砂糖二つの特等席   作:y@s

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第29話 正阿弥興山、来訪

 

その出版社の文化芸術部に、長年勤めるベテラン記者がいた。

 

 名前は宮下。工芸や美術の世界を専門に追い続けて、もう三十年近くになる。ある日、社内の自販機の前で、自社のファッション誌の最新号が目に入った。表紙の女優が着ているコートを、何気なく眺めた。

 

 その瞬間、宮下の目が止まった。

 

「……これは」

 

 ベルトの留金だった。和彫りと象嵌の組み合わせ。柔らかい金属に硬い金属を象嵌する、超絶技巧。

 

 宮下はその技を、一人しか知らなかった。

 

「……正阿弥興山先生の?」

 

 長年その仕事を追ってきた宮下にとって、その留金は、見間違えるはずのない代物だった。

 

「いや、待て。先生はここ数年、新作を発表していないはずだ」

 

 宮下はすぐに雑誌のクレジットを確認した。デザイナーの名前は「鷲須修司」。

 

「鷲須……まさか、お孫さんか」

 

 これは記事になる。久しぶりの興山作品。それも、孫が手がけたコートに使われているという、思いがけない形で。

 

 宮下は新人の女性記者、加瀬を連れて、まずファッション誌の編集部に話を聞きに行った。

 

「あのコートのデザイナー、鷲須修司さんという方について、詳しく教えていただけますか」

 

 ファッション誌の編集者は、少し驚いた様子で対応した。

 

「鷲須さんですか? 最近注目されている若手デザイナーですが……何か」

 

「コートの装飾に、正阿弥興山先生の作品が使われています」

 

 編集者の目が、丸くなった。

 

「……え、本当ですか」

 

「ほぼ間違いないでしょう。あの象嵌の精度は、先生以外には不可能です」

 

 宮下と加瀬は、しばらく編集部で情報を集めた。鷲須修司という若手デザイナーの経歴、アトリエの場所、コートの経緯。

 

「これは、ぜひ直接取材したいですね」

 

 加瀬が言うと、宮下は頷いた。

 

「先生にも、確認を取ろう」

 

 

 宮下は、長年の付き合いがある勝義の工房に電話を入れた。

 

「先生、ご無沙汰しております。宮下です」

 

「……ああ、お前か。何の用だ」

 

「先生の作品が、最近の雑誌に出ていましてね」

 

 電話の向こうで、勝義が黙った。

 

「……雑誌?」

 

「ファッション誌です。コートの装飾に、先生の作品が使われていました」

 

「……コート? わしはそんなもの作っとらんぞ」

 

「孫の鷲須修司さんが、デザインされたコートのようです」

 

 しばらく沈黙があった。それから、勝義がふっと笑う声がした。

 

「あぁ……あいつか」

 

「ご存知でしたか」

 

「いや、知らん。だが面白い」

 

 勝義はそれだけ言って、電話を切った。

 

 

 数日後、勝義は工房で雑誌を広げていた。

 

 宮下が届けたものだった。表紙の千聖が、黒いコートを着て写っている写真。留金が、はっきりと写っていた。

 

 勝義はしばらく、その写真を眺めていた。

 

「……これは、確かにわしが作った物だ」

 

 呟いて、煙草に火をつけた。

 

「久しぶりに、孫の仕事を見たな」

 

 灰皿に煙草を置いて、立ち上がった。

 

「たまには、わしから孫を訪ねるか」

 

 工房の隅にいた宮下と加瀬を見て、勝義は笑った。

 

「お前らも来い。面白いことになりそうだ」

 

「……よろしいんですか」

 

「いいから来い。退屈してたんだ」

 

 勝義は作務衣の上に、無造作に上着を引っ掛けた。宮下と加瀬は慌てて荷物をまとめた。

 

 

 アトリエのある雑居ビルの前に着いた時、ちょうどそこに千聖がいた。

 

 ライトグレーのコートを着て、エレベーターに乗ろうとしていたところだった。

 

 加瀬が、小声で息を呑んだ。

 

「……宮下さん」

 

「わかってる」

 

 宮下も、同じものを見ていた。ファッション誌の表紙。そのままの顔が、そこに立っていた。

 

 白鷺千聖。今、最も注目されている女優のひとりだった。

 

 加瀬が宮下の袖を引いた。目が「取材できますか」と言っていた。宮下は小さく首を振った。今日の目的は別にある。

 

 その間、勝義はそんなことには構わず、千聖のコートをじっと見ていた。それから、千聖の顔を見て、また視線をコートに戻した。

 

「お嬢ちゃん、そのコートの装飾」

 

 千聖は、見知らぬ老人と二人の記者らしき人間に視線を向けられて、少し驚いた。

 

「……はい」

 

「わしの作だな」

 

 千聖は、息を呑んだ。

 

「……正阿弥興山さん、ですか」

 

 勝義の目が、少し見開いた。

 

「知ってるのか」

 

「お祖父様のお話は、修司さんから伺っています」

 

 勝義は、ふっと笑った。

 

「ほう。あいつ、ちゃんと話してたか」

 

「……アトリエに、ご用ですか」

 

「孫を訪ねに来た。久しぶりに、面白いものを見せられたからな」

 

 千聖は少し迷ったが、エレベーターのボタンを押した。

 

「ご一緒します」

 

「ああ、いいぞ」

 

 

 アトリエのドアを開けると、修司が仕事机の前にいた。

 

「……来たな、千聖」

 

 振り向いた修司の表情が、一瞬で固まった。

 

 千聖の後ろに、勝義が立っていた。さらにその後ろに、宮下と加瀬がいた。

 

「……じいさん」

 

「久しぶりだな、修司」

 

「なんでここに」

 

「お前の仕事を見に来た」

 

 修司は頭を抱えるように、額に手を当てた。

 

「……記者まで連れてくるなよ」

 

「いいだろ。面白いものは見せたくなる」

 

 宮下が一歩前に出て、頭を下げた。

 

「初めまして、鷲須修司さん。文化芸術部の宮下と申します。先生の作られた装飾が使われたコートについて、お話を伺えればと」

 

 修司はため息をついた。

 

「……話せばいいんですよね」

 

「ええ、ぜひ」

 

 千聖はソファに座りながら、勝義の様子を見ていた。勝義はアトリエを興味深そうに見回して、机の上のスケッチを覗き込んでいた。

 

「ほう、悪くない線だ」

 

「触るなよ」

 

「触ってない、見てるだけだ」

 

 修司は諦めたようにため息をついて、台所に向かった。

 

「……コーヒー出すから、座ってろ」

 

 勝義はソファに腰を下ろした。千聖の隣だった。

 

「お嬢ちゃん、名前は」

 

「白鷺千聖です」

 

 勝義は、その名前を聞いて、少し首を傾けた。

 

「白鷺……」

 

 しばらく考えてから、ふっと目を見開いた。

 

「……一ノ瀬唯の娘か」

 

 千聖は、今度こそ驚いた。

 

「……母をご存知なんですか」

 

「知っとるよ。昔、わしの作った物を身に付けてランウェイに立ったことがある。あの女の娘か」

 

 勝義は千聖をじっと見て、それから満足そうに笑った。

 

「いい目をしてる。母親に似て、芯がある顔だ」

 

「……ありがとうございます」

 

「修司、お前」

 

 勝義が、台所にいる修司に向かって声を上げた。

 

「いい子を見つけたじゃないか」

 

「……うるさい」

 

 修司が振り向かずに答えた。耳が、少し赤かった。千聖はそれを見て、思わず笑いそうになった。

 

「お嬢ちゃん、修司は気難しいやつだが、悪い奴じゃない。大事にしてやってくれ」

 

「……大事にされているのは、私の方です」

 

 勝義は声を上げて笑った。

 

「いい返しだ。気に入った」

 

 宮下と加瀬は、ノートにメモを取りながら、その様子を見ていた。加瀬が小声で宮下に言った。

 

「……白鷺さんのこと、書けますよね」

 

 宮下は少し考えてから、首を横に振った。

 

「今日は先生の話が本題だ。それ以外は、本人たちの意向を聞いてからにしよう」

 

 修司がコーヒーを持って戻ってきた。勝義の前に、千聖の前に、それぞれ置いていく。千聖のカップだけ、白地に金のラインのカップだった。

 

「……お嬢ちゃん専用のカップか」

 

 勝義がそれを見て、目を細めた。

 

「……そうですけど」

 

「砂糖は何個だ」

 

「二つです」

 

 勝義は、しばらく千聖と修司を見比べて、それからにやりと笑った。

 

「修司、お前、わしより先に身を固める気か」

 

「……まだ何も決まってない」

 

「決まってなくても、雰囲気でわかる」

 

 千聖は耳が熱くなった。修司もそっぽを向いていた。

 

 宮下が咳払いをして、本題を切り出した。

 

「先生、改めて伺いますが、あのコートの装飾について、お話しいただけますか」

 

 勝義はコーヒーを一口飲んで、ゆっくりと話し始めた。

 

「修司がコートのデザイン画を持ってきた。金にプラチナを象嵌してほしいと。普通なら断る話だ、めんどくさいからな」

 

「では、なぜ受けられたんですか」

 

「悪くないと思うたからだ」

 

 勝義は、机のスケッチをちらりと見た。

 

「修司のデザインは、着る人間のことを考えてる。誰のために作るか、はっきりしてる仕事だった。だから、わしも本気でやった」

 

 千聖は、その言葉を静かに聞いた。修司が装飾を依頼した相手が、まさか祖父だったとは。

 

「……それは、あのコートのために、特別に頼んだものだったんですか」

 

 千聖が聞くと、修司が少し気まずそうな顔をした。

 

「……あぁ」

 

「いつから」

 

「夏の終わりくらいから、構想だけしてた」

 

 千聖は、コーヒーカップをそっと両手で包んだ。

 

 夏の終わり。修司がその頃から、一着のコートのことを考えていた。妥協なく、祖父にまで頼んで。

 

 勝義がそれを見て、満足そうに笑った。

 

「いい話だろう。これは、ちゃんと記事にしてやってくれ」

 

 宮下と加瀬は、嬉しそうに頷いた。

 

「ありがとうございます。掲載許可も、いただけますか」

 

「わしは構わんが」

 

 勝義が修司を見た。修司は少し考えてから、頷いた。

 

「技法のことは書いてもらって構いません。ただ」

 

 修司は、ちらりと千聖を見た。

 

「あのコートを着ていた方については、書かないでほしい」

 

 宮下は一瞬、加瀬と視線を交わした。

 

「……理由を伺っても」

 

「プライベートなものを作りました。仕事の話として広げるつもりはない」

 

「……わかりました」

 

 宮下はそれ以上は聞かなかった。長年この仕事をしていれば、踏み込んでいい線とそうでない線は、自然とわかる。

 

 加瀬は少し残念そうな顔をしたが、ノートを閉じた。

 

 取材はそれから一時間ほど続いた。コートの素材、装飾の制作工程、修司のデザイン哲学。勝義が時折口を挟んで補足し、アトリエの中に静かな熱気が満ちていった。

 

 千聖はその様子を見ながら、コーヒーを一口飲んだ。

 

 甘い。砂糖が、二つ。

 

 隣に、勝義がいた。修司の祖父。人間国宝。豪放磊落で、口が悪くて、けれど確かに、修司の根っこを作った人。

 

「……正阿弥興山さん」

 

「興山でいい、面倒だ」

 

「では、興山さん」

 

「うん」

 

「これからも、修司さんのこと、よろしくお願いします」

 

 勝義は、しばらく千聖を見て、それから声を上げて笑った。

 

「お嬢ちゃん、いい子だ。本当にいい子だ」

 

 修司が、また小さくため息をついた。けれど、その顔は、嫌そうではなかった。

 

 

──────

 

 

 記事が掲載されたのは、それから三週間後だった。

 

 修司がアトリエに届いた雑誌を持ってきた。文化芸術の専門誌だった。千聖はソファに座って、修司と並んで紙面を開いた。

 

 

【特集 工芸と現代ファッションの邂逅】

受け継がれる技、新しい衣へ――

正阿弥興山と鷲須修司の仕事

文・宮下一郎(文化芸術部)

 今季、ファッション界に一枚のコートが現れた。ウールとシルクを織り交ぜた生地に、古典的なシルエット。しかしそのコートを特別なものにしていたのは、コートを飾る装飾達だった。

 

 金にプラチナを象嵌した、その装飾。見た者が思わず目を止めてしまう、静かな輝きを持っていた。

 

 その作者は、人間国宝・正阿弥興山(八十一歳)。金属工芸の世界で半世紀以上にわたって活動を続け、近年は新作発表を控えていた巨匠が、孫のデザイナーからの依頼に応じて制作した、久々の新作だった。

 

 孫、鷲須修司(二十八歳)は、古いビルの一室にアトリエを構える若手デザイナーだ。着る人間のことを誰よりも考えた服を作る、と評される。コートの設計を始めたのは昨年の夏の終わり。祖父への依頼は、デザインが固まった段階で行われた。

 

「修司のデザインは、誰のために作るかが、はっきりしている」と正阿弥は語る。「だから、わしも本気でやった」

 

 金属工芸と洋服デザイン。異なる世界に生きてきた二人が、一枚のコートの上で出会った。祖父から孫へ、技は言葉なく伝わる。それは職人の系譜の中に生きる、古くて新しい物語だった。

 

 正阿弥興山の技法については、次号にて詳しく紹介する予定である。

 

 

──────

 

 

 千聖は最後まで読んで、静かに雑誌を閉じた。

 

「……良い記事ですね」

 

「そうだな」

 

 修司はそれだけ言って、コーヒーを一口飲んだ。

 

 千聖の名前は、どこにも書かれていなかった。けれど千聖には、この記事の中に、確かに自分がいると思った。

 

 夏の終わりから始まったコートのこと。誰のために作るか、はっきりしている仕事のこと。

 

「……修司さん」

 

「ん」

 

「ありがとうございます」

 

 修司は少し間を置いてから、千聖の方を見た。

 

「何が」

 

「書かないでほしい、と言ってくれたこと」

 

 修司は、何も言わなかった。

 

 ただ、千聖のカップに視線をやって、それからすっと立ち上がった。台所に向かって、少しして戻ってきた。千聖のカップの隣に、小皿を置いた。角砂糖が、二つ。

 

「……もう一杯、飲むだろ」

 

「……はい」

 

 

 窓の外に、冬の午後の光が差し込んでいた。

 

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