誰に教えられたわけでもなく、自分でそうやって培ってきた人だ」

 

「……すごい人なんですね、本当に」

 

「すごいけど、煙草も吸うし大酒飲みの女好きで、仕事よりそっちが優先される日もある。完璧な人間じゃない」

 

千聖は思わず小さく笑った。

 

「……人間らしいですね」

 

「人間らしすぎる」

 

修司はコーヒーを一口飲んで、続けた。

 

「今でも工房に行くと、純銀のちろりで朝から酒飲んでる。仕事しろよって言いたくなる」

 

「会いに行くんですか、定期的に」

 

「たまにな。様子を見に行く。じいさんも一人だから」

 

「……一人、なんですか」

 

「祖母はもう亡くなってる。じいさんはそれから工房に移り住んで、好きなように生きてる」

 

千聖は少し黙った。修司の祖父の人生を、ほんの少しだけ覗いた気がした。

 

「……いつか、会ってみたいです」

 

修司は千聖を見た。少し驚いた顔をした。

 

「本気か」

 

「ええ」

 

「あのじいさんだぞ。若い女好きで、口も悪い。失礼なこと言われるかもしれない」

 

「それでも、修司さんの育った場所を、見てみたいです」

 

修司はしばらく千聖を見ていた。それから、ふっと笑った。

 

「……まあ、いつかな」

 

「約束ですか」

 

「約束ってほどじゃない。でも、連れていってもいい」

 

千聖は胸の中が、静かに温かくなった。

 

「……ありがとうございます」

 

「大したことじゃない」

 

修司はカップを傾けながら、窓の外を見た。冬の午後の光が、少しずつ夕方の色に変わりかけていた。

 

「……今日は、いろんなことを聞けました」

 

「あぁ」

 

「修司さんのこと、また少し知れた気がします」

 

修司は千聖を横目で見た。

 

「飽きないのか、俺の話」

 

「飽きません。もっと知りたいです」

 

修司は少し黙って、それから静かに言った。

 

「……そうか気が向いたらな、また話してやる」

 

千聖はその言葉を、胸の中でそっと受け取った。

 

「これからも、教えてください」

 

「あぁ」

 

 

千聖は小さく笑った。修司もまた、短く笑った気配がした。

 

コーヒーの香りが、部屋に漂っていた。窓の外の冬の光が、静かに暮れていった。

 

——いつか、興山さんに会える日が来るのかしら。

 

その日を、千聖は少し楽しみに思っていた。

 

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